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2009年12月4日金曜日

中江藤樹が熊沢蕃山に教えた”心法”と士(さむらい)道

藤樹が蕃山に教えた”心法”と
熊沢蕃山の士道

これはまさに禅の世界

幕末維新に多大な影響を与えた長州の吉田松陰、薩摩の西郷隆盛、そして幕末の経世学者山田方谷が学び教えた「陽明学」 陽明学の祖と言えば近江聖人と言われた中江藤樹
その藤樹の教えを(学問としてでなく精神として)もっとも忠実に受け継いだと言われるのが、備前岡山藩池田光政に仕えた熊沢蕃山、
熊沢蕃山はこの”心法”の故に、徳川の御用学者、朱子学者たちから嫌われ岡山藩の要職から追われ最後は武蔵の古河に幽閉されて終わる。しかし蕃山が残した文書はその後、水戸の藤田東湖や、山田方谷や佐久間象山の師、佐藤一斉などに多大な影響を与える。山田方谷は、蕃山に心酔していたと言う。


心法とは
藤樹の門を辞した後の蕃山に対する藤樹の教えは“心法”のみであって、孝経・四書などの経典についての解釈は、一言もなされていない。従って、番山は心法に専念して、自己のうちなる自己中心的、利己主義的な“わたくし心”、これによって起こる喜怒の感情、好悪による行動選択、先入見による是非の判断等の一切を払拭し、是を超越した新境になるように、自己の心的状態を内省し、その間に現われ出る心の”実体“(”本体“)を把握し、これに従って自己の行動を律し、聖典の意味を探らんとしている。

藤樹が教え、また蕃山が教えた(さむらい)

儒道すなわち(さむらい)
番山は、「士は何をもってか天職とせん」という問いに答えて「人を愛するなり、民は五穀を作りて人を養う。婦女は絹を(おり)て人に着せしむ。士はすることなし。人を愛せずば(すく)うところなし。」といった。

文武二道
番山は、武士の天職を“人を愛するなり”とし、その具体的実践を文武にわたって述べて、“これを文武二道の士という。人を愛するのことなり。”と結んでいた。
良き武士というは、あくまで勇ありて武道武芸の心がけ深く、何事ありても躓くこと無きように嗜み、さて主君を大切に思いたてまつり、自分の妻子より始めて天下の老若を不憫におもう仁愛の心より、世の中の無事を好み、その上に不慮ことできる時は、身を忘れ家を忘れて大なるはたらきをなし、軍功を立てる人あらば、一文不通の無学というとも、文武二道の士なるべし。

新渡戸稲造が海外に紹介した“武士道”
このあたりにルーツがあるようです。




2009年11月26日木曜日

山田方谷と禅 寂室元光師





山田方谷と禅とのかかわりについて

山田方谷は文政10年(1827)京都遊学中に蘭渓禅師をたずね坐禅に努めたと言われる
方谷にとって禅は朱子学から陽明学へと移行する橋渡しの役割を果たしている。これは山田琢氏が述べているのだが、もともと方谷の学問はわが心に自得すること、すなわち悟りを得ることを目指していた。だから、知識としての学問、朱子学を学びながら、座禅を組みながら悟りを求める中に、陽明学との出会いがあったのではないだろうか。

そして、忘れてはならないのは寂室元光師とのかかわり
山田方谷の晩年に最も大きな影響を与えたのは人としての寂室であり、その語録である「寂室語録」であった。
寂室元光師とは:美作高田(現:勝山 最近鳩山由紀夫首相の曽祖父鳩山和夫の出身地として注目を集める)に誕生(正応3年 1290年)13歳で上京東福寺に入る。鎌倉禅興寺の約翁徳倹に弟子入り、「元光」の名を与えられる。31歳のとき「元」の国にわたり修行7年、当時禅の第1人者と言われた高僧中峰明本から学び「寂室」の名を授けられる。備後・備前・備中・美作をはじめ全国の寺々を回る、自然の中に身を置き質素な生活に徹し、自己に厳しく人に仏の道を説くという中峰明本の教えを実践した。諸国遍歴30年、晩年は近江の佐々木氏に請われ、永源寺の地で修行と共に弟子を育てた。
時の天皇からは天竜寺の、足利将軍からは鎌倉建長寺の住職に招かれたが、いずれも断り、地方ににあって隠遁孤高の生活を送った。
方谷が寂室についてうたった漢詩があるが、それには
室光照徹超禅僧 寂光は照徹せる超禅僧
万種人情入寸灯 万種の人情寸灯に入る
・・・・・・
とある。

「この二人は500年の時空を超えて深い友情に結ばれていたのではないか、という思いに駆られることがある。」と山田方谷を学ぶ会の会員の渡辺道夫氏が高梁川流域連盟機関紙「高梁川」の62号の中で述べている。

2009年11月24日火曜日

鳩山春子の結婚観

鳩山首相の曾祖母鳩山春子女史の「自叙伝」を読んでいる。
長年女子教育に携わってきた人物らしく、教育問題にはとても蘊蓄に富んだ持論を持っておられる。
その中に「結婚観」の項があった。
自身の結婚(鳩山首相の曽祖父鳩山和夫氏との結婚)の項の中に自身の結婚観が描かれている。
自身は和夫氏とお見合いして1年ほど、会うこともなく結婚式を迎えたようであるが、もう少し交流の時間があったらよかったとしながらも、西洋流の自由結婚の長所、短所を述べながら、古来の日本的な結婚の良いところと、西洋の良いところを取り入れながらの、結婚のあるべき姿を述べている。
いま日本は、自由結婚オンリーのような風潮で、結婚できない男女があまりにも多くなっている。あまりにもの自由の故の弊害を、この時代にすでに見抜いているのはさすがと思う。
自由の故に男女の関係が乱雑になり、夫婦の間の亀裂や、問題の起こるゆえんを明確に言い当ててるのはさすがである。
この論を読みながら、お見合い結婚の良いところを取り入れながら、本人たちの意志や意向も尊重していく、新しい結婚観が必要に思う。鳩山春子女史の結婚観、今に生かせば、今日の少子化や、家庭倫理の崩壊など解決に向かうのではと思う。

2009年11月23日月曜日

熊沢蕃山から山田方谷まで

「熊沢蕃山から山田方谷まで」という特別展が岡山城で開かれていたので歴史好きの仲間と行ってきた。 
江戸期の藩政改革が各地で行われたが、そのはしりとも言うべきなのが熊沢蕃山であり。その最後を飾ったのが山田方谷であろう。いずれも陽明学者である。
陽明学では「知行合一」という。
山田方谷は「至誠惻怛」と言ったが、いわば憐みの情、慈しみの心が重要ということである。
良く改革改革と言うが、改革は万民のためのものでなければならない。貧しいもの、困っているもの、弱者への思いやり、それがなければ何の「改革」か?
江戸期の改革者にはその「情」にあふれている。
藩主光政と最後は仲違いのようになったが、熊沢蕃山の改革には、思いやりの情にあふれていたように思う。政治を納めるものには父母のような、親の情が大切である。父母が子をいつくしむような心があってこそ、子もまた父母を尊敬し慕う。
領民を丹に搾取の対象と考えるようでは、改革もあり得ない。

熊沢蕃山は近江聖人と言われた、中江藤樹の弟子、
江戸期は陽明学は危険思想視されて、番山も追放の憂き目にあったが、陽明学の芽は受け継がれて幕末に爆発する。
備中松山藩の山田方谷も陽明学に傾くが、維新の原動力になった、長州や薩摩の志士たち、
吉田松陰も西郷隆盛も陽明学を学んだと言われる。
江戸期、幕府は朱子学を尊重した。もともと、陽明学を起こした王陽明も朱子学へのアンチテーゼとして説かれ始めた。
陽明学が、江戸期の改革や。明治の維新に大きな影響を与えたのは間違いないであろう。



2009年10月2日金曜日

鞆浦の判決

今日の山陽新聞の一面トップは鞆の浦の景観判決
画期的判決としながら、賛成、反対両者のコメントを載せていた。
判決を評価する側として、宮崎駿関東のコメントも掲載されていた。

景観を、権利あるいは価値として認めたということは、確かに画期的だと思う。

これは、
世界全体が、日本は特にそうであるが、
開発とは何かということを問い直す時に来ているということであろう。
発展とは、良き暮らしとは何か?
重厚長大な施設を創り、物のあふれる生活、
確かに、事業推進派の人たちにしてみれば、より良き生活のために橋や埋め立てが必要ということであろうが、それが一般的価値観としては、当たり前だったのがこれまでの価値観、
ここらで、世の中全体の価値観を転換するべき時ではないのか?

これまで、開発という名のもとで、あまりにも環境を破壊し続けてきた。
そして、自然や環境を破壊し続けてきた。景観も。
日本を取り巻く海岸線から、自然な海岸線が失われてしまった。

物の豊かさや、便利さに偏った生活スタイルを改めて、真に人間らしい、心豊かな生活とは何か
豊かな自然の中で、平和で真に豊かな生活を目指そう!

2009年9月30日水曜日

鳩山家のルーツと友愛政治

鳩山由紀夫首相のルーツが美作勝山藩にあると聞いて改めてわが郷土に誇りを感ずる。
鳩山首相の曾祖父、鳩山和夫は美作勝山藩の上級藩士の子弟として生まれる。
藩の推薦生として大学南校(現東大)に入学常に主席の俊才ぶりを発揮、文部省留学生として、米コロンビア大学、その後エール大学に留学、帰国後は大学教授、高級官僚などを経て衆議院議員、衆議院議長に就く。専修大学の創設に貢献、また東京専門学校(現早稲田大学)校長を務める。


その長男が鳩山一郎元首相
現鳩山首相の「友愛政治」は、鳩山一郎元首相がEUの父と言われるオーストリアの政治家、クーデンホフ・カレルギー伯の「友愛革命」に感動して、となえたそうで、賀川豊彦の「友愛」とも通じると聞く。キリスト教の博愛思想が源流。


鳩山和夫は北海道の開墾にも携わり、地域にも貢献したそうで、北海道の栗山町には、その開拓地に鳩山という集落があり、鳩山川や鳩山神社などもあるそうである。


わが郷土の生んだ偉人、偉大な政治家は多々あるが、鳩山一族もその精神性からして、その一列に列せられる人物である。
改めて、郷土の風土と、そのような歴史性を背景に登場した、現首相にも少々期待するところがある。














2009年9月3日木曜日

選挙も終わって

選挙も終わって・・・
民主党の大勝利、予想以上。
完全に自民党の時代が終わった感あり。
自民党は壊滅して新しく生まれ変わるしかないだろう。
民主党、未知数。
今一番必要なのは、父母の政治だと思う。
父母の心で、国民のだれ一人路頭に迷うことがないように、していく。
今、路頭に迷っている人があまりにも多い。同胞意識が薄れている。
鳩山総理には、親の立場で国をひっぱて行ってほしい。それが「友愛」の政治か?
国民こぞって物心両面で、豊かな暮らしができるよう。一部の人だけが豊かに暮らす社会は終わりにしてほしい。
諸外国とも友好を!
世界全てがひとつの家族のようになって生きれればいい。
それが平和な世界
その理想を実現する日本であってほしい。

引き続き岡山の市長選も始まった。
同じ視点で、良き選択がされることを願う。
「吉備楽土」としては
歴史と文化を大切にする街づくりを実現してほしい。精神的豊かさを実感できる郷土を創ろう!
それがわが郷土、吉備の風土ではないのか。

2009年8月26日水曜日

選挙の季節ですが

今や国の命運を決める国政選挙の真っ最中
連日熱い選挙戦が繰り広げられているが、どうも今ひとつすっきりしない。
本当に、政党、政治家が国の将来、国民の生活を真剣に考えているとは思えない。
「改革」「改革」と言われてきたが、何がどう改革されたのか、改革されるのか、釈然としない。
一番大切なことが何か?忘れられているのではないだろうか。
はっきり言ってどの政党の公約、マニフェストを見ても、明確なビジョンを感じられない。

どのようにすれば、平和で、豊かな生活を実現できるのか?
歴史の教訓、偉人の業績にもっと学ぶべきではないのか。

吉備楽土はではその提言ができる。

2009年8月18日火曜日

建仁寺展に行ってきた。
結構人があふれていた。お盆休み中ということもあってか・・・
岡山県人の関心の高さなのか。
改めて栄西禅師の遺徳をしのぶ。


こういった展示会が開かれるのも岡山ならではのこと
衆議院選もあり岡山市長選もあるが、
文化性の高い街づくり郷土をぜひ実現してほしいものである。

2009年7月15日水曜日

建仁寺展

7月18日から岡山県立美術館で建仁寺展が開催される。
しばらく前、栄西禅師のことをいろいろ研究してみたが、栄西禅師の日本の文化に与えた役割は極めて大きい。日本の武士道の形成に大きな役割を与えてきたし、茶道も日本文化の華である。
今回建仁寺の寺宝のみならず、高台寺などの寺宝も展示と聞く。楽しみな展示会である。

2009年6月26日金曜日

高梁 山田方谷 備中松山城 頼久寺





吉備歴史探訪会の仲間と高梁に行ってきた。
「山田方谷の世界」の展示が6月28日までと聞いて急遽、行くことになった。

高梁市の歴史美術館 ここで山田方谷の遺品などが展示してあった。
方谷の書いた書の中に彼の精神、思想を感じることができて、あらためてその偉大さと、その思想をさらに研究してみる好奇心がわいてきた。

昼食後備中松山城に
日本一の山城、これだけの標高のところに、よくこれだけの城を築いたものだと感心する。
まさに天然の要害。昔のお殿様もさぞかしたいへんだったろうと思いをはせる。
城から眺める高梁の町並みは絶景。

帰り道、頼久寺に寄る。
寂室玄光師が開祖と言われる。
かの小堀遠州作と言われる庭は、すばらしい。
しばし、悟りの世界を実感する。
まさにここが備中松山藩の精神文化の中心地と思う。
禅と武士道、そして幕末にはここから陽明学者の山田方谷師が出る。
山田方谷師が寂室玄光師を極めて尊敬していたといわれるが、
改めてそのことを実感する。

禅の果たした役割、陽明学との接点、
山田方谷の改革とその思想、
現代にどのように生かして、未来つなげるか、興味は尽きない。

改めて感じることの多い高梁の街でした。

2009年6月23日火曜日

クラス会

小学校のクラス会を開いた
何十年来の友人たちと談笑しながら
懐かしい思い出話に花が咲いた。
恩師もやってきてくれた。
「認知症が出かかって」と言いながら
小さかったころのエピソード
昨日のことのように覚えてくれている。
忙しさにかまけて、昔を振り返ることを忘れていたが
そこに自分たちの成長の原点があった。
人生それぞれの道を歩み
いろんな苦労を背負ってきたものたちもいるが
苦労の中にも楽しみを見出して
亡くなった友人たちの分までもしっかり生きていこうと
良かった思い出を未来に行かせる歩みをしていこうと
改めて思われた。

2009年6月10日水曜日

栄西禅師と山田方谷

最近発見したことがある。
栄西禅師と山田方谷先生の関係
ともに備中の生んだ偉人であるが
6月14日まで岡山市のデジタルミュージアムで郷土の先人の展示館が開催されている。
その中に、勿論、栄西禅師や、山田方谷先生の展示もあるのだが、
宗教家として、「寂室元光」師も紹介されていた。いまの勝山の出身で鎌倉の後期の禅僧である。
実は、山田方谷先生がとてもこの寂室元光師を尊敬していたということで、
山田方谷先生と言えば陽明学者として有名であるが、禅の影響をとても受けていたといわれる。
栄西禅師は鎌倉仏教の祖の中では、幾分注目度が低く扱われているが、波頭をこえて二度にわたり中国にわたり、禅宗と喫茶の習慣を日本に根付かせた功績は極めて大きいと言わざるを得ない。

津山と内村鑑三



かって、内村鑑三が津山に来たことがあると聞いて、津山に行ってみた。
地元の友人の案内で、作楽神社、平沼騏一郎の墓所、生家を訪ねた後、元の基督教図書館(今は博物館になっている)に行ってみた。
津山藩の御用商人であった、錦屋の当主、森本慶三氏が内村鑑三の話に感銘を
受け、岡山県で初めて津山に呼んだらしい。基督教図書館は二階が礼拝堂になっていて、ここが今展示場になっていて、内村鑑三が津山に来た時の写真
や、手紙などが展示されている。
その中で興味を引いたのが、内村鑑三が、「法然上人」を尊敬していたということである。
法然上人と言えば、美作が生んだ大宗教家である。キリスト教と仏教、何か一致しないようであるが、ウイt村鑑三は、法然上人の教えがキリストの教えと極めて近いものを感じたようで、とても親近感を感じていたようである。
岡山県は全国でもキリスト教がかなり普及した県であるが、当時、津山銀行という、岡山県では最初の民間銀行を創立した、有力者の支援あってのことだったことが、よくわかった。

2009年6月1日月曜日

サンセットイベントin王子ヶ岳


王子が岳山上で行われた、サンセットイベントに行ってきた
夕暮れの瀬戸の海、
あいにく、夕日の美しい景色には恵まれませんでしたが、
それでも、夕暮れの瀬戸の海をバックに奏でる、筝の音、尺八の音は格別の響きを感じるものでした。
最後は、日本筝曲学会の大月宗明師の「春の海」最高でした。
忘れられない情景

2009年5月17日日曜日

文化都市

岡山市が政令指定都市と出発した。
今秋には市長選挙も行われるとのことで、今後の岡山市のビジョンが問われている。
「文化都市」を目指してほしい。
昨日、ある集まりで、夏目漱石が岡山に来ていたとの話を聞いた。
夏目漱石は明治文学の代表的人物。
今でもファンが多い。
歴史的記念の遺跡でもあれば、町おこしになる。
今後の行政は、市民生活の向上の観点に、文化性を良く取り入れてほしい。
教育県、岡山の名前も最近廃れてしまっている。
件の夏目漱石だが、閑谷学校へ行きたかったようだ。が、実現できなかったようで・・
当時友人だった、正岡子規への手紙でも、閑谷学校へ行きたいと書いていたが、岡山の親戚に逗留中、大洪水が起こって、行くどころではなくなったようだ。

幸い、岡山には偉人が多い。偉人を顕彰したり、それらの史跡をめぐる、ガイドをもっと統一的に出来ないものか?

芸術、文化の町づくりが、長い歴史を刻む町を作っていく。
青少年の育成と、青少年の育成の母体となる、家庭を大切にする町づくりはどうか?

既に県内でもそのような町づくりに取り組むところがあると聞く。
経済的豊かさだけを求める、金だけがかかる、町づくりはそろそろ卒業の時では。
豊かな心、豊かな文化の町づくりこそ、岡山の目指す町づくりではないおだろうか。
郷土岡山、吉備の国にはその材料が揃いすぎるくらい、揃っている。

2009年4月15日水曜日

情操教育の大切さ

最近、凶悪事件や、いじめ、青少年の淪落の実態を見るにつけ、情操教育の大切さを痛切に実感する。
古来日本人の伝統的生活は、豊かな自然の中で豊かな情操を育んできた。
自然の恵みに感謝し、人知を超えて働く、大きな存在に畏敬の念を以て生活してきた。
年の初めには神社仏閣に詣で、式の折々、生活の折々には神に感謝し、先祖に感謝する生活を伝統としてきた。また、家族を大切にし、地域の友や、親戚の人々との思いやりのある生活を営んできた。
まさに「故郷」にうたわれる世界。
いまその「こころ」が失われてしまっている。思いやりの心を育てる、環境も教育もなくなってしまっている。
情操教育の根本は、神に感謝の心を捧げる素朴な信仰心ではないかと思う。
特定の宗派などない、自然のままに神に感謝の心を捧げる、それが情操を育てる第1歩ではないかと思う。
皆さんどう思われますか?

2009年4月14日火曜日

黒田家と福岡


「福岡」というと、九州福岡県、福岡市を思い出すが、福岡の地名の由来が、今は岡山県の瀬戸内市にある福岡という地にあることは今ではあまり知られていない。岡山県人でも知らない人が多い。
関ヶ原の戦いで東軍方に付いた黒田官兵衛はその戦功により筑前の国を与えられるが、その城を作るにあたり、父祖の地である、備前「福岡」の名前を付けた。
備前福岡は「福岡一文字」という名刀の産地であり、中世以降は中国随一の商都として栄えた。
黒田家はそもそも佐々木の一族で、近江の黒田邑に住んでいたが、故あって、黒田の地を出で、行くあてのないところを福岡の地にとどまり、かの地の商人の庇護を受けた。黒田官兵衛から見れば祖父母、曾祖父母の代の時代である、その後黒田長政は姫路城主となり、そのころ秀吉と出会い、黒田は豊臣家の軍師となっていくのである。
やはり、黒田家には志があり、有能な一族だったのであろう。福岡の地にも黒田家はよき事績が残っている。よほど黒田家にとって福岡の地は忘れうことのできない、今あるのは、福岡の商人たちの故であると、その思いが、筑前の新城の名前を「福岡城」とした所以であろう。
福岡に行くと、戦国の時代、備前の覇者となった宇喜多の一族も、不遇の時代を福岡の商人に、助けられた。
その後、備前を統一した宇喜多直家は現在の岡山の地に城を築いたが、城下町を整備するにあたって、この福岡の商人たちと、門前町であった、西大寺の商人たちを招いて、城下の街を作っていった。
それが今の、岡山の表八ヵ町である。上ノ町~下之町・栄町が福岡町と言われ、西大寺からの商人が作った西大寺町と繁栄を競った。
それにしても、福岡の商人の精神は、すごいし、今に生きているように思う。
志ある者には支援を惜しまないのが、備前、備中の商工人たちか・・・
商工人に根差す、敬天愛人の精神が、吉備の国おこし、吉備楽土の実現と、世界平和実現の道ではなかろうかと思う。

2009年3月22日日曜日

藤公園の藤




和気清麻呂の故郷、和気町の和気神社のたもとには藤公園があって毎年美しい藤の花を見ることができる。
全国各地から集めた藤の木を植えていて、さまざまな藤の花を見ることができる。
毎年、4月~5月の連休中が「藤まつり」期間で、各地から富士の見物客が集まる。
もともとこのあたりは「藤野」と言われていた土地で、藤が群生していいたらしい。
藤を見物したら、神社を訪れ、京都の街を作った人物「和気清麻呂」とそのお姉さん「和気広虫」をしのんでみたらどうでしょうか。

伽耶神話

伽耶の国の神話をみると、これが実に日本の神話に似ている。
伽耶国の始祖は「金首露王」といわれるが、
今、韓国の港町釜山、国際空港のある金海市にある、亀峯(クシフル)山に天から卵が下ってきて
誕生したのが金首露王
天孫降臨神話なのである。
韓国では「金」姓の人が多いが、その中でも一番主流なのが「金海金氏」の一族、
一説によると、この一族が日本に渡って来て、日本の王朝をうちたてたともいわれる。
古代神話の符合性を考えると、何かのつながりがあると考えるほうが妥当性があるだろう。
日本が韓半島を植民地支配していた時代には、そのようなことは論議さえご法度だったが、今はいろんな資料や、証拠が出てきている。
歴史考察の一説として、検討に値する、説ではないか。

2009年3月21日土曜日

伽耶は日本のルーツ

澤田洋太郎氏の「伽耶は日本のルーツ」
興味深い論説である。
日韓の古代史の秘密をかなり解き明かしているように思う。
わが郷土「吉備」も半島との密接な関係の歴史がうかがわれる。
栄西禅師の出身氏族「賀陽氏」も、伽耶の出自とうかがわれる。
辛川、辛香などの地名にもそれがうかがわれる
そのほか、吉備の国の歴史には半島との密接な関係をうかがわせる地名や歴史的資料が残っている。
このあたりの史実を日韓共同で明らかにしてくれないものか。
偏狭な民族主義の色眼鏡を外して、歴史の真実を見てみたいものである。

2009年3月20日金曜日

明日はお彼岸

明日は春分の日
お彼岸の中日である。
墓参に行く予定
お彼岸に墓参するようになったのはいつごろからのことなのだろう?
以前聞いた話では、
お寺の坊さんたちが、布教目的で
彼岸の功徳を説いて回ったとか
仏教の布教の目的で始まったようである。
元来日本人は、先祖祭祀を行ってきた。
先祖供養が好きな民族であるともいわれる。好きというか、大切に思うというか・・・
最近墓参にもいかない家庭が増えているとか・・・
田舎にいると、荒れ廃れた墓をよく見る。
そんなのを見ると、どうも運勢を感じない。
先に写真を張り付けた「黒田家の墓」などは、多くの人が参拝しているようだが・・・
敬神嵩祖が、民族の伝統。
これ忘れるようになったら終わりだね。

2009年3月18日水曜日

栄西禅師

実に不思議なのだが
吉備の国 備前 備中 備後 美作に分けられた。
吉備の中山を境に分けられた備前と備中
上道(かみつみち)と下道(しもつみち)
いつも対比的に、偉人を輩出している。
その代表が、和気清麻呂と吉備真備であり
栄西禅師と法然上人ではないだろうか
法然上人は美作の出身だが、一方栄西禅師は備中、吉備津神社の神官をしていた賀陽氏の出
神官の家からなぜ仏教の禅師が出たのか不思議だが、この時代は神仏習合の時代
吉備津宮には神宮寺(神社に所属する寺院)というのがあって、神官も晩年になると神宮寺で念仏を唱えて過ごしたといわれる。
栄西禅師はこの吉備津宮の神官をしていた賀陽氏に生まれ、安養寺で出家得度
比叡山に上がって修行、二度にわたって宋の国に渡り、その当時盛んになっていた臨在禅を日本にもたらした。
また日本に帰るに際して、茶の種を持ち帰り、茶を普及した。「茶祖」といわれる所以である。
「興禅護国論」を著し、鎌倉武士に受け入れられ禅の普及を果たしていく。
備前備中においても金山寺の復興などに尽くしている。
詳しい生涯など、またいずれ紹介しよう。

2009年3月16日月曜日

法然上人と誕生寺




津山線を行くと誕生寺という駅がある。


浄土宗開祖「法然上人」の誕生の地に建てられた「誕生寺」にちなむ駅名である。


「南無阿弥陀仏」と唱えれば一切が救われる


と教えられた。


誕生寺に行くと、まずイチョウの木に圧倒される。


乳銀杏という。さかさ銀杏とも言われるらしい。


法然上人が今の那岐町にある「菩提寺」で修行して、帰ってくるときに杖としたイチョウの枝を挿して芽が出たものという。


誕生の逸話がある。


美作の古刹「本山寺」で両親が篭って祈願して誕生したのが法然上人という


幼名を勢至丸という。


父は漆間時国、今で言う警察署長のような役職だった。


ある夜、怨みを持った明石う定明という武士が夜襲をかけてきた。


手傷を負った父が亡くなるとき「怨みを持つな。復讐してはいけない。仕返しをしたなら再びまた血を流市、それを繰り返すことになる。お前は私の菩提を弔ってほしい。


その父の遺言に従い、修行の道を出発したのが「法然上人」だった。


母親は「秦氏の君」という。


この時代、このような思想を持った、法然上人の両親のような武士がいたことに驚異を感じる。


イエスキリストの「汝の敵を愛せ」の思想に通じるような・・


比叡山で修行し。浄土の教えを説いた法然のもとに、多くの人々が救いを求めてきた。


その中に、武士達も


有名なのが須磨の戦いで平家の若武者を討った熊谷直実がいた。


彼は、敵とはいえ、若き命を奪ったことに心を痛めていた。


その心を法然の教えが救った。


彼は出家し、法然上人亡き後


師の故郷の美作の誕生の地を訪ね。かの地に寺を建てた。


それが「誕生寺」である。




ここにも「敬天愛人」の精神が脈々と生きている。


平和を祈る、篤き心が生きている。


吉備の国の風土が生きている。

岡山よりも「吉備」

私は「岡山」というのはあまり好きではない。
城下町岡山の名前には文化を感じない。
それより「吉備」の響きがいい。
「吉備の国」の起源はよくわからないが、何か夢がある。
大和の王朝にとっては、目の上のたんこぶのような時代があったのかもしれないが
戦国の時代、この地も戦乱の嵐に巻き込まれたが、
長い歴史の大半の時代は、
温暖な気候風土の中で
豊かに、相和して暮らしてきた。
国の為に、命がけで貢献した多くの人士を生んできた。
「敬天愛人」の心の生きているところ
信仰心篤く 勤勉さに満ちた気風
進取の気風に富んで 決して保守保身に走らない
そんな吉備の国の気風が好きだ。

2009年3月14日土曜日

モンゴリアンの思想「敬天愛人」

『モンゴリアン文化には敬天愛人と家族共同体を重視する思想がある。聖徳太子の「和」の精神はまさにその典型である。』
このような内容の評論に最近、出会った。
モンゴリアンとは、蒙古班をもった民族で、一説によると世界人口の70%はモンゴリアンとも言われている。このモンゴリアンの体型的特徴は赤ちゃんの時できる青い斑点だが、黒人や白人の一部にもみられるらしい。これらはモンゴリアン民族の血が混じった民族らしい。
さて、「敬天愛人」という言葉を時々目にするが、上野の西郷さん(西郷隆盛)の銅像の前に「敬天愛人」という言葉があったのを見ると、西郷さんの座右の銘のようなものが「敬天愛人」であったようである。
韓国の建国精神にも「敬天愛人」とあるし、この思想はアジア的な広がりが確かにあるようである。
わが郷土の偉人の代表である「和気清麻呂」の真筆に「我独慙天地」というのがある。「われひとりてんちにはづ」と読むように思うが、彼の生涯を見ても「敬天愛人」の思想のようである。
今年のNHKの大河ドラマ「天地人」に登場する、上杉謙信や直江兼続などの精神もどうやら「敬天愛人」のようである。
家族的紐帯を大切にするのは「家和万事成」(いえわしてばんじなる)という言葉に見ることができる。
確かに東洋の伝統は家庭重視の考え方であり、国や企業の文化も、家族的である。
それらが失われてきているのが、最近の世相のように思われる。西洋化した生活文化の中で東洋的良き生活の文化が失われているのが実情である。
経済危機や、世界的騒乱を解決できる糸口がこのモンゴリアンの精神にあるのではないか?

先ほどの「和気清麻呂」を筆頭に、
吉備の国の生んだ偉人達、その精神にも「敬天愛人」と家族的紐帯の意識が根差しているように思う。

吉備の国の人物は基本的に「平和思想」「慈愛の心」の持ち主たちである。自らの利益や欲望のために生きたという人を見たことが無い。
古代から今に至るまで、常に善良な政治家、思想家、宗教家、芸術家、技術者、経営者、スポーツ家、医師などを生んできた。

このような風土と人物が、これからの日本、世界に必要なのでは!
「楽土」の見本が吉備の国から始まるのでは・・・



2009年3月10日火曜日

楽しみ

人生の楽しみとは何か?
歌ったり踊ったり、あるいは旅行をしたり・・
ただ…たった一人でいても楽しくはない。
一緒にいてくれる人がいることが幸せ。
一緒に喜びを分かち合う人があることが幸せ
その大切さを忘れていることが案外多いのかも・・
それでむなしさを・・
裏切りがなければ・・・・
きっと真実を・・

2009年3月6日金曜日

秦氏

吉備の国、特に宗教の歴史を見ると秦氏との関連を多く発見する。
浄土宗開祖の法然上人のお母さんが秦氏の君の言われているが、最近西大寺の観音院の展示会がデジタルミュージアムであるからと行ってみて、少々驚いたのが、西大寺の観音院を起こした最初の人物が、今は山口県の玖珂郡の、寺の縁起では「藤原皆足媛(ふじわらのみなたるひめ)」となっているが、展示物を見ると「秦皆足媛(はたのみなたるひめ)」となっていた。この姫が千手観音を金岡(今の西大寺観音院の地)に庵を組んで奉ったのが始めとされている。
飛鳥時代の廃寺の跡が備前、備中にあるが、備中の秦原の廃寺は有名である。備前は秦多にもある。
和気清麻呂が秦氏と組んで平安京を造ったことは有名。
日本の古代史において、秦氏が果たした役割は極めて大きなものがある。吉備の国にもその足跡が多く残っている。それが現代にどのようにつながっているのか?そのあたりのことを知りたいものである。

2009年3月2日月曜日

吉備の人々

思えば吉備の国は偉い人がたくさん出ている、
どうも、皆が皆とってもいいほど、平和愛好者のようである。
元来戦争があまり好きではないようだ。
郷土出身の宗教家が多いが、そのひとり、法然上人は、その父親が、自らを死に至らしめた的に復讐することより、菩提をとむらってほしいという父親の遺言ゆえに出家し、戦乱続く世において、殺傷に苦しむ武士たちにも、ただただ、「南無阿弥陀仏」を教えた・・・これは本当に平和思想だと思う。
明治以来、日本の首相を務めた、県出身者、犬養毅、宇垣一成、平沼騏一郎、美奈平和主義者だたと思う。銃口を向ける敵にも「話せばわかる」と諭した犬養毅、軍縮を主張して陸軍から疎まれた宇垣一成、国賊のレッテルを張られながらも毅然として信義と、戦争反対を貫いた平沼騏一郎、本当に偉いと思う。
いま日本に、世界に必要なのは、本当の平和精神を持った、吉備の国の人間の活躍ではないのか。

2009年2月27日金曜日

観音院と皆足媛

会陽で有名な西大寺観音院の縁起
玖珂(今の山口県)の藤原の皆足媛が金岡の地に草庵を作って千手観音を奉ったのが始まりといわれる。
秦の皆足とも言われる。
秦氏と言えば仏教信仰の篤かった渡来系の氏族といわれる。吉備の国には秦氏によるとみられる古寺の跡も数多く残っている。
庶民の素朴な信仰が歴史と文化を形作ってきたことを思うと、何か不思議な歴史的先祖の因縁を感じざるを得ない。
皆足媛の物語
http://www1.ocn.ne.jp/~senorya/minataru/minataru1/minataru.htm

歴史を訪ねて

歴史を訪ねて吉備路をさまよう
営々と歴史と文化を築いてきた我々の先祖の歩みを訪ねてみる。
吉備の国には、高い理想を求めて生きてきた人々の息遣いが感じられる。
豊かな風土の中で我々の先祖は何を求め生きて来たのだろうか?

吉備楽土

古代吉備王国
平和をもとめし人々の訪ね来た地
幾多の年月を経、数多くの偉人を生み出し文化をはぐくんできたこの地
この地に真の理想郷を実現しよう!