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2017年2月12日日曜日

安本美典氏講演会(続き)

安本美典氏の講演会を聞いての感想を書いて今したが、所要が多く、執筆が中断していました。続きを書いていきます。 

安本氏の歴史研究手法はユニーク、統計学などを駆使しているので、歴史の専門的研究者にしてみれば、いかにも「如何わしい」と異論のあるところ、当然だと思う。まあ、もともと素人の私などには面白い見方で、注目するが専門家にしてみれば「突っ込みどころ満載」なのであろう。

手法はともかくも、私にはとても注目の「説」であった。

安本氏は「邪馬台国は福岡県にあった―ありえない畿内」と題して講演を始めた。
まず、白鳥庫吉の「卑弥呼=天照大御神」説と、和辻哲郎の「邪馬台国東遷説」を引用しながら、独自の文献年代論を展開して、卑弥呼は天照大御神であり、魏志倭人伝にある邪馬台国は今の福岡県であると断定していった。
また、地名学者の鏡味完二氏の著「日本の地名」から
「九州と近畿のあいだで、地名の名付け方が実によく一致している。これは単に民族の親近と言う以上に、九州から近畿への大きな集団の移動があったことを思わせる。」という一文を引用して、「邪馬台国東遷説」との重なりを指摘した。

さらに安本氏は、卑弥呼の宮殿のあったところは福岡県の甘木市平塚の平塚川添遺跡がそれではないかと言う。
平塚川添遺跡は佐賀県の吉野ケ里遺跡と同程度かそれ以上の規模を持つ環濠集落であったことが明らかになったと、1992年12月の新聞報道があった。高倉洋彰西南学院大学教授は「吉野ケ里遺跡と同様な性格を持った大規模な拠点集落で、邪馬台国時代の一つのクニの中心遺跡と思われる。弥生後期には関西を含めて拠点的な大規模集落は吉野ケ里を含めて2,3例で、同時期の日本最大級の環濠集落とみていいい」と発言している。
最後に安本氏は、卑弥呼の墓は福岡県の平原王墓古墳であろうと結論付けられた。
平原王墓古墳は昭和後期の考古学者原田大六氏が生涯をかけて調査研究した。原田氏は小学校教員をしていた妻のイトノさんの助けのもと研究を続けた。昭和60年に68歳で亡くなった夫の調査研究書を平成5年に自費出版したが重さが8.5キロもある大書で夫の原稿料や自分の退職金、貯金をはたいて5000万円かけて出版したという。何故かくも大きな本を作ったのかと言うと、平原王墓古墳から出土した、直径46センチを超える巨大な銅鏡の原寸写真に折り目を入れることが恐れ多くてこのような大きな本になったと言われている。
この大鏡と言うのが、日本列島で出土した鏡の中でも最大のものでそれが5面も出たというのである。
この大鏡の模様が太陽の光彩を表すような模様で、実は先日岡山県立博物館で開催されていた「国立博物館里帰り展~岡山県内で出土した出土品で国立博物館に所蔵されている出土品を展示した展示会」で、岡山県内最大の出土数、全国でも9番目に多い丸山古墳の出土の鏡の中にも同様の模様の鏡があり、その鏡の説明をしてくれた学芸員の佐藤さんが「これは太陽の光彩を表しているものと考えられる」と教えていただいたばかりだった。それで女王卑弥呼が太陽光を映して祭祀をした鏡だと考えても不思議でないと思わされたのである。
場所は糸島半島である。博多湾の西、対岸に半島を望む丘の上に王墓古墳はある。

当日講演会場で安本氏の出版物が販売されていたが「卑弥呼の墓はすでに発掘されている それは平原王墓古墳である」と言う本が出版されたばかりで、最後の一冊が販売されていたので小生も買い求めて来た。原寸大では勿論ないがこの本にカラー刷りの写真が掲載されていたが、見事なものである。
もしやこの墓が卑弥呼の墓だとして、何故王宮があったと見做される朝倉市の平塚川添遺跡からは50キロ以上も離れたところに葬られたのか?という疑問については、その後の大和の王墓も王宮の所在地からかなり離れた場所に葬られている場合が多いとして答えておられた。
安本氏の話には無かったが、卑弥呼は半島の伽耶あるいは百済出身という説もある。何らかの半島南部諸国との関係があったとすれば玄界灘を望む糸島に王墓が設けられたとしても意味があるかもしれない。

講演後、岡山の歴史研究者との対談の場が設けられた。「邪馬台国吉備説」と「邪馬台国九州説」の討論の場となるかと期待したが、時間の関係もありそれぞれの主張するところを述べたことで対話は終わった。しかし、今回の講演会と対話の時間は有意義だった。

今回の対話の話し手の一人岡将男さんが「吉備邪馬台国東遷説」を唱えているが、東遷と言うことにおいては一致してる。

歴史作家の関裕二氏が「吉備=物部」説を唱えている。最近の関裕二氏の著作では海洋氏族の物部氏が東遷して大和の国づくりが始まったとの説を唱えている。

今回安本美典氏の「邪馬台国九州説」との整合性があるのではとの私の直観である。

小生も買い求めた「秦氏の研究」の著者、大和岩雄氏は魏志倭人伝の「女王国」と「邪馬台国」は別だったのではと述べている。魏志倭人伝の女王卑弥呼の所在地はどう読んでも九州であろうというのである。

この辺りは真実なのではないか!
女王卑弥呼が天照大御神であり。それから5代目の神武天皇が東遷したとすればこのあたりの辻褄はあってくる。
九州のアマテラスの一族がその後畿内に移動したとして。アマテラスの一族の前に大和に登った一群がスサノオの子孫饒速日一族、すなわち物部の一族だったというのは時代の変遷の事実とは矛盾しない。

安本氏の邪馬台国九州説は批判も多い。大和説からすれば、突っ込みどころのの多い部分がたくさんあるという。
まだまだ論争は続いて行くと思うが、小生の中では何か核心めいたものが出来て来たようにも思う。
「吉備とは何か?」と言うことをメインテーマにしながら、邪馬台国と卑弥呼の史実も検証していきたい。

半島や大陸とのかかわりはこれからも重要なテーマとなるであろう。
アメノヒボコの子孫とされる三宅一族、児島高徳や宇喜多一族などとの関りも興味深い。
これからも思いつくところを記事にしていきたいと思っている。



2017年2月11日土曜日

安本美典さんの話を聞きました

1月8日岡山駅西口にある国際交流センターで、岡山歴史研究会主催の特別講演会がありました。
今回、講師は安本美典氏、言わずと知れた邪馬台国九州説の旗頭です。
「邪馬台国が福岡以外の確率は99.9%である」と言い切っておられます。
その安本美典先生、岡山県、高梁高校出身であることは今回初めて知りました。お生まれは満州、満州から引き揚げてすまれたのが高梁市に近い美袋、ここから高梁高校に通われたようです。京都大学文学部に進まれて、日本古代史も専攻されていたようですが、どちらかと言えば専門は数理言語学、産業経済大学教授を経られて、今は日本古代史研究に専念されておられる由。

今回岡山での講演は、初めてとのこと。邪馬台国九州説と大和説の論争は聞き及んでいたが、ご本人の直接の話を聞くのは今回が初めて、おそらく大半の参加者の皆さんもそうだったと思う。

面白かったのは安本先生の論が数理統計学的な論証で、これまでの歴史学の手法とは全く違うのでびっくり。

続きを書く予定でしたが、所要に追われていました。続きを別記事で書いていきますのでよろしくお願いいたします。