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2009年3月22日日曜日

藤公園の藤




和気清麻呂の故郷、和気町の和気神社のたもとには藤公園があって毎年美しい藤の花を見ることができる。
全国各地から集めた藤の木を植えていて、さまざまな藤の花を見ることができる。
毎年、4月~5月の連休中が「藤まつり」期間で、各地から富士の見物客が集まる。
もともとこのあたりは「藤野」と言われていた土地で、藤が群生していいたらしい。
藤を見物したら、神社を訪れ、京都の街を作った人物「和気清麻呂」とそのお姉さん「和気広虫」をしのんでみたらどうでしょうか。

伽耶神話

伽耶の国の神話をみると、これが実に日本の神話に似ている。
伽耶国の始祖は「金首露王」といわれるが、
今、韓国の港町釜山、国際空港のある金海市にある、亀峯(クシフル)山に天から卵が下ってきて
誕生したのが金首露王
天孫降臨神話なのである。
韓国では「金」姓の人が多いが、その中でも一番主流なのが「金海金氏」の一族、
一説によると、この一族が日本に渡って来て、日本の王朝をうちたてたともいわれる。
古代神話の符合性を考えると、何かのつながりがあると考えるほうが妥当性があるだろう。
日本が韓半島を植民地支配していた時代には、そのようなことは論議さえご法度だったが、今はいろんな資料や、証拠が出てきている。
歴史考察の一説として、検討に値する、説ではないか。

2009年3月21日土曜日

伽耶は日本のルーツ

澤田洋太郎氏の「伽耶は日本のルーツ」
興味深い論説である。
日韓の古代史の秘密をかなり解き明かしているように思う。
わが郷土「吉備」も半島との密接な関係の歴史がうかがわれる。
栄西禅師の出身氏族「賀陽氏」も、伽耶の出自とうかがわれる。
辛川、辛香などの地名にもそれがうかがわれる
そのほか、吉備の国の歴史には半島との密接な関係をうかがわせる地名や歴史的資料が残っている。
このあたりの史実を日韓共同で明らかにしてくれないものか。
偏狭な民族主義の色眼鏡を外して、歴史の真実を見てみたいものである。

2009年3月20日金曜日

明日はお彼岸

明日は春分の日
お彼岸の中日である。
墓参に行く予定
お彼岸に墓参するようになったのはいつごろからのことなのだろう?
以前聞いた話では、
お寺の坊さんたちが、布教目的で
彼岸の功徳を説いて回ったとか
仏教の布教の目的で始まったようである。
元来日本人は、先祖祭祀を行ってきた。
先祖供養が好きな民族であるともいわれる。好きというか、大切に思うというか・・・
最近墓参にもいかない家庭が増えているとか・・・
田舎にいると、荒れ廃れた墓をよく見る。
そんなのを見ると、どうも運勢を感じない。
先に写真を張り付けた「黒田家の墓」などは、多くの人が参拝しているようだが・・・
敬神嵩祖が、民族の伝統。
これ忘れるようになったら終わりだね。

2009年3月18日水曜日

栄西禅師

実に不思議なのだが
吉備の国 備前 備中 備後 美作に分けられた。
吉備の中山を境に分けられた備前と備中
上道(かみつみち)と下道(しもつみち)
いつも対比的に、偉人を輩出している。
その代表が、和気清麻呂と吉備真備であり
栄西禅師と法然上人ではないだろうか
法然上人は美作の出身だが、一方栄西禅師は備中、吉備津神社の神官をしていた賀陽氏の出
神官の家からなぜ仏教の禅師が出たのか不思議だが、この時代は神仏習合の時代
吉備津宮には神宮寺(神社に所属する寺院)というのがあって、神官も晩年になると神宮寺で念仏を唱えて過ごしたといわれる。
栄西禅師はこの吉備津宮の神官をしていた賀陽氏に生まれ、安養寺で出家得度
比叡山に上がって修行、二度にわたって宋の国に渡り、その当時盛んになっていた臨在禅を日本にもたらした。
また日本に帰るに際して、茶の種を持ち帰り、茶を普及した。「茶祖」といわれる所以である。
「興禅護国論」を著し、鎌倉武士に受け入れられ禅の普及を果たしていく。
備前備中においても金山寺の復興などに尽くしている。
詳しい生涯など、またいずれ紹介しよう。

2009年3月16日月曜日

法然上人と誕生寺




津山線を行くと誕生寺という駅がある。


浄土宗開祖「法然上人」の誕生の地に建てられた「誕生寺」にちなむ駅名である。


「南無阿弥陀仏」と唱えれば一切が救われる


と教えられた。


誕生寺に行くと、まずイチョウの木に圧倒される。


乳銀杏という。さかさ銀杏とも言われるらしい。


法然上人が今の那岐町にある「菩提寺」で修行して、帰ってくるときに杖としたイチョウの枝を挿して芽が出たものという。


誕生の逸話がある。


美作の古刹「本山寺」で両親が篭って祈願して誕生したのが法然上人という


幼名を勢至丸という。


父は漆間時国、今で言う警察署長のような役職だった。


ある夜、怨みを持った明石う定明という武士が夜襲をかけてきた。


手傷を負った父が亡くなるとき「怨みを持つな。復讐してはいけない。仕返しをしたなら再びまた血を流市、それを繰り返すことになる。お前は私の菩提を弔ってほしい。


その父の遺言に従い、修行の道を出発したのが「法然上人」だった。


母親は「秦氏の君」という。


この時代、このような思想を持った、法然上人の両親のような武士がいたことに驚異を感じる。


イエスキリストの「汝の敵を愛せ」の思想に通じるような・・


比叡山で修行し。浄土の教えを説いた法然のもとに、多くの人々が救いを求めてきた。


その中に、武士達も


有名なのが須磨の戦いで平家の若武者を討った熊谷直実がいた。


彼は、敵とはいえ、若き命を奪ったことに心を痛めていた。


その心を法然の教えが救った。


彼は出家し、法然上人亡き後


師の故郷の美作の誕生の地を訪ね。かの地に寺を建てた。


それが「誕生寺」である。




ここにも「敬天愛人」の精神が脈々と生きている。


平和を祈る、篤き心が生きている。


吉備の国の風土が生きている。

岡山よりも「吉備」

私は「岡山」というのはあまり好きではない。
城下町岡山の名前には文化を感じない。
それより「吉備」の響きがいい。
「吉備の国」の起源はよくわからないが、何か夢がある。
大和の王朝にとっては、目の上のたんこぶのような時代があったのかもしれないが
戦国の時代、この地も戦乱の嵐に巻き込まれたが、
長い歴史の大半の時代は、
温暖な気候風土の中で
豊かに、相和して暮らしてきた。
国の為に、命がけで貢献した多くの人士を生んできた。
「敬天愛人」の心の生きているところ
信仰心篤く 勤勉さに満ちた気風
進取の気風に富んで 決して保守保身に走らない
そんな吉備の国の気風が好きだ。

2009年3月14日土曜日

モンゴリアンの思想「敬天愛人」

『モンゴリアン文化には敬天愛人と家族共同体を重視する思想がある。聖徳太子の「和」の精神はまさにその典型である。』
このような内容の評論に最近、出会った。
モンゴリアンとは、蒙古班をもった民族で、一説によると世界人口の70%はモンゴリアンとも言われている。このモンゴリアンの体型的特徴は赤ちゃんの時できる青い斑点だが、黒人や白人の一部にもみられるらしい。これらはモンゴリアン民族の血が混じった民族らしい。
さて、「敬天愛人」という言葉を時々目にするが、上野の西郷さん(西郷隆盛)の銅像の前に「敬天愛人」という言葉があったのを見ると、西郷さんの座右の銘のようなものが「敬天愛人」であったようである。
韓国の建国精神にも「敬天愛人」とあるし、この思想はアジア的な広がりが確かにあるようである。
わが郷土の偉人の代表である「和気清麻呂」の真筆に「我独慙天地」というのがある。「われひとりてんちにはづ」と読むように思うが、彼の生涯を見ても「敬天愛人」の思想のようである。
今年のNHKの大河ドラマ「天地人」に登場する、上杉謙信や直江兼続などの精神もどうやら「敬天愛人」のようである。
家族的紐帯を大切にするのは「家和万事成」(いえわしてばんじなる)という言葉に見ることができる。
確かに東洋の伝統は家庭重視の考え方であり、国や企業の文化も、家族的である。
それらが失われてきているのが、最近の世相のように思われる。西洋化した生活文化の中で東洋的良き生活の文化が失われているのが実情である。
経済危機や、世界的騒乱を解決できる糸口がこのモンゴリアンの精神にあるのではないか?

先ほどの「和気清麻呂」を筆頭に、
吉備の国の生んだ偉人達、その精神にも「敬天愛人」と家族的紐帯の意識が根差しているように思う。

吉備の国の人物は基本的に「平和思想」「慈愛の心」の持ち主たちである。自らの利益や欲望のために生きたという人を見たことが無い。
古代から今に至るまで、常に善良な政治家、思想家、宗教家、芸術家、技術者、経営者、スポーツ家、医師などを生んできた。

このような風土と人物が、これからの日本、世界に必要なのでは!
「楽土」の見本が吉備の国から始まるのでは・・・



2009年3月10日火曜日

楽しみ

人生の楽しみとは何か?
歌ったり踊ったり、あるいは旅行をしたり・・
ただ…たった一人でいても楽しくはない。
一緒にいてくれる人がいることが幸せ。
一緒に喜びを分かち合う人があることが幸せ
その大切さを忘れていることが案外多いのかも・・
それでむなしさを・・
裏切りがなければ・・・・
きっと真実を・・

2009年3月6日金曜日

秦氏

吉備の国、特に宗教の歴史を見ると秦氏との関連を多く発見する。
浄土宗開祖の法然上人のお母さんが秦氏の君の言われているが、最近西大寺の観音院の展示会がデジタルミュージアムであるからと行ってみて、少々驚いたのが、西大寺の観音院を起こした最初の人物が、今は山口県の玖珂郡の、寺の縁起では「藤原皆足媛(ふじわらのみなたるひめ)」となっているが、展示物を見ると「秦皆足媛(はたのみなたるひめ)」となっていた。この姫が千手観音を金岡(今の西大寺観音院の地)に庵を組んで奉ったのが始めとされている。
飛鳥時代の廃寺の跡が備前、備中にあるが、備中の秦原の廃寺は有名である。備前は秦多にもある。
和気清麻呂が秦氏と組んで平安京を造ったことは有名。
日本の古代史において、秦氏が果たした役割は極めて大きなものがある。吉備の国にもその足跡が多く残っている。それが現代にどのようにつながっているのか?そのあたりのことを知りたいものである。

2009年3月2日月曜日

吉備の人々

思えば吉備の国は偉い人がたくさん出ている、
どうも、皆が皆とってもいいほど、平和愛好者のようである。
元来戦争があまり好きではないようだ。
郷土出身の宗教家が多いが、そのひとり、法然上人は、その父親が、自らを死に至らしめた的に復讐することより、菩提をとむらってほしいという父親の遺言ゆえに出家し、戦乱続く世において、殺傷に苦しむ武士たちにも、ただただ、「南無阿弥陀仏」を教えた・・・これは本当に平和思想だと思う。
明治以来、日本の首相を務めた、県出身者、犬養毅、宇垣一成、平沼騏一郎、美奈平和主義者だたと思う。銃口を向ける敵にも「話せばわかる」と諭した犬養毅、軍縮を主張して陸軍から疎まれた宇垣一成、国賊のレッテルを張られながらも毅然として信義と、戦争反対を貫いた平沼騏一郎、本当に偉いと思う。
いま日本に、世界に必要なのは、本当の平和精神を持った、吉備の国の人間の活躍ではないのか。