元から帰朝後の寂室元光師の歩みです
帰国後主に三備一作を中心に韜晦(とうまい)を続ける
韜晦(とうまい)とは才知・学問・地位などを内に包み隠して表に出さない意味の禅語である。およそ25年間である。現在の岡山県から広島県東部に渡って、小寺をめぐりながら修道と、教えを説いた。
韜晦(とうまい)とは才知・学問・地位などを内に包み隠して表に出さない意味の禅語である。およそ25年間である。現在の岡山県から広島県東部に渡って、小寺をめぐりながら修道と、教えを説いた。
『寂室和尚語録(寂室録)』によると、このころ寂室は西祖寺・
明禅寺・安国寺・滋光寺・菩提寺・美作の田原村などに滞在し、
吉備中山・、備前金剛寺、八塔寺、金山寺など県内を
巡ったことがわかる 。(岡山人物往来)
金山寺には観応元年(1350)61歳の時元旦に吟詠
吉備津の
藤原成親の墓には2度訪れている。(1344,45 55、56歳)
吉備津神社横の有木山の成親の墓には寂室元光師の供養の詩が刻まれている碑がある。
藤原成親の墓→
備中竹の荘(現吉備中央町)貞徳寺開山との係わり。松嶺道秀が寂室を訪ね弟子となったとの記録あり。(1352 62歳 貞徳寺物語より)
尾道の千光寺を訪ねた記録もある。(1349 60歳)元旦に吟詠
因幡智頭土師の光恩寺(1353 64歳 開山)など。
足利義詮[よしあきら]から相模長勝寺、豊後万寿寺などの
住職に招かれたが、これを断り、その後、約十年にわたって美濃・
摂津・山城・近江・伊勢・尾張・甲斐・上野などの国々を遍歴した
(岡山人物往来)
現在永源寺を本山とする臨済宗永源寺派の寺院はこの時代寂室元光師が訪れたとされる地に多い。岡山県内では特に新見阿哲方面に多い。(参考 貞徳寺物語)
近江の守護佐々木氏(六角氏)佐々木氏頼の招きにより永源寺の地に
72歳のとき、近江に滞在の折、守護職佐々木氏頼公に請われ、永源寺に入寺
佐々木六角氏頼
佐々木氏嫡流の六角氏は鎌倉幕府滅亡と共に一時没落し、幕府滅亡時の当主であった父が出家したため、氏頼は建武2年(1335年)頃に幼くして家督と近江守護職を継承して当主となるも、室町幕府では庶流の京極氏の風下に立つことになった。近江守護職をめぐり京極氏の佐々木道誉と一時争うも、道誉の娘を妻に娶るなど関係改善にも努めている。暦応元年/延元3年(1338年)に南朝の北畠顕家軍が青野原の戦いで幕府軍を破った事態を受けて、道誉と共に援軍として派遣され近江・美濃の国境で南朝軍を迎え撃ち、康永3年/興国5年(1344年)には検非違使に任じられるなど佐々木氏嫡流としての立場を示した。足利将軍家の内紛から発展した観応の擾乱では道誉と共に初代将軍足利尊氏・高師直派に属していたが、観応2年/正平6年(1351年)1月19日に尊氏の弟直義派が有利となると直義方に降る。しかし、師直が殺害された後も両派の対立が再燃、双方から味方に誘われ窮地に陥り、6月25日に出家して崇永と名乗り、近江守護を辞任して家督も長男の義信に譲った。この後、近江守護に弟の山内信詮や義信が選ばれたり、道誉が尊氏の嫡男義詮から佐々木氏の惣領格に任命されている。
文和3年/正平9年(1354年)には政界復帰し、義信に代わって近江守護に復したほか、応安元年/正平23年(1368年)には禅律方・引付頭人も務めている。しかし、同年に義信が夭折したため、京極氏から道誉の孫高経を猶子に迎え後見を務めた。近江守護再任後は禅宗に帰依し、康安元年/正平16年(1361年)に寂室元光を招いて永源寺の開基となった。応安3年/正平25年(1370年)6月7日、45歳で死去。晩年に次男の亀寿丸(満高)が生まれたが、幼少のため近江守護は高経が引き継いだ。
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