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2016年2月6日土曜日

東大寺大勧進重源と法然、栄西~備前備中

先史古代研究会(岡山)の機関誌「きび考」に掲載いただいた東大寺大勧進重源に関する記事を紹介します。


東大寺大勧進重源と法然、栄西~備前備中
山田良三

「重源」を取り上げようとした動機
東大寺大勧進の「重源」は備前備中とも深いかかわりのある人物である。重源は東大寺勧進職として備前及び備中に多くの足跡を残している。万富の東大寺瓦窯跡や湯迫温泉、野田荘の開発などが有名である。これは藤井駿先生が纏めておられる。
「備前國に於ける重源遺跡」(藤井 駿)資料参照
その重源について調べてみようという私の動機は重源その人というよりは、岡山に縁の宗教家であった法然と栄西に出会いはあったのか?という素朴な疑問からであった。
法然と栄西はほぼ同年代の日本を代表する宗派の開祖となっている。法然が栄西より9歳年上である。
 同じ年代に生き、しかも同じ比叡山に学んだ両者に何らかの出会いや交流があってもおかしくない。しかし、法然の伝記や栄西の伝記を読んでみてもこの両者が出会って交流したという記述には出会っていない。
 しかし、この両者とともに関係を持っていたという記録に残っているのが「重源」であった。そこで「法然と重源」「重源と栄西」この関係を知れば、「法然と栄西」の関係も見えてくるのではと思ったが、どうやらこの両者がともに深い関係~というほどのことは見いだせなかった。

重源とその時代的背景
 その代わりといってはなんであるが、この「重源」という人物に関する様々な文献にふれているうちに重源という人物の魅力と、この時代の背景が見えてきた。
 「重源」と言えば、平秀衡が南都制圧において大仏殿を灰燼に帰しせしめたものを、大勧進として再建を果たした人物として歴史に刻まれている。学校の教科書にも記載されている事実である。
 ちなみに現在の東大寺大仏は戦国の争乱で再び焼失したものを江戸時代も中期に近くになって再建されたもので、その規模は重源が再建したものの三分の二程度にしか過ぎない。重源の再建した大仏は全身が金箔でおおわれ、大仏殿の巨大さとともにその威容を誇っていたに違いない。それは当初、聖武天皇の時代に建設された最初の東大寺大仏よりも優れたものだった。
 時代は源平の合戦の時代である。平安の貴族社会から武家の時代へと変貌を遂げる時代でもある。この時代に「宗教」という分野を代表して深くかかわったのがこの3人である。
 源平盛衰記には「よのひとのことわざに、智慧第一法然坊、持律第一葉上坊(栄西)、支度第一春乗坊(重源)、慈悲第一阿証坊(印西)といわれけり」とあります。平安末期源平の争乱の続く激動の時代にともに生きた代表的宗教家であった。

 
法然の伝記には「重源は法然の弟子であった」とか「東大寺勧進職は当初法然に依頼されたが法然が重源を推薦した。」いう記述がある。
 一方栄西の伝記の中には、「栄西は宋で重源と出会い共に帰国した。」「重源が栄西を東大寺勧進職の後任に推薦した。」というような記述が出てくる。
その関係性の事実関係には疑問も残る点があるが、法然と重源、重源と栄西、それぞれかなり深い関係があったことは確かのようである。

重源入宋は無かったのか
 さて、今回「重源」について調べるうちに意外な事実というか、論説に出会った。
重源に関する様々な出版物の中でも代表的な本が、昭和30年に東大寺が、重源上人の750回忌を記念して出版された「重源上人の研究」という本である。(参考資料)
その中の「重源入宋伝私見」 山本栄吾(京都大学建築学教室)で、山本氏は重源の入宋を否定する見解を述べている。
栄西伝には、栄西の最初の入宋に際して宋国において二人が出会い、共に帰国したとなっている。その根拠は法然の庇護者として知られる九条兼実の日記に重源と会って話をした記録があり、その中で重源が自らを「入宋僧」(宋に渡って修行してきた僧。当時は入宋が一つのステータスであったらしい。)と紹介したとある。また、高野山に残る鐘に「入宋僧重源」との銘が残っていることを根拠にしているが、これらはあくまで重源がある限定された場所で語ったことであり、実際に重源が入宋したという確実な資料や本人自身の記述した記録も残っていない。九条兼実に話した話も重源の法螺話であったのであろうというのである。栄西伝の根拠は鎌倉時代に書かれた仏教史書「元亨釈書」が根拠ともされるが、元亨釈書自体が風説を纏めたような内容であるので根拠に乏しいというわけである。
この山本栄吾氏の説にはかなりの説得力がある。ある研究者が山本氏の説に反論しようとしたが「とても君の説では山本氏の説に反論はできない。」と窘められたという。

重源とはどういう人物だったのか
重源上人の人となりを生き生きと描写しているのが、高橋直樹著「悪党重源 中世を作った男」である。この中で描かれる重源は宋の一切経(仏教経典の全集のようなもの、当時の日本の寺院ではこれを備えることがステータスだった。)の宋国で入手して帰国する僧として描かれている。これは直接国交は無かったものの宋に渡ることや宋の文物が宮廷や寺院のステータスになっていたことを言っていることと思われる。重源は自ら自身が入宋して一切経を招来したと言っているが、これは東大寺の勧進としての拍をつけるための法螺だったとしても不思議ではない。

重源という人物は実にユニークである。東大寺の勧進として東大寺の再建を任されて最初にやったのは「宣伝」である。一輪車を作って各地に東大寺の勧進を勧めて回った。まずは東大寺の勧進を広く知らしめることから始めた。
そののち世界最大の木造建築物として建築史に残る大建築事業を進めるにおいて最も肝心なことは資金調達と建築技術であった。
重源は勧進活動(資金調達)を実現するためにありとあらゆる手法を用いた。今の価値観からすればそんなことまでしてというような手法も数多く用いている。
当時の政界、財界、宗教界、一般民衆まで巻き込んで東大寺再建という大事業を進めた。
源平盛衰記には「仕度第一俊乗坊(重源)」とあるが、まさにその姿は僧形をした、一大事業家の姿で、高橋直樹氏が「悪党」と表現しているように、表の顔もあれば裏の顔もある、その目的を果たすためにはあらゆる手法を取る。実に破天荒な人物であったと見る。
まさに当時は政治の世界でもその他あらゆる権威が大きく変換の時代であった。
これまで国家の権力を掌握してきた公家から平家~源氏と武家社会に変貌を遂げて行く。宗教的には南都(奈良)や比叡山・高野山の宗教的権威が薄れて、法然による浄土門や栄西がもたらした禅宗が交流していく。重源がすごいのはこのいずれとも関係を持ち東大寺再建という大事業に協力を取り付けて行くことである。
九条兼実を動かし朝廷や公家の協力を取り付けるかと思うと鎌倉の源頼朝の協力も得て、大佛の開眼供養には頼朝自ら参加を取り付けている。重源は大仏と大仏殿ほかの再建のために周防と備前の国司となりこの両国から上がる税収や産物を利用するのみならず、備前の湯迫や阿弥陀堂に見られるごとく一般民衆動員も抜かりが無かった。
宗教的には南都や比叡山・高野山の協力さらには伊勢神宮にも参拝して神社界の協力も取り付ける。一般民衆に広く人気を博していた法然や西行もうまく取り込んで行く。

奇行も目立つ。大仏開眼供養のあと源頼朝が重源と会おうとするが姿が見えない。突然出奔してしまった事件がある。気づいたら高野山別所に行っていた。現代でも国家的大事業の総責任者が突然姿をくらましたらそれこそ大事件であろう。

実に破天荒とも言える重源~ドラマの題材としても実に面白いのではないか!ぜひ重源を軸にしてこの時代を描くドラマが見てみたい。大河ドラマにしてもいいともうのだがNHKさんいかがでしょう。

2016年2月1日月曜日

岡山人物銘々伝を語る会2月例会 「伝統と革新の作庭家重森三玲」

岡山人物銘々伝を語る会2月例会をご案内します。参加希望は事務局(山田)まで



「岡山人物銘々伝を語る会」2月例会のお知らせ                        
       世話人代行  久井 勲
 1月の第112回例会は、115日、近藤泰宏さんに「岡山の石門心学とその後」と題して語っていただきました。プライベートなことですが、時々行楽で京都へいったときに、錦小路市場で買い物をし、次にイノダコーヒー店にうかがいます。コーヒー屋の近所に、「石門心学講舎跡」という石碑が立っています。石碑だけですが、ウナギの寝床のような町屋の中で、石田梅岩が己が理念に基づいて講釈をしている姿を想像すると、なるほど、これが確実な無形の教育インフラとなって明治以降の教育を飛躍的に有効ならしめた源流だと実感してきます。近藤さんの紹介にあるように、岡山での講舎の数も多くにのぼっています。話は広がって----近藤さんの話はこれが面白い----津山では藩主をも巻き込んで教育熱があがり、しかもそれが修養論からさらに上に立つ人の経済政策論にまで発展し、それが津山洋学の心に結びついて行ったのでしょう。なるほど日本人が明治以降、西洋流の合理主義にすんなり馴染めたのも、心学に発する系譜ゆえかと感じました。情報中心になり過ぎた現代からみれば、教育のあるべき姿のヒントがあるように思われました。
      記
平成28年2月 第114回例会は次のとおり
日時:19日(金)18002000      
会場:ゆうあいセンター(きらめきプラザ 旧国立病院の2Fです) 
  今月は県立図書館休館のため会場が変わります。ご注意ください。 
テーマ:伝統と革新の作庭家 重森三玲
講師:大濱文男氏 
 
 重森三玲  賀陽町吉川(現・加賀郡吉備中央町吉川)の生まれ。日本美術学校で日本画を学び、いけばなと茶道を習う。日本美術学校卒業後は東洋大学文学部に学ぶ。大正6年(1917年)画家を志し上京昭和4年(1929年)京都へ移住いけばなの革新を世に提唱した。 その後日本庭園を独学で学ぶ。全国の庭園を実測調査し、古庭園の調査などにより、庭園研究家日本庭園史のさきがけとな。『日本庭園史図鑑』26巻、息子の重森完途と共に『日本庭園史大系』全33巻(別巻2巻)を完成庭園史研究多大な功績を残した。作庭家としての三玲、力強い石組みとモダンな苔の地割りで構成される枯山水庭園が特徴的であるとされ、代表作に、東福寺方丈庭園、光明院庭園、瑞峯院庭園、松尾大社庭園などがある。
京都の重森三玲旧宅(旧鈴鹿家住宅)は、吉田神社の社家として名高い鈴鹿家の邸宅であったものを、昭和18年(1943)に三玲が譲り受けたもので現在重森三玲庭園美術館となっているまた出身地の吉備中央町の吉川には重森三玲記念館があり重森三玲に関する様々な資料を展示している。(休館日土曜日 入館無料)

大濱氏も重森三玲に関する貴重資料を準備して、重森の人となりや庭園研究家、作庭家としての歩み、華道や画家としての歩みなども紹介していただきます。当日は重森三玲の弟子で最後を看取った岩本俊男氏(岡山市在住    )にも來会いただく予定です。多数ご参加ください。

近現代史を学びなおす必要のある日本

最近関心を持っているのが「近現代史」
「従軍慰安婦」「や「南京大虐殺」など、一方的に日本を悪者扱いする近隣諸国の歴史観にはうんざりする。
日本の近現代史の最大テーマはやはり第二次大戦での敗北である。その結果「歴史観」はかなり歪められた。それまで、過去の日本歴史は否定され、日本を侵略国家と断定した歴史観がこれまで日本を支配してきた。
本当の意味で正しい歴史観とは何なのか?ここではっきりさせないと今後の日本の未来に禍根を残す。
私は日本の役割は極めて重要かつ重大だと思っている。世界の未来に重要な役割を担っていると思う。しかし、日本の国論自体が確立しているとは言えない。

日本政府としては先の安倍総理による戦後70年の談話があるが、これにはさまざまな評価がある。戦後70年の一定の区切りをつけた談話であるとの評価もあるが、今だ整理されていない課題を残しているとも言える。

これは日本人の良識と見識で正しい歴史観を見出さなければならない課題があるということだろう。

今勉強中だが問題やテーマを整理して行きながら記事を書いていこうと思う。