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2017年3月6日月曜日

岡山人物銘々伝を語る会3月例会のご案内

平成2932
「岡山人物銘々伝を語る会」第1273月例会のお知らせ                         
       世話人代行  久井 勲
 
2月の第126回例会は、近藤泰宏さん(当会会員津山歴史人物研究会代表に、「箕作阮甫箕作阮甫に学ぶ家族の価値について語っていただきました。なかなか2歴史を語る“というのは、その人物の事績や人的関係や書き物といった事柄が中心になってきがちですが、近藤さんの場合は、ちょっとちがっていました。それらの事柄の依ってき来るところは何か、しかもそれらを”家族“というもっとも、外からは分かりにくい領域からアプローチしようとするものでした。これこそ、人物銘々伝の趣旨に近いものといえましょう。“歴史は女が作る”という言葉がありますが、“歴史は家族が作る”も歴史の実相を知るうえで重要なポイントと思えます。 
レジメにいい言葉がありました。「家和して万事成る。家庭の原動力は愛。家庭は人類愛を教え学ぶ学校である」 現代人はこれを忘れがちになっているのではと考えさせられました。近藤さんの、いつもながらの多角的な観点からの“語り”は引きこまれました。歴史の中の人間、それは当たり前のことですが、涙と愛と人間臭さといった有機的な存在として人間の実相に迫ることができました。ありがとうございました。

さて次回例会は、下記のとおりとなります。
                記
平成29317() 第127回例会 
日時:317(金)18002000   (通例第3金曜日)
会場:岡山県立図書館 サークル活動室 
テーマ:小林岩吉 閑谷黌岡山分校柔道教師」
講師 :  難波俊成氏 (会員 閑谷学校研究委員会委員)    
 閑谷黌(閑谷学校)に岡山分校は、明治42年に岡山市広瀬町に開校、明治44年に大供に移転、大正2年に私立中学第二閑谷黌として独立、翌年市立中学岡山黌と改称、大正7年に現在の岡山市浜に移転、昭和8年に廃校となるまで24年間、岡山の中等教育に貢献した。スポーツが盛んで剣道部は何度も全国優勝したそうである。今回はこの学校の柔道教師小林岩吉について、閑谷学校研究委員会の委員をなさっている難波俊成先生に話をしていただきます。

会は山陽新聞情報ひろばにて案内予定です。(3日木曜日掲載予定)お誘いあわせの上ご参加ください。 (上記通常例会の件、お手数ですが、下記にて出欠をお知らせ下さいますようお願いいたします) 

            平成29年 3月  日
  「岡山人物銘々伝を語る会」(山田)
       FAX0868062525  TEL09010333327
       Eメール:kibirakudo@gmail.com またはyamada.ryozo@gmail.com まで

       平成293(127回例会)     ご出席     ご欠席 

        氏  名 :


岡山人物銘々伝を語る会 今後の予定
月日
テーマ
講師
会場
備考
128
4
21
夏目漱石の岡山滞留
熊代正英
吉備路文学館副館長
県立図書館サークル活動室2


129
5
19
山田方谷の師「丸川松隠」
高橋義雄
県立図書館サークル活動室1


130
6
16
「平賀元義」
大濱文男
県立図書館サークル活動室1


131
7
21
神戸事件と滝善三郎
杉 嘉夫




132
8
19
「児島高徳」
山田良三




128回 4月21日 夏目漱石の岡山滞留   熊代正英  吉備路文学館副館長   文豪夏目漱石が岡山に滞留していたことは最近岡山でもよく話題にあげられるようになってきました。「坊ちゃん」ゆかりの松山市などでは、漱石についての研究や勉強会なども活発になされていると聞きます。岡山でも、岡山滞留時代に漱石はどんなことをしていたのか?どんな記録が残っているのかなど漱石について研究や勉強をしたいという声が高まってきました。そこで今回、吉備路文学館副会長の熊代正英先生にお話を伺うことといたしました。
129回 5月19日 山田方谷の師「丸川松隠」  高橋義雄   備中松山藩の藩政改革で多大な貢献をした山田方谷先生の師匠が丸川松隠先生です。丸川先生の人となりやその教えに、山田方谷と言う偉大な改革者を生んだ根っこがあるのではと思います。また、備中と言う風土にも着目です。金融史や思想史的な側面から山田方谷やその弟子、その師弟関係を研究されている高橋義雄さんに語っていただきます。
130回 6月21日 「平賀元義」  講師:大濱文男   幕末から明治に至る時代に、備前、備中、美作の現在の岡山県からは偉大な文化人を多数輩出しています。平賀元義はその中でも代表的な一人です。国学者、歌人、書家としても知られる平賀元義の人となりや業績について大濱文男さんに語っていただきます。
131回 721日 「神戸事件と滝善三郎」 講師:杉 嘉夫  幕末の神戸、備前藩兵が隊列を横切ったフランス人水兵を負傷させたことで引き起こされた神戸事件。隊長の滝善三郎が切腹することで収拾した。諸外国に日本の切腹を印象付けた事件となった。その瀧善三郎の墓は東山墓地の一角にあります。備前岡山池田藩の歴史に詳しい杉嘉夫さんに語っていただきます。
132回 819日 「児島高徳」そのルーツと後孫  講師:山田良三
太平記に登場する後醍醐天皇に忠誠を尽くしたことで知られる、忠臣、児島高徳。太平記にのみその記述があることから「児島高徳抹殺説」も明治の時代に起こりました。果たして実在の人物だったのか?また、伝えられる伝記をみれば新羅の王子アメノヒボコの子孫ともされ、またその子孫が宇喜多の一族ともいわれていいます。太平記の作者とされる小島法師とは児島高徳その人ではとの説もあります。そのあたりも含めて語っていきたいと思っています。
日程は未定ですが以下の提案をいただいています。
・「日本初の飛行機を作った医師 岸一太」市久会 坪井章さんより
・「美作聖人森本慶三とその師内村鑑三との交わり」近藤泰宏さん
そのほかにもいくつか申し出をいただいています。予定を調整しながら順次テーマを決めて行きたいと思います。「語る会」は参加者みんなで語りながら進める会として運営しています。皆様からのテーマや講師のお申し出や提案をお待ちしていますのでよろしくお願いいたします。
・通常例会は毎月第3金曜日の18002000です。会場は通常岡山県立図書館です。県立図書館休館日など変更になることもあります。参加の際は事前に確認をお願い致します。
・行事予定を山陽新聞木曜日の[情報ひろば」の欄(通常は第2木曜日)に掲載依頼しています。ご参照ください。
参加希望の方は事務局にお申込みください。席に余裕がある場合は当日参加も可能です。ただし資料の準備は参加の申-し込をいただいた方を優先していますのでご了承ください。
-申し込み事務局(山田)まで  メール:okayamajinbutsu@gmail.com 又は yamada.ryozo@gmail.com
 FAX:086-806-2525   携帯:090-1033-3327(山田)  

・毎月の行事案内を郵送、FAXEメール等の方法でご案内しています。案内ご希望の方はお申し出ください。

2017年2月12日日曜日

安本美典氏講演会(続き)

安本美典氏の講演会を聞いての感想を書いて今したが、所要が多く、執筆が中断していました。続きを書いていきます。 

安本氏の歴史研究手法はユニーク、統計学などを駆使しているので、歴史の専門的研究者にしてみれば、いかにも「如何わしい」と異論のあるところ、当然だと思う。まあ、もともと素人の私などには面白い見方で、注目するが専門家にしてみれば「突っ込みどころ満載」なのであろう。

手法はともかくも、私にはとても注目の「説」であった。

安本氏は「邪馬台国は福岡県にあった―ありえない畿内」と題して講演を始めた。
まず、白鳥庫吉の「卑弥呼=天照大御神」説と、和辻哲郎の「邪馬台国東遷説」を引用しながら、独自の文献年代論を展開して、卑弥呼は天照大御神であり、魏志倭人伝にある邪馬台国は今の福岡県であると断定していった。
また、地名学者の鏡味完二氏の著「日本の地名」から
「九州と近畿のあいだで、地名の名付け方が実によく一致している。これは単に民族の親近と言う以上に、九州から近畿への大きな集団の移動があったことを思わせる。」という一文を引用して、「邪馬台国東遷説」との重なりを指摘した。

さらに安本氏は、卑弥呼の宮殿のあったところは福岡県の甘木市平塚の平塚川添遺跡がそれではないかと言う。
平塚川添遺跡は佐賀県の吉野ケ里遺跡と同程度かそれ以上の規模を持つ環濠集落であったことが明らかになったと、1992年12月の新聞報道があった。高倉洋彰西南学院大学教授は「吉野ケ里遺跡と同様な性格を持った大規模な拠点集落で、邪馬台国時代の一つのクニの中心遺跡と思われる。弥生後期には関西を含めて拠点的な大規模集落は吉野ケ里を含めて2,3例で、同時期の日本最大級の環濠集落とみていいい」と発言している。
最後に安本氏は、卑弥呼の墓は福岡県の平原王墓古墳であろうと結論付けられた。
平原王墓古墳は昭和後期の考古学者原田大六氏が生涯をかけて調査研究した。原田氏は小学校教員をしていた妻のイトノさんの助けのもと研究を続けた。昭和60年に68歳で亡くなった夫の調査研究書を平成5年に自費出版したが重さが8.5キロもある大書で夫の原稿料や自分の退職金、貯金をはたいて5000万円かけて出版したという。何故かくも大きな本を作ったのかと言うと、平原王墓古墳から出土した、直径46センチを超える巨大な銅鏡の原寸写真に折り目を入れることが恐れ多くてこのような大きな本になったと言われている。
この大鏡と言うのが、日本列島で出土した鏡の中でも最大のものでそれが5面も出たというのである。
この大鏡の模様が太陽の光彩を表すような模様で、実は先日岡山県立博物館で開催されていた「国立博物館里帰り展~岡山県内で出土した出土品で国立博物館に所蔵されている出土品を展示した展示会」で、岡山県内最大の出土数、全国でも9番目に多い丸山古墳の出土の鏡の中にも同様の模様の鏡があり、その鏡の説明をしてくれた学芸員の佐藤さんが「これは太陽の光彩を表しているものと考えられる」と教えていただいたばかりだった。それで女王卑弥呼が太陽光を映して祭祀をした鏡だと考えても不思議でないと思わされたのである。
場所は糸島半島である。博多湾の西、対岸に半島を望む丘の上に王墓古墳はある。

当日講演会場で安本氏の出版物が販売されていたが「卑弥呼の墓はすでに発掘されている それは平原王墓古墳である」と言う本が出版されたばかりで、最後の一冊が販売されていたので小生も買い求めて来た。原寸大では勿論ないがこの本にカラー刷りの写真が掲載されていたが、見事なものである。
もしやこの墓が卑弥呼の墓だとして、何故王宮があったと見做される朝倉市の平塚川添遺跡からは50キロ以上も離れたところに葬られたのか?という疑問については、その後の大和の王墓も王宮の所在地からかなり離れた場所に葬られている場合が多いとして答えておられた。
安本氏の話には無かったが、卑弥呼は半島の伽耶あるいは百済出身という説もある。何らかの半島南部諸国との関係があったとすれば玄界灘を望む糸島に王墓が設けられたとしても意味があるかもしれない。

講演後、岡山の歴史研究者との対談の場が設けられた。「邪馬台国吉備説」と「邪馬台国九州説」の討論の場となるかと期待したが、時間の関係もありそれぞれの主張するところを述べたことで対話は終わった。しかし、今回の講演会と対話の時間は有意義だった。

今回の対話の話し手の一人岡将男さんが「吉備邪馬台国東遷説」を唱えているが、東遷と言うことにおいては一致してる。

歴史作家の関裕二氏が「吉備=物部」説を唱えている。最近の関裕二氏の著作では海洋氏族の物部氏が東遷して大和の国づくりが始まったとの説を唱えている。

今回安本美典氏の「邪馬台国九州説」との整合性があるのではとの私の直観である。

小生も買い求めた「秦氏の研究」の著者、大和岩雄氏は魏志倭人伝の「女王国」と「邪馬台国」は別だったのではと述べている。魏志倭人伝の女王卑弥呼の所在地はどう読んでも九州であろうというのである。

この辺りは真実なのではないか!
女王卑弥呼が天照大御神であり。それから5代目の神武天皇が東遷したとすればこのあたりの辻褄はあってくる。
九州のアマテラスの一族がその後畿内に移動したとして。アマテラスの一族の前に大和に登った一群がスサノオの子孫饒速日一族、すなわち物部の一族だったというのは時代の変遷の事実とは矛盾しない。

安本氏の邪馬台国九州説は批判も多い。大和説からすれば、突っ込みどころのの多い部分がたくさんあるという。
まだまだ論争は続いて行くと思うが、小生の中では何か核心めいたものが出来て来たようにも思う。
「吉備とは何か?」と言うことをメインテーマにしながら、邪馬台国と卑弥呼の史実も検証していきたい。

半島や大陸とのかかわりはこれからも重要なテーマとなるであろう。
アメノヒボコの子孫とされる三宅一族、児島高徳や宇喜多一族などとの関りも興味深い。
これからも思いつくところを記事にしていきたいと思っている。



2017年2月11日土曜日

安本美典さんの話を聞きました

1月8日岡山駅西口にある国際交流センターで、岡山歴史研究会主催の特別講演会がありました。
今回、講師は安本美典氏、言わずと知れた邪馬台国九州説の旗頭です。
「邪馬台国が福岡以外の確率は99.9%である」と言い切っておられます。
その安本美典先生、岡山県、高梁高校出身であることは今回初めて知りました。お生まれは満州、満州から引き揚げてすまれたのが高梁市に近い美袋、ここから高梁高校に通われたようです。京都大学文学部に進まれて、日本古代史も専攻されていたようですが、どちらかと言えば専門は数理言語学、産業経済大学教授を経られて、今は日本古代史研究に専念されておられる由。

今回岡山での講演は、初めてとのこと。邪馬台国九州説と大和説の論争は聞き及んでいたが、ご本人の直接の話を聞くのは今回が初めて、おそらく大半の参加者の皆さんもそうだったと思う。

面白かったのは安本先生の論が数理統計学的な論証で、これまでの歴史学の手法とは全く違うのでびっくり。

続きを書く予定でしたが、所要に追われていました。続きを別記事で書いていきますのでよろしくお願いいたします。

2017年1月14日土曜日

吉備の歴史への取り組み

しばらく更新を怠っていました。
復活します。

岡山人物銘々伝を語る会
吉備歴史探訪会
岡山歴史研究会

主に吉備楽土(山田良三)の活動舞台です。

今年は岡山人物銘々伝を語る会で「児島高徳」を取り上げようと思っています。
現在資料を収拾と読み込みを始めています。

先日児島郷内の井上さん宅に伺い、様々な資料を見せていただきました。
郷内と言えば林の五流尊瀧院と熊野神社、児島山伏の本拠の地、児島高徳誕生の地とされています。五流尊瀧院には児島高徳誕生の地の碑があります。

ブログ主山田の誕生地は現在の倉敷市児島白尾、由加山蓮台寺の檀家に生まれました。由加山まで徒歩で30分くらいのところにあります。小さいことはよく由加山の神社やお寺に遊びに行ったものです。

1月の3日に初詣に由加山に行きましたがすごい参拝客で驚きました。我々の小さい事にはあんなにさびれていたのにと思います。

今は由加神社本宮と言います。宮司が同級生で中学校時代は一緒に通った間柄ですが、その宮司が金毘羅山との両参りの復活をと始めた由加山の火渡り大祭が昨年30周年を迎えたということで知り合いの宗教新聞の編集長と取材に同行して行きました。

この火渡りの大祭も以前何度か行ったことがありますが、ずいぶん参拝者が増えたものです。

昨年は大河ドラマ「真田丸」で、由加山の山上の多宝塔(県の重文、県内一の大きさを誇ります)
の脇に「真田幸村公頌徳碑」があることを紹介しました。
私の生まれ故郷の児島は繊維の街、今はジーンズの街として有名になっています。その繊維産業の起こりが、江戸時代栄えた讃岐の金毘羅山と備前児島の由加山の両参りの参拝客に真田紐を販売したのが始まりです。
児島は古来から綿花の栽培が盛んで、綿糸を製造していました。その綿糸を利用して真田紐を織って参拝者に販売したところこれが評判になり、地元児島の産業になったのです。
真田が九度山に蟄居中内職として始めた真田紐です。だれがどのようにして真田紐の製造技術を児島の人々に教えたのかはわかりませんが、真田紐あっての児島、真田家あっての真田紐ですから、昭和18年ちょうど戦時中ですが地元の繊維業者たちによって建てられたようです。
その由来はともかく「真田のおかげ」で現在の児島ありですので。やはり今でも真田家には感謝しないといけません。

何故児島に真田紐が?実は私の大学時代の先輩に村井さんという方があります。現在山口県の周南市で造り酒屋を営んでおられます。この村井先輩がやはり歴史が趣味でいろいろ地元の歴史クラブに参加して活動しておられるようです。この先輩がしばらく前に由加山に参拝したとの便りをくれました。それからこの先輩の自宅近くに真田の子孫がおられるとの情報でした。

吉備の児島~現在は児島半島となり本州と陸続きですが、かつて源平の合戦やそのしばらく後までは児島は「島」であって、瀬戸内海を航海する船も現在の児島の北側を航行していました。
今でもそうですが、児島は瀬戸内海航路のほぼ中央、瀬戸内海は干満の激しいところですから、東西を航行する船は海の満ち欠けに乗ってすなわち潮の流れに従って航海すれば丁度児島の当りにたどり着くわけです。潮目の代わるあいだ児島の港に船を停めて、そこから児島の名刹由加山に参拝した人たちも多かった模様です。由加山の瀬戸内海側の港が田の口港です。ここには四国は讃岐の金毘羅山からの参拝客や大阪からの商人や瀬戸内海各地の商人や船乗りが船を降り立ち由加山に向かいました。田の口の港には立派な鳥居が建っています。
江戸時代の名浮世絵師広重の画いた全国の名所絵図にも田の口港を描いた絵があります。(岡山県立図書館に5年前に実物が収蔵され、実物を見せてもらいに行きました。)
田の口から由加山までは約1時間の道のりです。当時としてはさほど遠い距離ではありません。
由加大権現は瀬戸内海を航海する商人や船乗りの崇敬を集め瀬戸内海沿岸を中心に全国に今でも52の末社があるそうです。私は九州宇佐八幡宮に参拝の折、そこにも由加神社がまつられているのをみて驚いたものです。
由加山には境内に多くの玉垣が残っていますが多くが大阪の商人の名が刻まれています。
由加神社の手水舎の脇の玉垣に有名な江戸の商人、塩原太助の奉納した玉垣があります。遥か江戸にまでその名の轟いていた由加山大権現だったのですね。

ちなみに金毘羅山にお参りした話の残る森の石松、彼はどうやら金毘羅山にはお参りしたものの由加大権現にはお参りしなかったようで、彼がその後不運だったのは両参りで由加山にお参りしなかったからでは・・・という話もあるようで~それは定かではありませんが、両参りが盛んだったころの話です。

吉備の児島は古代から瀬戸内海でも重要な島として、古事記日本書紀の国生み神話にも登場します。今でも瀬戸大橋で四国に通じる交通の要衝ですが、古代の瀬戸内海の航海をする人々にとっては何より重要な拠点の島であり。東西い通じ文化も醸成されていったものだと思います。
藤戸の瀬戸を隔てた陸側の吉備国も瀬戸内海航路の児島があればこそ栄えて行ったともいうことができます。

そんな児島が故郷の吉備楽土(山田)です。
その歴史の中で南朝の忠臣として太平記に記された武将「児島高徳」
関心を持たざるを得ません。
地元にいながらあまり多くのことを知らないのが児島高徳です。
それは児島高徳という武将が「太平記」にしか登場しないからだといわれています。明治のころには「不在論」も登場したようです。逆に「太平記」の著者である小島法師は児島高徳その人であるとも言われています。事実はどうなのでしょうか?

「太平記」は江戸の初期多くの大名家においても読まれ、「太平記読み」という職もあったといわれます。備前岡山の池田光政公も太平記を読み、政治の指南とされたそうです。

ちょっと興味がわいてきました。
これから関心をもって読んだり見たりしたことからブログ書いてみようと思っています。

以後よろしくお願いいたします。

2016年2月6日土曜日

東大寺大勧進重源と法然、栄西~備前備中

先史古代研究会(岡山)の機関誌「きび考」に掲載いただいた東大寺大勧進重源に関する記事を紹介します。


東大寺大勧進重源と法然、栄西~備前備中
山田良三

「重源」を取り上げようとした動機
東大寺大勧進の「重源」は備前備中とも深いかかわりのある人物である。重源は東大寺勧進職として備前及び備中に多くの足跡を残している。万富の東大寺瓦窯跡や湯迫温泉、野田荘の開発などが有名である。これは藤井駿先生が纏めておられる。
「備前國に於ける重源遺跡」(藤井 駿)資料参照
その重源について調べてみようという私の動機は重源その人というよりは、岡山に縁の宗教家であった法然と栄西に出会いはあったのか?という素朴な疑問からであった。
法然と栄西はほぼ同年代の日本を代表する宗派の開祖となっている。法然が栄西より9歳年上である。
 同じ年代に生き、しかも同じ比叡山に学んだ両者に何らかの出会いや交流があってもおかしくない。しかし、法然の伝記や栄西の伝記を読んでみてもこの両者が出会って交流したという記述には出会っていない。
 しかし、この両者とともに関係を持っていたという記録に残っているのが「重源」であった。そこで「法然と重源」「重源と栄西」この関係を知れば、「法然と栄西」の関係も見えてくるのではと思ったが、どうやらこの両者がともに深い関係~というほどのことは見いだせなかった。

重源とその時代的背景
 その代わりといってはなんであるが、この「重源」という人物に関する様々な文献にふれているうちに重源という人物の魅力と、この時代の背景が見えてきた。
 「重源」と言えば、平秀衡が南都制圧において大仏殿を灰燼に帰しせしめたものを、大勧進として再建を果たした人物として歴史に刻まれている。学校の教科書にも記載されている事実である。
 ちなみに現在の東大寺大仏は戦国の争乱で再び焼失したものを江戸時代も中期に近くになって再建されたもので、その規模は重源が再建したものの三分の二程度にしか過ぎない。重源の再建した大仏は全身が金箔でおおわれ、大仏殿の巨大さとともにその威容を誇っていたに違いない。それは当初、聖武天皇の時代に建設された最初の東大寺大仏よりも優れたものだった。
 時代は源平の合戦の時代である。平安の貴族社会から武家の時代へと変貌を遂げる時代でもある。この時代に「宗教」という分野を代表して深くかかわったのがこの3人である。
 源平盛衰記には「よのひとのことわざに、智慧第一法然坊、持律第一葉上坊(栄西)、支度第一春乗坊(重源)、慈悲第一阿証坊(印西)といわれけり」とあります。平安末期源平の争乱の続く激動の時代にともに生きた代表的宗教家であった。

 
法然の伝記には「重源は法然の弟子であった」とか「東大寺勧進職は当初法然に依頼されたが法然が重源を推薦した。」いう記述がある。
 一方栄西の伝記の中には、「栄西は宋で重源と出会い共に帰国した。」「重源が栄西を東大寺勧進職の後任に推薦した。」というような記述が出てくる。
その関係性の事実関係には疑問も残る点があるが、法然と重源、重源と栄西、それぞれかなり深い関係があったことは確かのようである。

重源入宋は無かったのか
 さて、今回「重源」について調べるうちに意外な事実というか、論説に出会った。
重源に関する様々な出版物の中でも代表的な本が、昭和30年に東大寺が、重源上人の750回忌を記念して出版された「重源上人の研究」という本である。(参考資料)
その中の「重源入宋伝私見」 山本栄吾(京都大学建築学教室)で、山本氏は重源の入宋を否定する見解を述べている。
栄西伝には、栄西の最初の入宋に際して宋国において二人が出会い、共に帰国したとなっている。その根拠は法然の庇護者として知られる九条兼実の日記に重源と会って話をした記録があり、その中で重源が自らを「入宋僧」(宋に渡って修行してきた僧。当時は入宋が一つのステータスであったらしい。)と紹介したとある。また、高野山に残る鐘に「入宋僧重源」との銘が残っていることを根拠にしているが、これらはあくまで重源がある限定された場所で語ったことであり、実際に重源が入宋したという確実な資料や本人自身の記述した記録も残っていない。九条兼実に話した話も重源の法螺話であったのであろうというのである。栄西伝の根拠は鎌倉時代に書かれた仏教史書「元亨釈書」が根拠ともされるが、元亨釈書自体が風説を纏めたような内容であるので根拠に乏しいというわけである。
この山本栄吾氏の説にはかなりの説得力がある。ある研究者が山本氏の説に反論しようとしたが「とても君の説では山本氏の説に反論はできない。」と窘められたという。

重源とはどういう人物だったのか
重源上人の人となりを生き生きと描写しているのが、高橋直樹著「悪党重源 中世を作った男」である。この中で描かれる重源は宋の一切経(仏教経典の全集のようなもの、当時の日本の寺院ではこれを備えることがステータスだった。)の宋国で入手して帰国する僧として描かれている。これは直接国交は無かったものの宋に渡ることや宋の文物が宮廷や寺院のステータスになっていたことを言っていることと思われる。重源は自ら自身が入宋して一切経を招来したと言っているが、これは東大寺の勧進としての拍をつけるための法螺だったとしても不思議ではない。

重源という人物は実にユニークである。東大寺の勧進として東大寺の再建を任されて最初にやったのは「宣伝」である。一輪車を作って各地に東大寺の勧進を勧めて回った。まずは東大寺の勧進を広く知らしめることから始めた。
そののち世界最大の木造建築物として建築史に残る大建築事業を進めるにおいて最も肝心なことは資金調達と建築技術であった。
重源は勧進活動(資金調達)を実現するためにありとあらゆる手法を用いた。今の価値観からすればそんなことまでしてというような手法も数多く用いている。
当時の政界、財界、宗教界、一般民衆まで巻き込んで東大寺再建という大事業を進めた。
源平盛衰記には「仕度第一俊乗坊(重源)」とあるが、まさにその姿は僧形をした、一大事業家の姿で、高橋直樹氏が「悪党」と表現しているように、表の顔もあれば裏の顔もある、その目的を果たすためにはあらゆる手法を取る。実に破天荒な人物であったと見る。
まさに当時は政治の世界でもその他あらゆる権威が大きく変換の時代であった。
これまで国家の権力を掌握してきた公家から平家~源氏と武家社会に変貌を遂げて行く。宗教的には南都(奈良)や比叡山・高野山の宗教的権威が薄れて、法然による浄土門や栄西がもたらした禅宗が交流していく。重源がすごいのはこのいずれとも関係を持ち東大寺再建という大事業に協力を取り付けて行くことである。
九条兼実を動かし朝廷や公家の協力を取り付けるかと思うと鎌倉の源頼朝の協力も得て、大佛の開眼供養には頼朝自ら参加を取り付けている。重源は大仏と大仏殿ほかの再建のために周防と備前の国司となりこの両国から上がる税収や産物を利用するのみならず、備前の湯迫や阿弥陀堂に見られるごとく一般民衆動員も抜かりが無かった。
宗教的には南都や比叡山・高野山の協力さらには伊勢神宮にも参拝して神社界の協力も取り付ける。一般民衆に広く人気を博していた法然や西行もうまく取り込んで行く。

奇行も目立つ。大仏開眼供養のあと源頼朝が重源と会おうとするが姿が見えない。突然出奔してしまった事件がある。気づいたら高野山別所に行っていた。現代でも国家的大事業の総責任者が突然姿をくらましたらそれこそ大事件であろう。

実に破天荒とも言える重源~ドラマの題材としても実に面白いのではないか!ぜひ重源を軸にしてこの時代を描くドラマが見てみたい。大河ドラマにしてもいいともうのだがNHKさんいかがでしょう。

2016年2月1日月曜日

岡山人物銘々伝を語る会2月例会 「伝統と革新の作庭家重森三玲」

岡山人物銘々伝を語る会2月例会をご案内します。参加希望は事務局(山田)まで



「岡山人物銘々伝を語る会」2月例会のお知らせ                        
       世話人代行  久井 勲
 1月の第112回例会は、115日、近藤泰宏さんに「岡山の石門心学とその後」と題して語っていただきました。プライベートなことですが、時々行楽で京都へいったときに、錦小路市場で買い物をし、次にイノダコーヒー店にうかがいます。コーヒー屋の近所に、「石門心学講舎跡」という石碑が立っています。石碑だけですが、ウナギの寝床のような町屋の中で、石田梅岩が己が理念に基づいて講釈をしている姿を想像すると、なるほど、これが確実な無形の教育インフラとなって明治以降の教育を飛躍的に有効ならしめた源流だと実感してきます。近藤さんの紹介にあるように、岡山での講舎の数も多くにのぼっています。話は広がって----近藤さんの話はこれが面白い----津山では藩主をも巻き込んで教育熱があがり、しかもそれが修養論からさらに上に立つ人の経済政策論にまで発展し、それが津山洋学の心に結びついて行ったのでしょう。なるほど日本人が明治以降、西洋流の合理主義にすんなり馴染めたのも、心学に発する系譜ゆえかと感じました。情報中心になり過ぎた現代からみれば、教育のあるべき姿のヒントがあるように思われました。
      記
平成28年2月 第114回例会は次のとおり
日時:19日(金)18002000      
会場:ゆうあいセンター(きらめきプラザ 旧国立病院の2Fです) 
  今月は県立図書館休館のため会場が変わります。ご注意ください。 
テーマ:伝統と革新の作庭家 重森三玲
講師:大濱文男氏 
 
 重森三玲  賀陽町吉川(現・加賀郡吉備中央町吉川)の生まれ。日本美術学校で日本画を学び、いけばなと茶道を習う。日本美術学校卒業後は東洋大学文学部に学ぶ。大正6年(1917年)画家を志し上京昭和4年(1929年)京都へ移住いけばなの革新を世に提唱した。 その後日本庭園を独学で学ぶ。全国の庭園を実測調査し、古庭園の調査などにより、庭園研究家日本庭園史のさきがけとな。『日本庭園史図鑑』26巻、息子の重森完途と共に『日本庭園史大系』全33巻(別巻2巻)を完成庭園史研究多大な功績を残した。作庭家としての三玲、力強い石組みとモダンな苔の地割りで構成される枯山水庭園が特徴的であるとされ、代表作に、東福寺方丈庭園、光明院庭園、瑞峯院庭園、松尾大社庭園などがある。
京都の重森三玲旧宅(旧鈴鹿家住宅)は、吉田神社の社家として名高い鈴鹿家の邸宅であったものを、昭和18年(1943)に三玲が譲り受けたもので現在重森三玲庭園美術館となっているまた出身地の吉備中央町の吉川には重森三玲記念館があり重森三玲に関する様々な資料を展示している。(休館日土曜日 入館無料)

大濱氏も重森三玲に関する貴重資料を準備して、重森の人となりや庭園研究家、作庭家としての歩み、華道や画家としての歩みなども紹介していただきます。当日は重森三玲の弟子で最後を看取った岩本俊男氏(岡山市在住    )にも來会いただく予定です。多数ご参加ください。

近現代史を学びなおす必要のある日本

最近関心を持っているのが「近現代史」
「従軍慰安婦」「や「南京大虐殺」など、一方的に日本を悪者扱いする近隣諸国の歴史観にはうんざりする。
日本の近現代史の最大テーマはやはり第二次大戦での敗北である。その結果「歴史観」はかなり歪められた。それまで、過去の日本歴史は否定され、日本を侵略国家と断定した歴史観がこれまで日本を支配してきた。
本当の意味で正しい歴史観とは何なのか?ここではっきりさせないと今後の日本の未来に禍根を残す。
私は日本の役割は極めて重要かつ重大だと思っている。世界の未来に重要な役割を担っていると思う。しかし、日本の国論自体が確立しているとは言えない。

日本政府としては先の安倍総理による戦後70年の談話があるが、これにはさまざまな評価がある。戦後70年の一定の区切りをつけた談話であるとの評価もあるが、今だ整理されていない課題を残しているとも言える。

これは日本人の良識と見識で正しい歴史観を見出さなければならない課題があるということだろう。

今勉強中だが問題やテーマを整理して行きながら記事を書いていこうと思う。