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2010年11月27日土曜日

『楯築遺跡と卑弥呼の鬼道』 を読んで

薬師寺慎一先生の 『楯築遺跡と卑弥呼の鬼道』 (吉備人出版)を読んでみた。薬師寺先生は、古代祭祀の形態から、楯築遺跡の葬られているのが、卑弥呼か、卑弥呼に匹敵する人物であろうという。遺跡から出た大量の朱(水銀)や5つの立石の状況を詳しく調べながら、この楯築遺跡に葬られた人物が、きわめて有力な首長、しかもそれは道教の祭祀を行った、女性の首長であろうと言わる。
2世紀末から3世紀一の時代には、最大規模の墳墓が楯築遺跡であるという。しかもこの時代は魏志倭人伝に出てくる、卑弥呼の時代と一致する。
邪馬台国吉備説と言うことにもなる。
同薬師寺先生の説によると造山古墳もその時代において倭国最大の墳墓だったといわれれる。となると2世紀末から3~4世紀にかけての時代、吉備が倭国の中心地だった可能性を示唆している。



2010年11月25日木曜日

秦氏の君の像

誕生寺に秦氏の君の像が、建立され、法要が営まれたそうである。
この春、誕生寺を訪れ、ご住職にお話を伺ったときに、[この秋には秦氏の君の像が完成するので]と言われていたので、楽しみにしていたが、いよいよ完成とのこと、うれしく思っています。早く一度誕生寺を訪ねたいと思いますが、今のところ公私ともに忙しく果たせていません。

思えば何年か前に、私の主催している歴史探訪会で同行された達磨協会の井口末次さんが[秦氏の君がやってきて、よく来てくれた、私の気持ちをわかってほしいといわれた」と聞いて、母君の無念が今も続いてきたんだなあと、思わされたのを思い出します。
その井口さんも、今年他界されて、あの世で法然上人やその母君に会われているのかなと思っています。井口さんは、津山に来て法然上人をとても尊敬していた内村鑑三師とゆかりの深い、信州教育の祖とも言われたキリスト者井口喜源治の親戚に当る人、皆さんそろってこの日を喜び、法要にも参加されたかなと、勝手に思っています。

思うに、法然上人は日本を代表する宗教家、その父母の敵をも許す心に、大宗教家を生み出した元があること、改めて強く思わされました。
秦氏は、景教徒、原始キリスト教徒だったとも言われ、秦氏の君の姿にイエスの母マリアの姿を思い浮かべました。すべてを許し愛することを教えて行ったその教えの精神が、法然上人の父と母、そして法然上人自身の生き様とその教え、その精神に生きていることをまざまざと思わされているところです。

皆さん、誕生寺に行ってみましょう。

2010年11月20日土曜日

郷土岡山を描き続けた作家・坪田譲治

昨日は[岡山を描き続けた作家・坪田穣治」との題目で、ノートルダム清心女子大学の山根知子先生の話をうかがうことが出来ました。
最初に写真を見せていただきながら、坪田穣治の生涯を紹介されましたが、山根先生ご自身、出身の小学校(石井小学校)や、大学(早稲田)大学に入っての寮生活など、共通する部分がとてもおおいと語られていました。現在お住いの心も、かって坪田譲治が住んでいたことのあるところとか、ゆかりの深さを感じさせられました。
坪田譲治は、故郷岡山をこよなく愛し、小さいころの体験を、その作品の中にたびたび登場させ、その当時の島田の様子などが作品の中に描かれているそうです。
島田と言うのは、本当にその当時田んぼの中の島のようなところだったようですね。
実家は一族でランプやろうそくの芯を製造する工場を経営していて、その頃の体験が、やはり作品に行かされているそうです。
ずっとお話を聞きながら、坪田譲治がいかに故郷岡山を愛していていたか。時々[白桃]を取り寄せて皆にふるまったり、「大手まんじゅう」が何より大好きだったとか、故郷思いのエピソードには事欠きません。
私なども故郷を離れている時は岡山が懐かしく、岡山の自慢をしたりしたものですが、坪田譲治は並はずれてその心が強かったようです。
そんな坪田譲治、名前は郷土出身の有名作家と聞いていても、なかなか作品を読んだりまでの機会は無かったのですが、改めて興味がわいてきました。
山根先生ありがとうございました。

さて、来月12月の人物伝は、旧制六高柔道部の全国8連覇の師範、金光弥一兵衛講道館9段の話を、岡大柔道部出身の高橋義雄氏に語っていただく予定です。関心のある方はぜひご参加ください。
毎月第3金曜日の夕方6時から県立図書館2階のサークル活動室です。

2010年11月19日金曜日

閑谷学校の櫂の木 その後の櫂の木

先日櫂の木の写真を送ってくれた「備前市観光ボランティアガイド 爺婿さん」からその後の櫂の木の写真を戴きました。

今右の黄葉カイはじゅうたん状態で寂しくなりましたが、左の方はまだ 紅の付いたるカイの大木・・・です。
この辺はカイに遅れたとはいえ竜田姫も成人美人になり元気出して来たから人出、カメラマンは割と多いです



まだ間に合いそうですね。この土日にでも行ってみたいですね。

2010年11月13日土曜日

閑谷学校の櫂の木 紅葉がとても美しいです

おかやま人物銘々伝を語る会で共に学んだ「備前市観光ボランティアガイド 爺婿さん」から櫂の木の写真を送っていただきました。
あまり美しいので皆様にも紹介いたします。
閑谷学校でボランティアガイドをしておられるそうです。
皆さんぜひ閑谷学校行って、櫂の木の美しい写真を撮ってきてください。
それでは

櫂の木を撮る人々
最高にきれいな櫂の木です
駐車場から

2010年11月8日月曜日

巨大古墳群造営も秦氏の力による?

造山古墳、作山古墳はじめ吉備の大古墳の造営は秦氏の技術出来たと言われる。
秦氏は、殖産技術と信仰の集団だったと言われている。
吉備で最も古くに建造されたと言われる秦原廃寺など、飛鳥時代の寺院建築は秦氏の力によるところが多い。
そしてその前の時代、大古墳の造営も秦氏の持つ土木技術力があって出来たのであろうと言われる。
丁度秦氏が弓月の君に率いられて、倭の国にやって来た時と、大古墳の造営が始まった時期が一致する。
この時代、秦氏は今でいえば大土木建設会社を経営していて、信仰にも熱心だった。そんなイメージか?
いずれにせよ、吉備の歴史に秦氏との関連は切り離すことが出来ない。宗教史然り、土木や金属加工などの産業、技術史然りである。
日本文化形成にきわめて大きなかかわりを持った「秦氏」そこにスポットを当ててみると、全体歴史の大きな流れが、見えてくるような気がする。

岡山人物銘々伝を語る会11月例会は[坪田譲治]

岡山人物銘々伝を語る会11月例会は、「郷土岡山を描き続けた坪田譲治]のテーマで、ノートルダム清心女子大学の日本語日本文学科の山根知子教授にお話をしていただきます。
日時は11月19日(金)午後6時~8時
会場は県立図書館二階のサークル活動室です。
参加費1000円(通常は500円)

坪田譲治は石井尋常小学校から神奈川中学を経て早稲田大学文学部予科に進みます。
そこで早稲田の先輩小川未明に出会い、師事、文学の道を志します。
坪田譲治は様々な困難を乗り越えながら、多くの作品を残しています。特に彼の書いた児童文学は郷土岡山の情景を、幼いころの体験をベースに書き続けました。こよなく郷土岡山を愛し続けた文学者でした。
多くの後輩を育てたことでも有名で、岡山市では遺徳をしのんで坪田譲治文学賞を定めました。
今夏講演をしてくださる山根知子教授は早稲田大学出身で、所属するノートルダム清心女子大学には坪田譲治の文庫も作られています。郷土岡山を描き続けた坪田譲治の話、楽しみです。


参加希望の方は吉備楽土にご連絡ください。


岡山人物銘々伝を語る会では、毎月第3金曜日の夕方6時から県立図書館の2回で岡山に縁の人物伝を語り合っています。通常は参加費500円です。岡山の歴史と人物に関心のある方、ご参加お待ちしています。

岡山人物銘々伝を語る会11月例会は[坪田譲治]

岡山人物銘々伝を語る会11月例会は、「郷土岡山を描き続けた坪田譲治]のテーマで、ノートルダム清心女子大学の日本語日本文学科の山根知子教授にお話をしていただきます。
日時は11月19日(金)午後6時~8時
会場は県立図書館二階のサークル活動室です。
参加費1000円(通常は500円)

坪田譲治は石井尋常小学校から神奈川中学を経て早稲田大学文学部予科に進みます。
そこで早稲田の先輩小川未明に出会い、師事、文学の道を志します。
坪田譲治は様々な困難を乗り越えながら、多くの作品を残しています。特に彼の書いた児童文学は郷土岡山の情景を、幼いころの体験をベースに書き続けました。こよなく郷土岡山を愛し続けた文学者でした。
多くの荒廃を育てたことでも有名で、岡山市では遺徳をしのんで坪田譲治文学賞を定めました。
今夏講演をしてくださる山根知子教授は早稲田大学出身で、所属するノートルダム清心女子大学には坪田譲治の文庫も作られています。郷土岡山を描き続けた坪田譲治の話、楽しみです。


参加希望の方は吉備楽土にご連絡ください。


岡山人物銘々伝を語る会では、毎月第3金曜日の夕方6時から県立図書館の2回で岡山に縁の人物伝を語り合っています。通常は参加費500円です。岡山の歴史と人物に関心のある方、ご参加お待ちしています。

2010年11月4日木曜日

猿田彦と秦氏 熊山との繋がり

猿田彦は、ニニギのミコトが天下る時先導役を務めたと、記紀にある。
その猿田彦は秦氏の氏神であったらしい。
熊山山上に猿田彦神社が祀られるのは、いかにも熊山が秦氏の信仰の場であったことを証明しているようである。
そもそも山岳修行、修験道は秦氏が開いたとされる。

2010年11月2日火曜日

報恩大師は吉備の出身か?

熊山について詳しく書いた、仙田実氏の「霊山熊山」には、報恩大師は、もともと吉備の人物ではなく、備前48か寺も、後の世に、金山寺が、備前の中心的寺院としての権威を高めるために、報恩大師の開基としたのであろうという。生れも、備前の波荷(芳賀)ではなく大和で生まれたという。それでは報恩大師の産湯の井戸などの伝説は何かということになるが、高松稲荷、竜王山の開基との言い伝えなどからしても、[秦氏]との密接なかかわりは、否定できない。波荷の地も何かの縁があってのことであろう。確かに報恩大師の伝説は不明な事が多い。
吉野で修行して、孝謙天皇の病気平癒の祈祷に験があったというのは、記録にあるところであり、その出自か何かに吉備の国との密接な関係があったこと思われる。
奈良朝の時代、和気清麻呂が都で地位を高めて行った時である。一方備中に縁のある吉備真備も都の重要な役職を歴任して行く。
この時代、宗教面、人材面で吉備は輝いて行く。その宗教的風土のキーワードがやはり「秦氏」である。