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2013年3月26日火曜日

吉備歴史探訪会4月例会予定

吉備歴史探訪会4月例会の概要が決まりましたのでお知らせします

日時:4月27日(土)・・・通常第4土曜日です
行き先:旧熊山町にある和気氏の遺跡探訪
集合:熊山駅無料駐車場に9:30集合

今回は熊山遺跡保存研究会のプログラムに参加させていただきます。
熊山遺跡保存研究会副会長の岡野進さんにご案内いただきます。

吉備歴史探訪会の連絡は
山田まで
090-1033-3327
メールはこちら

寂室元光師(2)


元から帰朝後の寂室元光師の歩みです

帰国後主に三備一作を中心に韜晦(とうまい)を続ける
韜晦(とうまい)とは才知・学問・地位などを内に包み隠して表に出さない意味の禅語である。およそ25年間である。現在の岡山県から広島県東部に渡って、小寺をめぐりながら修道と、教えを説いた。

『寂室和尚語録(寂室録)』によると、このころ寂室は西祖寺・ 明禅寺・安国寺・滋光寺・菩提寺・美作の田原村などに滞在し、 吉備中山・、備前金剛寺、八塔寺、金山寺など県内を 巡ったことがわかる 。(岡山人物往来)
金山寺には観応元年(1350)61歳の時元旦に吟詠
 吉備津の 藤原成親の墓には2度訪れている。(1344,45 5556歳)
吉備津神社横の有木山の成親の墓には寂室元光師の供養の詩が刻まれている碑がある。                  藤原成親の墓→
備中竹の荘(現吉備中央町)貞徳寺開山との係わり松嶺道秀が寂室を訪ね弟子となったとの記録あり。(1352 62歳 貞徳寺物語より)
尾道の千光寺を訪ねた記録もある。(1349 60歳)元旦に吟詠
因幡智頭土師の光恩寺(1353 64歳 開山)など。

足利義詮[よしあきら]から相模長勝寺、豊後万寿寺などの 住職に招かれたが、これを断り、その後、約十年にわたって美濃・ 摂津・山城・近江・伊勢・尾張・甲斐・上野などの国々を遍歴した (岡山人物往来)

現在永源寺を本山とする臨済宗永源寺派の寺院はこの時代寂室元光師が訪れたとされる地に多い。岡山県内では特に新見阿哲方面に多い。(参考 貞徳寺物語)


近江の守護佐々木氏(六角氏)佐々木氏頼の招きにより永源寺の地に
72歳のとき、近江に滞在の折、守護職佐々木氏頼公に請われ、永源寺に入寺

佐々木六角氏頼
佐々木氏嫡流の六角氏は鎌倉幕府滅亡と共に一時没落し、幕府滅亡時の当主であった父が出家したため、氏頼は建武2年(1335年)頃に幼くして家督と近江守護職を継承して当主となるも、室町幕府では庶流の京極氏の風下に立つことになった。近江守護職をめぐり京極氏の佐々木道誉と一時争うも、道誉の娘を妻に娶るなど関係改善にも努めている。暦応元年/延元3年(1338年)に南朝の北畠顕家軍が青野原の戦いで幕府軍を破った事態を受けて、道誉と共に援軍として派遣され近江・美濃の国境で南朝軍を迎え撃ち、康永3/興国5年(1344年)には検非違使に任じられるなど佐々木氏嫡流としての立場を示した。
足利将軍家の内紛から発展した観応の擾乱では道誉と共に初代将軍足利尊氏・高師直派に属していたが、観応2/正平6年(1351年)119日に尊氏の弟直義派が有利となると直義方に降る。しかし、師直が殺害された後も両派の対立が再燃、双方から味方に誘われ窮地に陥り、625日に出家して崇永と名乗り、近江守護を辞任して家督も長男の義信に譲った。この後、近江守護に弟の山内信詮や義信が選ばれたり、道誉が尊氏の嫡男義詮から佐々木氏の惣領格に任命されている。
文和3/正平9年(1354年)には政界復帰し、義信に代わって近江守護に復したほか、応安元年/正平23年(1368年)には禅律方・引付頭人も務めている。しかし、同年に義信が夭折したため、京極氏から道誉の孫高経を猶子に迎え後見を務めた。近江守護再任後は禅宗に帰依し、康安元年/正平16年(1361年)に寂室元光を招いて永源寺の開基となった。応安3/正平25年(1370年)67日、45歳で死去。晩年に次男の亀寿丸(満高)が生まれたが、幼少のため近江守護は高経が引き継いだ。

2013年3月25日月曜日

勝山に歴史探訪

3月23日吉備歴史探訪会で勝山に行きました。
日本の美しい町並み100選に選ばれた町並みの美しい町です。


そして寂室元光円応禅師を生んだ町でもあります。
最初に歴史資料館に行きました。

続いて行ったのが高田神社
神社の由緒を見ると平安末期に熊野神社から勧請したのが始まりだとあります。
勝山はもとは美作高田と言われた町です。江戸時代、三浦氏がこの地に入封して勝山といわれるようになりました。


高田の町の由来となる殺生石の由来です

吉備真備が帰朝する船でやってきた狐が400年後帝の室となりその後那須野で退治され三つの石となり、豊後と、越後とここ美作の高田となったという伝説です。

三浦氏の菩提寺安養寺を訪ね
寂室元光師を偲んで立てられた明徳寺


昼食後は寂室元光円応禅師産湯の井戸

三浦御殿


最後は神庭の滝を訪れました。
生憎猿には出会えませんでしたが、雪解けの水で水量の増えた神庭の滝は迫力満点でした。

寂室元光禅師(1)


3月15日(金)岡山県立図書館で林下の禅を貫いた、寂室元光師の話をいたしました。その時紹介した資料から寂室元光師について紹介いたします

寂室元光

終世、名利を求めず、貧を憂えず、貴顕に近づかず、仏法の極意を身証することを僧としての本道とした。いうところの林下である。(浪本澤一著 林下の禅者 寂室元光)


名利を求めず
貧を憂へず
隠るる処は山深くして
俗塵に遠ざかる

これは勝山町の生んだ高僧寂室元光和尚(円応禅師)が晩年に作った詩の一節です。
名声や欲望を捨て、自然を愛し自然と一体となって生きようとした寂室の生き方・考え方が良くあらわされた詩です。(勝山が生んだ人物伝 勝山町教育委員会)


寂室元光を尊崇した山田方谷
渡辺道夫氏が「寂室元光と山田方谷」と題する論文の中で・・・
寂室元光を敬愛する山田方谷の詩 頼久寺にて作られた律詩12首のうちの一首

寂光照徹超禅僧
万種人情入寸灯
闔国是非皆執我
一場文武只誇能
触時骨力砕如粉
遭変血盟寒似氷
独愛山中良友足
経霜松柏満岡陵


方谷の寂室への敬愛の情がひしひしと伝わってくる詩といえる。
(備中 竹の荘 貞徳寺物語 柴村哲三)




寂室元光禅師の略歴
正応3年(1290)美作高田(現勝山)に生まれる。藤原氏の生まれ。出家後中国から渡来してきた師に学ぶうち中国への遊学を決意。当時日本にまで名の知られていた中峰明本に師事。帰国後は三備一作の寺々をはじめその後全国を回る。71歳の時、近江国守護職の佐々木氏頼(六角氏)に招かれ、現在の永源寺の地に庵を建て自ら修行に励みその名を慕って集まってきた弟子の指導を行う。その数2000人といわれる。天竜寺や建長寺など天下の名寺からの招請をすべて断り、生涯林下の禅を貫いた。貞治6年(1367年)入寂。残された揮毫や偈頌(ゲジュ)が有名で重要文化財に指定されています

(『岡山県総合文化センターニュース』No.409410H10,1011「おかやま人物往来」参照

開山禅師(寂室元光師)について 滋賀県東近江市永源寺HPより
 当山の開山、寂室元光禅師は、正応3年(1290)5月15日、岡山県真庭市に生まれました。生家は藤原実頼(小野宮)の流れをくむと伝えられています。
 5歳にして経典を暗誦され、また友人たちと捕まえた魚の命を憐れみ放流されるなど、生来の明晰な頭脳と篤い帰敬の念をお持ちになり、13歳で出家、京都東福寺で修行をされた後に、鎌倉の約翁徳倹禅師につき17歳で大悟されました。
 その後も様々な師のもとで研鑽を積み、31歳で渡元(中国)、幻住派の祖と名高い天目山の中峰明本禅師にまみえ薫陶を受けます。権門に属さず、天目山中深く隠棲して俗塵を遠ざけ、ひたすら僧とはどうあるべきかを問い続けられる和尚の禅風は、寂室禅師に大きな影響を与えたといいます。
 元(中国)の各地を行脚し、37歳で帰国された後は、中峰和尚にならって、朝廷や幕府の拝請を悉く固辞され、72歳まで諸国を巡り行脚説法を続けられました。
 72歳のとき、近江に滞在の折、守護職佐々木氏頼公に請われ、永源寺に入寺、開山されました。伝えによれば、永源寺の深山と幽渓がかつての天目山を思い起こさせ、禅師にこの地に留まる決心をさせた、といいます。
 永源寺に入山ののちは修行僧の教化に努められ、後に当山四派の開祖となる、弥天、松嶺、霊仲、越渓の四人の高弟を輩出されます。彼らに後を託し、貞治6年(1367)9月1日、78歳で示寂されました。墓所を大寂塔(開山堂)と呼んでいます。
 応安2年(1368)朝廷より円応禅師、昭和3年には昭和天皇より正燈国師の称号を賜りました。
 禅師の詩・偈・墨跡は特にすぐれ、重要文化財に指定されています。


誕生の地勝山
古くは高田県(県)、高田庄、江戸時代になり三浦氏の城下町になり勝山と称されるようになった。
勝山では郷土出身の偉人の一人としてとても尊崇されている。(参考 「勝山生んだ人物略伝」)
町並み保存地区が有名。郷土歴史館、円応禅師(寂室元光)誕生の井戸、寂室師を尊崇して建てられた明徳寺などがある。町並み百選に選ばれる。
勝山が生んだ人物
寂室元光 玄翁和尚 三浦定宗 おふく ・・・・ 石井宗謙 鳩山和夫 九津見房子 ほか
作州勝山の文学と歴史 (松田在二松学舎大学教授)より
「殺生石」と玉雲山化生寺玉雲宮
三島中州と勝山藩士喜多村氏息女との縁談
疎開中の谷崎潤一郎を永井荷風が訪ねた

京都東福寺で修行、その後鎌倉に
一山一寧に師事 中国(元)から渡来した一山一寧(いっさんいちねい、宝治元年(南宋の淳祐7年、1247年) 文保元年1024日(13171128日))は元の渡来僧。寧一山ともいう。
二度の日本遠征(元寇)に失敗した元の世祖クビライは再遠征の機会をうかがうと共に、交渉によって平和裏に日本を従属国とするべく使者を派遣した。・・・世祖の後を継いだ成宗は再び日本の属国化を図り愚渓に三度目の使者を命ずるが老弱のため果たせず、代わりに観音寺の住職を継いでいた一山一寧を推薦した。成宗は一寧に妙慈弘済大師の大師号を贈り、日本への朝貢督促の国使を命じた。 正安元年(元の大徳3年、1299年)、一寧は門人一同のほかに西澗子曇を伴って日本に渡った。西澗子曇は文永8年(1271年)から8年間の滞日経験があり、鎌倉の禅門に知己が多かった。
大宰府に入った一寧は元の成宗の国書を執権北条貞時に奉呈するが、元軍再来を警戒した鎌倉幕府は一寧らの真意を疑い伊豆修禅寺に幽閉した。それまで鎌倉幕府は来日した元使を全て斬っていたが一寧が大師号を持つ高僧であったこと、滞日経験をもつ子曇を伴っていたことなどから死を免ぜられたと思われる。
修善寺での一寧は禅の修養に日々を送り、また一寧の赦免を願い出る者がいたことから、貞時はほどなくして幽閉を解き、鎌倉近くの草庵に身柄を移した。幽閉を解かれた後、一寧の名望は高まり多くの僧俗が連日のように一寧の草庵を訪れた。これを見て貞時もようやく疑念を解き、永仁元年(1293年)の火災によって衰退していた建長寺を再建して住職に迎え、自ら帰依した。
円覚寺、浄智寺の住職を経て、正和2年(1313年)には後宇多上皇の懇請に応じ、上洛して南禅寺3世となった。学識人物に傑出し身分を問わず広い層に尊崇され、門下からは雪村友梅ら五山文学を代表する文人墨客を輩出した。自身も能筆家として知られ墨蹟の多くが重要文化財指定を受けている。
朱子の新註を伝え日本朱子学の祖ともされる。文保元年(1317年)10月、南禅寺で病没。花園天皇より一山国師と諡号された。語録として『一山国師語録』がある。
渡元して中峰明本師に学ぶ
寂室は元より来朝していた一山一寧(12471317)に迎えられたが、中峰明本(12631323)の禅道が内外に振るうを聞き、渡元し、西天目山に登り中峰に謁した。日本より渡海して中峰師に参じた僧は20人にも登るとされるが寂室はその最後の一人であったと推察される。
中峰は30年に渡って雲水の修行を積み、あるいは草庵に住し、あるいは船中に起臥し、「幻住」をもって標識とした。日本の臨済僧の間においては、幻住は中峰を表示する名として聞こえ、中峰を幻住老人として敬服していた。
寂室は中峰に謁したのち、南支(南中国)を遊行し在元7年をもって帰国した。
天目山の中峰明本
中峰明本(ちゅうほう みょうほん、1263年 - 1323814日)は、中国の元代の禅僧である。南岳懐譲下の第22世に当たる。俗姓は孫氏、杭州銭塘県(浙江省杭州市)の出身。字が中峰であり、幻住道人と号した。諡は智覚禅師。
 明本は、儒と仏との調和融合を主張し、また一方で「教禅一致」や「禅浄一体」をも主張している。実際、明本は浄土信仰者であり、「観念阿弥陀仏偈」や「懐浄土詩百篇」を著述している。1323814日に、61歳で没した。文宗は、智覚禅師と諡し、塔を法雲と号した。

2013年3月8日金曜日

日本の果たしていくべき使命

今後の世界のために果たして行くべき日本の使命は大きい。
今後の世界のあるべき姿を理念的に構築していく日本人が現れなくてはならないでしょう。
世界の将来に責任を持つ日本人が増えて行くことを願います。
若者の力が大切です。
しっかり技術や知識、人格を身につけて、世界に出ていく若者をそだてていくひつようがあります。
日本人にはその素質は十分あります。
今日本は少子化が進んでいますが、この傾向はあまり良くない傾向です。
もっと家庭を大切にして、もっと若者が結婚を積極的にできる環境整備が政治の課題だと思います。


2013年3月2日土曜日

BOOKS吉備 古本販売買取しています

BOOKS吉備の名前でアマゾンのマーケットプレイスに出品しています。
最初は、自分の在庫や知人から譲ってもらった本を販売していましたが、本格的に始めようと思い、古物商の許可も取って一般からの買取も始めるようになりました。

最初はコンディションの説明が不足してクレームもありましたが、丁寧な出品と発送を心がけていくうちに、とてもいい評価をいただくようになり、今では結構評判になって、買ってくれる人も増えてきました。
今一番の課題は在庫の確保。知人や本を買ってくれた方からの提供の本では在庫が不足しているので、一般からの買取始めました。
「古本あるよ」と言われる方、あったらBOOKS吉備にメールか電話(090-1033-3327 山田)ください。古本買取いたします。岡山・倉敷・岡山県内1冊からでも出張いたします。
ブログBOOKS吉備も見てみてください。

本を愛する心を大切にしています。

寂室元光師2

15日に県立図書館で、話します。
今準備中ですが、寂室元光師については資料が少ない。幸い県立図書館でいくつかの資料を得ることができた。

林下の禅者 寂室元光 浪本澤一著
寂室元光 原田龍門著
そのほか旧勝山町で出版された本がいくつかあった。

やはり特筆すべきなのはその禅風であろう

名利を求めず、貧を憂えず、貴顕に近づかず。
生涯、仏法の極意を身をもって証することを僧としての本道として貫いた。

残された墨蹟や偈頌にその生き方や教えを知ることができる。