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2011年12月31日土曜日

吉備の国 秦氏の痕跡を訪ねて

もうすぐ2011年も終わり、新年を目前に控えている。 今年を振り返れば秦氏の痕跡を訪ねた1年だったか! 「法然と秦氏」の研究から始まって、今年は法然上人の800年忌、県立図書館や博物館でも関連の展示があり、様々なイベントも数多くあった。 主催する歴史探訪会でも法然上人の遺跡や秦氏関連の史跡を数多く訪れた。8月には岡山人物銘々伝を語る会で「吉備の秦氏と岡山の人物」の話をさせてもらった。 今年は秦氏に明け秦氏に暮れた一年だったかもしれない。 初詣に高松稲荷に行ったことを始として。 「はたして秦氏か」を書かれた佐藤さんともお会いした。また同じく秦氏の研究をしている丸谷さんともお会いできた。 貴重な情報をいただいた。 来年はさらにこのあたりの研究を深めて行きたい。 この列島、この吉備の地に渡来して、新文化を築いてきた先祖たちの願い、楽土創建の願いを成就すべき時ではとの思いを強く持つ。 今年最後に少し早かったけど訪れた誕生寺と菩提寺の銀杏です。
思えば日本の宗教史、思想史、文化史に多大な貢献をした法然上人、その歴史を形作って来たルーツを訪ねると、渡来してきた秦氏の歴史に行き当たる。 郷土史、文化史に脈々と流れる秦氏の歴史に来年もスポットを当てて行きたい。

正木山

姫社神社の総代の板野さんに誘われて正木山に登った。というか連れて行っていただいた。結構険しい山道を最後は四駆で無いと登れない様なでこぼこの悪路。盗掘者を防ぐためだとか・・・ 山上に正木神社、本殿は磐座である。
拝殿の前鳥居脇にある電波塔
誰がこんなところに塔を建てたのか! 正木山は秦地区の本体とも言うべき神聖なところ、その拝殿の目の前にこんな巨大な塔を建てるとは!恐れ多い! ここで正木山の開発を自ら始めた総社の市議さんとばったり出会う。途中にあった手作りの看板はその市議さんが自分で作ったそうだ。
少し離れた峰のいただきに極めて眺望の良いところがあり、そこに社か拝殿か建物の跡
ここからなげめる眺望は最高である。吉備の平野が眼下に、はるか児島、四国まで眺められる。
かってこの地にはるばる海を渡って来た渡来の人々もこの山に登り同じ景観を眺めたに違いない。そしてここに磐座を築き祈りをささげてこの地の開発に努めた。 そして築かれた吉備の国、わが先祖の思いを強く感じる。 今はあれ廃れた正木山 鬼の城には今観光客があふれているが、ここはもっと、その前の時代に住んだ人々がまごころをささげたところ。 この山の中腹に最近一丁グロ古墳が発見され話題になっているが、もう一度この山注目してみるべきでは!

2011年12月27日火曜日

内村鑑三と美作聖人森本慶三

12月16日の「岡山人物銘々伝を語る会」は津山市在住の近藤泰宏氏による「内村鑑三と美作聖人森本慶三」であった。 内村鑑三といえば、無教会派のクリスチャンとして有名だが、この内村鑑三氏が何度か津山を訪れていると言うことで、招いたのが美作聖人といわれる森本慶三氏である。 近藤氏の話によると、森本慶三氏は津山藩御用の商人の家系に生まれ、津山の代表的商家に生まれたが、東京にて在学中に内村鑑三の教えにふれその弟子となった。 津山に帰ってはキリスト教の精神に基づき福祉と教育に投入した。私費を投じてキリスト教図書館を建て、戦後はキリスト教図書館高校を設立した。また自然史博物館を立て、青少年の教育に貢献した。美作の多くの人々から聖人として尊敬を受けた。 美作は多くの偉人を排出したが、その中の代表的人物が法然上人であろう。その後も多くの偉人が生まれた。森本氏のような人物が出る風土が在ったことがうかがえる。

リサイクルブックと吉備楽土

本のリサイクルを始めました。 その準備などで忙しくてブログの更新も遅れています。 それにもう一つ文化創造のプログラムを始めています。 歴史研究と時代評論も続けるつもりなので、どれかにメインをおかないと潰れてしまいそうです。 ただ、それらは密接につながっているので、どれも切り捨てることはできなさそうです。 発信地は岡山ですが、郷土の人物伝を見てみると、日本の歴史と文化に貢献した人物が実に多い。 その精神的風土は何処から来ているのか?と言うのが一番のテーマです。 そしてそれを、どのように生かしていくのか? 今日本の国は一定の経済的豊かさと一応の平和を享受しているようですが、本当にこれでいいのかと思うことがあまりにも沢山あります。 「何とかしなければ」と言うのが多くの人々の共通する実感ではないでしょうか。 このブログがその小さな一助になればと言うのが小生の願いです。 いい方法を見つけて行きたい、率直にそう思っています。

2011年12月15日木曜日

県立図書館に貴重資料 広重の浮世絵

県立図書館に新しい貴重資料が入ったと入り口に展示があったので、早速お願いして見せてもらった。 広重の「備前田ノ口」
県立図書館の紹介のページ この中でも紹介しているが、広重は田ノ口がお気に入りのようだった。 故郷の情景を、有名画家の浮世絵で見るのも不思議なもの 瑜伽山詣でが江戸期は全国的に有名だったようである。 さて、もう一枚は広重(二代)の「備前龍ノ口」
龍ノ口も有名な・・なぜか嵐の図 あらためて、絵画の残す力を感じる。

2011年12月7日水曜日

世界平和の実現をめざす、世界連邦全国宗教
者岡山大会が神道山の黒住教本部で4日開催されました。今回が33回目のこの大会は、全国の様々な宗教の代表がえ宗派を越えて集まり、平和を祈念しました。ジャーナリストの知人に誘われて行きましたが、このように各宗教が宗派を超えて集まるのは意義のあることだと思いました。

2011年10月2日日曜日

児島に新しいホールがオープン

老朽化した児島の文化センター、そのすぐ前に、1階が図書館、3階が文化ホールになった、新しい児島市民交流センターがオープンしました。今日はその杮落としの演奏が各団体が出演して行われました。午後の部第1号が「コロポーニョ」、いまや児島を代表する女声合唱団といっても良い活躍を見せている合唱団です。
かっての、児島高校のOBが中心になってパストラーレと言う合唱団を組織して、ブログ子も一緒に歌っていましたが、そのときの仲間が中心になって結成されてまだ2年ですが、とても熱心な活動をしています。
今回の演奏の最後は「吉備の児島」・・・今年の春、「吉備の児島」をテーマに上演された創作ミュージカル「最後の・・匹」の挿入歌です。
YouTubeに演奏の動画アップしました
たてぬきの歌と吉備の児島です。
吉備の児島からリンク張ってますので見てみてください。


さて新しくできたこのホール、座席は300席くらいか・・・舞台も広く・・中規模な演奏会を開くにはもってこいの会場です。会場後にはモニタールームもあって、子供連れの方も、遠慮なく楽しむことができる。
これまで児島には、築40年を経過した児島文化センターのほかには、音楽演奏会を開ける適当なホールが無くて、倉敷や岡山に行って演奏会を開いているような状況でした。
会場周辺も整備されて、隣の架橋記念館も改装されて、会議室など利用できるようになり、ホールの1階には図書館が入り、また周辺も道路を隔てていた橋の公園も、道路が整備されて遊歩道になり一体的公園になりとても良くなった。
これからここを中心文化活動が大いに盛り上がってほしいとおもう。

児島以外の方もぜひ、行って見て下さい。
終わってから、児島の文化活動を熱心に進めてこられたKさんと話をしたが、文化活動とともに「歴史研究」もぜひ進めて・・・・・・と言う話で盛り上がった。

吉備の国の中でも、特別な意味のある「児島」である。
今はジーンズの町で売り出していいる・・これは良い事で、今度のホールの緞帳はなんと、ジーンズの生地である「デニム」製、いまや児島の産業を支える「ジーンズ」である。産業あっての文化でもあるので大いに・・・・
玄関の看板です

これまで児島の文化の中心だった児島文化センターが目の前


ホール棟南側

かっての「架橋記念館」と一体的に

橋の公園も一体的に・・利用しやすくなりました。




2011年9月30日金曜日

吉備4世紀前期最大の前方後方墳

今日のNHローカルニュースや山陽新聞でも報道されていたが

山陽新聞によると

昨年末に発見された総社市秦、一丁※(いっちょうぐろ)1号墳が、墳長76メートルに及ぶ吉備南部最大の前方後方墳であることが、同市教委の発掘調査で29日までに分かった。(※土偏に丸)・・・

総社市秦の標高180メートルの山上に発見されたこの古墳は全長100メートル、4世紀前半の築造で吉備南部最大の古墳であることが分かったと言う。

4世紀前半と言うと「謎の4世紀」と言うことで、中国の史書に、3世紀末に書かれた「魏志」以降、「倭」に関する記述が途絶えた時代である。
諸説あるが、神功皇后~応神天皇の時代が4世紀末から5世紀はじめと言うのが、ほぼ定説になりつつあるが、ちょうどこの時期、「吉備」の国が最大の勢力を誇ったであろう時代の古墳と言うことで、とても関心を持たざるを得ない。


魏志倭人伝にある「卑弥呼」の時代が2世紀末から3世紀はじめ、楯築遺跡が作られたのも同じころ、この時代から約100年を経た時代に作られたのがこの一丁ぐろ古墳だとすると、この時代の吉備の国の姿が見えてくるような気がする。日本列島全体の王権が確立されていく時代である。その時代、「吉備」はどういう位置づけだったのか?


これも諸説あるが・・・・この時代日本の皇統から言えば崇神天皇~応神天皇の時代とも言われる。
この一丁ぐろ古墳から一度眺めてみながら考えてみたい。
この一丁ぐろ古墳・・・総社市秦(ハダ)の標高180メートルの山上にあるとの事である。
眼下に、大きな川(高梁川)と平野(総社~吉備の平野)を見下ろすことができるに違いない。

2011年9月25日日曜日


大阪中ノ島です。
23日「日本の感性21in中ノ島」の東日本震災復興イベントがありました。
当日はとても天気はよくてイベントも盛り上がりました。
写真の中央右が中ノ島公会堂・・・大正時代に建設された歴史的建造物で重要文化財に指定されています。そして現役。
後ろの建物は大阪市庁です。
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秦(ハダ)とは「ユダヤ」のこと

紀元1世紀ころのユダヤ人が使っていたアラム語ではユダヤのことを「イエフダー」と発音する。これがなまって「ハダ」になった。その後清音化して「ハタ」になるが、吉備の「秦」は「ハダ」と濁る。
さて、「秦」と言う字、
魏志倭人伝で知られる「魏」の時代、「秦人」という言葉は漢族以外の柵外の人々と言う意味であった。「魏志韓伝」には、秦の圧政を避けた人々が朝鮮半島の南部に住みついた。その人々を「秦人」と言い。建てた国が「辰韓」である。これがのちの「新羅」となり、「伽耶諸国」となった。なお、百済も「秦人」の建てた国である。
ここから「秦」と言う字が来た。
古代中国その後の極東諸国には、かってのイスラエル12部族がやってきていることが確認されている。秦始皇帝もその流れを汲む。その父や王族は「羌族」であったとも言われている。
古代イスラエルからは統一王国が滅び南北朝の北朝「イスラエル」が滅んだときその10部族が、その後南朝「ユダ」が滅ん2部族が、そして紀元後1世紀ローマによって「ユダヤ」が滅ぼされた時、大きくはその3度にわたって東方に流れてきた。紀元前に来た人々は「ユダヤ教」紀元後に来た人々は「原始キリスト教」を持ってきた。いずれも同民族である。

このあたりに「秦氏」の秘密があるようである。
「吉備の秦氏」その辺りから見ると見えてくるのでは・・・

引き続き考察していくので「吉備楽土」見てください。

2011年9月22日木曜日

日本の感性21in 中ノ島

東日本大震災復興救援イベント
日本の感性21in中ノ島のイベントが明日、9月23日大阪中ノ島中央公会堂大ホールで開かれます。
13時開演です。参加したい方は吉備楽土に連絡ください。





2011年9月21日水曜日

元興寺 音と灯りのマンダラ

8月23日 奈良・元興寺
地蔵盆の供養の日 供養の灯明が灯されるなか
筝の音と読経の声が織り成すマンダラ
かわらけに灯された灯明が幻想的な雰囲気を盛り上げる

筝と読経のコラボレーション

途中ではかわいらしい子供たちの演奏も

日本最古の寺・奈良元興寺で催された「音と灯りのマンダラ」
日本の伝統の音と供養の法要が一つになって心を和ませる


2011年9月18日日曜日

鷲羽山に


久しぶりに鷲羽山に行ってきました。
あいにくの曇天、少し蒸し暑い天気でしたが・・
ちらりほらり観光客がありましたが、さすが山頂までは誰も来ていません。
途中のビジターセンター、まだ開いていませんでしたが、掃除をしているご婦人がいて「おはようございます」と挨拶

先回来た時も、地域の方がボランティアでビジターセンターのお世話をしておられました。
新幹線開通や瀬戸大橋開通のころのブームはすっかり去って、観光客はずいぶん減ってしまいましたが、ここの魅力はなんと言っても最高の風景!そして手作りのあたたかさが加わった観光地になるのが一番いいのでは・・・
本当に来てよかったと思われる観光地に整備することが大切・・・
それにしても、下の駐車場から展望台までが遠く感じさせられる・・・第一展望台下のロータリーに駐車スペースの工事をしていたが、ここはどう使うのか?身障者と老人用か?利用者の少ないときは一般もOKにしてほしいが・・
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2011年9月17日土曜日

岡山人物銘々伝を語る会 山田方谷 黒田輝一氏

第3金曜日、岡山県立図書館
岡山人物銘々伝を語る会 第63回例会
会代表の黒田輝一さんが「山田方谷」について、ご自身詠まれた短歌を紹介しながら、その逸話を分かりやすく語ってくれた。
最後は詩吟の披露

山田方谷を大河ドラマに・・・しかし岡山県人は、盛り上がりに欠ける。
姫路は「黒田官兵衛」をと盛り上がっているらしい。

黒田さんの話の後、代表代行の久井さんの司会で懇談。
陽明学はいわゆる革命思想ではないし、「知行合一」の本当jの意味などを教わった。

この会は実に実のある会である。参加人数はそんなに多くは無いが、郷土の人物について掘り下げて探求することができる。


発言力を持たない人々

世の中には発言力を持たない人々が
忘れられて、社会の荒波から取り残されて
苦痛にあえいでいる。

いつに時代にも、そんな人々がいた。
そして今の時代も


2011年9月15日木曜日

驕る平家は久しからず


驕る平家は久しからず
『平家物語』の「驕れる人も久しからず」による表現で、栄えている者も、その力と地位を頼みに勝手なことをしているとすぐに滅んでしまうという意味だが、眼前の成功や勝利への戒めとして用いられることが多く、まさに「平家を滅ぼすは平家」。(コトバンク)
驕り高ぶる者の末路は・・・
いつの時代にも栄える者と、滅び廃れる者と・・・
一時の栄がいつまでも続くものではない。
盛者必衰 じょうじゃひっすい)
盛んなる者は必ず衰える。
即ち世の中が繁栄と衰退の繰り返しであることの意。
平家物語の冒頭にある「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す」が有名。

いずれも「平家物語」で有名なことば

TVを見ると成功者がもてはやされているが、むなしく思うこともある。
一方で貧困と、行くあての無い人々、経済的な破綻者、あふれる失業者・・・
忘れられた人々があえいでいる。

成功者とそうでない人々が乖離している。
そのあたりが 恐ろしい




2011年9月14日水曜日

奈良町と猿田彦神社 元興寺のまわり

元興寺のまわり、奈良町界隈を回って見る。
猿田彦神社があった。

猿田彦神社は秦氏ゆかりの神社である。
当ブログをごらんの方は「熊山遺跡」のある熊山にも「猿田彦神社」が祀られていたのを覚えておられるでしょうか?
熊山遺跡は和気氏が施主と秦氏が施工者・・・
サルタヒコは秦氏の「王」だ!・・・「猿田彦と秦氏の謎」(清川理一郎氏 彩流社)にはそう書かれている。

その猿田彦神社が元興寺の境内にあった。しかも買っては規模も大きく、崇敬を集めていたと由緒にもある。

蘇我氏と元興寺と秦氏 そのつながりを考えさせられる神社である。

没落する秦氏と侍の登場

平安朝造営に多大な貢献をした秦氏。
平安京はまさに秦氏の都と言ってもいいくらいに、秦氏の持つ宗教や技術が取り入れられ、さらに多くの秦氏が住んでいた。
しかし、そのような秦氏が、平安の中期を過ぎるようになるとだんだんと没落していくようになる。
職能の民であった秦氏であるが、やはり百済系といわれる藤原氏が全盛を迎えていったように、今来の渡来人である百済系の人々がその勢力を拡大し、秦氏の民の中には賎民化していくものが多くなってきた。
関東武士団は没落した渡来人たちであるとも言われる。製鉄や武器製造にかかわってきた渡来人たちが自ら武装集団化していったのが武士団の始まりであると言う。「侍」と言うのはもともと被差別民を呼ぶ言葉であった。
鎌倉の源氏の武士たちがなぜ鶴岡に八幡宮を勧請したのか?そしてその後武士たちの守護神は「八幡大菩薩」になった。八幡宮の総鎮守は九州豊国の宇佐八幡宮である。八幡宮は秦氏の祀った神である。その秦氏の神様をなぜ、関東武士たちが崇敬したのか?・・・・・・・

2011年9月13日火曜日

蘇我氏は悪者?奈良元興寺に行って

先日奈良に行ってきた。
日本最古の寺、元興寺  世界遺産に登録されている
もともと飛鳥にあった「飛鳥寺」を蘇我氏が移築したものだそうである。
ちょうど地蔵盆の供養の日で多くの参拝客が集まっていた。万灯供養があって参拝者はかわらけに供養の言葉を記して明かりを灯すのである。
夜には万灯の灯りとともに演奏会がある。そのリハーサルの筝の音が響いていた。

さて、すぐ近くに猿沢の池があり、その先は興福寺とのことで行ってみた。
猿沢の池の先、一段高い位置にあるのが「興福寺」奈良を代表する寺院で、多くの修学旅行生が訪れていた。
実はこの興福寺、藤原氏の寺である。
眼下の元興寺は蘇我氏の寺

元興寺はできた当初、広大な敷地を誇っていたそうであるが、いつの間にか無住となり、いつの間にか無住のものが住み着くようになり、「鬼の寺」というようになって行った。

思えば・・・
いわゆる大化の改新以来、時代は藤原の天下、蘇我氏は悪者にされて時代を経過していった。
蘇我氏の寺が寂れるのは当たり前のこと・・・

蘇我氏の名前と言えば、「蘇我入鹿」や「蘇我蝦夷」というように蔑視した名前で伝えられてきた。われわれもそのように教えられてきた。
果たして曽我氏はそのように悪者だったのであろうか?

元興寺:日本最古の寺を創建した蘇我氏
日本は仏教国といわれるがその仏教を日本に持ち込み定着したのが「蘇我氏」である。
聖徳太子も曽我氏の一族であった。
われわれは聖徳太子の王子、山背大兄が蘇我氏に滅ぼされたと学んだが・・本当だろうか?

聞くところによると、藤原氏(中臣氏)は百済からの渡来人が先祖と言う
蘇我氏は新羅系だとも言われる。
後発的に日本にやってきた百済系の渡来人中臣氏が先に来て基盤を作ってきた蘇我氏を打ち倒して政権を奪ったのが大化の改新とも言えるのでは。

元興寺の地域一帯は「奈良町」と言われて、古くからの奈良の町だそうである。
その後の住職の努力で復興してきている元興寺の姿を見ながら、蘇我氏って我々が学んで来たような悪者ではなくて、後発の渡来人集団によって滅ぼされ、あるいはその子孫は差別と蔑視を受けてきたのではとの思いが強くなる。
法隆寺も蘇我氏の怨みを封じるために建てた寺
祀られているのも「聖徳太子」ではなく「蘇我入鹿」ではないかとも聞いた。






2011年9月12日月曜日

吉備の国の歴史を拓く

吉備の国の歴史を拓く

「吉備王国」と言う。
かって大和の王権に対抗するほどの「王国」が吉備、現在の岡山県を中心とする地域にあった。というのが一般的な認識であろう。
むしろ、吉備の王権がその当時列島の中心を占めていたのでは、と言うのが数は少ないが貴重な見解である。

「吉備」の始原の姿は?今日、「日本」と言う国の成立に極めて大きなかかわりを持ってきた「吉備」。

大和の王権が強大化する中で埋没してしまったかに見える「吉備の国の歴史」。
残された歴史の残滓の中から「吉備」の真実の姿を見つけ出すことができれば・・・・

キーワード 「秦氏と日本と吉備の国」

2011年9月11日日曜日

家庭力の低下をどうする?

日本の国力の減退は明らかである。
世界第2の経済大国の座は中国に明け渡し、伸び続ける中国の軍事パワーに比較して、アメリカの力の低下は深刻な安保上の不安を東アジア、日本を取り巻く環境にもたらしている。
日本が誇っていたものづくりの伝統も、一部にはがんばっている企業や伝統産業もあるが、それを支える人的資産が減退していっている。

人口も減少し、国の未来を支える「若者」の力が失速して行っている。
何よりも問題は「家庭力」の低下である。
今日、さまよう若者がいかに多くなっているか。
未来のために準備する若者がどれだけいるか?

将来を担う子供たちを育てる家庭が危うい。

現代日本社会の持つ家庭観、結婚観に問題ありと言えないか?
少なくとも戦前まであった伝統的家庭観のほうが良かったといえる内容は無いのか?

確実に日本力は低下して行っている。
それを防ぐには、もう一度、家庭観、結婚観について考察してみる必要があるのでは・・・

秦氏の復活

かって日本の歴史に多大な影響を与えた「秦氏」
今は何処に?その命脈は・・・引き継がれては来ていると思うが、今は・・・

今復活の時を迎えているのでは・・・
日本自体が混迷の時を迎えているが、世界を見渡すともっと混迷が深まっている。
収拾しなけばならない課題があまりにも多い。
しかし今、その底力を発揮していく時

日本に秦氏が到来したのは4世紀末から5世紀にかけてのころだといわれている。
応神天皇が弓月の君の依頼を受けて、秦氏を招いたと記紀には記されている。
そして127県という極めて多くの秦氏の集団が渡来した。そして彼らがもたらした、宗教や技術の文化は古代国家日本の成立に多大な貢献をなした。
その秦氏が今は何処に?

今世界が必要と強いるのは、日本人が持つ「人間力」と「技術力」
心の文化と、ものづくりの文化である。
かって、それらをもたらした「秦氏」。

秦氏を学べば日本の歴史と未来が見えてくる。

(吉備楽土-歴史講座)

2011年9月7日水曜日

岡山人物銘々伝を語る会8月まとめと9月案内

岡山人物銘々伝を語る会8月のまとめと9月案内

  「岡山人物銘々伝を語る会」第62回例会のご案内     
代表世話人代行 久井 勲

 61回(819日)の例会は、本会会員の山田良三氏に「吉備の秦氏と岡山の人物―法然上人と秦氏を軸に」について語っていただきました。

秦氏を語るに、内村鑑三のルター論から入り、そして宗教改革者という意味で法然へと結びつけ今回の立論は、縦横斜めから歴史の流れに切り込んでおられて、厚みを感じるお話でした。
日本史の登場人物はそれなりに、権力者か時代に影響を与えた人物が主役になっています。わずかにそうでない人物()もいるのですが、ただ、あまり歴史書はそれに対して的確に答えてくれてはいません。その典型的な例が秦氏といえるでしょう。
山田さんは、古事記等の応神天皇の条の記述から説き起こしてくれていました。秦氏は、日本史に登場する段階から殖産を得意とすることで知られる存在ですが、その流れは実に広汎にかつ深く社会の隅々に浸透しています。
流れを追えば、あの氏もこの氏も秦氏の支脈にあるような気がしました。法然の母もその流れの人でした。法然の、念仏を機軸とする宗教改革の意欲は、秦氏の土に生きる、倦むことなき使命感に支えられているのか、それも宜なるかなと感じ入りました。


9月の例会は下記のとおりです。             
日時:平成23916()※ 午後6~8時  (※通例は第3金曜日です)
     場所:岡山県立図書館の2階  
内容:「山田方谷の業績 ~短歌にて~」
      講師: 黒田輝一 氏
参加費: 500
[※ 簡単なご紹介]
山田方谷先生の話は、会員の山田明正氏、私の友人楠本俊憲氏(アリコジャパン)そして太田健一氏(山陽学園大学教授)、朝森要氏(歴史研究家)から、それぞれの立場で話していただきました。
その上でさらに、私が先生の話をさせていただく思いを決めたのは、短歌を切り口として先生の業績を追ってゆけば、また従来の話とは別の切り口が見えてくるのではないか、と考えたからです。参加の皆様のご意見をお待ちしています。
                
別れ際越後の蒼龍継之助 
三度の叩頭思い尊し

例会参加希望の方は吉備楽土までメールください

2011年8月21日日曜日

秦氏と日本と吉備の国

19日 岡山人物銘々伝を語る会で
吉備の秦氏と岡山の人物 和気清麻呂~法然 のテーマで話す

あらためて 日本の歴史、文化、宗教、産業 日本のもっとも大切なもののすべてを作り上げてきた
秦氏の偉大さを 実感

にもかかわらず 秦氏の歴史の 最も輝いた平安京の時代を境に 秦氏は 日本の歴史の主要舞台から消えてしまったかのごとくである

平安の時代の最終ランナーとして 日本宗教界の最大のスターであり、最大の革命者として登場した法然の活躍を境に

そして見えてきた
「秦氏」の名前は消えていったかのごとくであるが・・・
実は 法然の宗教として 大衆救済の宗教として そしてその鎌倉仏教に帰依した鎌倉・関東武士団の歴史として (栄西禅師も広くは秦氏である そしてその他の祖師たちも)

そして明治維新も秦氏が先導したかのごとくである

にもかかわらず 現代の日本は かって失速した秦氏の中から 新しい改革者が法然が登場したように 改革者の登場を渇望しているかのごとくである

秦氏と日本と吉備の国

日本列島の中で最も輝いた吉備の国の時代
その吉備の歴史と文化を造りだし、輝かせてきたのが「秦氏」である。
その吉備の秦氏の中から、和気清麻呂や吉備真備、法然や栄西が登場した。
そして更に続く多くの歴史を輝かしてきた人物たち

岡山の歴史と文化、そして人物を見ながらそのことが見えてきた。

その秦氏が作ってきた、日本を輝かせてきた吉備の国の文化が、今の、そして未来の日本と世界を輝かせるのではないか!

大和の古代国家成立に貢献した吉備と秦氏
大和の王朝成立に深くかかわった「吉備」と「秦氏」、 「吉備の秦氏」と言ったほうがいいのかもしれない。

2011年8月14日日曜日

錦織神社

8月8日美咲町の錦織神社を訪問した。
秦氏ゆかりの神社である。
久米郡誌を見ると

・錦織部 久米郷の南に旧錦織村がある。ここは一面の大水田地区の背後にゆるやかな丘陵を持ち、人家は山麓に集中している。ここは一村で一郷となった珍しい土地である。ここの氏神錦織神社の祭神は秦氏の祖といわれる。秦氏繁栄の地で高級織物を代表する錦を製作する錦織部がおかれた吉備でただ一つの場所である。隣接する桑村が養蚕製糸の基地であったと考えられる。
とある。
神社を訪れると宮司さんが迎えてくれて、神社の由緒など教えていただいた。
今の宮司さんの祖父がまとめたと言う錦織神社の由緒の書を見せていただいたが、そこには作陽誌などにある神社の由緒にかかわる諸文献がまとめられ、そこには秦氏に重要なかかわりのある神社であることが綴られていた。
またそのころここ錦織の郷で孝行ものとして記録に残る秦豊永を顕彰する集まりが全国から秦氏の関係者や地元の住民が集まり、さらに唱歌も作られて郡内で歌われたそうである。

秦氏は渡来の殖産の民で、その民をあらわす太秦(うずまさ)と言う名が,絹の織物をうずたかくとあるように絹織物が主要な殖産の産物であった。
当時今の岡山県で唯一の絹の産地となったのがここ錦織の地だったそうである。
秦氏は鉄産にかかわったことも有名で現在の久米町や久米南町でもたたらの後が確認されている。
法然上人の母君は「秦氏の君」と言われたが、この地域が殖産の地として栄えた秦氏が住まった地域であったことがわかる。
今は寂れた一農村のようになっているがかっての栄華の時代を思い起こされた。

8月19日午後6時から県立図書館で「吉備の秦氏と岡山の人物~法然と秦氏」の題目で話す予定です。主催は岡山人物銘々伝を語る会です。

2011年8月3日水曜日

岡山人物銘々伝を語る会7月まとめと8月案内

   「岡山人物銘々伝を語る会」第61回例会のご案内
                         
7月例会のまとめ 代表代行 久井勲氏
60回(715日)の例会は 百鬼園倶楽部会長の岡将男氏に「内田百閒の素顔」について語っていただきました。内田百閒については、文章に凝りに凝る、洒脱と皮肉と頑固一徹の人という印象が強いですが、彼の作品を愛する人々の集まり、百鬼園では、そのキャラクターのよってきたるところや、そのエピソード等が、今もなお語り草となっているようです。席上いただきました資料では、昔の岡山市内の地図が描かれてあり、特に六高周辺では店屋の名前までもが記されており、ご覧になった方は懐かしく、今において縁を感じた方もいらっしゃったのではないかと、推察いたします。
私の文学的感覚ですが、百閒文学は、好きな人はとことん惚れ込む一方で、作品にテーマ性や目的論的意味合いを期待する人(夏目漱石の弟子という系譜から、そう期待する人いらっしゃるようです)には、必ずしもそうでないのかもしれません。それはともあれ、百閒の諧謔や反語に満ちた意見や感想の表明、ないし行動は、かなり“岡山的なるもの”と比較の上で出てきているなあ、と感じました。今の日本は昔と違い、郷里と東京との間の垣根は段々と低くなっています。百閒の時代には持ちえた頑固さは、今では目立たなくなっています。そういう意味で百閒文学は、”岡山的なるものの安堵”を、再び感じることができるものと言えるかもしれません。

8月の例会は下記のとおりです。             
                   記
      日時:平成23819()※ 午後6~8時  (※通例は第3金曜日です)
     場所:岡山県立図書館の2階  
    内容:「吉備の秦氏と岡山の人物―法然上人と秦氏とのかかわりから
      講師: 吉備の国岡山の歴史と未来を語る会  山田良三
      参加費: 500
 [法然上人と秦氏について]
 実に数多くの偉人を輩出してきた岡山ですが、とりわけ宗教的人物に有名な人物が多い。その背景を見てみると、古代日本最大の渡来豪族と言われた「秦氏」とのかかわりが見えてくる。平安京の造営にかかわった和気清麻呂が秦氏との密接な関係を持っていたことは有名だが、その平安時代末期に、日本の宗教史に革命的変化をもたらした浄土宗の開祖法然上人とのかかわりは、これまであまり知られていなかったように思う。今回は法然上人と秦氏とのかかわりを軸に吉備の秦氏と岡山の人物について語りたい。(山田)
   
 

2011年7月21日木曜日

内田百閒の話を聞いて

7月15日 内田百閒の話を聞いた
講師は岡山ではその名の知られた岡将男氏
鉄道ファンでもある筆者は路面電車の環状化などに取り組む岡氏のことは良く聞いていたが、トラムの前に内田百閒ありと聞いて納得した。

最近、文学作品とはトンと縁のない当ブログの筆者にとっては、鉄道好きの作家の印象は持ちながらもその作品や人柄に触れる機会はほとんどなかったが、岡氏の話を聞きとても興味を持った。
有能な文章能力を持ちながらも、金には恵まれず、借金名人だったとの話には驚いた。
岡氏自信も会社倒産と言う悲惨な経験をして内田百閒と会い通じる世界を体験
経済的困窮の中で味わう人間らしさを内田百閒はその文章の中に秘めていると聞き、多くの共感を人々に与えたと聞く。

共感する世界を感じた!内田作品も読んでみよう!

2011年7月6日水曜日

岡山人物銘々伝を語る会6月まとめと7月案内



 「岡山人物銘々伝を語る会」
60回例会のご案内
                       代表世話人代行 久井 勲

 59回(617日)の例会は 、高橋義雄氏に「興譲館館祖阪谷朗盧と三島中洲、渋沢栄一との親交」について語っていただきました。
ペリー来航と正しく同時期の嘉永66月に創立成った興譲館の館祖、阪谷朗盧(ろうろ)を中心に、また鴻学、産業いまだ黎明なる中、後世、斯界のリーダーとなる三島中洲、渋沢栄一と、阪谷との親交について触れていただきましたが、いずれの人物も、新生日本を何とかしようとの熱い志を抱いていたことが、いまさらに知りえて、なかなか岡山の人国記も豊富なることを感じました。
彼らの事績はつとに有名ですが、人と人との出会いという面では、渋沢が幕末に井原に農兵の募集に来て阪谷朗盧と知り合い親交を結んだこと、阪谷の長男芳郎がのちに大蔵省に入省して渋沢の二女と結婚していること、は、初めて知りえたことでした。なるほどに歴史の影には“縁”が生きていることを思います。
 また、同日は興譲館出身の方や学校関係の方も参加しておられ、精神性に重きをおく伝統を懐かしむ声の聞かれました。
7月の例会は下記のとおりです。             
                記
 日時:平成23715()※ 午後6~8時  (※通例は第3金曜日です)
     場所:岡山県立図書館の2階  (元へ戻りました)
    内容:「内田百間の素顔」
      講師:百鬼園倶楽部会長 岡 将男 氏
      参加費: 1,000
内田 百間(うちだ ひゃっけん 1889年(明治22年)529古京町の造り酒屋「志保屋」の跡取り息子として生まれる。岡山中学在学中に生家が廃業、六高卒業後東京帝国大学に進み在学中に夏目漱石の門下となる。小説家、随筆家。本名は内田 榮造。
戦後は筆名を内田 百閒と改めた。別号は百鬼園(ひゃっきえん)という。「百鬼園」を「借金」の語呂合わせとする説もあるが、本人は一応のところ否定している。迫り来る得体の知れない恐怖感を表現した小説や、独特なユーモアに富んだ随筆などを得意とした。後輩の芥川龍之介に慕われたほか、師である夏目漱石の縁故から夏目伸六と親交が深かったことでも有名。


参加希望及び問い合わせは吉備楽土まで

2011年6月29日水曜日

吉備の秦氏と岡山の人物

8月に「吉備の秦氏と岡山の人物」というテーマで話をすることになっている。
そのための材料をいろいろ集めている最中だが、これが膨大なテーマだということが分かってきた。

吉備の秦氏というが、その全貌はこれまで誰もまとめていない。そもそも日本の歴史の中で、吉備の歴史は古事記日本書紀を始めほとんど記述がない言っていくらいである。
多くの歴史の研究者が、吉備の国、しかも秦氏のことにはほとんど触れていない。
最近幾人かの方が「邪馬台国吉備説」であるとか、吉備に注目する学説を唱えていたりするが、膨大な古代日本史研究の中では「吉備」は無視されてきたといってもいい。

そのような中ではあるが、岡山大学考古学部の近藤義郎先生の研究や、近藤先生の楯築遺跡の研究を基にしながら書かれた薬師寺慎一先生の論文は注目に値すると思っている。
また、磐座や地名の研究をしながら秦氏について言及された佐藤光範さんの研究に注目してみたいと思っている。

岡山からは実に偉大な人がたくさん輩出している。その先駆けとも言うべきなのが「吉備真備」であり「和気清麻呂」であろう。
和気清麻呂が秦氏、特に山背の秦氏と密接な関係を持っていたことはよく知られている。和気氏と秦氏の関係は、和気氏の出身地である備前、美作でもその関係が密接であったことが明らかである。更には宇佐八幡との関係もあり、道鏡事件のとき流された大隅でも秦氏との関係があったのではないかと思われる。

さて、薬師寺慎一先生の書いた、備中中枢部の秦氏に関する論文を読ませていただくと、「吉備氏」=「秦氏」という構図が浮かび上がってくる。応神天皇の妃、兄媛が故郷に帰りたいということで、吉備に帰るが、その兄媛を追って天皇が来られて、兄媛の兄御友和別が歓迎した。その地が葉田(ハダ)である。そして御友別の子達に吉備の国を分けて与えた。それが上道氏や下道氏、三野、香屋、笠臣などであるという。
さらに戦前吉備を代表する歴史家永山卯三郎氏が著わした岡山県通史の中で、「葉田は東は上道郡の可知村、財田村土田(はだ)、幡多村から西は高梁川西岸の秦郷に至るいったいを言ったものか・・」とあることを紹介している。
そうだとすれば下道氏から出た吉備真備もその後賀陽氏から出たという栄西禅師も秦氏の流れをくむ人物と見ることができる。
そして更に、二流れの幡から生まれたという法然上人の誕生につながる。

2011年6月23日木曜日

吉備歴史探訪会6月例会 誕生寺 本山寺

アイアンロード
京大名誉教授で、日本の古代史研究で有名な上田正昭教授が総社市の姫社神社に来たとの話を、姫社神社総代の板倉さんから聞いたが、そのとき上田教授が「鉄産の民が中原から久米南に行った」と講演会で話をしていたとのこと。
法然上人の家系が秦氏とかかわることは明らかになっているが、このあたりのことを今回探ってみる。

久米南町誌を見ると久米南町の北、現在の美咲町に旧錦織村があり、ここには秦氏が祀った「錦織神社」があるとある。欽明天皇の時、秦氏の納める織物の量が山をなすほど多かったとあり、当時の秦氏の繁栄を伝えている。鉄産とともに久米郡の一帯が秦氏の栄えた地域であったのであろう。

今回、誕生寺と、法然上人の両親が、その子を授かるために祈願したと言う本山寺を訪ねる。本山寺に行く途中には「波多神社」がある。もとは畑三社権現と言ったそうだが、ここにも秦氏の名残がある。

探訪会今回は25日土曜日、10時に誕生寺集合です。

2011年6月22日水曜日

阪谷朗蘆、三島中洲と渋沢栄一 岡山人物銘々伝を語る会6月例会

今回講師の高橋義雄氏は岡山の金融史をまとめられた方である。日本資本主義の父と言われる渋沢栄一とゆかりの岡山の人物として興譲館の創始者阪谷朗蘆と山田方谷の弟子であり二松学舎の創立者三島中洲を取り上げた。ともに儒学者でありながら西洋の文化を取り入れ、教育や産業の発展に貢献した。
三島中洲については以前この会でテーマで取り上げられたことがあるが、阪谷朗蘆については今回が初めて、興譲館は最近駅伝で有名になったが、学校創立の背後にこのような人物の、このような教えがあったことを知り、郷土として誇るべきものであると感じた。校訓とその意味なども紹介されたが、実に味わい深い内容であった。

2011年6月1日水曜日

早島で開かれた合唱コンサート コロポーニョと吉備の児島

29日日曜日の午後2時から早島町のゆるびの舎で合唱コンサートが開かれた。
演奏は児島を拠点に3年前に結成された「コロポーニョ」1stコンサートと銘打って、同じく高野敦さんが指揮者を務める「コールゆうぶんげん」が賛助出演、合同での演奏「花に寄せて」には筆者も友情出演させてもらったが、事故のため手も足も不自由になった星野富弘先生が口に筆を含ませながら書いた絵と詩、それに感動して混声合唱組曲に仕上げた作曲家の新実徳英氏、コンサートのプログラムにも新実氏のメッセージが寄せられていたが、突然襲った悲劇にもかかわらず生きる希望を持ち続け、それを絵と詩に描いた星野氏の強い意志と魂の叫びと愛情があふれた曲である。感動的な舞台だった。
最後はアンコールで「吉備の児島」3月に児島で上演された吉備の児島をテーマにした創作ミュージカル「最後の5匹」の挿入歌である。吉備の児島の歴史と風土を表現した、さわやかであたたかな瀬戸の風状の中で伸びやかな希望を感じさせる歌である。作詞は児島在住の江戸川乱歩賞作家の藤原敏弘氏、作曲は同じく児島在住の音楽家亀井由喜子さん、原曲は女声合唱だが今回混声合唱に編曲しなおしての初演奏。亀井女史とミュージカル主演の女の子がゲストとして来場紹介された。

さて、児島の合唱団がなぜ早島でと、少し不思議にも感じたが、私はこう思った。
早島はなんと言っても山陽道と金比羅街道の分岐点、かって児島に上陸した人たちは由加山と熊野社に参拝して早島に出て山陽道を登ったり下ったり、あるいはまた出雲へその道をたどり分かれて行った。今でもそうであるが早島は吉備の児島との接点になる交通の要所。ここに文化が集まりここから文化が開けていく。
早島のゆるびの舎はとても使い勝手がよく、音響もよくて岡山や倉敷の合唱団がよく利用する会場である。
当日は季節はずれの台風で、風と雨の悪天候にもかかわらず300余名の聴衆が集まった。
児島と岡山でかつやくする両合唱団の今後の活躍に期待したい。
コロポーニョ 吉備の児島の記事も見てやってください。

2011年5月27日金曜日

コロポーニョ1stコンサート

29日日曜日の午後2時から早島の「ゆるびの舎」で児島を拠点に活躍する女声合唱団コロポーニョの1stコンサートが開かれます
コールゆうぶんげんも賛助出演します

とてもいい歌声聴けそうです 聞きに行ってみては



コロポーニョ1stコンサート

コロポーニョの1st.コンサート

5月29日(日)13:30開場 14:00開演
早島町民総合会館 ゆるびの舎

指揮 高野敦
ピアノ 畠山勝子

Ⅰステージ 女声合唱とピアノのための「白いうた青いうた」より
Ⅱステージ 女声合唱とピアノのための「海をうしろへ」
Ⅲステージ 賛助出演 コール・ゆうぶんげん
Ⅳステージ(合同ステージ) 混声合唱とピアノのための「花に寄せて」

なお、当ブログの筆者も友情出演します

2011年5月23日月曜日

秦氏の不思議

吉備の秦氏をテーマに研究中

秦氏は調べれば調べるほどミステリーな内容が付いてくる。

古代吉備王国は秦氏の王国だった。
薬師寺慎一氏や池田光範氏の論文を読むと、そう感じてくる。
全国的には吉備の秦氏はあまり注目をされていない。

郷土岡山、かっての吉備王国、備前備中美作からは偉大な人物を数多く排出している。
とりわけ宗教家や徳政を布いた政治家かが多い。そして、産業、技術、医学、芸術の分野でも・・
そのルーツをたどると、秦氏の系譜につながってくる。

このブログでもたびたび取り上げた和気清麻呂は秦氏とのかかわりが極めて強い人物だが
ほかにも、浄土宗開祖の法然上人
栄西禅師は賀屋氏の出自だが、賀陽家はもともと吉備氏の流れを汲んでいる。吉備氏が秦氏であるとの薬師寺氏や佐藤氏の説を取り入れれば栄西禅師も果たしの流れということになる。下道氏出身の吉備真備もしかり・・

秦氏は殖産の民といわれる。吉備国の繁栄は「真金ふく・・・」と万葉の枕詞にあるように、鉄産や銅産に丹を発している。機微の国を繁栄させた金属の加工技術は秦氏がその多くをもたらしたといわれている。
土木技術、湛井の堰の建設や巨大古墳の建設に貢献、また陶器の製造技術は須恵器などの陶器や特殊基台、などを生み出したのではないか。
それになにより不思議なのは秦氏の持つ宗教性
日本全国最も多い社数を誇る、稲荷社も八幡社もいずれも秦氏が祀ったものである。
金比羅は讃岐の秦氏の祀った神であり、吉備では児島の由加山もそうである。

秦川勝が聖徳太子からもらいうけ祀られたという京都太秦広隆寺の弥勒菩薩像
吉備でも最も古い仏教寺院は秦にある廃寺がそれである。

そして音楽や美術の世界 
戦国期にやってきたキリシタン、禁教令が出て地下にもぐった隠れキリシタン
明治の開国とキリスト教の普及 このあたりにも秦氏のにおいを感じる。

岡山の歴史と偉人を探るとそこには秦氏の影が色濃く出てくる。
そのあたり少しまとめていこうかと

万代常閑 岡山人物銘々伝を語る会で

5月20日(金)午後6時から岡山人物銘々伝を語る会第58回例会が岡山県立図書館で開催されました。
今回のテーマは「万代常閑」 講師は久井勲氏 ゲストとして万代家21代の奥様がおいでになられました。
今回は特に万代常閑初代と、富山の薬売りのもととなった、11代についてのお話で
久井氏の大胆な推察と、小説風の語り口、実に興味深い例会となりました。
21代万代常閑の奥様も、各地を訪ね事跡を確認されておられ、伝説的に伝えられている内容と事実との相違など、実に興味深い話を聞くことができました。

地元岡山よりも富山をはじめ全国での知名度の高い万代常閑ですが、聞いてみるとその功績の大きさに感銘を受けます。
万代家の伝えてきた「返魂丹」は、今は薬事法の関係から製造販売できなくなっているそうだが、とても残念に思いました。万能薬として珍重され、その販売方法とともに多くの人々を救ってきたのに・・
万代家は明治以降は西洋医学を学び、西洋医として代をついでこられたそうであるが、その志に深い感銘を受けた。
西洋医学一辺倒の医学界や、医薬分業の体制が果たしてどうなのか?

返魂丹は富山に行って反魂丹と名を変えて越中富山藩の地場産業となり、越中富山の薬売りととして一世を風靡したが、その影で、忘れられかけていたかの万代家の功績にもう一度光を当てていくべきではないのかと感じさせられた。

2011年5月11日水曜日

国難を乗り越える思想 吉備の国から

未曾有の大震災に見舞われ、原発事故の追い討ちを受けている日本、かってなかった国難に瀕している。
地震直後の日本人の冷静な態度には世界から賞賛の声が上がったが、原発事故に対する日本の対応には世界ががっかりしている。

この国難をどう乗り切るのか?
今こそこの国難を乗り切る思想が必要である。

幸いここ吉備の国、岡山には熊沢蕃山から山田方谷にいたる経政家、思想家の系譜がある。
この国難を克服して国民全体が平和に安心して豊かに暮らせる国を実現していくことができれば、改めて日本は世界から注目され、地球規模のさまざまな問題を克服し、地球規模の平和と幸福と繁栄の世界を実現していくことができるであろう。

そういう思想、その根本は思いやりの心であろう。

私の先祖は信仰心厚く親孝行であるとともに心優しく民のわずらいを知る侍であった。と記録されている。

今一番必要なのは、被災した人たちの心配や不安を取り除いてあげること心を配ってあげることである。
震災復興は官邸や霞ヶ関でいくら論議しても始まらない。
被災地に直接行って実情を目の当たりにし、被災者の気持ちを最大限理解して、その気持ちを一番大切にして復興に当たることである。

原発事故の避難者には、一緒に避難生活をし、原発で必死で復旧に当たっている現場で一緒に復旧に取り組むべきである。

歴史に残る経政家、思想家は民のわずらいを知っていた。その民のわずらいを取り除くために全力を尽くして藩や地域の建て直しに取り組んだ。
その基本は心から民の心を思う思いやりであった。

その心を忘れた机上の論議は必要ない。

とるものもとりあえず被災地に駆けつけているボランティアの心は貴重である。
被災者の気持ちを第1に、そしてできることを応援してあげる。
まかり間違っても、首都と言う東京にいて、保障された生活圏の中で考える勝手な支援策を被災地に押し付けることだけはしないようにしてほしい。

2011年5月8日日曜日

岡山人物銘々伝を語る会5月は万代常閑

5月例会は置き薬の元祖万代常閑について作家の久井勲さんが語ります
参加希望の方は吉備楽土まで連絡ください


 日時:平成23520()※ 午後6~8時  (※通例は第3金曜日です)
  場所:岡山県立図書館の2階
  内容:「万代常閑」※
  講師:久井 勲
  参加費:500

    万代常閑は、室町初期、“延寿返魂丹”の製法を泉州堺の浦(当時ただの漁村)に寄港した明人から
教わり、それを一子相伝で伝えた人物。3代目以降は備前和気・益原村(その後伊部)に移住、やがて越中富山に”反魂丹”を伝授。同薬のいわれは、富山のみならず全国で有名なのに、なぜか地元で知名度まだし。そこで、『個々に知られたエピソードを、他の歴史事象と経済的・社会的・政治的な背景の中で無理なく接合させ、説明/推測可能なものとして構成しようとすればこうなるのでは----』、という前提で、万代常閑(初代)について、語りたいと思います。

今こそ政治に愛が必要なとき

かって熊沢蕃山先生は「士(さむらい)とは”愛”である」と説いたが、今当に政治に愛が求められるときであろう。聖書に「もし愛がなければ・・・」と言う一節があるが、いかにももっともらしいことを説いて行っても、その行動が”愛”から出発したものでなければ、かえって迷惑なものである。
原発事故に対する避難もそのようなものであろう。
危険だから避難してと言うが、はたしてそれは、その住民たちを愛することから発せられているものなのか。
大震災への復興支援もそうであろう。
個人や団体や企業が今回の復興に対して行った心からの支援は極めて貴重なものである。ところが国家中枢の震災対策ははたして”愛”から出発しているのであろうか?実際の被災地の帰途人の切実な心を理解することを忘れて論議ばかりしていないのか?

日本国民は愛する心を持っている。そのほとんどが被災地のニュースを見ながら、心痛く毎日を過ごしている。現地が復興してほんとうに活力を取り戻すまでその痛みは続く。
自分の家族が避難所暮らしをしていることは見るに耐えない。

2011年5月6日金曜日

吉備の国と被災地をつなぐ

今日本各地の人々が、東日本大震災の被災地の人々に、思いと心を向けている。
吉備の国から、何かできないものか。
日本復興の精神的支援を!

4月29日、岡山市民会館で開かれた、東日本大震災文化復興支援と銘打った方角演奏会「日本の感性21in岡山」に参加してきた。
邦楽と洋楽のコラボレーション「梵」の演奏で始まり、上海万博や全国コンクールで優勝した中学生佐竹さんの演奏もあり、普段は邦楽に接する機会の少ないわれわれもとても楽しませてもらえた。

ユネスコなどを通して世界的に活躍している大月宗明氏の率いる日本筝曲楽会の主催である。
大月師は、大震災の当日東北に行っていて、大地震に直面、10日間ほど車で生活してきたと言われる。この大震災を通して、日本人が示した助け合い共同の精神が世界を救うと訴えていた。

吉備の国のわれわれは精神文化の先頭を切るべきときである。思いやる心をすべてを生かしていくときである。

2011年5月5日木曜日

困難に立ち向かう

今の日本は大変な国難である。
大地震、津波に原発事故
これをどのように乗り越えるか。
今真剣に考えなければならない。
多くの人々が義捐金を寄せたりボランティアに参加して被災地を応援している。ここに希望を見出す。
今行政のトップにある人間は大変。国民の意思をどのように実際の行政に生かすか。

2011年5月4日水曜日

危険思想視された陽明学

明治維新に多大な影響を与えた思想が陽明学である。
近江聖人といわれた中江藤樹に始まり、その弟子となった熊沢蕃山が教え、熊沢蕃山は徳川幕府から危険思想の持ち主とされ、岡山藩から追われ、最後はひっそりと関東の古河で最後を遂げたが、その思想は引き継がれ、幕末の思想家に多大な影響を与えた。その代表が横井小南であり、松下村塾を開いた吉田松陰もその影響を受け、幕末備中松山藩の改革を成し遂げた山田方谷もまた陽明学であった。
陽明学が嫌われたのは、学問としてよりもその行動性のためであろう。
思えば王陽明が教えた教え自体はなんら危険なものではない。人間が良知にしたがって生きることを教えたのである。しかし人がよいことと思うことが時としては権力者にとってはよいことでない場合もある。儒学の中でも朱子学はどちらかと言えば秩序を重んじる思想である。

熊沢蕃山は領主である池田光政公が役人を重用して政治を行うことに反対し、水魚の交わりとも言われた親密な関係が切れて、隠居するようになったと言われている。

東日本大震災に見舞われた日本の状況は、当時の状況に極めてよく似ている。
備前の大洪水のとき池田公は蕃山の意見を入れて民衆を救済した、しかし、晩年その家督を息子の綱政にゆずるに際して津田永忠など有能な家臣を重用したのである。これは大変よかった面もあったが、熊沢蕃山が心配した役人政治の弊害をもたらした。住民の生活のこと細かいことまで政治が介入して、民間の活力や文化活動が抑えられた。

政治の役割は何か?よき政治は必要であるが、それはあくまで民の幸福のためである。押し付けの善政は却ってマイナスをもたらす。

今の政治を見ると、当にそのような気がする。
未曾有の国難をどのように乗り切るか?不要な国の介入は国力をそぎ、復興を阻害する。
今こそ明確なビジョンを国民全体が共有して、国民全体が共通の意識と、共通の幸福を求めて生きるときであろう。
無益な論議はやめてほしい。

吉備歴史探訪会4月例会は吉備真備の故郷へ

4月30日(土)吉備歴史探訪会の4月例会
吉備真備ゆかりの吉備寺、箭田大塚古墳、下道氏墓所などを訪ねました。
応神天皇のとき妃の兄姫が故郷に帰ったのを追って吉備に来た応神天皇が族長の御友別に会いその兄弟や子供たちに吉備の国を県主として分封させたとの記述が日本書紀にある。
これがその後の吉備の各氏となる。そのひとつが下道氏である。
奈良時代に遣唐使として中国にわたり帰国後は中央政界で活躍した吉備真備の一族が下道氏である。古墳時代後期から、飛鳥、奈良に至る時代この地域を治める下道氏が栄えていたことがわかる。
吉備真備が岩の上で琴を弾いたと伝えられる琴弾岩から二万の大塚古墳、数年前未盗掘の古墳発掘のニュースで話題となった二万勝負砂古墳を訪ねたあと、昼食はうどん「かわはら」を訪ねました。とてもおいしかったです。

昼食後は岡田にある横溝正史疎開の家を訪ね横溝正史の数多くの作品がここから生み出されたことに感慨新たにしました。

2011年4月11日月曜日

はたして ハタか

佐藤光範さんの書かれた「はたして ハタか」と言う本に出会いました。
地名についての独自の考察がすごい!

2011年4月7日木曜日

岡山人物銘々伝を語る会4月例会案内

岡山人物銘々伝を語る会4月例会のご案内


   「岡山人物銘々伝を語る会」第57回例会のご案内
                         代表世話人代行 久井 勲

 56回(3月18日)の例会は 、青山 融さんに横溝正史ついて語っていただきました。
  横溝正史は戦時中疎開していた岡山を舞台にした作品を多く残しています。昭和50年代に
 は映画・テレビにと一種“ブーム”のような高まりがあったのを憶えています。その流れからか、
 いまも、○○殺人事件とか、トリックの解き明かし-----しかもそのトリックを解明するには数十
 年昔に遡らなければならない-----を一つの特徴とする”異次元的”な事件とか、を典型とする
 ドラマが人気を集めているようです。
  青山氏の語りは、横溝正史自身のひととなりを含めたエピソードが多く、”マニア”を喜ばすネタがいっぱいありました。トリックの可否や、登場人物の名前のいわれ(作家自身あまり深く
 考えていなかった、とは面白い)から、果ては、架空の人物、金田一耕助自身のキャラクターの
 裏話など、なかなか面白かったです。
  また、江戸川乱歩や松本清張など彼の時代に前後する作家たちとの違いについても、語ってい
 ただき、なるほどそういう特色があるものだなあ、と頷かされました。岡山の歴史にして、また
 文学ジャンルの話というのは、けっこう人を惹きつけるところがあります。

4月の例会は下記のとおりです。             
                記
  日時:平成23415()※ 午後6~8時  (※通例は第3金曜日です)
  場所:岡山県立図書館の2階
  内容:「永井荷風と谷崎潤一郎、疎開先岡山での交遊について
断腸亭日乗と疎開日記から―
文化勲章を受けたこの文豪二人に意外なところに接点があり、お二人の短い期間ですが、岡山での交わりには興味がわいてきます。ぜひお誘いあわせの上たくさんの方がおいでくだされば幸いです。(大濱さんからの手紙より)
  講師:大濱文男 氏 
  参加費:500
参加希望の方は

2011年3月29日火曜日

黒日売の古墳

丸山古墳
日本書紀には応神天皇が兄媛に会いに葉田の葦守宮を訪ねたとあるが、古事記には、黒日売が皇后のねたみに耐えられず吉備へ逃げ帰った。その黒日売に会いたさから、淡路に行幸すると偽ってひそかに会いに行くとある。
応神天皇はその愛する妃のために、吉備国の一部を割いて織部県を所領として与えた。その織部県は吉井側の東側、旧邑久郡北部の平野部、服部集落を中心とした地域である。ここはすぐ南には土師の集落、さらに東南には須恵の集落があり渡来人の居住地であったといわれる。
この服部集落の北香登の集落の向かいに鶴山という小山がありその頂に丸山古墳というのがある。この古墳からはくりぬきの石棺があり、そこから巨大な管玉などとともに30面からの鏡が発見された。
立派な石棺といい、その場所から見てもこの古墳は黒日売のものと思われる。
黒日売は古事記には吉備海部直の娘であると記されている。
ここで問題は吉備海部直、すなわち大伯国造は吉備一族とは血縁関係がなかったということである。この地域は吉備本国の域外であったといわれるが、このあたりのことはまた検証しよう。
吉備の古代王国(鳥越憲三郎著)参照

2011年3月18日金曜日

被災地復興には物流の回復が第1 東北道を開通させよ!

東日本大震災
犠牲者の皆様には深く哀悼の意を表します。残されている人たちも大変な生活を強いられています。早く正常な生活に復帰できるよう全国民が支援していかなければなりません。

さて被災者被災地の救援について思わされることがあります。
今なお被災地の皆さんは本当に大変な生活を強いられています。
それらの方々のところに早急に物資を供給しなければなりません。
そのためにも、なぜいまだに東北道を緊急輸送に限定して閉鎖しているのか?これは完全にマイナスです!
東北全体に物資が不足しています。この状態を解消するには物流ルートを正常化しなければなりません。ようやく燃料の供給には対策が取られたが、その他の物資は全体に不足しています。
甚大な津波被害を受けた地域は別にして、物流さえ回復すれば正常な活動に戻れる地域は早急に正常な機能を回復していくべきです。
日本の流通体制は実に高度にできています。コンビニなどは少量多品種の物資を配送する体制が整っています。宅配業は大半、翌日には必要なものを宅配できる体制が整っています。
どうしても緊急なものは自衛隊に託して空輸すればいいが、そのほかの生活物資は一般流通ルートを早急に回復して必要なものを必要なだけ現地に届ける体制を作るべきです。幸い、被災地家の最低限のルートは確保されてきているので、民間流通業のルートを最大限活用すれば、すぐにでも末端にまで必要なものを届ける体制が出来ます。
甚大な被害を受けた地域にはコンビニかスーパーの臨時店舗でも作ってなんでも入手できるようにしたらどうだろう。いくらでも方法が出てくる。
支援物資も、日常生活用品は民間の通常ルートを強化するほうがはるかに早く必要な物資を届けることができる。個人個人てんで勝手にする支援は膨大な労力をかけるだけで却って復興の妨げになる。
東北道を早く開通させるのは、この間滞っている東北の産品を全国に送る体制の復活にもなる。そしてまずは東北の縦貫ルートを正常化するべきである。それが被災地特に三陸方面への最大の救援体制になる。
即刻東北道を全通させるべきです。燃料供給のめどが立ちつつある今それを急ぐべきです。痛切に思っています。

支援は物でなくお金にして、現地の人たちが必要なものを必要なだけ現地で調達できるようにしてあげることが一番です。

2011年3月13日日曜日

姫社(ヒメコソ)神社再訪

吉備歴史探訪会で先日訪れた総社市福谷の姫社(ヒメコソ)神社を再訪しました。
神社総代の板倉さんが快く歓迎してくれていろんな話をうかがうことができました。

京大名誉教授の上田正昭氏も来たそうで、「アイアンロード」ということで、「ヒメコソ」神社は「鉄産」の神様で九州の鳥栖と関西は攝津にあるそうである。
上田教授が来たときには出なったのだが、ここの土地は鉄分が多く、切られた杉の株を見ても黒くなっていて鉄分が多いという。確かにこの地域はかって「鉄産」の地だったことを実感。
「久米南町」とも縁があると聞いた。
久米南町といえば法然上人の誕生の地、誕生寺の「片目魚」は「たたら」があった証拠と「法然と秦氏」で山田繫夫氏は書いている。法然のふるさと美作久米南の秦氏とここ総社の「秦」(ハダ)とのつながりが密接であったことを感じる。

歴史的に見ると実に貴重なこの神社の存在だが、神社の維持は大変だという。それでも神社の境内は杉の林で囲まれさわやかな空気を感じる。
日本の歴史と文化を築くことに多大な貢献をしてきた秦氏の歴史がここから始まったのではとの思いを持ちながら総代さんに別れを告げて帰ってきた。