紀元1世紀ころのユダヤ人が使っていたアラム語ではユダヤのことを「イエフダー」と発音する。これがなまって「ハダ」になった。その後清音化して「ハタ」になるが、吉備の「秦」は「ハダ」と濁る。
さて、「秦」と言う字、
魏志倭人伝で知られる「魏」の時代、「秦人」という言葉は漢族以外の柵外の人々と言う意味であった。「魏志韓伝」には、秦の圧政を避けた人々が朝鮮半島の南部に住みついた。その人々を「秦人」と言い。建てた国が「辰韓」である。これがのちの「新羅」となり、「伽耶諸国」となった。なお、百済も「秦人」の建てた国である。
ここから「秦」と言う字が来た。
古代中国その後の極東諸国には、かってのイスラエル12部族がやってきていることが確認されている。秦始皇帝もその流れを汲む。その父や王族は「羌族」であったとも言われている。
古代イスラエルからは統一王国が滅び南北朝の北朝「イスラエル」が滅んだときその10部族が、その後南朝「ユダ」が滅ん2部族が、そして紀元後1世紀ローマによって「ユダヤ」が滅ぼされた時、大きくはその3度にわたって東方に流れてきた。紀元前に来た人々は「ユダヤ教」紀元後に来た人々は「原始キリスト教」を持ってきた。いずれも同民族である。
このあたりに「秦氏」の秘密があるようである。
「吉備の秦氏」その辺りから見ると見えてくるのでは・・・
引き続き考察していくので「吉備楽土」見てください。
0 件のコメント:
コメントを投稿