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2011年9月30日金曜日

吉備4世紀前期最大の前方後方墳

今日のNHローカルニュースや山陽新聞でも報道されていたが

山陽新聞によると

昨年末に発見された総社市秦、一丁※(いっちょうぐろ)1号墳が、墳長76メートルに及ぶ吉備南部最大の前方後方墳であることが、同市教委の発掘調査で29日までに分かった。(※土偏に丸)・・・

総社市秦の標高180メートルの山上に発見されたこの古墳は全長100メートル、4世紀前半の築造で吉備南部最大の古墳であることが分かったと言う。

4世紀前半と言うと「謎の4世紀」と言うことで、中国の史書に、3世紀末に書かれた「魏志」以降、「倭」に関する記述が途絶えた時代である。
諸説あるが、神功皇后~応神天皇の時代が4世紀末から5世紀はじめと言うのが、ほぼ定説になりつつあるが、ちょうどこの時期、「吉備」の国が最大の勢力を誇ったであろう時代の古墳と言うことで、とても関心を持たざるを得ない。


魏志倭人伝にある「卑弥呼」の時代が2世紀末から3世紀はじめ、楯築遺跡が作られたのも同じころ、この時代から約100年を経た時代に作られたのがこの一丁ぐろ古墳だとすると、この時代の吉備の国の姿が見えてくるような気がする。日本列島全体の王権が確立されていく時代である。その時代、「吉備」はどういう位置づけだったのか?


これも諸説あるが・・・・この時代日本の皇統から言えば崇神天皇~応神天皇の時代とも言われる。
この一丁ぐろ古墳から一度眺めてみながら考えてみたい。
この一丁ぐろ古墳・・・総社市秦(ハダ)の標高180メートルの山上にあるとの事である。
眼下に、大きな川(高梁川)と平野(総社~吉備の平野)を見下ろすことができるに違いない。

2011年9月25日日曜日


大阪中ノ島です。
23日「日本の感性21in中ノ島」の東日本震災復興イベントがありました。
当日はとても天気はよくてイベントも盛り上がりました。
写真の中央右が中ノ島公会堂・・・大正時代に建設された歴史的建造物で重要文化財に指定されています。そして現役。
後ろの建物は大阪市庁です。
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秦(ハダ)とは「ユダヤ」のこと

紀元1世紀ころのユダヤ人が使っていたアラム語ではユダヤのことを「イエフダー」と発音する。これがなまって「ハダ」になった。その後清音化して「ハタ」になるが、吉備の「秦」は「ハダ」と濁る。
さて、「秦」と言う字、
魏志倭人伝で知られる「魏」の時代、「秦人」という言葉は漢族以外の柵外の人々と言う意味であった。「魏志韓伝」には、秦の圧政を避けた人々が朝鮮半島の南部に住みついた。その人々を「秦人」と言い。建てた国が「辰韓」である。これがのちの「新羅」となり、「伽耶諸国」となった。なお、百済も「秦人」の建てた国である。
ここから「秦」と言う字が来た。
古代中国その後の極東諸国には、かってのイスラエル12部族がやってきていることが確認されている。秦始皇帝もその流れを汲む。その父や王族は「羌族」であったとも言われている。
古代イスラエルからは統一王国が滅び南北朝の北朝「イスラエル」が滅んだときその10部族が、その後南朝「ユダ」が滅ん2部族が、そして紀元後1世紀ローマによって「ユダヤ」が滅ぼされた時、大きくはその3度にわたって東方に流れてきた。紀元前に来た人々は「ユダヤ教」紀元後に来た人々は「原始キリスト教」を持ってきた。いずれも同民族である。

このあたりに「秦氏」の秘密があるようである。
「吉備の秦氏」その辺りから見ると見えてくるのでは・・・

引き続き考察していくので「吉備楽土」見てください。

2011年9月22日木曜日

日本の感性21in 中ノ島

東日本大震災復興救援イベント
日本の感性21in中ノ島のイベントが明日、9月23日大阪中ノ島中央公会堂大ホールで開かれます。
13時開演です。参加したい方は吉備楽土に連絡ください。





2011年9月21日水曜日

元興寺 音と灯りのマンダラ

8月23日 奈良・元興寺
地蔵盆の供養の日 供養の灯明が灯されるなか
筝の音と読経の声が織り成すマンダラ
かわらけに灯された灯明が幻想的な雰囲気を盛り上げる

筝と読経のコラボレーション

途中ではかわいらしい子供たちの演奏も

日本最古の寺・奈良元興寺で催された「音と灯りのマンダラ」
日本の伝統の音と供養の法要が一つになって心を和ませる


2011年9月18日日曜日

鷲羽山に


久しぶりに鷲羽山に行ってきました。
あいにくの曇天、少し蒸し暑い天気でしたが・・
ちらりほらり観光客がありましたが、さすが山頂までは誰も来ていません。
途中のビジターセンター、まだ開いていませんでしたが、掃除をしているご婦人がいて「おはようございます」と挨拶

先回来た時も、地域の方がボランティアでビジターセンターのお世話をしておられました。
新幹線開通や瀬戸大橋開通のころのブームはすっかり去って、観光客はずいぶん減ってしまいましたが、ここの魅力はなんと言っても最高の風景!そして手作りのあたたかさが加わった観光地になるのが一番いいのでは・・・
本当に来てよかったと思われる観光地に整備することが大切・・・
それにしても、下の駐車場から展望台までが遠く感じさせられる・・・第一展望台下のロータリーに駐車スペースの工事をしていたが、ここはどう使うのか?身障者と老人用か?利用者の少ないときは一般もOKにしてほしいが・・
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2011年9月17日土曜日

岡山人物銘々伝を語る会 山田方谷 黒田輝一氏

第3金曜日、岡山県立図書館
岡山人物銘々伝を語る会 第63回例会
会代表の黒田輝一さんが「山田方谷」について、ご自身詠まれた短歌を紹介しながら、その逸話を分かりやすく語ってくれた。
最後は詩吟の披露

山田方谷を大河ドラマに・・・しかし岡山県人は、盛り上がりに欠ける。
姫路は「黒田官兵衛」をと盛り上がっているらしい。

黒田さんの話の後、代表代行の久井さんの司会で懇談。
陽明学はいわゆる革命思想ではないし、「知行合一」の本当jの意味などを教わった。

この会は実に実のある会である。参加人数はそんなに多くは無いが、郷土の人物について掘り下げて探求することができる。


発言力を持たない人々

世の中には発言力を持たない人々が
忘れられて、社会の荒波から取り残されて
苦痛にあえいでいる。

いつに時代にも、そんな人々がいた。
そして今の時代も


2011年9月15日木曜日

驕る平家は久しからず


驕る平家は久しからず
『平家物語』の「驕れる人も久しからず」による表現で、栄えている者も、その力と地位を頼みに勝手なことをしているとすぐに滅んでしまうという意味だが、眼前の成功や勝利への戒めとして用いられることが多く、まさに「平家を滅ぼすは平家」。(コトバンク)
驕り高ぶる者の末路は・・・
いつの時代にも栄える者と、滅び廃れる者と・・・
一時の栄がいつまでも続くものではない。
盛者必衰 じょうじゃひっすい)
盛んなる者は必ず衰える。
即ち世の中が繁栄と衰退の繰り返しであることの意。
平家物語の冒頭にある「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す」が有名。

いずれも「平家物語」で有名なことば

TVを見ると成功者がもてはやされているが、むなしく思うこともある。
一方で貧困と、行くあての無い人々、経済的な破綻者、あふれる失業者・・・
忘れられた人々があえいでいる。

成功者とそうでない人々が乖離している。
そのあたりが 恐ろしい




2011年9月14日水曜日

奈良町と猿田彦神社 元興寺のまわり

元興寺のまわり、奈良町界隈を回って見る。
猿田彦神社があった。

猿田彦神社は秦氏ゆかりの神社である。
当ブログをごらんの方は「熊山遺跡」のある熊山にも「猿田彦神社」が祀られていたのを覚えておられるでしょうか?
熊山遺跡は和気氏が施主と秦氏が施工者・・・
サルタヒコは秦氏の「王」だ!・・・「猿田彦と秦氏の謎」(清川理一郎氏 彩流社)にはそう書かれている。

その猿田彦神社が元興寺の境内にあった。しかも買っては規模も大きく、崇敬を集めていたと由緒にもある。

蘇我氏と元興寺と秦氏 そのつながりを考えさせられる神社である。

没落する秦氏と侍の登場

平安朝造営に多大な貢献をした秦氏。
平安京はまさに秦氏の都と言ってもいいくらいに、秦氏の持つ宗教や技術が取り入れられ、さらに多くの秦氏が住んでいた。
しかし、そのような秦氏が、平安の中期を過ぎるようになるとだんだんと没落していくようになる。
職能の民であった秦氏であるが、やはり百済系といわれる藤原氏が全盛を迎えていったように、今来の渡来人である百済系の人々がその勢力を拡大し、秦氏の民の中には賎民化していくものが多くなってきた。
関東武士団は没落した渡来人たちであるとも言われる。製鉄や武器製造にかかわってきた渡来人たちが自ら武装集団化していったのが武士団の始まりであると言う。「侍」と言うのはもともと被差別民を呼ぶ言葉であった。
鎌倉の源氏の武士たちがなぜ鶴岡に八幡宮を勧請したのか?そしてその後武士たちの守護神は「八幡大菩薩」になった。八幡宮の総鎮守は九州豊国の宇佐八幡宮である。八幡宮は秦氏の祀った神である。その秦氏の神様をなぜ、関東武士たちが崇敬したのか?・・・・・・・

2011年9月13日火曜日

蘇我氏は悪者?奈良元興寺に行って

先日奈良に行ってきた。
日本最古の寺、元興寺  世界遺産に登録されている
もともと飛鳥にあった「飛鳥寺」を蘇我氏が移築したものだそうである。
ちょうど地蔵盆の供養の日で多くの参拝客が集まっていた。万灯供養があって参拝者はかわらけに供養の言葉を記して明かりを灯すのである。
夜には万灯の灯りとともに演奏会がある。そのリハーサルの筝の音が響いていた。

さて、すぐ近くに猿沢の池があり、その先は興福寺とのことで行ってみた。
猿沢の池の先、一段高い位置にあるのが「興福寺」奈良を代表する寺院で、多くの修学旅行生が訪れていた。
実はこの興福寺、藤原氏の寺である。
眼下の元興寺は蘇我氏の寺

元興寺はできた当初、広大な敷地を誇っていたそうであるが、いつの間にか無住となり、いつの間にか無住のものが住み着くようになり、「鬼の寺」というようになって行った。

思えば・・・
いわゆる大化の改新以来、時代は藤原の天下、蘇我氏は悪者にされて時代を経過していった。
蘇我氏の寺が寂れるのは当たり前のこと・・・

蘇我氏の名前と言えば、「蘇我入鹿」や「蘇我蝦夷」というように蔑視した名前で伝えられてきた。われわれもそのように教えられてきた。
果たして曽我氏はそのように悪者だったのであろうか?

元興寺:日本最古の寺を創建した蘇我氏
日本は仏教国といわれるがその仏教を日本に持ち込み定着したのが「蘇我氏」である。
聖徳太子も曽我氏の一族であった。
われわれは聖徳太子の王子、山背大兄が蘇我氏に滅ぼされたと学んだが・・本当だろうか?

聞くところによると、藤原氏(中臣氏)は百済からの渡来人が先祖と言う
蘇我氏は新羅系だとも言われる。
後発的に日本にやってきた百済系の渡来人中臣氏が先に来て基盤を作ってきた蘇我氏を打ち倒して政権を奪ったのが大化の改新とも言えるのでは。

元興寺の地域一帯は「奈良町」と言われて、古くからの奈良の町だそうである。
その後の住職の努力で復興してきている元興寺の姿を見ながら、蘇我氏って我々が学んで来たような悪者ではなくて、後発の渡来人集団によって滅ぼされ、あるいはその子孫は差別と蔑視を受けてきたのではとの思いが強くなる。
法隆寺も蘇我氏の怨みを封じるために建てた寺
祀られているのも「聖徳太子」ではなく「蘇我入鹿」ではないかとも聞いた。






2011年9月12日月曜日

吉備の国の歴史を拓く

吉備の国の歴史を拓く

「吉備王国」と言う。
かって大和の王権に対抗するほどの「王国」が吉備、現在の岡山県を中心とする地域にあった。というのが一般的な認識であろう。
むしろ、吉備の王権がその当時列島の中心を占めていたのでは、と言うのが数は少ないが貴重な見解である。

「吉備」の始原の姿は?今日、「日本」と言う国の成立に極めて大きなかかわりを持ってきた「吉備」。

大和の王権が強大化する中で埋没してしまったかに見える「吉備の国の歴史」。
残された歴史の残滓の中から「吉備」の真実の姿を見つけ出すことができれば・・・・

キーワード 「秦氏と日本と吉備の国」

2011年9月11日日曜日

家庭力の低下をどうする?

日本の国力の減退は明らかである。
世界第2の経済大国の座は中国に明け渡し、伸び続ける中国の軍事パワーに比較して、アメリカの力の低下は深刻な安保上の不安を東アジア、日本を取り巻く環境にもたらしている。
日本が誇っていたものづくりの伝統も、一部にはがんばっている企業や伝統産業もあるが、それを支える人的資産が減退していっている。

人口も減少し、国の未来を支える「若者」の力が失速して行っている。
何よりも問題は「家庭力」の低下である。
今日、さまよう若者がいかに多くなっているか。
未来のために準備する若者がどれだけいるか?

将来を担う子供たちを育てる家庭が危うい。

現代日本社会の持つ家庭観、結婚観に問題ありと言えないか?
少なくとも戦前まであった伝統的家庭観のほうが良かったといえる内容は無いのか?

確実に日本力は低下して行っている。
それを防ぐには、もう一度、家庭観、結婚観について考察してみる必要があるのでは・・・

秦氏の復活

かって日本の歴史に多大な影響を与えた「秦氏」
今は何処に?その命脈は・・・引き継がれては来ていると思うが、今は・・・

今復活の時を迎えているのでは・・・
日本自体が混迷の時を迎えているが、世界を見渡すともっと混迷が深まっている。
収拾しなけばならない課題があまりにも多い。
しかし今、その底力を発揮していく時

日本に秦氏が到来したのは4世紀末から5世紀にかけてのころだといわれている。
応神天皇が弓月の君の依頼を受けて、秦氏を招いたと記紀には記されている。
そして127県という極めて多くの秦氏の集団が渡来した。そして彼らがもたらした、宗教や技術の文化は古代国家日本の成立に多大な貢献をなした。
その秦氏が今は何処に?

今世界が必要と強いるのは、日本人が持つ「人間力」と「技術力」
心の文化と、ものづくりの文化である。
かって、それらをもたらした「秦氏」。

秦氏を学べば日本の歴史と未来が見えてくる。

(吉備楽土-歴史講座)

2011年9月7日水曜日

岡山人物銘々伝を語る会8月まとめと9月案内

岡山人物銘々伝を語る会8月のまとめと9月案内

  「岡山人物銘々伝を語る会」第62回例会のご案内     
代表世話人代行 久井 勲

 61回(819日)の例会は、本会会員の山田良三氏に「吉備の秦氏と岡山の人物―法然上人と秦氏を軸に」について語っていただきました。

秦氏を語るに、内村鑑三のルター論から入り、そして宗教改革者という意味で法然へと結びつけ今回の立論は、縦横斜めから歴史の流れに切り込んでおられて、厚みを感じるお話でした。
日本史の登場人物はそれなりに、権力者か時代に影響を与えた人物が主役になっています。わずかにそうでない人物()もいるのですが、ただ、あまり歴史書はそれに対して的確に答えてくれてはいません。その典型的な例が秦氏といえるでしょう。
山田さんは、古事記等の応神天皇の条の記述から説き起こしてくれていました。秦氏は、日本史に登場する段階から殖産を得意とすることで知られる存在ですが、その流れは実に広汎にかつ深く社会の隅々に浸透しています。
流れを追えば、あの氏もこの氏も秦氏の支脈にあるような気がしました。法然の母もその流れの人でした。法然の、念仏を機軸とする宗教改革の意欲は、秦氏の土に生きる、倦むことなき使命感に支えられているのか、それも宜なるかなと感じ入りました。


9月の例会は下記のとおりです。             
日時:平成23916()※ 午後6~8時  (※通例は第3金曜日です)
     場所:岡山県立図書館の2階  
内容:「山田方谷の業績 ~短歌にて~」
      講師: 黒田輝一 氏
参加費: 500
[※ 簡単なご紹介]
山田方谷先生の話は、会員の山田明正氏、私の友人楠本俊憲氏(アリコジャパン)そして太田健一氏(山陽学園大学教授)、朝森要氏(歴史研究家)から、それぞれの立場で話していただきました。
その上でさらに、私が先生の話をさせていただく思いを決めたのは、短歌を切り口として先生の業績を追ってゆけば、また従来の話とは別の切り口が見えてくるのではないか、と考えたからです。参加の皆様のご意見をお待ちしています。
                
別れ際越後の蒼龍継之助 
三度の叩頭思い尊し

例会参加希望の方は吉備楽土までメールください