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2013年12月12日木曜日

吉備発日本の歴史を変える

矢吹邦彦先生の「吉備発日本の古代史は変わる」の本を読みました。
矢吹先生の本は「炎の陽明学」や「ケインズに先駆けた日本人」が有名ですが、この「吉備発日本の古代史は変わる」も力作です!

矢吹先生のこの本を読んで、かなり私もこれまでの疑問点が解消されたり、あるいはこれまで考えてきたことが立証されたり、とても有益な本でした。

そこで「吉備発日本の歴史を変える!」と銘打ってみました。
そもそもこの「吉備楽土」のブログ執筆の動機が、吉備から日本や世界に向けて新しい時代を提言することは出来ないか?と言うところから出発していますので~~矢吹先生のこの本の内容が、まさに吉備の古代史が日本列島の歴史に大きく関わってきたということを裏付ける内容だということがあります。

間近で見る鬼の城や造山古墳の威容は、この吉備の国を支配した大王がいかに強大な力を持っていたかを象徴するものです。

矢吹先生のこの本の主題は、まずもって4~6世紀の時代、吉備の国がもっとも強大な力を誇り、日本列島の国家連合を統括した時代があるということです。そしてそれは白村江の戦いの後の日本国の推移につながって行きます。

先日、吉備歴史探訪会で鬼の城と宝福寺近辺を探訪してきました。
鬼の城に登ると広大な吉備の平野にはるか、造山古墳も見えます。この鬼の城山をめぐる城郭もその規模はものすごいものです。
宝福寺は紅葉の綺麗な時でしたが、雪舟縁の寺ですが、ここは臨済宗の禅寺です。臨済宗は栄西禅師がもたらした禅の教えですのでやはり吉備に縁があります。
探訪の最後は妹尾兼康を祀る井神社でした。目の前は湛井の堰でその向こうが秦です。秦には先般発見された一丁ぐろ古墳や秦廃寺、姫社神社もあります。

改めて吉備の歴史の偉大さをまざまざと実感するひと時でした。

矢吹先生の「吉備発日本の古代史は変わる」の本の最後は、吉備人吉備真備と最後は和気清麻呂の話で締めくくられています。
日本の最初の正史である「日本書紀」執筆の経過も説明しておられます。

人と人とのつながりが織り成す歴史、人と人とのつながりを通して、人は生き方や、国や社会のありあり方を学び継承して行く。

今日、日本のあり様は日本の歴史を織り成す要所要所に登場した人々の思想や理念、意思や力によって形成されて来ている。その人々の群れの中に吉備の人々がとても重要な役割を果たして来たことをあらためて実感する。

今日の日本は、敗戦の中から復興してきた先人の力で持ちこたえてきたが、様々な問題も内包している。いま大きく変わらなければならない時であり、変わろうともしている。こういう時こそ歴史を見つめ、先人の歩みに関心を持ち、我々がどのような道を選択していくべきか正しい判断をして行動していくべきときであろう。

日本の歴史が大きく変わるときに重要な役割を果たして来た吉備の人々であり、我々はその子孫である。吉備から日本と世界の未来を変えていくことは我々の使命ではないだろうか!

そんな思いでこれからもこのブログを執筆していくつもりです。

2013年11月13日水曜日

今日本の舵取りに理念が求められている

 ケネディー駐日大使赴任のニュースが伝えられている。暗殺されて亡くなったケネディー元米大統領の長女である。外交手腕を疑問視する向きもあるが、日本への高感度もあり、日米関係の信頼と友好を深めるには好人物である。対日重視のオバマの戦略の現われと見ることが出来る。日米関係は沖縄の基地問題など問題が無いわけではないが基本的に共同歩調を取る方向性に狂いは無い。

 現在とところ安部政権の対外外交戦略はきちんと的を得て進行している。毎月のように外遊を続けながら、東南アジア、西アジア、アフリカ、東ヨーロッパ、北欧、西ヨーロッパ、ロシア、中南米とオセアニアへと外交関係は極めて良い関係が醸成されていっている。首相自らでかけてのトップセールスも成功して言っている。
 問題は東アジアであるが、対中外交については内外で高い評価を生んでいる。反日に燃える韓中だが、中国は反日トーンが明らかに落ちてきている。さらに北朝鮮だが最近ピタッと対日非難の声が聞かれなくなった。
 今韓国だけが反日に狂っている。
台湾はずっと友好的だがここも嫌韓の動きが強まっている。フィリピンもかねてから親日的だが、今回安倍総理は台風被害に対して迅速に救援支援策を打ち出した。フィリピンの対日好感度はずっと増加している。

国内では小泉元総理が脱原発を主張!波風を起こそうとしているが、どの程度のものになるのか?きっちり国民世論の動向も押さえながら、きちんと国家戦略を明確にして方向性を出して行っている安倍総理なので、今は大きな不安は無い。

今後の安部政権の課題はアベノミクスと言う経済政策がどのように現実に国民生活の向上に繋がるのか?特に国民社会に出来上がった低所得者層、社会的弱者にどのように光を当て、国家経済の成長戦略と整合させながら格差の是正や、失われた社会の和、均質化にどうのように取り組むかが課題である。
  国民教育、家庭観の確立是正、倫理道徳観の確立など課題も多い。
7年間が鍵である。国家財政破綻の問題もこの7年間ではっきり道筋を立てないといけない。

今の日本の課題はそれらの難問を解決していく、知恵を持った人材をどのように確保していくかにかかっている。宗教家、思想家、知識人、正しい言論人が求められている。歴史へのきっちりした見直しも必要になってきている。グローバル化した世界の中で、日本文化の特性をきっちり説明できる理念の構築が急務となっている。

山田方谷先生の理財論が注目されている。現代的にこれをどう応用実現していくか、縁のある我々の中から、理念的提言が出てきてほしいものである。

2013年11月12日火曜日

河井継之助との絡みが面白い

 山田方谷先生を大河ドラマに!との運動が盛んに行われていて、私も幾ばくがであるが署名運動など協力している。
 ただ、一般の声としては、[あまりにも知名度が低い」「ドラマにするには面白みがかける」との批判の声も・・・
 今日は[炎の陽明学」昨日の長瀬の普請の話の続きで、河井継之助の入門の経緯を読んでいる。

 司馬遼太郎が「峠」という、河井継之助をテーマにした小説を書いているので、一般世間では山田方谷先生より河井継之助のほうが良く知られている。
 確かに河井継之助は人物として面白味がある。山田方谷先生のどちらかと言えば真面目一方の性格とはかなり違って、豪胆で失敗を恐れぬ猪突猛進型のところもあり、最後は激しい戦いの末死んでいるのでヒーロー性がある。
 河井継之助を表に一方山田方谷先生の生涯をしっかり描くような組み立てにすると結構行けるのでは~~などと勝手に思ってしまった。
 長岡市や新潟県と提携して行けば結構行けるのでは・・・・・

ここで弟子は取らないつもりだった方谷先生がなぜ河井継之助は弟子入りを認めたのか?
 矢吹先生の著では継之助が「机上の講義を拝聴しようなどとは思いません。先生のおそばに置いていただけるだけで結構です。先生の日常に接し、生き様を学ぶ。藩政改革の実際を活学として学びたいのです。」と、言って入門を志願した。と書かれている。

ここで、熊沢蕃山が中江藤樹の樹下を訪ね弟子入りを志願した時のことを思い出す。

最高の教育とはその生き様を身をもって教えることである。

机上の学問、しかもそれは立身出世のため、これが中国や韓国で実施されてきた科挙を目指すための学問であった。その意に沿うような学問が朱子学であった。

藤樹先生や熊沢蕃山そして山田方谷先生に受け継がれた、教育や学問のありかた、これが儒学の中では陽明学の趣旨だったのかもしれない。

それにしても、当時山田方谷先生の名声が如何なるものだったのか?河井継之助は方谷先生のことを絶賛している。入門前は方谷先生のことを[山田]と呼び捨てにしていたそうであるのに、弟子入りしてみてさらに心酔している。

山田方谷先生は江戸の佐藤一齋師のもとで塾頭をしていたが、同じ門下で奇才と謳われたのが佐久間象山である。佐久間象山は一時期河井の師でもあった。
 佐久間象山の人物評を方谷先生に問うた時、方谷先生は「佐久間に、温良恭謙譲のいずれある?」と返事したという。この言葉に継之助は共感したと言う。

この当時、藩政がうまく行っていたのは備中松山藩と、奥州中村藩だけだと当時言われていたそうである。
 山田方谷の名声は諸藩に鳴り響いていた。日本の各地からその名を聞き及んだ学徒が弟子入りを求めて備中松山にやってきたがその大半を方谷は断っていた。藩政改革の実学を学ばせようと各藩が競って藩費で学生を送り込んだ、それらも断っていた方谷のところに河井は入門を認められて弟子入りしたのである。

確かにあれほど大河ドラマや小説やあらゆる形で取り上げられる幕末維新の時代で、山田方谷先生ほどの実力を持ちながらいまだに無名な人物も珍しい。岡山県人さえその実像を知らない人が多い。
 最近NHKも表舞台の人物よりも裏で活躍した人物を取り上げることが多くなったので、案外行けるかな!とも思えてくる。
 
いずれにせよ山田方谷先生のこともっと多くの人たちに知ってほしい。
我が山田家も同じルーツですので、一族として応援して行きたい。

2013年11月11日月曜日

山田方谷先生も経済的に困窮していた

自分のFB(フェイスブック)に掲載した記事ですがこちらにも載せます
かの山田方谷先生の山田家も経済的に困窮していた時期があったという話です。

今日は久方ぶりに矢吹邦彦先生の書かれた山田方谷伝「炎の陽明学」を開いてみて、意外な発見をした。山田家の家計が窮地に瀕していたと言う話である。それも松山藩の藩政改革が実施され、藩財政は豊かになり領民は産業の振興と減税の実施で豊かになり、方谷先生を神様のように仰いでいたのにである。
 当時、方谷先生は藩政改革に成功した松山藩の最高責任者であった。にもかかわらず毎日の生活にも事欠くような貧苦の経済状態で家族8人が生きていくために端の髪飾りを処分したり、慣れない農作業に従事したりして苦境をしのぐ状態だった。
 それは方谷先生が藩の重要な役職にありながら俸禄は藩校の学頭時代とほとんど変わらないのに出費が増えたことである。その中でも最大の出費がかさむようになったのは、全国の他藩からその名声を慕ってくる門人たちを受け入れられるようにと長瀬に新居を普請したことが大きかった。これで家計が完全に回らなくなった。
 著者の矢吹先生は「理財の天才方谷が犯したあまりにうかつな大幅な計算誤りだった」と書いている。
 さすがの方谷先生も追い詰められたのか、この当時の心境をつづった漢詩が残されているそうである。
 我が山田家も、経済的困窮は計り知れず、方谷先生の山田家とは次元が違うが、よく似た心境を味わっている。
 方谷先生も誇り高きお方、どんなに困窮しても藩主や周りの人々に苦境を話すことも出来ない。じっと自らの心の中で耐えるしかない期間だったようである。
 まあ、私には方谷先生も仲間のような親近感を覚えるが、失礼かもしれない。方谷先生も釈迦の生活にあこがれたようだが、たしかにそうかもしれないと思う。

2013年10月19日土曜日

岡山人物銘々伝を語る会~蜂谷道彦あれこれ~井上甫之先生のお話でした

昨日の岡山人物銘々伝を語る会
 「蜂谷道彦あれこれ」井上甫之(いのうえまさゆき)先生の話はとても面白かったです。
三木行治知事と同級生だったのですね。その交友の履歴が面白かったです。蜂谷先生が医学を志したのは三木さんが薦めたから、逆に三木知事の紺のスーツ(生涯同じ紺のスーツでしたね)は蜂谷先生が薦めたからだったそうですね。
 蜂谷先生は超メモ魔だったそうで、原爆投下から、その後の治療の状況など、その後「原爆ノート」が世界18ヶ国語に訳されて、原爆と原爆病の実態が世界に知らされましたが、それもこれも蜂谷先生のメモ魔の賜物。その克明なメモには誰もが舌をまかれたそうです。
 原爆投下後の原爆症の実態の詳密な検査とデータの結果、原爆症の死者や重度の被害は、爆心地近くの直接被爆した人々にのみ見られることを証明し、原爆の投下で数十年は草木も生えないというデマを払拭したなど、極めて科学的な思考方式の方でもあったようです。
 読書が好きで読み出したら読み終わるまで止めなかった。三木さんは丸一日以上も待ったこともあるとか、三木さんも気が長かったようですが・・他にも逸話がいっぱいでした。
 その名前と業績だけ聞くと、ずいぶん生真面目な方かと思っていましたが、案外ユニークな性格の方だったようですね。そうそう、交友関係が広く、マメに手紙も書く人で年賀状は1500通、全世界の人とも手紙で交流していたそうです。
 お話を聞いて、岡山県人、結構ユニークな人が多かったんだなとあらためて感じた次第です。

2013年10月17日木曜日

岡山人物銘々伝を語る会「蜂谷道彦あれこれ」明日です!

岡山人物銘々伝を語る会10月例会は、明日18日金曜日です。
岡山県立図書館サークル活動室で18時から20時まで
テーマは「蜂谷道彦あれこれ」で岡山文化懇話会会長の井上甫之先生にお話をお願いしています。
蜂谷道彦先生は広島逓信病院院長時代に原爆の投下に合い、自らも負傷する中にもかかわらず、原爆による患者を治療し続けました。その記録を表した本は世界各国の言語に訳され、原爆の被害の惨状を世界に知らしめる重要な役割を果たしていかれました。今回は蜂谷道彦顕彰会の副会長でもある井上甫之先生に蜂谷先生に関する様々な逸話をお話いただきます。
蜂谷道彦先生は桃太郎知事と言われ有名な三木行治先生とも懇意な関係だったそうです。今回はそういったエピソードお聞けるものと思われます。
参加希望は山田まで090-1033-3327)

2013年10月9日水曜日

岡山人物銘々伝を語る会10月18日

   「岡山人物銘々伝を語る会」第87回例会のご案内

                           代表世話人代行 久井 勲 
86回(平成25920日)の例会は、田中浩明さんに「帝国女子医学専門学校創立者 額田豊・晉兄弟(長船町出身)」について語ってもらいました東京女子医学専門学校(東京大森~現東邦大学医学部)の創立者・額田豊と額田晉の兄弟は、瀬戸内市長船町出身ですが、今回このお名前を聞くまで、正直なところ存じあげませんでした。当日は、長船歴史研究会の方々のご参加も得て、地元での慕われかたについて相当のものがあるのを知りました。また東邦大学OBの方もご参加くださり、校風の一端をご紹介してくださいました。同大学の記念誌によれば、二人の性格は正反対だったようですが、双方ともに「大いなる半人前」と評されていたようで、これがかえって、教えるタイプではない兄と、教えることに意義を感じる弟とが、それぞれ持ち味を出しいき、やがて学校経営が軌道に乗ったとのエピソードが語られました。
ところで、昨年のNHK朝の連続テレビ小説は「梅ちゃん先生」でしたが。その主人公下村梅子が学んだ城南女子医学専門学校(架空の学校名)というのは、これは東邦大学がモデルとなっているようです。
10月例会は、通常通り下記の要領で開催いたします。             
                   記
  日時: 平成251018()※ 午後68時  (※通例は第3金曜日です)
  場所: 岡山県立図書館 2階 サークル活動室 
 「蜂谷道彦あれこれ」
 講師:井上甫之(まさゆき)氏(蜂谷道彦顕彰会副会長、岡山文化懇話会会長)
     参加費:500

[概要] 蜂谷道彦氏は御津郡横井村(現岡山市北区富原)に生まれ六高から岡山医科大学を卒業、昭和17年広島逓信病院長に就任した。昭和20年原爆投下に遭い、自らも被爆怪我をする中、被爆者の救援にあたる。原爆投下から56日間の記録を「ヒロシマ日記」として出版。世界18ヶ国語に翻訳出版され、世界に原爆の恐ろしさを伝えた。代表的著作は他に「卒中日記」がある。今回は蜂谷道彦顕彰会の副会長でもある、井上甫之先生に、蜂谷道彦と三木行治元知事との交友など、蜂谷道彦にかかわるあれこれをお話していただきます。


1010( )の山陽新聞情報ひろばにて案内予定です。
お誘いあわせの上ご参加ください。

参加希望の方は 090-1033-3327(山田)までお申し込みください。





2013年9月20日金曜日

岡山人物銘々伝を語る会 「帝都女子医科専門学校(現東邦大学、ドラマ梅ちゃん先生の梅子が学んだ学校のモデル)の創立者額田豊・晋兄弟」

今日は「岡山人物銘々伝を語る会」の例会でした。
 今日のテーマは「帝都女子医科専門学校(=現東邦大学、ドラマ梅ちゃん先生の梅子が学んだという学校のモデル)の創始者、額田豊・晋兄弟)」講師は田中浩明さんでした。
 これまで地元でもあまり知られていなかった豊田兄弟ですが、日本の女子医学の振興に尽くした功績は大きい!
現在の東邦大学の前身は帝都女子医科専門学校で大正14年に設立された。私費を投じてこの学校を創立したのが、現在の瀬戸内市長船出身の豊田兄弟であった。額田家は新田氏の子孫で、1800年ころ邑久郡長船に移り住んで代々医者の家系であった。額田家は四男一女の兄弟で、医師であった父親が癌で早く亡くなったので、母親は苦労しながらも息子たちを立派に育てた。医師となった豊・晋兄弟のほか3男は陸軍中将にまでなるなどみな優秀だった。
 女子医科専門学校設立の動機は、豊がドイツ留学中、ドイツの女性が科学的知識が豊かであることから、女性も自然科学を学ぶべきであると考えていたことと、大正末から昭和にかけて男性の医師不足が懸念された時代的背景があった。豊田兄弟は郷土出身の平沼騏一郎や宇垣一成のほか大原家の支援、協力を得て難しいとされた女子医科専門学校の設立にこぎつけた。
 帝都女子医科専門学校(現東邦大学)は蒲田駅の近くにあるが、NHKのドラマ梅ちゃん先生も蒲田駅界隈がドラマの舞台であり。豊田兄弟の設立した医科専門学校がモデルとなっている。ドラマの制作には東邦大学が全面的に協力している。
 今日の会には、東邦大学卒業のお二人の医師の先生のほか、出身地の瀬戸内市方面からも何人もの方が、参加してくれて、大変話も盛り上がりました。
 来月は、同じく第3金曜日午後6時から県立図書館で、原爆被爆者の治療に挺身した「蜂谷道彦先生」の話を蜂谷道彦顕彰会の井上先生からお話を伺う予定となっています。

2013年9月17日火曜日

梅ちゃん先生の母校のモデル東京女子専門学校の創立者額田兄弟(長船町出身)が今月のテーマです

岡山人物銘々伝を語る会9月の例会は
20日(金)18時から岡山県立図書館で開かれます。
今月のテーマは「帝国女子医学専門学校創立者 額田豊・晉兄弟(長船町出身)  」です。
NHK朝ドラ梅ちゃん先生が通った大学のモデルです。現在は東邦大学医学部です。NHKの朝ドラ撮影には全面的に協力をしたそうです。この大学を創立したのが長船町出身の額田兄弟です。
郷土出身の偉人はたくさんいますが、これまであまり知られていなかったのでは無いでしょうか。
関心のある方はぜひ参加して見て下さい。
問い合わせは090-1033-3327(山田)またはメールまで

岡山人物銘々伝を語る会8月まとめと9月案内

岡山人物銘々伝を語る会8月のまとめと9月案内です
8月は近藤泰宏さんによる「菅原道真の政治改革と現代」いつもながら久井さんのまとめをご覧ください。
9月は田中浩明さんによる「帝国女子医学専門学校創立者 額田豊・晉兄弟(長船町出身) 」です。
額田兄弟はNHKの朝ドラ「梅ちゃん先生」で梅子の通った女子医大のモデルになった東京女子医学専門学校(現東邦大学)の創立者です。
ご来会をお待ちしています。当ブログの管理人が事務局を担当していますので、参加ご希望の方は当方までご連絡ください。


                                平成2591

   「岡山人物銘々伝を語る会」第86回例会のご案内

                             代表世話人代行 久井 勲

    85回(平成25816日)の例会は、近藤泰宏さんに「菅原道真の政治改革と現代」につい語ってもらいした。菅原道真という政治家をとらえるときに、近藤さんの視点は、政治の領域だけでなく、財政的・社会的・宗教的な領域でのことがらにも及んでいます。宇多天皇から醍醐天皇へと変わる時代、律令制の崩壊過程であり、道真にすれば、ただそれを社会事情の変化(徴税パワーが、戸籍管理から地方の有力者[“負名”とよばれる受託者] へと変化)の中で、それを再構成しようと道真は政治改革を目指しますが、藤原北家の策謀にからめとられたといえます。その無念をその後の日本人は怨霊信仰や弥勒信仰という形に“変質”させていった、というのが近藤さんのテーマでした。なるほどに、日本史上の名高い宗教家の主張は、その時代の税の徴税者が誰であるか、どう変わっていったかを受けて、彼らやその下にいる税の最終負担者(=農民)をどう納得させるかに符合しているように思えます。 “消された政治家”であるはずの菅原一党が、南北朝期の典籍にひょっこり顔を出している、しかも、この美作や備前あたりでその存在感を出している、との近藤さんのご指摘はなかなか面白かったです。

9月例会は、通常通り下記の要領で開催いたします。              
                   記
     日時: 平成25920()※ 午後68時  (※通例は第3金曜日です)
     場所: 岡山県立図書館 2階 サークル活動室 
     内容: 「帝国女子医学専門学校創立者 額田豊・晉兄弟(長船町出身)  
     講師:田中浩明 
     参加費:500

[概要] NHK朝の連続テレビ小説「梅ちゃん先生」の主人公下村梅子が学んだ城南女子医学専門学校(架空の学校名)のモデルとされる東京女子医学専門学校(東京大森~現東邦大学医学部)の創立者・額田豊と額田晉の兄弟は邑久郡大飯井村(現瀬戸内市長船町)の出身で東京帝国大学医科大学を卒業した秀才であった。額田豊はドイツ留学中に、ドイツの女性の科学知識の豊かなことに驚き、帰国後日本に女子医学校の開設を考えた。時は日本も開戦の時期、女医の教育機関の必要性から、平沼騏一郎らの知遇を受け女子医科専門学校他の女子自然科学系学校を創設した。戦後これらの学校は東邦大学となったが、ドラマ「梅ちゃん先生」の製作に当たっては東邦大学が全面的に協力した。(レジュメから抜粋)

参加希望の方は 090-1033-3327(山田)まで電話かメールください。

2013年7月9日火曜日

Face book

最近フェイスブックを活用しています。
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吉備歴史探訪会

6月例会は後楽園に行きました。
参加者一同岡山上をバックに

写真アなども駆使して教えていただきました。

ここが後楽園が一番広く見えるところ。十字の園路の先に岡山城
ちょっといらないものが写りましたが

6月22日(土)10時に後楽園の正門前に集合
岡山人物銘々伝を語る会で「池田綱政と後楽園」の話をされた、杉嘉夫さんにご案内いただきました。豊富な資料と知識を駆使しながら園内くまなく案内していただきました。これまでしらなかった後楽園の秘密や見所をたっぷり紹介していただき、2時間があっと言う間に過ぎました。
杉さんは10年間後楽園でボランティアガイドをしてこられたそうです。
皆さんもお願いして、後楽園のよさを再認識してみてはいかがでしょうか。

なお。7月の例会は
7月27日(土)10:00~ 歴史懇話会です。テーマは「中世の備前、備中、美作」です。
しばらく、古代史関係が続きましたので、中世に行ってみたいと思います。
会場は平和会館、場所のわからない方はお教えしますので山田までご連絡ください。

岡山人物銘々伝を語る会

  岡山人物銘々伝を語る会6月のまとめと7月の案内を代表代行の悲惨さんからいただきましたので掲載します。参加希望は事務局,山田まで!                        

 平成257

   「岡山人物銘々伝を語る会」第84回例会のご案内
                         代表世話人代行 久井 勲

    83回(平成25621日)の例会は、山陽学園大学教授の濱田栄夫さんが「六高教師ガントレットと二人の国民的作曲家」につい語ってもらいした。二人の国民的作曲家とは、岡野貞一と山田耕筰のこと。この二人が岡山に縁があったとは、彼らの作曲した「故郷」や「赤トンボ」その他文部省唱歌を含む数々の名曲が広く知られている一方で、意外と認知度は得られていません。彼らはいずれも岡山と縁をもちながらも、やがては東京を主たる活躍場所にしますが、彼らの残した音楽には、もちろん岡野貞一においては、「桃太郎」や「児島高徳」の作曲、山田耕筰においては「中国地方の子守歌」の採譜とあるのに加えて、きっと岡山を意識した情感やイメージがこもっている曲もあるでしょう。
 この山田耕筰は、長姉が六高の英語教師ガントレットと結婚していたことから、岡山の中学に通うことになりましたが、彼が岡山でガントレットの弾く曲に親しんだことがきっかけで、音楽家を志すことになったのでしょう。人生は何がきっかけとなって急展開するかわかりません。そのガントレット先生も、遠く先祖は讃美歌の作曲家の家系に生まれたそうですが、たまたまシアトルで日本派遣の宣教師と知り合ったことで日本行き、さらに日本帰化ということにつながったようです。

月例会は、通常通り下記の要領で開催いたします。              
                   記
      日時: 平成25719()※ 午後68時  (※通例は第3金曜日です)
      場所: 岡山県立図書館 2階 サークル活動室 (いつもの場所にもどります)
      内容: 「正宗白鳥 その人生の終点
      講師: 大濱文男 氏
  参加費:500
内村鑑三や植村正久の影響を受けた正宗白鳥は植村正久から洗礼を受ける。一時キリスト教は棄教したといわれるが最晩年、臨終間際に上村の娘上村環の祈祷をうける。小林秀雄との激しい論争は有名。正宗白鳥は人生をどのように生き、どのように終点を迎えていったのか?


なお11()の山陽新聞情報ひろばにて案内予定です。お誘いあわせの上ご参加ください。
(上記通常例会の件、お手数ですが、下記にて出欠をお知らせ下さいますようお願いいたします) 

090-1033-3327 山田まで
メールは山田まで


2013年6月17日月曜日

国家倫理

人のあるべき道を説いたのが倫理なら、国のあるべき道を説く国家倫理が無ければならない。
古来中国の諸哲学の多くは、国を治めるもののあるべき道をといているはずだが、その教えに則った国はどうも現れていないようである。
この倫理は万国に共通するものでなければならない。この倫理はこの道を守り行うことでその国も栄え世界も栄えさすものでなければならない。

2013年6月16日日曜日

アシスト

アシストと言うことばが気になっている。
「生活アシスト相談員」みたいなものが在ったらどうかな。とうい

アシストというとアシスト自転車を思い出す。普段は自力で走るが坂道とか、疲れて漕げなくなったら電動で応援してくれる。最近流行のハイブリッドカーなどもアシスト機能で燃費をよくしてくれたり危険を防止してくれたりする。

生活困窮者が世の中どれくらいいるのだろうか?低所得であったり、体に障害を持っていたり、精神的障害なども含めると世の中実に多くの人が困窮している。

社会福祉など、困窮者の支援活動はあることはあるが
気になるのは強者が弱者に恵んでやると言った意識がないだろうか?
本来人間が持っている自立力、自活力を支援してともに共生していく社会を目指して行くことが大切なのではないだろうか。

誰が見ても死にそうな人は、行政も社会も放っておかないのだろうが、人知れず、誰にも相談できる人もなく、苦しんでいる人がたくさんいる。
そんな人に積極的に声をかけ、相談に乗れる人や機構があるといいと思う。

落語などに出てくるが、江戸の町ではよく長屋の大家さんが面倒見てくれていた。

2013年6月11日火曜日

六高英語教師ガントレットと二人の国民的作曲家~岡野貞一と山田耕筰・・・濱田栄夫先生の講演

岡山人物銘々伝を語る会6月例会
「六高英語教師ガントレットと二人の国民的作曲家」の当日配布の資料を濱田先生からいただきました。
当日の講演内容です。
6月21日(金)18:00~20:00 ゆうあいセンター(旧国立病院)2F
参加費1000円  希望者は山田まで(090-1033-3327)


「第六高等学校英語教師エドワード・ガントレットと
二人の国民的作曲家(岡野貞一と山田耕筰)


 国民的愛唱歌としての「故郷」や「朧月夜」を作曲した岡野貞一(18781941)と「赤とんぼ」を作曲した山田耕筰(18861965)には少なくとも二つの共通点がある。第一は二入とも少年時代に岡山市門田界隈に住み、明治時代中期に宣教師と市民が共同で福祉活動や教育運動を展開する近代化に向けての新しい風を体験していること、第二は二人とも第六高等学校の英語教師として赴任してきたエドワードガットレットと深い関係をもっていることである              ガガントレットは岡山に赴任する直前まで東京の本郷中央会堂のオルガニストとして10年間参仕したが、その仕事を直接引き継ぎ194112月、死の直前まで中央会堂のオルガンで演奏の奉仕をしだのが岡野貞一である。そしてガントレットと国際結婚をした山田恒子の実弟が山田耕筰で、彼は西洋楽器の演奏方法や発声学にっいてガレトレヅトから直接手ほどきを受けている。ガントレットをはさんだ三人の関係を軸にして、西洋音楽導入の草創期を振り返りながら、また明治時代の明治時代の門田界隈の空気を想い起しながら国民的愛唱歌が生まれた背景について考察して弩察してみたい。

一、エドワード・ガントレット
1)ガントレドトの家系
2)来日までのガントレット
3)オルガニストとしでのガンドレヅト
4)英語教育指導者としてのガントレット
5)エスペラント普及活動のパイオズアとしでのガントレット

二、岡野貞一
1)岡野貞一と岡山
2)岡野貞一と東京本郷中央会堂
3)文部省唱歌編纂委員としての岡野貞一

三、山田耕筰
 1)山田耕筰とガレトレツト
 2)山田耕筰と童謡「赤とんぼ]
 3)山田耕筰と岡山


2013年6月9日日曜日

内村鑑三の「代表的日本人」を読んで

昨日内村鑑三の「代表的日本人」を読んでいたら、なぜかいたく感動しました!facebookに投稿した一文です。

内村鑑三の「代表的日本人」の一節を読みながら感動しています!
中江藤樹のもとを岡山藩主池田光政公が訪れるところです。
正直な馬子の話を聞いて藤樹のもとを訪れ弟子となった熊沢蕃山ですが、その師藤樹先生の教えと人格を聞かされた岡山藩主池田光政が、参勤交代の途上、中江藤樹のもとを訪れ士官を薦めるくだりです。
身分制度の厳しい時代に近江の片田舎の一学者のもとを大藩の藩主が直々に訪れるのも異例ですが、その藩主に普段、村人と接すると変わりなく接し、自分はこの村人たちを教えなけばならないと仕官を断ります。
その後池田光政の善政は全国にも有名になり、その師の熊沢蕃山も名声を高めるとともに、中江藤樹の名も歴史に残るようになりました。
中江藤樹と言う人物とその教えがその後の日本の指導者の模範となり、良き日本精神を形作ったことを思うと言いようの無い感動が沸き起こります。
英文で書かれた内村の原文を読んだ西欧人たちはどのように思っただろうか?
ケネディ大統領が同じく内村が代表的に日本人で取り上げた上杉庸山を尊敬していたそうだが、同様に内村の「Representing Men of Japan]を読んで感動した欧米の読者、リーダーがたくさんいたに違いない。
今も深い感動が迫っています!

岡山人物銘々伝を語る会6月後案内

岡山人物銘々伝を語る会6月例会のご案内です


   「岡山人物銘々伝を語る会」第83回例会のご案内
                         代表世話人代行 久井 勲
  
    82回(平成25517日)の例会は、内山章子(あやこ)さんが「鶴見家の人々」につい語って
くれました。前回もそう感じましたが、鶴見家の人々を語る際の“広汎さ”は、いま流行りの言葉で
表現すると“3(3次元)的”とでもいい得ましょうか。①年代的にいろいろな人が登場している、②近
現代で見てもいろいろな領域で著名な人がいらっしゃる、③鶴見祐輔を例にとると、1920年代~1930
代の日本外交の中で、従来の“公的外交”を傍らから支える形で、“民間広報”という、それまでになか
った発想の外交を展開しています。どこを切り口にしても、話題の途切れることのない人材、人となり、
事績が現れてきます。そういう意味では、日本ではちょっとめずらしい家系かもしれません。内山さんは
このたびのご講話に先立って、鶴見祐輔が若き日を過ごした岡山一中(‘現岡山朝日高)を訪問され、運動場
を歩いてみたそうです。世代を超えてのsentimental journeyといえましょうか。


6月例会は、通常通り下記の要領で開催いたします。              
   
6月例会(第83回) 日時:6月21日(金)18時~20時  
会場:きらめきプラザ(北区南方)2F ゆうあいセンター第1研修室   
会費:1000円   (6月は会場がゆうあいセンターですのでご注意ください)

テーマ:「六高教師ガントレットと二人の国民的作曲家」 
講師:濱田栄夫 山陽学園大学教授
ここでいう二人の国民的作曲家とは岡野貞一山田耕筰のことですが、二人とも少年時代を岡山で過ごし、音楽を通じてエドワード・ガンフレットと深い関わりを持っています。岡野貞一は「故郷」「朧月夜」「紅葉」「春が来た」などの作曲家で、戦前の岡山市歌の作曲者でもあります。ガントレットについては拙著『門田界隈の道』で詳しく言及しています。(濱田)
濱田先生が最近著述出版された「門田界隈の道もうひとつの岡山文化」には、六高教師ガントレットのほか、居留地に住んだ宣教師たちや、石井十次、上代淑のことなどが著述されています。




参加予定の方は事務局(山田)まで、メールorFAX/電話その他でご連絡ください。

2013年5月22日水曜日

内山章子さんの話

5月17日(金)岡山県立図書館で内山章子(うちやまあやこ)さんの話がありました。
最初に父親の鶴見祐輔さんの話、次に兄の鶴見俊輔さんの話、そして、姉の鶴見和子さんの話。
身内でなければわからないような裏話を交えながら、家族一人一人の人柄や、人生を語ってくれました。特にお姉さんの鶴見和子さんは10年間に渡って、手足の不自由な生活を余儀なくされ、その間、東京から京都に通っての看護でした。
生涯、ずっと家族の面倒ばかりを見続けてきた章子さんでしたが、お姉さんの看護で京都に通いながら、京都の大学で学士をとられました。老いて益々向学心に燃えておられます。

翌日は鶴見家の本家のある備中町(元の代官所)で講演をされる予定で出発されました。

2013年5月20日月曜日

秦歴史遺産保存協議会でお話させていただきました。

昨日、総社市秦の、秦小学校で開かれた秦歴史遺産保存協議会の総会で秦氏について語らせていただきました。「謎の秦氏と吉備國」という題で、秦氏の全体像から吉備の秦氏の実像まで、私なりの見解を紹介させていただきました。それなりの反響をいただき大変ありがたく思っています。
それにしても、地域の方々の熱心さに感心いたしました、いろんな方が奉仕し、助け合って地域の復興のために努めておられる姿に、さすが秦氏の元郷とも言える秦(ハダと読みます)の人たちだなあと思いました。
昨年発見された1丁ぐろ古墳の発掘調査の件など課題も多いと会長の板野さんもおっしゃられていましたが、われわれも微力でも応援していかないといけないなと思わされました。
口コミやネットを通しても、正木山、一丁ぐろ古墳や秦廃寺、福谷の姫社神社など日本の歴史に大きな貢献をしてきた秦氏の歴史を語る史跡として、多くの方に紹介していきたいと思っています。
昨日は総社市教育委員会の武田さんから一丁ぐろ古墳のその後をいろいろ聞かせていただきました。もっと多くの方に古墳のすごさや意義を知らせていってあげなければとあらためて思わされました。
ありがとうございました。

詳しい内容など順次このブログでも紹介してまいります。
今後ともブログの応援もよろしくお願いいたします。

吉備楽土 代表 山田良三

2013年5月13日月曜日

「謎の秦氏と吉備國」秦で講演します。

5月19日(日)午後、総社市秦の秦小学校で秦歴史史跡保存協議会の総会があります。
その記念講演に吉備楽土代表の山田が招かれて講演いたします。
題は「謎の秦氏と吉備國」です。
午後2時頃からの予定ですので、関心がありましたらぜひおいでください。主催者のかたに聞きしましたところ一般の参加歓迎とのことでした。
なお、午後1時45分くらいからは総社市の学芸員の方が来られて、「一丁ぐろ(土偏に丸)古墳」についての話しがあります。一丁ぐろ古墳は4世紀ごろに築造されたという全長80メートルからの前方後方墳です。(以前このブログでも取りあげました。)、この話しも面白いと思いますので、お聞きになってはいかがでしょうか。

吉備楽土からのご案内

今後の予定でご案内している内容です。


岡山人物銘々伝を語る会 5月以降の予定をご案内します。お誘いあわせの上ご参加ください。
5月例会(第82回)  日時:5月17日(金)18時~20時      
会場:岡山県立図書館2Fサークル活動室  会費:1000円
講師:内山章子(あやこ)さん      
テーマ:鶴見家の人々 ~人生のリセット~老いの醍醐味」
内山章子(あやこ)さんは、絹糸紡績業の先駆者鶴見良憲氏の孫、 鶴見俊輔氏の妹です。ほかに父の文筆家・政治家の鶴見祐輔氏、姉に上智大学教授・歌人の鶴見和子、兄は哲学者の鶴見俊輔氏、母方の祖父に政治家の後藤新平氏など多くの著名人がおられます。
 また、ご主人の内山尚三氏は東大法学部を卒業後、法政大学の法学部長・札幌大学学長を勤められ、平成14年に亡くなられました。 祖父の鶴見良憲氏は高梁市備中町の生まれで、父の鶴見祐輔氏は祖父の仕事の関係で群馬県の生まれですが、父とともに岡山に来て旧制岡山中学から一高・東大卒業後、鉄道省に勤務、その後岡山県から、衆議院議員に当選し、戦後は厚生大臣に就任しています。
 内山章子さんは、自書の「雪中花」や「鶴見和子病床日誌」などで、母(後藤新平の長女)、父(鶴見祐輔)、早逝した長男、夫の看病をし、最後に姉の鶴見和子の死を看取り、自分自身の最後の人生をスタートさせたと云われています 母からは祖父・後藤新平の三訣「人にお世話にならぬよう。人のお世話をするよう。そして、報いを求めぬよう」を聞かされ、これを心にとめ、生きて来られたと述べています。
 昨年、8年がかりで京都造形芸術学部通信教育部を卒業されました。83歳での卒業です。
5月17日は、両親や姉妹の看護をし看取ってきた体験の中で生きる意味や家族への思いを語っていただきます。

6月例会(第83回)  日時:6月21日(金)18時~20時  会場:きらめきプラザ2F ゆうあいセンター第1研修室  会費:1000円
「六高教師ガントレットと二人の国民的作曲家」  講師:澤田栄夫山陽学園大学教授
ここでいう二人の国民的作曲家とは岡野貞一と山田耕筰のことですが、二人とも少年時代を岡山で過ごし、音楽を通じてエドワード・ガンフレットと深い関わりを持っています。岡野貞一は「故郷」「朧月夜」「紅葉」「春が来た」などの作曲家で、戦前の岡山市歌の作曲者でもあります。ガントレットについては拙著『門田界隈の道』で詳しく言及しています。 
     

吉備歴史探訪会5月例会 懇話学習会


5月25日(土) 1000~    

4月例会の熊山訪問の報告と、熊山をめぐる古代~近代までの関係史をテーマとします。


岡山中和歴史研究会(仮称)日本と半島の関係史を中心いした勉強会です


5月19日(日) 1900~ 


2013年5月10日金曜日

岡山人物銘々伝を語る会5月例会 内山章子さんのお話です。

岡山人物銘々伝を語る会5月のご案内


                   平成255

   「岡山人物銘々伝を語る会」第8回例会のご案内
                         代表世話人代行 久井 勲
  
 第8回(平成251日)の例会は、杉嘉夫さんが「池田綱政と後楽園」につい語ってくれました。平生、後楽園で観光ボランティアガイドをしていらっしゃることもあって、聴く側の期待にそった平易な語り口は聴きごたえのあるものでした。今日の後楽園は観光名所としての庭園という印象が強いですが、杉さんの講話では、綱政の ①公家文化 への憧れと流儀店, ②観音信仰と慈眼堂、③防衛構想と芝生が 見落としてはならない点となっています。綱政の人柄は巷説では、あまりよいものではありませんが、それは幕府への一種の陽動作戦のようなもので、藩を政治的にも財政的も安定経営していくための要諦をよく知ったうえでの振る舞いであったのかもしれないとする杉さんのお話は、なかなか斬新で説得力のあるものでした。綱政の造園構想のよってきたるところについて杉さんは、イ)参勤交代の途中、光政・綱政がそれぞれの娘の嫁いだ京の一条家によく立ち寄っていたこと、ロ)幕府からの指示で禁裏造営役を担当したことが切っ掛けになっているのでは、としています。こういう裏面を披露してもらうと、後楽園の見方がまた変わってくるようです。歴史の中に為政者の思いや憧れといった主観的な面が見えてきます。機会があれば、後楽園でガイドの杉さんから改めてお聞きしてみたいものです。
月例会は、通常通り下記の要領で開催いたします。              
   日時: 平成2517()※ 午後68時  (※通例は第3金曜日です)
   場所:県立図書館 2サークル活動室  内容:「鶴見家の人々 人生のリセット~老いの醍醐味
   講師:内山章子(あやこ)氏      参加費:1,000
講師 内山章子さんについて(田中浩明さんの紹介から)
内山章子(あやこ)さんは、以前当会で発表のあった絹糸紡績業の先駆者鶴見良憲氏(平成24年4月・田中浩明氏が発表)の孫、 鶴見俊輔氏(平成24年8月・高橋義雄氏が発表)の妹です。ほかに父の文筆家・政治家の鶴見祐輔氏、姉に上智大学教授・歌人の鶴見和子、母方の祖父に政治家の後藤新平氏など多くの著名人がおられます。
 ご主人の内山尚三氏は東大法学部を卒業後、法政大学の法学部長・札幌大学学長を勤められ、平成14年に亡くなられました。 祖父の鶴見良憲氏は高梁市備中町の生まれで、父の鶴見祐輔氏は祖父の仕事の関係で群馬県の生まれですが、小学校のとき、父とともに岡山に来て旧制岡山中学から一高・東大卒業後、鉄道省に勤務、その後岡山県から、衆議院議員に当選し、戦後は厚生大臣に就任しています。
 内山章子さんは、自書の「雪中花」や「鶴見和子病床日誌」などで、母(後藤新平の長女)、父(鶴見祐輔)、早逝した長男、夫(内山尚三)の看病をし、最後に姉の鶴見和子の死を看取り、自分自身の最後の人生をスタートさせたと云われています
 母からは祖父・後藤新平の三訣「人にお世話にならぬよう。人のお世話をするよう。そして、報いを求めぬよう」を聞かされ、これを心にとめ、生きて来られたと述べています。
 昨年、8年がかりで京都造形芸術学部通信教育部を卒業されました。83歳での卒業です。

父様である鶴見祐輔さんや後藤新平の娘である母や兄弟姉妹のことなどのお話しとともに、「人生のリセット~老いの醍醐味と題して、老いとともに益々人生の醍醐味を味わって生きられる生き様を語っていただきます。

参加希望の方は吉備楽土(山田)似ご連絡ください。

2013年4月18日木曜日

寂室元光師(3)


永源寺と寂室元光師の禅

永源寺は、寂室元光師を近江の守護職佐々木氏頼が招請し開山した。現在は臨済宗永源寺派の総本山であり、東近江の名刹である。
詳しくは永源寺HPご覧ください。永源寺の由緒、開山禅師として寂室元光についても良く分かります。



寂室元光師の禅風
浪本澤一元跡見女子大教授の書いた「林下の禅者 寂室元光」
寂室師についての本はいくつかあるが、その中でも最もその風を記しているのが、芭蕉の研究者として有名な勝山出身の浪本澤一元跡見女子大教授の書いた「林下の禅者 寂室元光」であろう。
・禅は僧侶だけのものではなっく、寂室の法属には在家の人々も交わっていたのである。
・寂室は遺誡の中で禅は僧侶を問わず各人の日常生活裡に原点を持つものであることを説き、・・・、各人がそれぞれの職分に励み、その生活の中で自らの禅を修証せよと説示したのである。
終世、名利を求めず、貧を憂えず、貴顕に近づかず、仏法の極意を身証することを僧としての本道とした。いうところの林下である。
芭蕉の「幻住庵記」の「幻住」の根源は寂室の参じた中峰の「幻住」に発している。と記している。高弟其角の書いた「芭蕉翁終焉記」の文中、「遺骨を湖上の上の月にてらす」の語には、寂室の偈頌の薫染が感受される。

天竜寺(足利尊氏開基 夢窓疎石開山)や建長寺(足利時頼開基 蘭渓道隆開山)からも招請されるが辞退する。

寂室元光禅師が残した墨跡、詩・偈
寂室の筆跡には、独特の力と美しさがある。 遺墨の中でも、その禅の境地を詠んだ「風撹飛泉」[ふうかくひせんの詩を自書した墨跡はとりわけ美しい 。


寂室元光禅師が残した教えは
永源寺に住した寂室禅師のもとに修道の道を求めてきたものは2000人と言われる。禅師が残した遺誡の中、所領も返し、そのぞれの道を歩むように。永源寺に残りたいものは残ってもよいと言われた。その後永源寺は、応仁の乱のころには京都五山の名僧がこの地に難を避け修行し、"文教の地近江に移る"といわれるほど隆盛をきわめた。その後は度重なる戦乱で衰微するが、江戸中期、一 絲文守禅師(仏頂国師)が住山し、後水尾天皇の帰依を受け再興された。

寂室禅師の教えた禅は、当時の僧侶のみならず、在家の人々にも多くの影響を与えたであろうことは明らかである。禅と茶道の結びつきから侘び寂えんとよびの文化や、禅が多く武士の精神修養の道として取り入れられていたことから武士道などの形成にも大きな影響を持っていたことは想像に難くない。

儒学や浄土教と寂室の禅
寂室師が師事した中峰明本師が「教禅一致」や「禅浄一体」を教えていたことから、当然ながら儒教や浄土教との調和を教えていたことは間違いないであろう。寂室師の禅は「念仏禅」とも言われていた。


禅と陽明学
近江といえば熊沢蕃山の師中江藤樹の生まれたところであり、熊沢蕃山が弟子の礼を持って学んだところである。中江藤樹が禅を学んだという記録は見当たらないが、何らかの影響があったことは間違いないであろう。
中江藤樹が蕃山に教えた「心法」は禅の教えに類似している。藤樹先生の教えの背景に寂室師の残した善の教えがあるのでは?

禅と陽明学のつながりは深い。
・安岡正篤師も「禅と陽明学」の中でその類似性を語っている。
・王陽明自身が禅を学んでいた。王陽明は何度か科挙の試験を受けているがその途中禅を学んでいる。(「達磨と陽明」惣滑谷快天-ぬかりやかいてん 曹洞大学林長、駒澤大学学長)
 「達磨を仏門の王陽明とすれば、王陽明は儒門の達磨である。何となれば達磨の宗風と、王陽明の学風とはその直截簡易なる点において、またその切実なる脩為の工夫において極めて近似しているのみならず、その唯心なる点においてあたかも両手両眼のごとく互いに酷しょうしつつある。されば禅学は仏教の陽明学にして、陽明学は儒教の禅学なりというも決して侮言ではない。」(同上)
・山田方谷先生が幼いころ師匠の丸川松隠に学んだ新見荘には現在も永源寺派の禅寺が多い。
・山田方谷先生が京都遊学中、禅を学んでいた。この当時寂室の禅に傾注していた。


寂室元光禅師は表向きの名声や名誉は一切求めずひたすら林下の禅に励んだ。其の故かその名を知る人も多くはないが其の残した業績の大きさは比類なきものであると思う。日本の精神文化の基本を作った功績は極めて大きいといわざるを得ないであろう。その精神性の高さを顕彰しながら、その良き精神伝統を引きついていきたいものである。

2013.3.15
山田良三

岡山人物銘々伝を語る会5,6月の予定

明日が4月例会ですが、5~6月以降もいい企画が続いています。

5月例会は[鶴見家の人々]と題して、内山章子(あやこ)さんに語っていただきます
内山章子さんは、以前人物伝のテーマにもなった「鶴見祐輔」さんの次女です。弟に当たるのがやはり会で取り上げられた[鶴見俊輔」さんで、長女のお姉さんの鶴見和子さんは社会学者として有名でした。そのお姉さんを介護し看取られた記録を本に書かれています。
お父さんの祐輔さんも長く闘病され、家族として長く看病もされてきました。病や死と向き合いながらどう生きるか?「老いを生きる」をテーマに講演も続けられています。
日時:5月17日(金)18:00~県立図書館 会費1000円

■6月は山陽学園の濱田栄夫先生による明治に岡山に来た英語教師と二人の国民的作曲家の話です。

「六高教師ガントレットと二人の国民的作曲家」 講師:澤田栄夫山陽学園大学教授
(岡山人物銘々伝を語る会6月例会テーマ)
ここでいう二人の国民的作曲家とは岡野貞一と山田耕筰のことですが、二人とも少年時代を岡山で過ごし、音楽を通じてエドワード・ガンフレットと深い関わりを持っています。岡野貞一は「故郷」「朧月夜」「紅葉」「春が来た」などの作曲家で、戦前の岡山市歌の作曲者でもあります。ガントレットについては拙著『門田界隈の道』で詳しく言及しています。

日時:6月21日(金)18:00~ゆうあいセンター 会費1000円

いずれも参加希望の方は山田までご連絡ください。


岡山人物銘々伝を語る会3月例会のまとめ 

3月例会で話した内容について
代表代行の久井勲さんのまとめです。


 第80回(平成25315日)の例会は、山田良三さんが「鎌倉末~南北朝 勝山出身の名僧 寂室元」につい語ってくれました。このお話の中で、「林下の禅者」という言葉を初めて知りました。京都五山の格式ある寺院よりも、寺格のいかんにかかわらず、真の禅をもとめて、地方あるいは市井やさびれた村で修行する禅者を指します。美作高田(現真庭市勝山)で生まれた寂室元光師はその典型的な人物と知りました。
この寂室元光師のことでまず連想したのは、一休宗純でした。臨済僧のエピソードは、なるほどに哲学的です。一休さんの場合なら、そのエピソードに出てくる“とんち”の底意を推しはかることで、禅の一端を知りえたような気になりますが、その一休さんからまた百年余りさかのぼる寂室元光師の場合、お話の中で紹介のあった漢詩や偈頌を通じて、修行や人生にむかう姿勢に触れることができそうに感じました。元に渡り中峰名本に師事し、帰国後は広く遊歴して、その天下に名声を得ながらも、名利を求めず、貧を憂えず、貴顕に近づかない姿は、歴史上のキャラクターとしては、“ありそうだけれども”、実はめったにいない人物像ではないでしょうか。師は南近江の永源寺で示寂しますが、不思議に岡山出身の宗教家(栄西も法然も)は、都や都近くの地を最期の地としているようです。


この回、久井さんは都合で参加いただけなかったのですが、資料をお送りしたら、書くも切れ味のいいコメントをいただきました。ありがたく思っています。
以前の私の話は[難しい]との評判だったのですが、今回は皆さん良く理解してくださり、私の努力もあってか皆様にご好評をいただきました。

皆さんとても関心を持っていただき、先日は[永源寺]に行って来たよ!と、永源寺のパンフレットをSさんからいただきました。ありがとうございます。

岡山人物銘々伝を語る会4月例会

岡山人物銘々伝を語る会4月例会案内です


  日時: 平成25419()※ 午後68時  (※通例は第3金曜日です)
      場所: 県立図書館 2
      内容: 「池田綱政と後楽園
      講師: 杉 嘉夫 氏
参加費:500
綱政の人物評価、後楽園造園目的の三説、綱政の願いと後楽園の関係について スライドを使って私見をご披露し、皆様のご批評を頂きたいと思っております。(杉 嘉夫氏より)


今回は元陸上自衛隊にお勤めだった杉嘉夫さんが[池田綱政と後楽園]について語ってくれます。今は7ボランティアガイドもしておられる杉さんは元自衛官の経歴も生かし、後楽園造園の秘密もお話いただけるようです。楽しみにおいでください。すでに多くの方から参加の申し込みをいただいています。

2013年3月26日火曜日

吉備歴史探訪会4月例会予定

吉備歴史探訪会4月例会の概要が決まりましたのでお知らせします

日時:4月27日(土)・・・通常第4土曜日です
行き先:旧熊山町にある和気氏の遺跡探訪
集合:熊山駅無料駐車場に9:30集合

今回は熊山遺跡保存研究会のプログラムに参加させていただきます。
熊山遺跡保存研究会副会長の岡野進さんにご案内いただきます。

吉備歴史探訪会の連絡は
山田まで
090-1033-3327
メールはこちら

寂室元光師(2)


元から帰朝後の寂室元光師の歩みです

帰国後主に三備一作を中心に韜晦(とうまい)を続ける
韜晦(とうまい)とは才知・学問・地位などを内に包み隠して表に出さない意味の禅語である。およそ25年間である。現在の岡山県から広島県東部に渡って、小寺をめぐりながら修道と、教えを説いた。

『寂室和尚語録(寂室録)』によると、このころ寂室は西祖寺・ 明禅寺・安国寺・滋光寺・菩提寺・美作の田原村などに滞在し、 吉備中山・、備前金剛寺、八塔寺、金山寺など県内を 巡ったことがわかる 。(岡山人物往来)
金山寺には観応元年(1350)61歳の時元旦に吟詠
 吉備津の 藤原成親の墓には2度訪れている。(1344,45 5556歳)
吉備津神社横の有木山の成親の墓には寂室元光師の供養の詩が刻まれている碑がある。                  藤原成親の墓→
備中竹の荘(現吉備中央町)貞徳寺開山との係わり松嶺道秀が寂室を訪ね弟子となったとの記録あり。(1352 62歳 貞徳寺物語より)
尾道の千光寺を訪ねた記録もある。(1349 60歳)元旦に吟詠
因幡智頭土師の光恩寺(1353 64歳 開山)など。

足利義詮[よしあきら]から相模長勝寺、豊後万寿寺などの 住職に招かれたが、これを断り、その後、約十年にわたって美濃・ 摂津・山城・近江・伊勢・尾張・甲斐・上野などの国々を遍歴した (岡山人物往来)

現在永源寺を本山とする臨済宗永源寺派の寺院はこの時代寂室元光師が訪れたとされる地に多い。岡山県内では特に新見阿哲方面に多い。(参考 貞徳寺物語)


近江の守護佐々木氏(六角氏)佐々木氏頼の招きにより永源寺の地に
72歳のとき、近江に滞在の折、守護職佐々木氏頼公に請われ、永源寺に入寺

佐々木六角氏頼
佐々木氏嫡流の六角氏は鎌倉幕府滅亡と共に一時没落し、幕府滅亡時の当主であった父が出家したため、氏頼は建武2年(1335年)頃に幼くして家督と近江守護職を継承して当主となるも、室町幕府では庶流の京極氏の風下に立つことになった。近江守護職をめぐり京極氏の佐々木道誉と一時争うも、道誉の娘を妻に娶るなど関係改善にも努めている。暦応元年/延元3年(1338年)に南朝の北畠顕家軍が青野原の戦いで幕府軍を破った事態を受けて、道誉と共に援軍として派遣され近江・美濃の国境で南朝軍を迎え撃ち、康永3/興国5年(1344年)には検非違使に任じられるなど佐々木氏嫡流としての立場を示した。
足利将軍家の内紛から発展した観応の擾乱では道誉と共に初代将軍足利尊氏・高師直派に属していたが、観応2/正平6年(1351年)119日に尊氏の弟直義派が有利となると直義方に降る。しかし、師直が殺害された後も両派の対立が再燃、双方から味方に誘われ窮地に陥り、625日に出家して崇永と名乗り、近江守護を辞任して家督も長男の義信に譲った。この後、近江守護に弟の山内信詮や義信が選ばれたり、道誉が尊氏の嫡男義詮から佐々木氏の惣領格に任命されている。
文和3/正平9年(1354年)には政界復帰し、義信に代わって近江守護に復したほか、応安元年/正平23年(1368年)には禅律方・引付頭人も務めている。しかし、同年に義信が夭折したため、京極氏から道誉の孫高経を猶子に迎え後見を務めた。近江守護再任後は禅宗に帰依し、康安元年/正平16年(1361年)に寂室元光を招いて永源寺の開基となった。応安3/正平25年(1370年)67日、45歳で死去。晩年に次男の亀寿丸(満高)が生まれたが、幼少のため近江守護は高経が引き継いだ。