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2014年2月12日水曜日

日本発!イスラームが世界を救う

澤田沙葉師の本を読みました。

東大卒業後修道の道を歩み、唯一神道8代目の継承者となり、カソリックの信者として世界基督教民主同盟の日本代表を務めさらには日本のイスラームの代表としてサンドのメッカ巡礼を行った。日本の古神道とキリスト教、イスラームの共通性を説いたのが澤田沙葉師です。

十数年前何度かお会いし、岡山に来られた時は高松稲荷や瑜伽山を案内しながら、古神道や吉備中山のこと、稲荷と秦氏のつながりなどいろいろお教えいただきました。

数年前にお亡くなりになられて非常に残念ですが、その時教えていただいた、日本と日本宗教、世界と世界宗教の関わり、さらには吉備国と秦氏との関わりなどとても重要な示唆に富む内容でした。

私が「秦氏」にことさら関心を抱くようになったのも澤田先生にお会いしてからです。高松稲荷では「稲荷は秦氏の氏神様だから~」と言われながら岩座を確認されて行きました。瑜伽山でも同様です。瑜伽神社はもともと岩座のあった場所です。瑜伽神社本殿の背後は岩座です。宮司に案内してもらいながらそのことを確認しました。
(22日の歴史探訪ではその辺も確認する予定です。)


さて、この本にその当時教えていただいた内容がすべて書かれているように思います。

澤田先生の遺著ともいうべき本ですが、その中でもイスラームの本質に触れる内容があります。それは今日我々がイスラムに関してしている知識とかなり違っていると思います。
特にクルアーン(コーラン)に対する正しい理解です。その中でも注目されるのはイエス・キリストに関する伝承です。これは今日のイスラム法学者たちも知っているはずだと澤田先生は言われます。

本著の中には石上神社に関する記述もあります。また大本教に関する内容もあります。日本の宗教と伝承にはイスラームに通ずる内容がとても多くあると澤田先生はいわれます。

今後の世界が一致化していく上で、宗教の一致は避けて通れません。日本の古神道とキリスト教とイスラームの一致点を澤田先生は明らかにしています。今日の世界情勢の推移において日本の役割が大きくなっていますが、宗教的な正しい理解がなければ、今後の世界で主導的な役割は果たせません。
それらの問題の回答はまさに澤田先生の中にあると言えます。

澤田先生はまさにマルチ宗教者で、今後の世界宗教の最終的動向を予言する内容が本著にはしたためられています。私もさらに理解を深めたいと思っていますが、皆様にもお勧めします。

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「日本発!イスラームが世界を救う」
澤田沙葉:著

2014年2月11日火曜日

吉備歴史探訪会2月の例会は吉備の児島に~

2月22日(土)吉備歴史探訪会~以下のごとく企画しました。
吉備の国児島の史跡を訪ねます。
9:30 熊野神社(倉敷市林)スタート
~瑜伽山・・・瑜伽神社・蓮台寺~金比羅山との両参りや岩座信仰の歴史など考察
~田の口・・・広重の六十余国名所図会にも描かれた田の口港の瑜伽神社鳥居~
~鷲羽山・・下津井港
~野崎邸・・
14:30頃解散予定
当日参加自由ですが資料の準備のため参加希望は山田(090-1033-3327)までご連絡ください(資料代300円)

2014年2月4日火曜日

歴史を変えた郷土の人~熊沢蕃山

岡山人物銘々伝を語る会2月21日の例会は第91回目になります。
この回のきっかけは会代表の黒田輝一さんが現在代表代行を務める久井勲さんの書いた「和気清麻呂」を読んだところから始まります。
桓武天皇のもと平安京造営をなした和気清麻呂ですが、同時代に活躍した吉備真備とともに奈良時代から平安時代にかけての日本の歴史に決定的な役割を演じた人物でした。
久井勲さんの語る「和気清麻呂」が第1回、吉備真備が第2回のテーマでした。
そして第3回がやはり久井勲さんによる「熊沢蕃山」でした。

この「熊沢蕃山」について、今回もう一度山田がテーマとして取り上げたいと思います。
「熊沢蕃山ーその師中江藤樹と陽明学」のタイトルを決めました。

内村鑑三が「代表的日本人(原題 Representative Men of Japan)」の中で紹介した5人の代表的日本人の中の一人中江藤樹の項を見ると、かなりのページを割いて熊沢蕃山と備前岡山藩主池田光政との関わりと陽明学について書いている。
幕末から明治にかけてさらには戦前戦後を通して日本の政治思想に多大な影響を及ぼした日本の陽明学の祖は中江藤樹となっているが、中江藤樹という人物とその思想が後世に影響を残すきっかけが熊沢蕃山の入門にありました。中江藤樹という近江の田舎の儒学者と備前池田藩士だった熊沢蕃山との出会いと交友、さらに師の中江藤樹が王陽明全集に出会い、王陽明の思想に感銘を受けさらにその思想が熊沢蕃山を通して江戸時代の朝野に影響を与え、さらには幕末の志士たちに影響を与えて行くのである。

我が郷土が誇る偉人の一人山田方谷先生もその影響を受けた一人である。

岡山に帰った熊沢蕃山は藩主池田光政のもと中江藤樹から学んだ学問を藩政に活かし多大な活躍をするが、藩政を巡っての藩主池田光政や藩士たちとの行き違いからか隠居し蕃山村に遁世、その後岡山を離れるが、徳川の学問を司っていた林羅山などから危険人物と見なされるようになり、京都、明石最後は古河に幽閉されるよう立場で最期を遂げている。

若き頃の活躍に比べ岡山を離れてからの蕃山はいかにも不遇であるかのごとくだが、この間彼は多く思索し、多くの著述を残している。その代表か「集義和書」である。

熊沢蕃山の著述は多くの儒学者が漢文で著述するなかで和文で書かれており、学問の中身も陽明学者とは言われるが、朱子学にせよ陽明学にせよそれをそのまま学ぶのではなく、あくまでも自分自身の精神の修養と思想の確立の資料としているに過ぎない。この姿勢はその師の中江藤樹もしかりである。

蕃山の学問に対する姿勢は実に自由闊達である。歯に衣着せぬ表現や発言は時として多くの反対や抑圧を生むことになるが、それらを殊更に気にする体もない。陽明学で言うところの「良知」にいかに至るかということが彼の眼目のすべてのようである。
そもそも王陽明自身が自由闊達な考えを持った人物であった。王陽明は「知行合一」ということを重要視するが、極めて実践的な考え方である。

熊沢蕃山自身の障害は一見不遇に思えるが、彼の生き様と彼の残した思想や著作はその後、多くはその著作を通しながら、江戸期、さらには幕末、明治、そして現代に至るまで日本を指導する数多くの人々の精神的理念的な影響をとてもつもなく大きく残していることを実感する。

表向きの歴史にはあまり大きく取り上げられてこなかった熊沢蕃山だが、実は日本の歴史にとてつもなく大きな影響を及ぼした、歴史を変えた人物であると思う。

2月21日(金)18時から岡山県立図書館で皆様と熊沢番山について語りあいたいと思いますのでぜひご参加ください。