このブログを検索

2022年9月23日金曜日

宗教家・偉人を育てた岡山の教育(1)

 

  歴史人物シリーズ                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 宗教家・偉人を育てた岡山の教育

(令和二年11月5日  岡山歴史研究会歴研サロン  講座資料)


山田良三


 日本は識字率の高さや、犯罪の少なさ、礼節の優れていることなど、国民のレベルの高さが今でも高く評価されています。それは、日本の教育制度にありました。日本で、一般庶民に至るまでの教育制度が出来上がったのは、近世からのことでした。

 幕末から明治にかけて西欧諸国から日本にやって来た人々が一様に驚いたのは、日本では上流階級とおぼしき人々のみならず、市井の町民や農民に至るまで、大人も子供も、男子も女子も、等しく読み書きができること、さらに優れた礼節を身に着けていることでした。これは、その当時の世界の諸国の教育の実情からは驚異的なことでした。欧米諸国から見ても日本の当時の教育レベルは驚くほどの内容だったのです。



閑谷学校


外国人から見た近世日本の姿   (「日本遺産」ストーリーの詳細 HPより)

近世日本を訪れた外国人は、紀行文に日本人の様子を書き記しています。

イギリス領時代のカナダ出身の冒険家、ラナルド・マクドナルドは「日本回想記」の中で、「日本人のすべての人-最上層から最下層まであらゆる階級の男、女、子供-は、紙と筆と墨を携帯しているか、肌身離さずもっている。すべての人が読み書きの教育をうけている。また、下級階級の人びとさえも書く習慣があり、手紙による意思伝達は、わが国におけるよりも広く行われている。」と述べています。

また、イタリア人宣教師、アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノは、「日本巡察記」で「人々はいずれも色白く、きわめて礼儀正しい。一般庶民や労働者でもその社会では驚歎すべき礼節をもって上品に育てられ、あたかも宮廷の使用人のように見受けられる。この点においては、東洋の他の諸民族のみならず、我等ヨーロッパ人よりも優れている。」と記録しています。

これらの記述からは、当時の日本人が、他の諸外国と比較して、身分や性別を越えて高い読み書き能力を持ち、礼儀正しさを身につけていた様子が分かります。

こうした教育の伝統が継承され、明治維新後の日本の近代化が進められたことをロナルド・ドーアなどの欧米の研究者は、「近世日本の教育こそが日本近代化の知的準備をした。」として高く評価しています。

このようなエピソードからも分かるように、近世の日本では高い教育を受けた層が社会全体に広がっていました。外国人にとっては、一見しただけで相手の身分を判断することは困難なほどでした。


 近世日本の国民教育に貢献したのが学校です。日本最古の学校とされる足利学校は、現存し記録に残る最も古い学校として残されています。また、この時代から一般庶民向けの寺子屋も始まっています。信州や山形に日本最古の寺子屋があったことが知られていますが、同じころ日本で最も長く続いた寺子屋がありました。妹尾の街は「妹尾千軒皆法華」と法華の町として有名ですが、この街には矢吹学舎という、岡山県内最古の寺子屋があったことでも知られています。矢吹学舎は元亀元年(1570)に開設され、明治5年(1872)に、新学制の施行に伴い小学校になるまでの303年間、地域の子供たちの教育の場として続いてきました。最も長く続いた寺子屋です。運営していたのは矢吹家の一族で、明治になって学舎は妹尾小学校として引き継がれます。妹尾小学校の学章は、そのことから矢吹家の家紋をかたどったものとなっています。


 本格的に藩士の教育や、庶民の教育が進むようになるのは、江戸時代になってからです。その先駆けとなったのが、備前岡山藩主池田光政の推奨によって始まった岡山藩藩学校と、庶民教育の場としての閑谷学校です。岡山藩藩学校は寛文9年(1669)に、岡山藩主池田光政によって創立されました。この前身となったのが、寛永18年(1641)に設けられた「花畠教場」(花園会)です。(以前はこの「花畠教場」(花園会)が藩校の始まりとされてきましたが、最近の研究では、花畠教場は、儒学を学ぶ学生などの学習結社のようなものだったとされています。)この花畠教場で、後に備前藩の教育事業を本格的に推進するもととなった熊沢蕃山などが活躍していました。熊沢蕃山は、後に近江聖人と言われ、日本陽明学の祖とも言われる中江藤樹から学んできた心学(王学、王陽明)を教えていました。熊沢蕃山が著した「花園会約」には、蕃山の教える学問が、単なる武士の修養としての学問ではなく、いかに治世を行うかの実践論が述べられていますが、その中に王陽明の教えを垣間見ることが出来ます。


 寛文6年(1966)に、池田光政は当時の幕府の宗教政策に呼応して、寺社の淘汰を進めます。キリシタン摘発のために幕府が定めた寺請け制度を、備前は、キリシタンとともに邪宗門とされた不受不施派などの法華宗が多かったため、寺請けに代わって神職請けにして対応します。それとともに寺院と僧侶が村人たちの教育の担い手だったものを、神職や村役人ができるようにするため、担当する家臣や村役人を養成するために、津田永忠と熊沢蕃山の弟の泉仲愛に命じて石山に仮学校を設置しました。寛文9年(1669)になると、中山下・三之外曲輪の元不受不施派の寺院円乗院跡に新学校を建設、開校しました。これが全国最初の藩校と言えるものでした。この学校には「至聖文宣王」の中江藤樹の真筆の書軸が掲げられ、熊沢蕃山が開所の式の主催を任されました。式後は朱子学者の三宅可三が孝経を講義しました。この藩校では幕府の正学である朱子学が学ばれましたが、基本となる精神は、中江藤樹の私塾で行われていた心学の教育であったことがわかります。


 寛文7年(1667)に、岡山藩では家臣子弟の教育とともに村役人の教育のために各郡に「講釈師」が置かれ、郡ごとに手習所が置かれました。寛文11年(1671) には、藩内の手習所の数は123か所でした。手習所を提案したのは、津田重二郎(永忠)でしたが、池田光政は、津田に手習所の一つであった、「木谷村手習所」を「閑谷学問所」として、整備するように命じます。津田は閑谷に住まいして、学校建設に当たり、延宝元年(1673)に講堂が完成、翌年には聖堂が完成しました。このころ藩内は洪水や飢饉で、財政困難も重なったこともあり、領内全ての手習所は閉じられ、閑谷学問所を藩内全ての庶民教育の学校として統合したのです。これが、日本で最初の本格的庶民教育の学校となった閑谷学校です。

 藩内外から学生が集いましたが、おもに閑谷学校で学んだのは村役人や庄屋の子弟などでした。また志のある家庭では積極的に子供たちを学校に送ったのです。彼らは閑谷で学んだ治世の在り方で村を治めるとともに村人に、読み書きや徳目を教える役目を果たしました。


<閑谷学校>庶民の子弟教育を目的とし建てられた岡山藩の郷校で、国指定の特別史跡となっている。講堂は国宝、その他の建物も重要文化財となっている。入学者は庶民の子弟が主で、家中の武士の子弟や、他の領の子弟も含まれていた。卒業生の中には様々な形で活躍した人物も多い。教えられていたのは主に朱子学の内容で、多数の漢籍が閑谷文庫として保存されていた。建設は池田光政の信任の篤かった津田永忠が担った。明治の廃藩置県でいったん閉鎖されるが、備中の山田方谷を学長に招いて閑谷黌として受け継がれさらに閑谷中学(私立後に県立)となって行った。現在は岡山県青少年研修センターが置かれている。

閑谷学校は幾たびも存亡の危機に瀕している。特に二代藩主綱政の代には、藩主綱政の儒教嫌いもあり、何度も廃校の危機が訪れた。藩財政の悪化を理由に綱政は廃校を命ずるが、最初は光政公の反対によって、廃校を免れ、二度目は津田永忠の死後、廃校、棄却の危機があったが何とか危機を免れることが出来た。


全国各地に藩校が

 宝暦期(17511764)以降になると、全国の諸藩が岡山藩に倣って藩校を設立するようになります。同時に庶民教育も各藩が競って取り組むようになって行きました。一番多かった時で、全国で255か所の藩校がありました。良く知られているのが会津の日新館や米沢の興譲館、長州の明倫館、などですが、諸藩は競って有力な人材を輩出に力を入れていたことがわかります。こうやって日本の近世は世界に類例のない高レベルの政治システムと、庶民の教育のレベルの向上が図られたのです。そしてその教育モデルの原型が、熊沢蕃山が中江藤樹の私塾から学んだ教えとそれを教える学校だったのです。因みに大河ドラマで有名になった会津の日新館は藤樹の弟子の一人淵岡山(ふちこうざん)の指導で始まっています。藤樹学は当初、朱子学を正学とする幕府から疑問視されますが、その内容を幕府に詳細に伝えることで理解され認められることとなっています。

 藩校の中には国学や漢学にとどまらず、医学、化学、物理学、西洋兵学など、先端技術や学問を教えるところも増えてきました。明治4年の廃藩置県で藩校は一旦すべて廃止されますが、それぞれ新学制のもとで、中・高等学校の母体となって行きました。


 このように当時世界でも、最高レベルの識字率を誇り、学力だけでなく、倫理道徳面でも極めて優れた教育国日本が出来上がったのです。近世の日本は世界で最も進んだ文化国家となって行きました。一般庶民も文字を書いたり読んだりし、産業も振興、生活や文化も豊かになりました。当時の日本の様子を伝える海外の文書にはその記録が数多く残っています。また統治者()は、道義をわきまえ、領民のための統治を行い、治安も優れていました。この教育体制があったので明治の新時代に、日本は西欧の新技術やシステムを極めて短期に導入し、急速に国力を持つようになって行ったのです。


<近世日本の教育遺産群> 足利学校(足利市)、閑谷学校(備前市)、咸宜園(日田市)、弘道館(水戸市)は、近世の日本の教育が世界でも類例のない教育水準の向上と日本人のマナーの向上などを実現したとして、「近世日本教育遺産群」として、世界遺産登録を目指して活動中です。 


東大寺再建の勧進僧・重源

岡山宗教散歩7 重源 東大寺再建の勧進僧・重源  
東大寺勧進職を務めた俊乗房重源は、岡山にゆかりの法然や栄西と深いかかわりをもった僧でした。文治2年(1186)に法然が天台僧らと宗論を戦わせた「大原問答」に重源は弟子十数人を伴って参加しました。重源が「南無阿弥陀仏」の念仏を受け入れたことから「重源は法然の弟子」だと言われたこともあります。治承4年(1181)に起きた平氏軍の南都焼き討ちで焼失した東大寺の再建で、後白河法皇は法然に勧進職を要請しましたが、法然はこれを辞し、重源を推薦しました。  重源が栄西と出会ったのは宋代の五台山で、以後、親交を結ぶようになります。帰国後、栄西が鎌倉幕府に招かれ、幕府の後援で禅宗を広めた背景に重源の計らいがあったことは間違いないでしょう。  岡山県内には重源の史跡がいくつもあり、最もよく知られているのは岡山市東区瀬戸町万富にある「東大寺瓦窯跡」です。東大寺勧進職を引き受けるにあたり、重源はまず周防国国司を拝命しました。これは東大寺再建に必要な木材を確保のためで、次に備前国国司にも任命されたのは、備前国からの租庸を再建資金に充てると同時に、資源や人材・技術を再建に用いるためでしょう。  万富の東大寺瓦窯跡はJR万富駅にほど近い、岡山市から和気町に向かう県道沿いにあります。岡山県の三大河川の一つ吉井川に近いのは水運を使うためです。万富から少し下ったところが備前刀で有名な長船や福岡の市のあった備前福岡です。万富の対岸にそびえる熊山の麓には、備前焼の窯が多くあり、瓦焼きにふさわしい土と技術が当地にあったことがわかります。  重源の事跡を記した『作善集』(南無阿弥陀仏作善集)によれば、重源は全国に7つの別所(東大寺分院)を設け、そこを拠点に勧進を進めました。その一つが備中別所で、藤井駿岡山大学名誉教授は『俊乗房重源遺跡の研究』で、当時栄えていた「新山寺」(現総社市黒尾)と推定しています。新山寺は近くの岩屋寺とともに山岳修行の道場として栄えていた寺です。 新山寺は戦国時代、宇喜多氏と尼子氏の騒乱で焼失し、今は何も残っていませんが、地元総社市による鬼の城発掘調査の一環で調査が進められています。鬼ノ城(きのじょう)」の近くに「鬼の釜」と呼ばれている大きな鉄の釜が残っていますが、これは重源が設けていた湯場の釜と推定されています。  『作善集』に記されている備前吉備津宮の常行堂について藤井氏は、現在の吉備津彦神社(現岡山市北区一宮)だと推定しています。吉備津彦神社は、吉備津彦命を祀る吉備茶臼山古墳のある吉備中山の備前側にある神社で、備前と備中に分国された際、備前側に吉備津彦命を祀った備前国一宮です。同社の境内に東大寺瓦と同様の瓦が出土した所があり、そこが重源の寄進した常行堂の跡であろうと推定しています。  重源が設けた湯場の跡は備前にもあります。竜の口山の南麓にある浄土寺(現岡山市中区湯迫)は奈良時代の創建で、重源が活動の拠点とした寺です。重源はここを宿所とし、近くの国府に赴き執務したとされます。万富での瓦焼きのほか、船坂峠の改修など山陽道の整備や備前各地の荘園の開発も行っています。また浄土寺に「大湯屋」を設け、庶民に利用させたそうです。  備前で重源が開発した荘園の代表が岡山市北区野田の野田荘で、筆者が住んでいるところです。ここにある今村宮の宮司家から、黒住教の教祖・黒住宗忠が出ています。  重源の前半生は謎に包まれています。宋に3回渡ったと自称していますが、文献は残っていません。久野修義岡山大学教授は『重源と栄西』で、当時は日宋交流が盛んだったことから重源が入宋した可能性は高いと述べています。  『源平盛衰記』には「支度第一俊乗房」と書かれているので、様々な手配に優れた人だったようです。人脈も広く、栄西とともに法然の庇護者だった九条兼実を訪れたことが兼実の日記『玉葉』にも記されています。都の公卿たちだけでなく伊勢神宮や鎌倉の源氏との関係も大切にし、東大寺の勧進では鎌倉幕府の協力を仰いでいました。東大寺の落慶法要には源頼朝が妻子を伴って参列しています。面白いのは法要の後、重源が行方不明になり、頼朝の命で探し回ったところ、高野山の別所にいたそうで、奇行も様々しています。  東大寺の再建がほぼ成った建永元年(1206)6月、重源は86歳で没しました。快慶作の説もある東大寺の重源上人座像はこの頃の重源の風貌をよく表しています。重源を看取った栄西は同年10月、勧進職を継ぎました。

2022年9月20日火曜日

栄西(4)鎌倉へ赴き将軍源頼家と尼御台所の政子から信任を得る

鎌倉へ赴き将軍源頼家と尼御台所の政子から信任を得る  そのころ都では土御門通親の策動で   九条兼実が失脚し、栄西は都における外護を失ってしまいました。そこで栄西は鎌倉に向かいました。正治元年(1199)栄西は鎌倉に入り、二代将軍頼家に拝謁。当時18歳だった頼家は栄西の風格に敬服し栄西を取り立てることとなりました。尼御台所の政子の許にも参じた栄西は政子からも篤い信頼を得たのです。早速そのころ南都から到着した不動尊の開眼供養の導師役を請われて勤めることとなりました。将軍頼朝公の一周忌法要は栄西の導師で滞りなく行われ、頼家と政子の信任はますます篤くなりました。二人は栄西の人徳と実力に敬服し傾倒していったのです。
寿福寺の建立   正治二年閏二月になり、政子は寿福寺の建立を決めました。政子は栄西に予定した土地を寄進しすぐさま建立されることとなり堂舎の造営が始まり、急ピッチで建設が進みました。7月6日になると京に手配していた十六羅漢像が到着し15日には栄西の導師で開眼供養が行われました。この頃上野に長楽寺を開山した栄朝や、寿福寺二世となった行勇が信入し、栄西に嗣法するようになりました。  鎌倉における栄西は寿福寺では禅を本願とし、寿福寺以外では密教僧として加持祈祷を主にしていたようです。今は跡地になっていますが、頼朝公が奥州征伐で死んだ怨霊を慰めるため建立した永福寺の多宝塔供養の導師を勤めた記録も残っています。
京に建仁寺の建立  建仁二年(1202)栄西に京都進出の機会が訪れます。栄西に深く帰依した将軍頼家から洛東の五条以北、鴨河原以東の地を寄進して禅苑を営み栄西を開山としました。頼家の申請により朝廷より宣旨が下り、真言・止観・禅門の三宗併置の道場として開山しました。  この頃になっても何かと栄西には、既存の仏教勢力からの圧力があり、あらぬ風評を流されたりした頃もあります。それでもひるまずに禅の普及に努めた栄西です。またこの頃の逸話として「エイサー ヨーサー」と言う掛け声にまつわる話や、訪ねてきた貧しい俗人に檀家が奉じた絹二三疋を与えた話、飢えた貧乏人に仏像の光背用の銅を授けたなどの逸話が伝承されています。この頃「斎戒勧進文」、「日本仏法中興願文」と言った論文も記しています。 栄西と重源の交友と東大寺   栄西が都や鎌倉から受け入れられて禅の普及をすることが出来るようになった背景には、東大寺勧進職を勤めた重源の協力がありました。栄西と重源は栄西の第一次の入宋の時に出会って以来、親交を温め、特に重源が東大寺の勧進職を引き受けて東大寺再建に本格的に取り組むようになった時期に、栄西は二度目の入宋を果たしますが、帰国後九州を拠点に禅の普及に努めたその頃から、密接な関係を持ち、連携をとっていたことが伺えます。重源は栄西より20歳年上ですが、栄西は重源を仏徒の先輩として尊敬し、重源は栄西の仏法への真摯な姿に共鳴し、そこから学ぶことも多かったと思われます。もう一人この時代の代表的仏徒であった法然とも重源は親しい関係にあり、東大寺勧進職は最初法然が候補になっていたものを法然が重源を推薦したものでした。  重源は大仏及び大仏殿の再建を成し遂げ、その他の堂宇の再建を進めていた建永元年(1204)86歳の寿命を全うして入寂します。遷化した重源の後を継ぎ勅命により東大寺勧進職に任命されたのが栄西でした。幕府の信任篤く、京にも進出してきた栄西の実力が認められたからでした。それからもう一つ、博多の聖福寺、鎌倉の寿福寺、京都の建仁寺と続く、宋朝様式の伽藍建築の実績が買われたとも言われています。  栄西が勧進職になって後に建立された代表的な建築が東大寺鐘楼で、26トンもの梵鐘を吊り下げ八百年の風雪をも凌いできました。東大寺鐘楼は栄西の残した建築物の中でも代表的なものです。すぐ隣にあるのが、国宝・重源上人座像を安置する俊乗堂です。東大寺の梵鐘と俊乗堂を見ると、栄西と重源の仏法興隆を願った二人の篤い思いが伝わって来ます。この二人の会合と協力があったればこそ、日本に禅が根付き、禅を根本とする仏法による精神文化がこの国を守って来たのではないかと深い感銘を覚えさせられます。 茶祖としての栄西   栄西は禅の開祖であると同時に茶祖としても知られています。「喫茶養生記」は将軍実朝のために書かれたと言われていますが、人間の精神と肉体の両面からの健康論となっています。茶の効用によって健康を維持した人も多いでしょう。また禅と結びついた茶道は、日本を代表する文化として世界に広まりました。 賀陽氏のルーツとは?  栄西禅師を生んだ賀陽氏のルーツについては、 賀陽氏がその名から半島南部にあったの伽耶(加羅)国とのかかわりは類推されますが、明確な資料などには出会えていません。半島南部の諸国(三韓三国)と吉備国とのつながりはいろいろと指摘されていますので、そういう経過の中での可能性は十分にあると思われます。  今回主催者の平山牧人氏より、「賀陽氏は熊襲ではなかったか?」との提言をいただきました。栄西禅師の特に第二回の入宋の前後、肥前、肥後の諸豪族とのかかわりの深さから、熊襲系の可能性を類推することができなくもありませんが、果たしてどうなのでしょうか?

2022年9月18日日曜日

禅宗停止の宣旨と博多聖福寺の建立

平安~鎌倉 日本の宗教史を変えた備作の人物 栄西(3) 禅宗停止の宣旨と聖福寺の建立 禅宗停止の宣旨   栄西が帰朝する少し前に大日房能忍という僧が、都で達磨宗として禅宗を唱えていました。彼は南宋の阿育王寺に使者を使わして法印を手に入れ禅を鼓吹していましたが、比叡山の僧徒の反感を買っていました。そのころ帰朝した栄西が九州方面で禅を広めているという情報が都にも伝わり、その普及を危惧した筥崎宮の社僧の良弁が、比叡山に登り禅宗反対を比叡山の僧徒にけしかけました。  建久五年の7月、朝廷から達磨宗停止の宣旨が下されました。翌建久六年栄西は呼び出され、九条兼実の指示のもと役所で彼の考えが問いただされました。この時栄西は、「禅の訪問は今に始まったものではなく、伝教大師の内証仏法相承血脈譜は、達磨大師の禅宗から説き起こされている。と明快な論述を述べました。聞き入る一同すっかり感服してし、天台僧の中には栄西の正当性を買うものもいました。しかし、その後も禅宗という新しい宗派の興隆を快く思わない勢力からの陰湿な抵抗や妨害に苦しめられていったのです。  建久六年奈良の東大寺では大仏殿落慶供養会が催されました。この場には東大寺復興の大檀越将軍源頼朝が夫人政子とともに参加して挙行されました。文武百官が一堂に会する東大寺大仏殿落慶供養会に間に合うように。栄西は法恩寺の菩提寺の株を分け、それを東大寺に送りました。菩提樹は東大寺の鯖木(さはの)の跡に植えられ、今に伝えられています。
聖福寺の建立   栄西は国家鎮護の本格的禅寺院として朝廷の勅許のもとに七堂伽藍の建立を急ごうとしていました。この時、東大寺勧進として、朝廷や公家たちにも、そして何よりも当寺の政権の実権を握る源頼朝から深い信頼を得ていた重源が重要な働きをしたことは間違いないでしょう。鎌倉の頼朝のもとにこの東大寺供養会の三か月後、栄西から聖福寺建立に係る申状(言上書)が届けられました。言上書が届くと頼朝は許可の花押をしたため、朝廷からは特別に非常守護として靫負尉(ゆげいのじょう)をくださる旨の綸旨がおりたのです。  こうして頼朝からは博多百堂の広大な土地が下賜され、本格的な建設計画が進められて行きました。棟梁には後に孫太郎と名乗る宋からついてきた工匠が任命されました。聖福寺はその後十年の歳月を費やし、元久元年(1204)に完成しています。 俊芿の来訪   この建立工事が始まって間もなくの頃、粗布の衣をまとった一人の僧が訪ねて来ました。それが後に泉湧寺を創始した俊芿(しゅんじょう)律師です。俊芿は「戒・定・慧の三学の中で最も基礎となるのは戒であるとして、純粋に修道に取り組んでいました。栄西はこの俊芿との会合にいたく感動、将来を託そうとしたのです。俊芿はその後渡宋、十五年余の後、建歴元年(1211)に帰朝します。洛東の仙遊寺の住持になりますが、衰退甚だしい寺の再興を願い出たところ後鳥羽上皇が意を嘉し純絹一万疋を賜り、名を泉涌寺と改めました。その後この寺は台・密・禅・律の四宗兼学の道場となり、皇室の菩提所として崇敬される名刹となったのです。   「出家大綱」と「興禅護国論」   聖福寺の建立に取り組んでいたころ栄西は重要な著作も行っています。正治二年(1200)に発表された「出家大綱」は建久六年(1195)に書き上げられています。聖福寺建立の勅許がおりた時期です。そして、「大いなる哉 心や」の出だしで始まる、栄西の代表作「興禅護国論」です。本書の成立は建久9年とされていますが、草稿は建久六年に九条兼実の指示で役所に呼び出され詰問された前後だろうと言われています。全十章の興禅護国論は第1章の令法久住門と、第二章の鎮護国家門が重要で、第一章は仏法を永遠ならしめるものが禅であるという内容であり、第二章は仏法は国家を鎮護するものであり、国王は仏法を保持すべきものとの考えをしたためています。

2022年9月16日金曜日

栄西 二度目の入宋と帰国

栄西 二度目の入宋と帰国  万年寺に   文治三年、栄西は二度目の入宋を果たします。この度の入宋では、釈迦の生誕地の天竺にまで行くのがそもそもの希望でした。ところが当時の宋と西方の諸国との状況は厳しく、天竺への道は閉ざされてしまっていました。4月25日、臨安に到着した栄西は越境して天竺に向かう許可を申請しましたが、申請は結局受理されませんでした。  「天竺には行けない!」こととなり失意の栄西は船主に促され、帰国の船路に立ちました。ところが日本に向かって出港して三日目、暴風に遭遇、流されて到着したのが、浙江省東南の漁港瑞安でした。ここで、栄西は、嵐で船が引き戻されたことには深い意味があると思い、宋に留まり、かつて訪れた天台山の万年寺に向かうこととしたのです。瑞安から天台山までは200キロの距離。ひたすら歩いて万年寺に到着しました。かつて最初の入宋の時に知り合った僧と旧交を温め、今の住職虚庵懐敞(きあんえしょう)に会見しました。虚庵懐敞ははるばる日本から訪ねてきた栄西を歓迎、意気投合する中で栄西は虚庵懐敞から黄龍派の禅を学び、逆に虚庵懐敞に密教の教えを教えたのです。栄西は万年寺に留まることになりました。  しばらく万年寺に滞留中に南宋では伝染病が猛威を振るう事態が起こります。栄西の密教阿闍梨としての験を伝え聞いたことから宋王からの勅命により栄西が祈祷をすると病気が収まったのです。この時の功から時の皇帝孝宗から下賜されたのが「千光」の号です。また、栄西は万年寺滞在中、いろいろな建物の建造や修復にも貢献しています。栄西は天竺に行くために準備していた銭三百万を喜捨してこれらの建造物の修復に宛てました。また、栄西は近くにある、天台大師・智顗の墓所、智者塔院や、天台大師・智顗が創立した天台宗の祖源、伝教大師最澄が入唐求法の際に法門を授けられたという大慈寺の修復にも尽くしています。
虚庵懐敞から菩薩戒と禅の法脈を受けるそして天童寺に    紹煕二年(1191)陰暦の九月15日、虚庵懐敞は大乗の菩薩戒と禅の法脈を栄西に授けました。栄西に菩薩戒を授けた後、虚庵懐敞は勅命を受けて、浙東の太白山天童景徳寺(天童寺)に移ることになりました。この時栄西は、あることを思いつきます。それは、天台山に育つ霊木、菩提樹を日本に送って、育つかどうか試してみるということでした。天台山の菩提樹は最澄の師の道𨗉(どうずい)が、南宋のはじめころインドから求那跋陀羅が広州に運んできて植えたものを分かち天台山に植えたものでした。栄西はこの菩提樹の苗を商船に託し、縁のある香椎宮に送り届けたのです。  虚庵懐敞は、ここ天童寺で黄龍派の師匠・雪庵従瑾の後を継いで天童寺第23世となりました。天童寺は日本とのつながりが深く、その後、栄西の弟子の明全や永平寺のを開山した道元もこの寺で掛錫しています。また、後には雪舟も首座となっている寺です。この天童寺でも栄西は虚庵懐敞に協力し、中興開山宏智正覚が建立した千仏閣の再興に協力します。当時の僧には千仏閣再建に必要な大きな材木を確保することが出来ませんでした。そこで帰国後再建に必要な用材を送ることを約束して帰朝したのです。 栄西の帰朝と各地にある開山ゆかりの寺  栄西が天童寺に移ってから丸二年経った建久二年、いよいよ栄西帰国の時がやって来ました。帰朝に際して師の虚庵懐敞は栄西を方丈に召して、黄龍派の印可状とともに袈裟を授与しました。 茶種の招来と宋人の従者たち  建久二年の秋七月、栄西51歳の年、明州の港から帰国の途に就きます。在宋中に手に入れた様々な什物に、天童山下山前に収穫した茶種、更に在宋中の栄西に心酔した宋人の従者たちも従って来ました。栄西の人徳に惹かれた大工や左官、その他の人々です。これらの人々はその後聖福寺の建立など、日本で重要な仕事をするようになります。 平戸千光寺と唐泊東林寺     途中、濃霧の中、平戸島北部の古江湾葦の浦に停泊しました。ここで栄西のことを知る人物と出会い、そこで急つくりの庵を建てることになりました。宋人の工人たちも協力して庵は作られ冨春庵と名付けられました。この庵はその後千光寺と寺名を変え、古江湾を見下ろす位置に場所を移し、妙心寺派の一寺院となっています。  再び博多を目指した船は風待ちの港、唐泊に到着しました。筑前国続風土記には「東林寺、唐泊山と号す。栄西帰朝の時此の浦に着きて宿施氏が、ここに寺を建てたり。」との記事があります。 今津誓願寺に帰着    そして、楊三綱の船は目的地の今津に到着しました。今津は栄西が住職を務めた誓願寺のある港です。四年ぶりに栄西が戻ってきたと、誓願寺では、僧寛智や仲原氏太娘はじめ多数の信者に出迎えられました。二度の入宋を果たし、台密の阿闍梨の格式の上に臨済宗の印可状を携えて帰朝した栄西は、以前にもまして人々から尊崇の対象となりました。 今津と糸島にある縁の寺   誓願寺にほど近い所にある寿福寺は仲原朝臣寛行の菩提寺で、真言宗の寺でしたが、栄西の威光にふれた寛行は「私の菩提寺の中興の祖となってください」と請うて宗旨を禅にあらためました。今は、栄西を中興開山とする禅宗寺院となっています。   今津には、栄西が開基とされる千光寺という寺があったそうです。その後この寺は志摩桜井に移り専光寺という浄土真宗の寺になっています。専光寺に大切に保管されている延命地蔵の金銅仏は「千光国師栄西、宋国より帰朝の際携え帰りし地蔵の金仏あり」と古記録にある仏像だと思われます。  糸島にはほかに栄西が開山とされる寺院が二つあります。一つは糸島市宮之浦にある徳門寺で、もう一つは青木の常楽寺です。いずれも臨済宗妙心寺派に属する禅寺ですが、栄西を尊崇する地元の人々が栄西の名を頂いて建てた寺ではなかろうかと思われます。このように糸島には栄西を開山とする寺院が少なくとも六寺はあります。誓願寺以外は二回目の渡宋の後からできた(禅宗に変わった)寺で、日本における禅宗の寺院は、ここ今津と糸島の地から始まったと言ってもいいでしょう。 博多箱崎妙徳寺     その後、栄西とその伴としてやってきた宋人たちを乗せた船は、博多湾の奥の箱崎の浜へと向かいました。箱崎には多くの宋人が住み宋人街が形成されていた所です。栄西とともに多くの宋人がやってくることはすでに箱崎の宋人たちに伝わっていて、宋人街の人々から大歓迎を受けます。この時、箱崎の宋人たちが発議し、協力して建てた寺が妙徳寺です。(現福岡市東区馬出)この時妙徳寺の建立に携わった博多の宋人たちが聖福寺の建立にも大きく寄与することとなります。栄西はこの妙徳寺を拠点に活動を始めました。 香椎宮の菩提樹と法恩寺 平頼盛との縁  虚庵懐敞に随侍して万年寺を去るときに、商船に託して日本に送った菩提樹は、その宛先が香椎宮でした。建久三年の四月に栄西は香椎宮を訪れます。ここ香椎宮で菩提樹は立派に根付いて成長していました。栄西が香椎宮に訪れたのは、ここ香椎宮が栄西に帰依していた平清盛の異母弟平頼盛との縁の知だからでした。
縁の知だからでした。  平頼盛の母の池禅尼は頼朝が平治の乱で危うく命を奪われるところを助けていたのです。そこで頼朝は池禅尼への恩義から、頼盛を鎌倉に招き歓待、平家追討の際にも「池殿(頼盛)には弓を引くな!」と、恩義を果たそうとしていました。頼盛は平家の都落ちの時、一度は館に火を放ち、都を離れましたが、思い直し、一門と袂を分かって引き返し頼朝に頼ったのです。そうして平家の一門でありながらも、頼盛は命を長らえます。この頼盛の所領だったのが香椎宮のある香椎荘でした。この香椎宮脇に栄西が勅許を得て建てた天台の寺院が文治寺でした。  頼盛は、その後自分だけが一族を裏切って生きながらえてきたことを悔いて出家を決意、東大寺大仏の開眼供養の三か月前に栄西を戒師に頼み出家しました。その一年三か月後に頼盛は亡くなります。頼盛は当時比叡山から疎外されていた栄西を守ってくれた人物です。栄西が仏法興隆の担い手に、禅法伝来の担い手になれたのも平頼盛公の外護のおかげでした。  鎌倉幕府に願って、朝廷から建久の歴号を賜って建てられたのが「建久報恩孝光禅寺」法恩寺です。法恩寺は香椎宮大宮司たちの菩提寺として建てられました。香椎宮には四党の大宮司のほか多数の宮司たちがおり、文治寺や後の聖福寺五世退耕行勇の建てた宝積寺なども宮司・神官たちの菩提寺となっていました。帰朝後勅許をえて建立された禅寺で帰朝後最も根本的な禅の法儀の行われたのがこの法恩寺です。 千仏閣再興のための用材   そしてもう一つ栄西が取り組んだのが、帰朝に際し、虚庵懐敞と約束した千仏閣再興のための用材の確保でした。この時栄西に協力したのが重源です。重源は東大寺勧進として東大寺再建の用材の確保のために周防の国司に任命されていましたが、千年を超える柱材の切り出しには、周防の山人たちが抵抗、大内氏も反対で事が進まないでいました。重源はそのことを幕府にまで訴えてようやく用材を切り出すことが出来るようになっていたのです。 そういう重源の協力を得て巨大な材木が確保され、早速宋国の天童寺に送られました。  天童寺の千仏閣建立は紹煕四年(1193)完成まで3年を要したのですが、見事に完成しました。楼閣横の石碑には「千仏閣建立の材は日本国僧千光法師の尽力による」と記されています。また、栄西の遺徳を称える祠堂も建立され納められた「日本国千光法師祠堂記」にその功績が記されています。この功績には重源も関与していたことを忘れてはいけないでしょう。 背振山と茶 肥前、筑前、長門の縁の寺    栄西は茶祖として、日本に茶を招来したことでも知られていますが、二回目の入宋から帰ってきて、携え帰った茶種を蒔いたのが背振山です。宋から持ち帰った茶種はもとの環境に近い所に蒔かなければならないと考え、思い至ったのが背振山でした。栄西は背振山主峰東南の山腹にある霊仙寺を訪れています。(現佐賀県神崎郡吉野ケ里町松隈九瀬谷)この霊仙寺の本尊は乙天護法善神で、日向の霧島山から背振山に来住した性空上人の随侍した乙護法という神童で弁財天の子の乙子の化身であると同時に背振山の神でもありました。性空上人の甥は天台密教谷ノ流の開祖皇慶阿闍梨で、谷ノ流は栄西が興した葉上流の源流です。  栄西には不思議な縁のある霊仙寺ですが、霊仙寺からわずかに離れた西ノ谷・石上(いわかみ)を適地として茶種を蒔きました。それは大成功で、たちまち繁茂した茶ノ木は伐っても伐ってもまた生えてきて、地元では茶ノ木が天から降ると言って茶降山と名付け、茶降山がなまって背振山となったのであろうという伝説になっています。今でも背振山のあちこちに自生する茶ノ木はその子孫でしょう。こうして育った茶ノ木は宇治に伝わり、明恵上人に贈られ栂尾にも植えられました。その後全国に広まった茶の木の栽培はここ、背振山の石上に端を発しているのです。  筑後国千光寺他伝栄西開基の寺    背振山から筑後川をはさんで連なる耳納連山の北麓に筑後国の在国司で、押領使でもあった草野永平が寄進して建てられたのが千光寺です。栄西は建久四年の4月に耳納連山の端の高良山に登り、高良玉垂命すなわち高良大菩薩の託宣を受け多と言います。その玉垂命の本地が毘沙門天ですので、毘沙門天が栄西を開山として導いたという言い伝えです。  長門の狗留孫山・修禅寺(現下関市豊田町)、肥前の岩蔵寺(佐賀県小城郡小城町)、薩摩の感応寺(鹿児島県出水郡野田町)などもこの頃、栄西の開基と伝えられている寺院です。

2022年9月15日木曜日

日本文化の基 臨済禅をもたらした栄西 その1 最初の渡宋から~

 栄西禅師と日本文化(1)  (栄西禅師伝再考) 山田良三 栄西禅師と日本の文化  岡山の代表的な宗教家と言えば浄土宗の開祖法然とならんで、臨済宗の開祖として知られる栄西が挙げられます。栄西がもたらした禅の教えは様々な分野で日本の文化の形成に重要な役割を果たしてきました。代表的な文化と言えば茶道を挙げることが出来ますが、他にも禅や禅寺を通して日本にもたらされたり、独自の発達を遂げたものが数多く存在します。日本精神の象徴としても知られる武士道などの形成にも大きな役割を果たしてきています。  栄西と言えば茶道を思い浮かべる人も多いでしょう。栄西は茶種を招来し喫茶の習慣を日本に根付かせた元祖でもあります。喫茶の習慣は古くからあることはありましたが、栄西が宋国からの茶種を持ち帰り九州の背振山に植えて栽培を始めてから日本全国に広がって行きました。宇治やその他著名な茶の産地はその流れを汲むものです。喫茶の薬用効果を説いた「喫茶養生記」は、当時の将軍源実朝にも献上され、武家社会に急速に普及していきました。禅の教えとともに喫茶の習慣は「茶道」として、日本の重要な精神文化ともなって行ったのです。  栄西は宋国から帰国する際に多くの工人(技術者)を伴って来ました。栄西と伴に日本にやって来た工人たちによって、日本の禅寺は建設されるようになり、当時再建中だった東大寺の再建にもかかわるようになって行きました。京都五山をはじめ日本の仏教建築に多大な影響を及ぼしたのも栄西がもたらした宋からの最新の技術でした。寺院の建築とともに庭園の整備もされていきました。茶道などの普及とともに一般の建築物にもその影響は及んでいきます。日本各地の禅寺には秀麗な庭園が付属しています。岡山では高梁の頼久寺の庭園が有名ですが、日本の造園文化も栄西と禅のもたらしたものの一つだと言えるでしょう。  鎌倉時代に栄西がもたらした臨済禅は幕府に受け入れられ、日本仏教の主流を占めるようになって行きます。南北朝時代から室町の時代に至っても禅は武家にとどまらず朝廷からも受け入れられて当時の日本の精神文化の主流の道場となって行きました。  室町以降は禅寺が様々な文化の発信地となっていました。代表的な例の一つが岡山の生んだ画僧の雪舟でしょう。雪舟が幼いころ修業した寺として有名なのは現総社市の宝福寺です。宝福寺はもともとは天台宗の寺院でしたが、真壁(現総社市真壁)出身の鈍庵慧總によって禅寺に改められました。雪舟の生家は赤浜(現総社市赤浜)の小田氏と伝えられています。その後雪舟は京都五山の一つ相国寺の春林周藤のもとで画の修業をし、当時相国寺の会計役であった周文からも画を学んだと言われています。 陽明学の普及にも禅寺がかかわる   私たち郷土岡山の偉人としてNHKの大河ドラマ化のために署名活動など行っている備中松山藩の山田方谷先生は陽明学者として知られています。方谷先生の生涯の生き方に大きな影響を及ぼしたのが王陽明(明治以降陽明学と呼ばれるようになる)でした。王陽明というのは中国明代の思想家であり政治家でもあり武将でもあった人物で、それまでの儒学の主流だった朱子学の矛盾や問題点を明らかにして実践的儒学を構築したものでした。日本では熊沢蕃山の師でもあった中江藤樹が陽明学の祖と呼ばれていますが、中江藤樹が手に入れた王陽明全集などは主に禅寺を対象にした中国書籍の流通ルートを通してでした。当時四書五経などの儒学も禅寺で学ばれていたのです。実は王陽明自身が禅寺での修養を通して自身の思想を形成したという経緯もありました。山田方谷先生は京での遊学中に京都の禅寺で伝習録など王陽明を学んだのです。日本では禅寺が中国の学問や日本の古典などを学ぶ学問の場となっていたのです。  食文化の世界では禅寺で提供された精進料理などが日本食の一つのルーツともなっています。栄西の著の喫茶養生記は単に喫茶を勧めるだけではなく総合的な健康法の指導書です。禅がかかわって形成されていった文化は香道など他多岐にわたっています。今日日本が誇る多くの特有な文化が禅と禅寺が深くかかわっていることに驚かされます。  先日2月に矢掛町の小田を訪問して、正徹を顕彰する会の前会長で、現在小田公民館長をつとめられる土井重光先生にお会いすることが出来ました。土井先生からは小田の町は旧山陽道の重要な宿場町として栄えたところで、この地の領主となった小田城主初代小松秀清の次男正徹が、若年より出家し東福寺で修業、室町時代を代表する歌僧となり、二万首もの歌を詠み、万葉集や源氏物語の研究家としても有名だったとお聞きして、本当に素晴らしい人物が出ているのだなあと思いました。実は私は私が事務局を担当する岡山人物銘々伝を語る会で、昨年の12月に郷土出身の宗教家「栄西禅師の伝記を再考する」というテーマで講演したばかりでしたので、正徹が禅の坊さんだったということがとても興味を引くことでした。栄西とそのもたらした禅の教えがどれほど日本の文化のために大きく貢献してきているかとの思いをより強く感じさせていただきました。小田公民館からの帰路、早速小田駅前に立ち寄って正徹の顕彰碑や歌碑を見させていただきました。 京都五山   京都には京都五山があります。これは当時中国で寺の格付けがなされていた五山の制度を日本の禅寺の格付けに導入たものです。栄西のもたらした臨済禅は鎌倉幕府の外護を得て普及して多くの寺院が建てられるようになりました。鎌倉幕府はそれらを管理するため、五代執権北条時頼の頃、中国の五山の制に倣って五山の制を始めたのです。五山の上として南禅寺が定められ、そのもとに第一位建長寺、以下、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺が定められたのです。それが室町時代になると、京都の寺院から新たに五山が制定され、京都五山と鎌倉五山が分割されるようになっていったのです。 京都五山は、南禅寺が別格、第一位が天龍寺、第二位が相国寺、以下、建仁寺、東福寺、万寿寺です。大徳寺は五山に含まれていましたが、足利将軍の不興を買って格を下げられてしまいました。また妙心寺も不興を買って寺領の没収まで行われています。このようにこの時代、禅寺は単に禅の修行の場としてだけではなく、幕府の政治的事情にもかかわるとともに学問や芸術全般の修業の場ともなるなど、重要な役割を担っていったのです。 様々な学問、文化の発展に貢献した禅と禅寺   栄西がもたらした臨済禅は鎌倉幕府から受け入れられその外護を受けました。その後南北朝時代から室町時代に至るまで、幕府の外護得てさらに発達していきました。もともと栄西は京都に建仁寺を創建するときも、「禅、真言、天台」の三宗兼学の道場として創建しているように、特定の宗派や学問に拘る人物ではありませんでした。そのような気風から鎌倉においても京においても、禅院が単に禅の修業の場としてのみならず、諸宗、更には諸学問の修学の場となって行ったのです。それは文学、美術、思想、さらには建築や造園に、茶道や香道などの文化として発達していって、当時の支配階級の武家や公家、また一般商人などにも影響を及ぼす、総合的な学問文化の道場となっていたのです。同じ禅宗でも道元のもたらした曹洞宗は主に地方の武将に受け入れられていきました。 <歴史探訪から>(吉備歴史探訪会という歴史探訪の会を十数年前から催行しています。その会や私が個人的に探訪した史跡などの資料や探訪記を纏めてみました) 正徹:室町時代の歌僧。備中国小田の生まれ。小田城主の次男として生まれる。小田家はもとは岩清水八幡宮に仕える祀官一族で備中国小田郡の小田荘を知行していた。正徹は生まれは永徳元年(1381)、東福寺の書記を務めていた。足利義教に忌避され謫居させられたこともあるが、義教没後は歌壇に復帰、2万首近くの詠が現存している。古典学者としても知られている。足利義政に源氏物語の講義を行っている。矢掛町小田には「正徹を顕彰する会」があり、井原線小田駅前には顕彰碑と歌碑が建てられている。 雪舟:(1420~1506) 備中国赤浜(現総社市)生まれ。生家は小田氏。 幼い頃、宝福寺に入る。京都相国寺で修業後周防国に入り大内氏の庇護に、その後応仁元年(1467)明に渡り李在から画法を学ぶ。 五山文学:鎌倉から室町の時代に禅宗寺院で行われた漢文学を五山文学と呼ぶ。 寂室源光:美作高田(現岡山県真庭市勝山)出身の寂室源元光(臨済宗永源寺派開祖)は詩・偈・墨蹟に優れ五山文学の担い手の一人だった。 日本文化を海外に紹介した三冊の本 明治の時代に日本の精神や文化のすばらしさを海外に英文で紹介した三冊の本があります。「代表的日本人」内村鑑三、「茶の本」岡倉天心、 「武士道」新渡戸稲造 の三冊です。  これらの本は海外で大変な評判を呼び、日本文化に欧米の人々が深い関心をもつことに大きく貢献しました。ケネディ大統領が就任の記者会見で、内村鑑三が書いた代表的日本人の中から上杉鷹山を尊敬する日本人として応えたことはとても有名な話です。また新渡戸稲造の「武士道」がSamurai Spiritとして広く世界に知らされたのも大きな意義があるでしょう。もとより「茶の本」で紹介された、茶道や禅も欧米人にとても関心を持たした日本の文化です。  そのような日本文化や日本精神の特色はどこで醸成されたのかと考えると、その多くが禅や禅寺で成されてきたということが出来るでしょう。鎌倉や室町の幕府の時代は武家が政治を司る時代になり、その武士たちが精神的な教養や知識を身につけるために禅や禅寺を活用するようになって行ったのです。 栄西禅師伝 (栄西禅師伝~再考 岡山人物銘々伝を語る会令和元年12月例会) 日本臨済宗の開祖   日本臨済宗の開祖栄西は、浄土宗の開祖法然とともに鎌倉仏教の創始者の一人で、現在の岡山県である備前・備中・美作のうち備中出身の偉大な宗教家です。栄西は茶祖としても知られ、岡山では毎年、後楽園での茶会など栄西を顕彰する茶会や行事が数多く開催されています。  栄西は保延7年(1141)吉備津宮の権禰宜賀陽貞遠の子として誕生したと伝えられています。賀陽家は代々吉備津宮の神官の家系で、備中国の賀陽郡一帯を支配した豪族でした。母親は田氏と元亨釈書などに記録されています。田氏とは田使(たつかい)、つまり中央から地方に派遣された田の管理者のことで、平安時代に賀陽郡から備前の御津郡一帯を支配した難波氏のことであろうと言われています。吉備津神社はもとは吉備国の総鎮守で、三国に分かれてからは備中国一宮とされた旧官幣中社、本殿は国宝に指定されています。 栄西は久安4年(1148年)、8歳の時には『倶舎論』、『婆沙論』を読んだと伝えられています。仁平元年(1151年)、備中の安養寺の静心(じょうしん)に師事したと元亨釈書などにはあります。 <歴史探訪> 栄西の誕生地
 吉備津神社の社のすぐ近くに「栄西禅師誕生地」と銘した小公園があります。もとは賀陽家の末裔が庵を設けていた土地を総社市の井山宝福寺が譲りうけ所管、栄西禅師750年忌の時に地元有志の手で茶碗型の顕彰碑が建立されました。その後、放置され荒廃していたのを、800年大遠忌に際して、建仁寺と栄西禅師賛仰会と地元有志により、禅庭園風に改修、整備されたところです。  去る7月5日、吉備津神社に参拝し、この地を訪ねると、公園の整備をしいる方がいました。近くに住む藤井直樹さんという方で、庭の草取りや水の管理をボランティアで行っているとのことでした。栄西禅師の略歴を書いたチラシを作成し来訪者に渡しているとのこと、早速一枚いただきました。  話しているうちに「今日が栄西禅師の命日ですから!」と言われ、驚きました。実は随分前になりますが私も何年間か、同好の仲間たちと自主的に栄西禅師の命日に併せて顕彰行事をし、その当時は荒廃していた庭の草取りのお手伝いなどをしていたのを思い出しました。栄西禅師の導きのようにも思われました。  妹尾兼安:禅庭風の公園に整備したのは、京都で禅庭を手掛けている高名な庭師の作庭によるものだとお聞きしました。今は藤井さんら地元有志の方たちが、草むしりや水やりをして管理してくれていて、とても奇麗に整備されています。今は京都の建仁寺が管理しているともお聞きしました。顕彰碑の石はもともと賀陽家の庵の庭にあったものだそうです。  この公園の近くの鯉山小学校の校庭脇に妹尾兼安の顕彰碑があります。妹尾兼安は平家方で活躍した武将で知られ、妹尾十二ケ郷用水の整備をするなど施政に優れた人物でした。井山宝福寺の近くには妹尾兼安を祀る井神社(兼安神社)もあります。妹尾十二ケ郷用水はこの井神社のあたり湛井の堰から用水を引き吉備の野を潤し、妹尾に到る用水路で、多くの水田を潤してきました。 誕生地は「竹の荘」?  栄西禅師の活躍した時代、西国は平家の武将が多く、吉備津宮の賀陽家や母方の難波家も平家方についていました。栄西禅師の修行や渡宋に当たっては平家系の外護があったものとも思われます。吉備津神社の近くには賀陽家館跡という土地も残っています。難波氏は吉備津宮に近い西辛川(にしからかわ)に頭領宅があったと伝えられています。田氏と言うのは、律令体制下で児島屯倉に田使(田令)として派遣され、その後、備前・備中各地の白猪屯倉に派遣された一族だと言われています。  吉備津神社近くの「栄西禅師誕生地」の碑のあるところは、栄西禅師が生まれた賀陽家の一族の末裔が最後に庵を結んだ館跡で、「実際に栄西禅師が生まれたところは定かではないが・・・」と顕彰碑の説明文には記録されています。どうやら実際の生誕地というわけではないようです。それでは実際に栄西禅師が生まれたのは何処でしょうか?私が事務局長を務める岡山歴史研究会顧問の芝村哲三氏はその著「栄西を訪ねて」の中でそれは「竹の荘」(現吉備中央町上竹)ではないか!と述べています。実は郡誌にそのような伝承が残されているというのです。 芝村哲三氏  賀陽町(現吉備中央町賀陽)在住の郷土史家の芝村哲三氏は『栄西を訪ねて-生誕地と生涯ー』(吉備人出版)で、郷土の史料などから旧賀陽町竹の荘正力で誕生したとの説を述べています。 芝村氏は賀陽町歴史顕彰保存会会長などを務め、栄西の足跡を訪ねて全国各地を回り、さらに中国にも修業地の天台山などに何度も訪れています。 栄西の出家・得度  元亨釈書などによると、栄西は11歳の時に安養寺の住職静心(じょうしん)によって出家得度したと伝えられています。栄西生誕地地元有志の藤井直樹さんから頂いた資料には「栄西は11歳の時に安養寺・静心和尚に師事す。」と書かれています。 *当時は本地垂迹、つまり神と仏は表裏一体であるという考えが支配していた時代で、彼の父親も天台宗寺門派の総本山・三井寺に学び、天台の僧侶静心と行を共にしたことがある。栄西が小僧として仕えた安養寺の和尚は、父親と三井寺で縁があった静心その人であった。栄西が比叡山に登り、天台宗の僧侶として仏道を歩み始めるまでの軌道は宿命的に敷かれていた。(「栄西(ようさい) 千光祖師の生涯」 宮脇隆平著 建仁寺発行) 安養寺(日近)  岡山の地元には栄西の得度した寺だと言われる安養寺が二か所あります。まず、岡山市北区日近にある安養寺ですが、現在は臨済宗建仁寺派に所属している寺院です。私が平成の初めころ同好の歴史探訪の仲間たちと訪問した時は、前住職夫人が案内してくださり、栄西が渡宋する前に自ら刻んだ自刻像を納めたお堂や自刻像を刻むため自らの姿を映したという姿見の井戸を見せていただきました。そのころ当時の住職は病に伏しておられたのですが、ご健康の頃には例年、栄西禅師を顕彰する茶会が盛大に行われていたとお聞きしました。地元の山陽新聞や財界の支援も受けて栄西禅師の顕彰活動が熱心になされていたそうです。今回吉備歴史探訪会の狩谷代表とともに再訪させていただくと、住職(中井豊林師)がおられてお話を伺うことが出来ました。 「栄西禅師得度の寺」との看板はありますが、今は積極的に茶会などは行っていないとのことでした。今はひっそりと、修道の道場として運営しておられるとお聞きしました。
安養寺(倉敷市浅原)  安養寺(倉敷市浅原)は、報恩大師によって延暦元年(782)に開基になる浅原千坊の中院として、恵心僧都源空によって創建されたと伝えられています。源空は平安中期に活躍した僧侶で、法然上人が専修念仏に至る施策の中で、とても大きな影響を受けたという「往生要集」の著者でもあります。安養寺の裏山には重文指定の「経塚」がありますが、末法の世の到来した時代に「埋経」とも言われる、経を刻んだ瓦や、甕の中に経を納めて埋経したりする習慣を勧めたのも源空であったと言われています。  室町時代中期の13世紀ころには浅原の谷一帯に「浅原寺」と称する寺院が立ち並んでいたと伝えられています。今は真言宗ですが、毘沙門天が守り神の神仏混交の寺院です。  この寺の寺宝として、国の重文の木造毘沙門天立像と木造吉祥天立像(いずれも平安時代の作)があります。また、裏山の福山から出土した経塚出土品(平安時代)の瓦経208枚や仏画を刻んだ瓦5枚なども重文の指定を受けており、宝物殿に納められています。  先回訪問した折、前住職夫人の小畑智順師からいろいろと安養寺の成立や歴史について詳しく教えていただくことが出来ました。ここ(浅原)は吉備の南端に位置し、すぐ近くまで吉備の穴海の海岸が迫っていた所です。裏山は、「福山合戦」で有名な福山ですが、その名は徐福に由来するとのこと。福山とは徐福が求めた福の山ということでしょうか?ここは古代の昔から吉備の中心道場として崇敬を集めていたそうです。山上には福山寺があったものがその後城として改修されたのが福山城であったとも教えていただきました。  毘沙門天がここ安養寺の守護神です。毘沙門天像は108体あり数の多さは西国で随一、もともとは十分の阿弥陀堂(毘沙門堂)に納められていたもののうち特に重要なもの数十体は成願堂(宝物殿)に納めています。成願堂は自由に拝観ができるようになっており、だれでも国重文の毘沙門天像や経塚から出土の仏像や瓦経を拝観することができます。入り口には栄西禅師の像があり、迎えてくれます。  成願堂の脇には創建の源信像や、おそらくこの地を訪れたであろう一遍上人の像も奉られています。その先には栄西禅師出家850年を記念して建てられた少年栄西像「出家得度の栄西像」が迎えてくれます。 叡山で授戒その後備前備中及び伯耆大山で修法  栄西が最初に宋に渡ったのが仁安三年(1168)28歳の時です。元亨釈書などの栄西伝によれば、13歳(あるいは14歳)の時に叡山に登り授戒(この時栄西と号す)、その後叡山と備中を往還、17歳の時に師の静心が没、遺言で法兄千命に師事、法兄千命より「虚空蔵菩薩求聞持法」を受けたといわれます。  21歳の頃入宋の志を抱き、23歳の頃は金山寺遍照院に住すとともに日応寺において三昧耶行を修法。これは27歳の頃伯耆の大山寺の基好師のもとで修業両部灌頂を受けるまで続けられました。  仁安二年(1167)の9月には叡山に登り、12月に帰郷、父母の許を辞して九州に赴き宇佐八幡と阿蘇山に登り入宋渡海を祈願、その四月に博多津より商船に乗り渡宋したと伝えられています。 <歴史探訪> 大山寺  大山の登山道の脇に「栄西禅師修業地」の立て札があります。この頃大山寺はこの地方の代表的な修行場として知られていて諸国から修行者が訪れていたことがわかります。 第一回 渡宋  明州(寧波)に  宋の明州に到着した栄西は廣慧寺で知客と問答、四明山に登り丹丘で重源と出会ったと言われ、重源とともに天台山に登り、その後万年寺、明州の阿育王山に登り、重源とともに帰国したと伝えられています。重源との出会いについては、一部に否定的な研究もありますが、その後の重源と栄西の親密な関係や時代的背景を考えると、文献的な記録は残っていないにしても、重源と栄西の出会いは間違いないのではと思わされます。岡山大学の久野修義先生も、著書の「日本史リブレット「重源と栄西」」において渡宋を「当時の状況からして間違いないだろう」支持しておられます。 重源との出会い  仁安二年(1167)の9月には叡山に登り、12月に帰郷、父母の許を辞して九州に赴き宇佐八幡と阿蘇山に登り入宋渡海を祈願、その四月三日に博多津より商船に乗り渡宋、甬東(浙江省東北部)に到着した船は甬江を遡り、4月23日に明州(現寧波)の港に到着しました。この明州で栄西は重源と遭遇します。後に東大寺勧進となる重源はこの頃48歳、栄西よりも二十歳も年上でした。(重源の入宋については確たる資料が見当たらないため疑問視する見解もあるが、諸般の状況を見れば入宋は間違いないと思われる。)重源と出会った栄西はともに天台山を目指します。元亨釈書には「四明を発して丹丘に赴く。適々本国の重源と遇ひ、相伴って台嶺に登る」と記述されています。「栄西は明州か明州から天台山に向かう途中で重源と出会ったということだろう。」(「栄西」宮脇隆平)  栄西は「入唐縁起」の中で、「廿日四日、就明州之津、東大寺前勧進大和尚重源、従他船入唐、於明州、相視互流涙」の書いている。「元亨釈書」には「(仁安三年)五月、四明を発して丹丘に赴く。適々本国の重源と遇い、相伴って台嶺に登る」とある。栄西は明州(寧波)か天台山に向かう途中で重源にあったということだろう。(「栄西」宮脇隆平) 万年寺  最初に尋ねたのが万年寺でした。万年寺は当時「伽藍宏大な万年寺」と言われていたように広大な禅寺であった。しかし万年寺には一日滞在しただけで翌日には「青竜を石橋(しゃっきょう)に見る」とあるように、石梁飛瀑に至っている。石梁飛瀑とは瀧のことで、瀧をまたがって天然の石の橋が架かっている。破戒罪業のものは渡れないとうこの橋を栄西は渡ったと、重源が九条兼実を訪ねて語ったと玉葉(兼実日記)に書かれています。 国清寺  国清寺はもともと天台の根本道場で、最澄はここ国清寺に来て天台学を学び、後に天台を日本で開きました。そののち、円珍をはじめ多くの天台僧がこの地を訪れ天台の教学を学んでいったのです。ところが、栄西が重源とともに国清寺を訪ねてみると、そこはすでに天台の道場ではなく禅寺に変貌していたのです。実は南宋建国(1127)の頃、兵火で破壊されたのを時の皇帝高宗が仏教興隆の詔を出して復興したのですが、同時に高宗は「易経為禅」の詔も発してそれまでの宗旨を禅に変えてしまわれたとのことでした。悉く宋国の宗風が禅に変わっていることに栄西は驚かされたのですが、ここ国清寺では、天台の経典も残されていて、新章疏を得ることが出来ました。栄西は国清寺での留錫を断念し国清寺に別れを告げて出立しました。 ところでこの時落胆する栄西を元気にしてくれたのが旅籠屋で出された煎じ薬でした。栄西はそのことを「喫茶養生記」に書いています。実は「喫茶」の習慣を日本にもたらしたきっかけがこういう所にあったのです。 阿育王寺  六月上旬、明州に帰って来た栄西は明州の港から東に20kmの阿育王寺の仏舎利塔の参拝に出かけています。ここで栄西は「舎利放光」の体験をします。彼は久遠の仏法の久住を決意したといわれます。実は阿育王寺は日本とも深いかかわりがある寺です。平重盛が寄進をしたことや、源実朝が参詣を企てたこと、重源が舎利殿建設の用材を提供したことなどの歴史が残されています。後には道元や雪舟も訪れているのがこの寺です。 廬山 本朝高僧伝に「廬山に上り、明州に返る」とあります。廬山の香炉峰の近くに東林寺という中国浄土宗発祥とされる阿弥陀信仰の寺院がありますが、栄西がこの寺を訪れたとすれば重源の勧めがあったからだろうと「栄西」の中で宮脇隆平氏は推察しています。もちろん当時はこの東林寺も禅宗の五山十刹に名を連ねるなど禅宗の盛んな時代だったころは確かです。 帰国  元亨釈書には「損友にまつわされてその秋早く帰りぬ」とあります。当初の渡宋の目的からすると意に反したこともありましたが、目の当たりにしたのは「禅」の興隆の姿でした。失望もあったが、各地の禅寺を訪ねる中に真摯に仏法の修業に励む禅僧の姿に新たな希望を見出したのも確かです。予期せぬ短期での帰国になったものの得られたものは極めて大きかったと言えるでしょう。これが第二次の渡宋と、我が国への禅の招来に繋がって行きました。 帰国後叡山に登る その後備前・備中を巡錫  帰国後栄西は叡山に登り、天台座主明雲に天台新章疏30余部60巻を呈しました。その後は備前・備中を巡錫しています。まず最初に金山寺(遍照院)における灌頂、その後備中清和寺(現井原市)の創建に携わり、最後に一番長く住したのが日応寺でした。日応寺には栄西が行った灌頂の記録が残っています。 <歴史探訪>栄西修行の日応寺と金山寺 栄西禅師が修業したという日応寺(岡山市北区日応寺)と金山寺(岡山市北区金山寺)を訪問しました。 日応寺は養老二年(718)の創建、栄西が修業とともに長く滞留した備前の名刹です。もとは三論宗から天台宗の勅命山日応寺と称していましたが、永禄二年(1559)金川城主松田氏により強制的に日蓮宗に改宗させられ寺名も換えられていました。明治31年に元の寺名に復したものの宗旨は今も日蓮宗の寺院として残っています。境内はきちんと整備され、この地方の代表的な名刹です。 金山寺は、天平勝宝元年(749)に報恩大師が孝謙天皇の勅命により開創。備前48カ寺の根本道場となっていました。もとは法相宗で、栄西禅師が修業した寺院の一つです。栄西禅師は護摩堂などを建て宗旨も天台に改められました。この金山寺は金川城主松田氏による日蓮宗への改宗には応じなかったため堂宇はすべて焼き払われ灰燼に帰したそうです。その後、宇喜多直家の援助で本堂・護摩堂が再建、江戸期には岡山藩主池田光政により備前国天台宗総管とされ、仁王門もこの時寄進されています。国の重文に指定されていた本堂は、残念ながら平成24年の失火で全焼し、本尊の木造阿弥陀如来像(県重文)も焼失してしまいました。 今回訪問してみると池田光政が寄進した仁王門も荒廃が進み、焼けた重文だった本堂も、仮本堂のままでした。本尊の再興から取り組んでいるようですが、まだまだ時間がかかりそうな様子でした。かつては備前国の中心道場だった金山寺ですが、今は檀家も少なく、復興には強力な支援が必要だと感じました。  筑前今津誓願寺
 その後栄西は35歳の時、筑前今津の誓願寺の創建に迎えられ、文治三年(1187)47歳の時に二度目の入宋の時まで、誓願寺を拠点に活動を続けました。この時代、都では平清盛が権勢を誇った時代を過ぎて、源氏が台頭、源平の争いが続いていた時代です。栄西の故郷の備中は妹尾兼安などに代表される平家の勢力圏でしたが、寿永三年(1184)栄西44歳の時に、藤戸の合戦で平家が破れ、その後は屋島~壇ノ浦と平家は敗走し滅亡していきました。栄西の居た今津の誓願寺はもともと平家が日宋貿易の権益を握っていた所でしたので、それまでは、栄西も平家の庇護のもとにあったわけでした。平家の滅亡によって誓願寺の存立も危うくなってきたのが二度目の入宋の理由の一つだったのかもしれません。 <歴史探訪>  誓願寺  栄西が二度目の渡宋の前にとどまっていたのが博多湾の入り口にある今津の誓願寺です。私が訪れたのは90年代の終わりころでしたが、小高い丘の上に建つ誓願寺は今は真言宗で、私が岡山から来たというと住職がいろいろなことを教えてくれました。(私の実家の菩提寺は児島の由加山蓮台寺で、そのことを話すと蓮台寺のことはよくご存じで親しく話を伺うことが出来ました。)住職の話では今津は当時日宋貿易の拠点として栄えていた港で、栄西が滞在した当時は平家の支配していた時代、その権益からかなりの資金を蓄えることが出来ていたのではなかろうかという話でした。寺の裏山からは博多湾を一望でき、日宋貿易の船が行き交いしていた時代を思い浮かべることが出来ました。 (令和元年2月4日 開催 吉備国出前講座 矢掛町小田公民館)

2022年9月14日水曜日

日本仏教の改革者 法然

 

日本仏教の改革者 法然

  ~秦氏の父母から生まれた法然の生涯、その父の死期の二説?


「厭離穢土欣求浄土」 徳川家と浄土宗   戦国時代を終わらせた武将が徳川家康でした。徳川家はその後代々続き、日本の歴史でもっとも長い265年間、戦乱のない平和な時代を実現しました。その徳川家が、戦国の戦いの時代に旗印としたのが、「厭離穢土欣求浄土」です。大河ドラマなどでも目にした人は多いでしょう!ところでその旗印の意味や起源については、あまり知られていないようです。

 「厭離穢土欣求浄土」とは、どういう意味なのでしょうか?またどのような経緯から徳川家の旗印として使用されるようになったのでしょうか?愛知県岡崎市にある大樹寺のホームページの中に掲載されている、大樹寺責任役員 成田敏圀師の「厭離穢土 ~家康公の平和思想~」という論文にその経緯が書かれていました。大樹寺というのは代々徳川家とそのもととなった松平家の菩提寺だったお寺です。

徳川家のルーツ   徳川家のルーツは、八幡太郎義家の末裔とされる、上州得川出身の時宗遊行僧・徳阿弥が、還俗して三河の庄屋・松平太郎左衛門重信の婿養子になり松平親氏と名乗ったのが始まりです。松平家四代目の親忠が増上寺より勢誉愚底を招いて建てたのが、この岡崎市にある菩提寺の大樹寺でした。徳川家の姓の由来は家康が初代の得川の姓の得の字を徳の字に改めたのが始まりです。

後に徳川家康の名を名乗る松平元康は、岡崎城主でした。しかし幼いころから今川家に人質として預けられ、成人してからも今川の家臣団として扱われていました。ところが上洛を目指していた今川義元に従って桶狭間にあった時、織田信長の急襲により敗北し義元も討死にすると、今川勢は敗走して散り散りバラバラになり、元康は城主を勤める岡崎へと逃れ、松平家菩提寺の大樹寺に至ります。桶狭間での敗戦に悲観した元康は、松平家代々の先祖の墓前で切腹しようとします。ところがその元康を、当時の大樹寺住職登誉上人が「厭離穢土欣求浄土」の話をして思いとどまらせたのです。

「厭離穢土欣求浄土」(読みは えんりえど 又は おんりえど ごんぐじょうど)というのは、穢れた世を離れ万民が幸福に生きる世を実現するという意味です。上人は元康に「天下の父母となって万民の苦しみをなくしなさい」と教え諭すのです。南無阿弥陀仏の心でした。

 以来家康は旗指物には「厭離穢土 欣求浄土」と掲げ、口には念仏「南無阿弥陀仏」を唱えながら浄土の実現を期して戦国の世を戦い生き抜いてきました。徳川の時代が、265年という世界でも類例のない平和で豊かな時代を実現した背後にはこういう、徳川家の歴史と込められた浄土の教えがあったということです。その浄土の教え、専修念仏の教えの始まりが郷土の生んだ偉大な聖人 「法然」 でした。


 仏教の宗教改革者 美作が生んだ聖人  津山の町で後に「美作聖人」と称された人物がいます。それが元津山藩の御用商人錦屋の家に生まれた森本慶三です。森本慶三は津山の財界の中心的人物となった人ですが、東京遊学中に無教会派のキリスト教を広めた内村鑑三の弟子になり、津山に帰ってからは財界活動の傍らキリスト教精神に基づく教育や福祉事業に携わり地元に貢献しました。

 森本慶三が私財を投じて建てたのが津山基督教図書館(現森本慶三記念館)です。その基督教図書館の開館式に森本はその師の内村鑑三を招きました。この席で内村鑑三が集った地元の人たちに語った言葉が次のようなものでした。「君たちは、この図書館でイエス・キリストについて学ぶことは勿論だが、ルターの宗教改革に先立つこと二百年、仏教の宗教改革をなし遂げた美作を代表する聖人 法然について学ぶことが大切だ!」と。このことは津山歴史人物研究会の近藤泰宏氏から聞いたことです。

秦氏との深いかかわり   内村鑑三は法然のことを「仏教の宗教改革者」と高く評価しましたが、同じく宗教思想学者の山折哲雄氏『法然と親鸞』という著作の中同様の評価をしています。梅原猛氏も『法然の哀しみ』という著作の中で同様の表現をしています。私は法然が日本の宗教史に残る大変革者となった背景には、両親や一族の持つ信仰や生まれ育った故郷の風土が深くかかわっていたと見るべきだろうと考えましたそんな考えを持ちながら、法然上人の誕生地ある誕生寺を訪れ、住職の漆間徳然の話を聞きしたり、周辺にある縁の地の風土や歴史を学び思いを巡らしてみる中で法然という人物を生んだ美作の風土や人物の背景を少しずつ実感することができるようになってきました

誕生寺と大銀杏  誕生寺やその周辺には法然上人の人となりを育てた風土を物語る史跡が数多く残っています。誕生寺は、もともと法然の生家だったものを、法力房蓮上(熊谷直実)が寺院に改めたものです。熊谷直実は源平合戦のおり、須磨の海岸で平家の若武者平敦盛と出会います。未だ年若くわが子とたがわぬ若武者を討つことを躊躇いましたが、「後々供養を!」と心に誓って、敦盛の首をはねたのです。そのことを心に深く持ち続けた直実は、法然上人のことを知り、建久三年(1193)、法然のもとに押し掛け、出家して弟子となりました。

誕生寺と誕生寺の大銀杏








熊谷直実が美作に 直実は出家した翌年、師の命を受け、師自ら刻んだ自刻像を背負い美作の地を訪れます。すぐには生家が見つかりませんでしたが、あちらこちらと彷徨った末、ようやく稲岡の生家にたどり着くことができました。この時、師の生家を仰いで涙したという地が残っています。JR津山線誕生寺駅方面から誕生寺に向かい、丁度JR津山線の線路を潜ったところに看板が立てられています。法然は比叡山に登って以来、一度も故郷に帰ることはありませんでした。しかしながら故郷への思いは人一倍強かった法然でした。だからこそ自ら像を刻んで直実蓮生に託したのです。その師の思いを痛切に実感して、師の生家を目前にを流した直実でした直実は漆間家の旧宅を寺に改め、師から託された自刻像を奉じ本尊としました。これが現在の誕生寺です。今も誕生寺御影堂に奉られている本尊が直実が師から託されて背負ってきた法然の自刻像です。

 誕生寺の山門は現在国の重要文化財となっています。その山門をくぐると、同じく重要文化財の御影堂が正面に建ち、左手に銀杏の巨木が繁っています。この大銀杏は逆銀杏と呼ばれ、少年時代の法然上人が修業に通っていた菩提寺からの帰路、杖にしてきた銀杏を刺したものが生長し大きくなったものだと伝えられています。

幼少の法然 勢至丸   法然の幼名は勢至丸と言いました。勢至菩薩が由来のその名前は利発だった少年時代を物語る名前です。八歳から十三歳の間、母秦氏君の弟観覚が住職を務めていた菩提寺で修行したと言われます。この間、何度か生家と菩提寺を往復したことでしょう。誕生寺から菩提寺までは今の距離で40km余り、少年の足では、朝早く出れば夕方には到着する距離です

 修業地である菩提寺には勢至丸が植えたとされる大銀杏があります。樹齢900年、国の天然記念物に指定されている巨木、銘木百選にも選ばれていますその親木とされるの銀杏の木が、菩提寺の麓現在国道53号線奈義トンネルを抜けた先にある阿弥陀堂の大銀杏です。


「幼少の法然様」

 菩提寺の大銀杏の脇には、学問成就を祈願した勢至丸が、この銀杏の枝を挿したものだと書かれています。また誕生寺から菩提寺に向かう途上、現在の勝央町河原にも法然上人縁の大銀杏があります。出雲井の大銀杏とも呼ばれているこの銀杏の木は勢至丸法然が菩提寺への道中、弁当の箸を挿したものが大きくなったと伝えられています。この河原の大銀杏の近くにある諏訪神社にはやはり名木としていられるビャクシンの古木があります。法然誕生の時代と丁度同じころこの地に住む諏訪一族の末裔である出雲井氏の先祖が、信州の諏訪神社の神を勧請して建てた神社だそうです。       

法然と秦氏の縁を物語る錦織神社と本山寺   少年時代の法然は勢至丸という勢至菩薩にちな名前からも聡明で利発な少年だったことが、想像されますが、「法然上人絵伝」には、勢至丸が元気に遊びまわっている姿が描かれています。法然の父漆間時国は稲岡荘を司る押領使という役人でした。母は秦氏君と呼ばれているようにその出自は秦氏でした。美作には秦氏にまつわる史跡がたくさん残されています

 誕生寺の北方10kmほどのところ、美咲町錦織に、秦氏ゆかりを持つ錦織神社があります。錦織は秦氏が多く住んでいた地で、秦氏にまつわる伝承を多く残しています錦織神社は明治初めの神仏分離令まではニ上山両山寺と一体で、錦織神社は郷宮だったと錦織神社の宮司に教えていただきました。二上山両山寺(美咲町両山寺)は、白山権現の開祖として知られるやはり秦氏の僧侶、泰澄が、霊夢に導かれてこの地を訪れ開山したといいつたえられている修行場でした。今は真言宗ですが、古来は天台と真言を共に修する道場で、それが二上山両山寺という寺名の由来ですこの地域は美作の秦氏が入植し、桑の栽培と錦の織物の一大産地を築いた地域でした。法然の母は秦氏君と呼ばれ秦氏の長者の娘でした。

法然の両親が安産祈願のために参篭した本山寺   誕生寺から東南に10kmほどの山中に、本山寺という寺院があります。津山藩代々の藩主の廟がある美作の名刹で、今でも立派な伽藍が現存しています。この本山寺という寺号は鑑真和上に付けられたとの言い伝えあります。天台密教の山岳道場として永く地域の人々の信仰を集めてきました。寺伝によると、天永元年(1110)に現在地に移され、長承元年元年(1134)に法然の両親が安産祈願のために参籠したと伝えられています。両親の信仰深さがうかがえる逸話です。

 また本山寺の近くには斉明天皇により勧請されたとされる波多神社があります。この波多神社ですが、元は畑三社権現と言われたそうで、波多も畑も秦氏とかかわりのある地名あることから、秦氏との結びつきを知ることができます

法然の漆間家と一族の立石家   誕生寺の本堂の後、法然の父漆間時国と母秦氏君の廟である勢至堂と産湯の井戸に向かう無垢橋のたもとに椋木が立っています。ここに椋木に因む法然誕生の奇瑞が記されています。寺伝によれば、二流れの白幡が流れ来て椋の木の梢にかかり、天の奇瑞が現れたそうで、この木は「両幡の椋木」と名付けられています。元の木は朽ち、現在の木はその後植えられたものです。

 二流れの白幡の奇瑞は応神天皇誕生に際して八つの幡が下ったことと同じ深い意味があると、「法然上人行状絵図」などには記されています。元中外日報記者の山田繁夫氏著書『法然と秦氏』には、「二流れの幡の奇瑞は、二流れのハタを秦氏にさかのぼる父・漆間氏の家系と母・秦氏の家系つまり美作の秦氏系豪族であった両家を見立てた表現であろう」と書かれています。

 椋木の先にある片目川の名前の由来ですが、夜襲をかけた明石定明の片目を少年法然(勢至丸)が射貫き、定明が川で目を洗ってから片目の魚が出現するようになったからと伝えられています。この伝承について山田繁夫氏は、柳田国男が『論考 片目の魚』で、「片眼の魚にまつわる伝承とたたら鍛冶には深い繋がりがある」としたことから、漆間氏も秦氏など渡来系鍛冶集団との関りがあったのではないかと記しています。かつて中国山地一帯にはたたら鍛冶集団が数多くいて、誕生寺のある久米南町周辺にも多くの鉄滓が残っていることからもそのことを知ることができます。

 漆間家は美作国二宮の大庄屋を務めた立石家と同族でした美作国二宮は津山市二宮の高野神社のあるところです。立石家は豪族での高野神社の神職も務めた神官家でもありました。立石家の本姓はもとは漆島で、宇佐八幡宮の社家であった辛島一族の漆島元邦が先祖です。この漆島元邦が封戸郡の立石に居住したことから立石を名乗るようになりました。その一族が延喜年間に美作に来住したと伝えられていますが、この時に、立石元邦の長男盛国が二宮の立石家を相続し、次男の盛栄が漆間を名乗って稲岡に居住し、その代目時国の息子が法然上人だったのです

立石家と立石岐  津山に来た内村鑑三が「法然に学びなさい!」と語ったことは述しましたが、内村を津山に招いた森本慶三に協力した人物がいました。それが立石家の有力者立石岐(ちまた)でした。立石岐は備中船穂の豪農小野家生まれ立石家に養子として入った人物です小野家は小野妹子を祖として学問に優れ、元は備中国の国主として来た家柄です。金光教教祖の師となった小野光右衛門も一族でした。

 立石岐は32歳で二宮村長になると、殖産興業と民権拡張のため同志と共之社を設立、地域産業の振興や自由民権運動に活躍します。養蚕・製糸業振興のために郡是蚕糸・津山分工場を設立しました。「中国鉄道」の創立に加わり、現JR津山線建設に貢献しました。現JR姫新線建設に際しては自宅の土地を提供しています。明治中期になると絹糸事業が衰退し、一時郷里の岡山に帰り司法省判事補を勤めます。このころキリスト教に改宗したとつたえられています。その後再び美作に帰り自由民権運動に挺身するようになります。同志とともに「美作自由党」を結成し、板垣退助と連携して議会開設運動を行い、第1回衆議院選挙に立候補当選、三期衆議院議員を勤めました。

 立石岐は晩年はキリスト教の伝道に勤しんだと言われています。森本慶三などを支援し、津山基督教会や森本の教育・福祉事業に協力しました。津山基督教図書館の設立に際し津山を訪れた内村鑑三は立石家を訪れ岐と面会したと記録されています。立石家はもともと浄土宗で、一族にはキリスト教への改宗に反対する人もいましたが、「自分の改宗は、他力本願を説く法然の志を継ぐものである」と信念を貫き、キリスト教の布教にも努めたそうです。内村鑑三が法然をルターに比する宗教改革者として高く評価した背景には、立石岐の存在を否定できません

 浄土宗の宗紋の杏葉は、漆間家の家紋から来ており、立石家の家紋も、立石家が代々社職を務めてきた美作二宮高野神社の社紋も杏葉です。このことからも法然と秦氏の立石家との密接な関係を知ることができます


秦氏とは  秦氏とは、新選姓氏録などによれば、応神天皇の頃、半島から渡来した氏族であり、神祇と殖産に秀でた集団だったと、「大和岩雄著「秦氏の研究」には書かれています。魏志韓人伝には、日本が倭国と称された時代、半島南部馬韓の東に秦始皇帝の労役から逃れた秦人がおり辰韓人と名付けたとあり、この辰韓人が渡来して秦氏となったのではないかと言われています。渡来系氏族の中でも最大数の一族でした。

 美作をはじめ岡山県の各地には秦氏の渡来と定住を物語る地名や史跡が数多く存在しています。秦廃寺の残る総社市秦や幡多廃寺のある岡山市幡多地区などはその代表的な地域です。瀬戸内市の福岡や備前市の香登などにも秦氏の伝承が残っています。岡山県の各地に残る秦氏に係る伝承や遺跡は、我々の郷土の文化や宗教に秦氏が重要な役割を果たしてきたことは間違いありません。その代表的な事例の一つが法然と法然の出自にまつわる秦氏の存在だと思われます。


醍醐本から見た法然  父の死は出家の後?   今年(平成31年)1月、哲学者の梅原猛氏が93歳で亡くなられました。私が読んだ法然上人についての本の中で特に印象的だったのが梅原氏の『法然の哀しみ』でした。梅原氏はこの本の「伝記が語る法然像」の項の中で、代表的法然伝として知られる「四十八巻伝」(法然上人絵伝)とは全く異なる事実を語る「醍醐本」に着目して記事を書いています。

 醍醐本とは、大正6年に真言宗醍醐派総本山醍醐寺の塔頭・三宝院で発見された『法然上人伝記』で、著者は鎌倉時代前期の浄土宗の僧・源智です。法然が晩年最も信頼し、財産の管理も任せ、入滅時まで寄り添わせていた弟子で、平家の遺児ともいわれています。「一枚起請文」を法然に乞い、授かったのもこの源智です。梅原氏は「親鸞の『歎異抄』に比すべき『醍醐本』」とこの醍醐本を高く評価しています。

 梅原氏は、浄土宗の三田全信師の研究による著書『成立史的法然上人諸伝の研究』の中に、「(醍醐本は)潤色の少ない稀な好記録集である。」「法然諸伝の根幹をなしている」と記述して、 醍醐本の価値を高く評していることを引用して、「法然伝の比較研究はこの三田氏の研究でほぼ大成したと思う。」と評価し、「三田師の説にもとづいて、法然の人間像を考えてみよう。」と、醍醐本を参考にして法然の人間像に迫っていくと記しています。

 これまで法然出家の経緯は、「四十八巻伝」などによれば法然が9歳の時、預所明石定明の夜襲を受け、亡くなった押領使の父漆間時国の遺言「敵に仕返しをして罪業を繰り返さず、出家して菩提を弔ってほしい」に従い、叔父の観覚が住職の菩提寺で修行を始めたというものでした。(預所は荘園の管理人で、押領使は警察のようなもの)

醍醐本の記述は ところが醍醐本の記述は異なっています。菩提寺で修行していた法然は、その才を見込んだ観覚の勧めで叡山に登ることになり、その出立の際に父・時国が「私は殺されるかもしれないが、その時には菩提を弔ってくれ」と告げたと記述されています。そして叡山に登ったその年(久安三年)の暮れに、父の訃報が叡山の法然のもとに知らされたのです。この知らせを聞いた法然が、遁世しようと師の叡空に申し出たところ、「遁世するにしても無知ではよくない。天台三大部を学んでからにしなさい」と諭され、そこから本格的修道が始まったと醍醐本には記されています。つまり、父の死期が異なっているのです。

 梅原氏は法然が日本の宗教史に残る大改革を実現するまでの思考や心の軌跡を紐解いていますが、「私日記」以降「四十八巻伝」に至る法然上人伝は誕生の奇瑞などを様々に描いて法然を聖人化、「法然を遠ざける過度の聖人像」として描いていて、物語としては面白いが、事実かどうかはわからない。これらの法然伝は浄土宗が形成され、宗団の拡大が図られていた時代に書かれた伝記であって、自分たちの宗祖を聖人として崇めることは、教団の維持発展のために必要なことだったのであり、常識を越えた逸話で開祖を崇め奉るのはどの宗派でもありがちなこと、ただ宗教家とその教えを深く理解するためには、フィクションを取り除き、現実に生きる人間としての苦悩や哀しみをどう克服していったのかという事実を知ることが重要ではないかと述べています。

黒谷で修道の日々   醍醐本によれば、父の死を知らされた法然は、師の叡空に隠遁を願ったと書かれています。比叡山での法然の師は源光、後に皇円、叡空に師事したと多くの法然伝ではされているのですが、梅原猛氏は「醍醐本から見て法然の師は叡空一人だったのでは」と書いています。

 隠遁を願った法然に叡空は「隠遁するとしても無知はよくない」として天台三大部を学ぶことを勧めたとあります。(醍醐本別伝記による)以来、法然は黒谷の経蔵に籠り徹底的に読書に励みました。比叡山西塔北谷の黒谷青龍寺を訪れたことがありますがその静寂な谷合はまさに隠遁の地、別所の雰囲気を醸すところです。

 黒谷 青龍寺

 法然はここで一切経を五度読破しました。しかし法然は黒谷で経典を読むだけの日々を過ごしていたのではなく、疑問は何度も叡空に尋ね求め、たびたび論議もしたとあります。時には師を論議で打ち負かせたこともあったと他の多くの伝記に記されています。                                         



叡山を降りた法然   黒谷の青龍寺で師叡空と論争した法然は、その後叡山を下りて広谷に住まいしたと諸伝伝記は伝えています。しかし梅原猛氏は、百万遍知恩寺に伝わる伝承から、法然は最初、鴨川の河原に草庵を作り住んだと推察しています。「当時の賀茂の河原と言えば、今風に言えばホームレスのような者たちの住んだところです」そして後の伝記の著者たちが、「広谷」に居住したと書いたのは美化ではないかと梅原氏は述べています。

 後に、法然の弟子源智がこの賀茂の河原に後に源智が知恩寺を建てました。知恩寺はその後各地を転々としましたが、境内に加茂明神鎮守堂があり、賀茂氏あるいは秦氏との関りから法然がこの地に草庵を結んだのだろう梅原氏推察です。叡山を下りた法然は、やがてその学識で広く人々に知られるようになり、武家や公家にも法然に救いを求めてる人々が続出するようになってきました

「大原問答」 その名声を一層高めたのが、有名な「大原問答」です。博学な僧侶たちが大原に集まり論争を続けましたが、法然の学識に勝るものは誰もいませんでした。この時、大原にやってきた一人が重源で、弟子十数人を連れていましたが、法然の学識に屈服した重源は、法然の重要な理解者となりました。遊行僧であった重源は法然に相通じる世界を感じたのではないでしょうか。平家の南都焼き討ちで焼失した東大寺の勧進職に就くことを勧められた法然は、それを辞て、重源を推薦しました。東大寺の再建がほぼ完成したころ、重源は法然を招いて浄土三部経の講義を聞く会を開いています。

 武家出身で法然の弟子となった代表が熊谷直実で、直実は自ら法然のもとに押し掛けるようにして出家し、法力坊蓮上と名乗りました。法然の願いを受け、師の自刻像を背負って誕生地を訪れ、師の生家を寺にしたのが誕生寺であることは前述しました

 法然の庇護者の代表が摂政、関白、太政大臣まで勤めた九条兼実した。九条兼実は法然から何度も灌頂を受け、法然が戒師となりの戒師で出家もしています。法然の唯一ともいえる著書『選択本貫念仏集』も九条兼実の要望に応えて書いたものです。のちの法難で四国に流されたときには、九条兼実の働きで流刑地が土佐から讃岐に変更されています。法然の弟子になったのは源氏や平家の武士や公家たちで、いずれも騒乱の犠牲となった人々でした。

法難に遭遇 讃岐で弘法大師生誕の善通寺を訪問    法然の名声は高まるばかりで、それに反発する叡山や南都の僧たちは、「念仏停止」を求める動きを強めていきます。そんな、法然の弟子たちが、当時の最高権威者である後鳥羽天皇が熊野詣をしている間に、天皇寵愛の女御たちを出家させてしまう事件が起こります。熊野詣から帰り、そのことを知った後鳥羽天皇は激怒し、2人の弟子の処刑と法然ほか主要な弟子たちの流罪を決定しました。これが「建永の法難」です。

 香川県善通寺市の善通寺は弘法大師空海の生誕地として知られています。私は何度か訪れたことがあり、吉備歴史探訪会の人たちと行ってきました。この善通寺南門の右手に「法然上人逆修塔」があります。「逆修塔」とは、人が生前に建てる自らの供養塔のようなものです。

 法難で土佐に配流されることになった法然ですが、九条兼実の配慮もあり、配流先が讃岐に変わります。この配流を、法然は前向きに受け止めていました。15歳で比叡山に登った法然は、前半生を経堂に籠って修道に没頭し、京の都に下ってからは、貴賤を問わ人々に教えを広めました。その間、遊学や説法で東大寺を訪れた以外、一度も都を離れたことがありませんでした。法然は、初めて都を出て地方に行けることを喜び、しかもその行き先が尊敬してやまない弘法大師の故郷だと聞いてさらに喜んだのでした

 讃岐に着いた法然は、さっそく弘法大師の生誕地、屏風ヶ浦の善通寺を訪れました。そして、感謝の気持ちで「逆修塔」を寄進したのです。弘法大師への尊崇の思いとともに、この地で生涯を終えることも決意しての寄進だったのでしょう。

 善通寺の境内には「親鸞堂」もあります。師の法然が善通寺に塔を寄進したことを聞いた親鸞は、自らも讃岐に行きたい気持ちを弟子に託し、自刻像を善通寺に奉納したのです。その自刻像を奉っているのが「親鸞堂」で、親鸞も法然とともに弘法大師を尊崇していたことがわかります。

善通寺に残る「法然上人逆修塔」 東院の塔の南側に逆修塔はあります

都に戻った法然と没後の法難   承元元年(1208)勅免により摂津国勝尾寺にとどまっていた法然は建歴元年(1211)入洛を許され京に戻ります。しかし徐々に老衰が進んで、死期を悟った法然は、弟子の源智の求めに応じて「壱枚起請文」を書きます。そうして建歴二年125日に入滅、80年の生涯を閉じました。

 法然死後も「専修念仏」への迫害は打ち続きました。嘉禄3年には延暦寺衆が法然の墳墓を破却するという暴挙に至り、弟子たちは師の遺骸を二尊院に隠し、さらに太秦の広隆寺境内の三昧院に、さらに粟生の念仏三昧院に運びここで遺骸を荼毘に付しました。これが嘉禄の法難で、法然の遺骸を荼毘に付した場所は、粟生の光明寺(長岡京市)の境内に残されています。(粟生の光明寺は、法然を庇護した秦氏の長者高橋茂右衛門の館跡に建てられました。)


法然を助けた秦氏の人々 法然が南都遊学に際して助けたのが秦氏の人々でした。中でも代表的な人物が秦氏の長者粟生の高梁茂右衛門でした。現在の光明寺(長岡京市)のあるところです。

 法然上人は24歳の時、比叡山から南都遊学の旅に出られました。その途中、粟生の里の長者高橋茂右ヱ門宅に一泊され、その際「ご房が求められようとする、 『誰もが救われる法門』が見つかりましたなら、是非とも我らにその教えをお説き下さい。」と茂右ヱ門夫婦に懇請されました。20年を経て、専修念仏の確信をえた法然上人(43歳)は比叡山を下り、 約束通り粟生の里をお念仏の教えを広く説き始める地に選ばれました。
 このような因縁に依って、念仏発祥の地、「浄土門根元地」の御綸旨を正親町天皇より賜りました。また法然上人滅後、専修念仏の教えは増々の広がりを見せました。その現状に不満をもった延暦寺衆徒により、法然上人墳墓の破却が企てられました(1227年)。そこで門弟たちはご遺骸を京都太秦へ移しました。すると、法然上人の石棺から数条の光明が放たれ、粟生の里念仏三昧院(現光明寺)を照らしたのです。門弟たちは相談の上、法然上人の17回忌にあたる1228125日にこの地へと移してご火葬されました。ご遺骨の大部分は当山に納め遺廟を築くべきであるとなり、芳骨を納め上に石塔を安置し雨露をさえぎる為に廟堂を造立しました。(光明寺HPより

 参照:法然と秦氏のつながりについては、山田繁夫著「法然と秦氏」に詳しく述べられています。