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2013年11月13日水曜日

今日本の舵取りに理念が求められている

 ケネディー駐日大使赴任のニュースが伝えられている。暗殺されて亡くなったケネディー元米大統領の長女である。外交手腕を疑問視する向きもあるが、日本への高感度もあり、日米関係の信頼と友好を深めるには好人物である。対日重視のオバマの戦略の現われと見ることが出来る。日米関係は沖縄の基地問題など問題が無いわけではないが基本的に共同歩調を取る方向性に狂いは無い。

 現在とところ安部政権の対外外交戦略はきちんと的を得て進行している。毎月のように外遊を続けながら、東南アジア、西アジア、アフリカ、東ヨーロッパ、北欧、西ヨーロッパ、ロシア、中南米とオセアニアへと外交関係は極めて良い関係が醸成されていっている。首相自らでかけてのトップセールスも成功して言っている。
 問題は東アジアであるが、対中外交については内外で高い評価を生んでいる。反日に燃える韓中だが、中国は反日トーンが明らかに落ちてきている。さらに北朝鮮だが最近ピタッと対日非難の声が聞かれなくなった。
 今韓国だけが反日に狂っている。
台湾はずっと友好的だがここも嫌韓の動きが強まっている。フィリピンもかねてから親日的だが、今回安倍総理は台風被害に対して迅速に救援支援策を打ち出した。フィリピンの対日好感度はずっと増加している。

国内では小泉元総理が脱原発を主張!波風を起こそうとしているが、どの程度のものになるのか?きっちり国民世論の動向も押さえながら、きちんと国家戦略を明確にして方向性を出して行っている安倍総理なので、今は大きな不安は無い。

今後の安部政権の課題はアベノミクスと言う経済政策がどのように現実に国民生活の向上に繋がるのか?特に国民社会に出来上がった低所得者層、社会的弱者にどのように光を当て、国家経済の成長戦略と整合させながら格差の是正や、失われた社会の和、均質化にどうのように取り組むかが課題である。
  国民教育、家庭観の確立是正、倫理道徳観の確立など課題も多い。
7年間が鍵である。国家財政破綻の問題もこの7年間ではっきり道筋を立てないといけない。

今の日本の課題はそれらの難問を解決していく、知恵を持った人材をどのように確保していくかにかかっている。宗教家、思想家、知識人、正しい言論人が求められている。歴史へのきっちりした見直しも必要になってきている。グローバル化した世界の中で、日本文化の特性をきっちり説明できる理念の構築が急務となっている。

山田方谷先生の理財論が注目されている。現代的にこれをどう応用実現していくか、縁のある我々の中から、理念的提言が出てきてほしいものである。

2013年11月12日火曜日

河井継之助との絡みが面白い

 山田方谷先生を大河ドラマに!との運動が盛んに行われていて、私も幾ばくがであるが署名運動など協力している。
 ただ、一般の声としては、[あまりにも知名度が低い」「ドラマにするには面白みがかける」との批判の声も・・・
 今日は[炎の陽明学」昨日の長瀬の普請の話の続きで、河井継之助の入門の経緯を読んでいる。

 司馬遼太郎が「峠」という、河井継之助をテーマにした小説を書いているので、一般世間では山田方谷先生より河井継之助のほうが良く知られている。
 確かに河井継之助は人物として面白味がある。山田方谷先生のどちらかと言えば真面目一方の性格とはかなり違って、豪胆で失敗を恐れぬ猪突猛進型のところもあり、最後は激しい戦いの末死んでいるのでヒーロー性がある。
 河井継之助を表に一方山田方谷先生の生涯をしっかり描くような組み立てにすると結構行けるのでは~~などと勝手に思ってしまった。
 長岡市や新潟県と提携して行けば結構行けるのでは・・・・・

ここで弟子は取らないつもりだった方谷先生がなぜ河井継之助は弟子入りを認めたのか?
 矢吹先生の著では継之助が「机上の講義を拝聴しようなどとは思いません。先生のおそばに置いていただけるだけで結構です。先生の日常に接し、生き様を学ぶ。藩政改革の実際を活学として学びたいのです。」と、言って入門を志願した。と書かれている。

ここで、熊沢蕃山が中江藤樹の樹下を訪ね弟子入りを志願した時のことを思い出す。

最高の教育とはその生き様を身をもって教えることである。

机上の学問、しかもそれは立身出世のため、これが中国や韓国で実施されてきた科挙を目指すための学問であった。その意に沿うような学問が朱子学であった。

藤樹先生や熊沢蕃山そして山田方谷先生に受け継がれた、教育や学問のありかた、これが儒学の中では陽明学の趣旨だったのかもしれない。

それにしても、当時山田方谷先生の名声が如何なるものだったのか?河井継之助は方谷先生のことを絶賛している。入門前は方谷先生のことを[山田]と呼び捨てにしていたそうであるのに、弟子入りしてみてさらに心酔している。

山田方谷先生は江戸の佐藤一齋師のもとで塾頭をしていたが、同じ門下で奇才と謳われたのが佐久間象山である。佐久間象山は一時期河井の師でもあった。
 佐久間象山の人物評を方谷先生に問うた時、方谷先生は「佐久間に、温良恭謙譲のいずれある?」と返事したという。この言葉に継之助は共感したと言う。

この当時、藩政がうまく行っていたのは備中松山藩と、奥州中村藩だけだと当時言われていたそうである。
 山田方谷の名声は諸藩に鳴り響いていた。日本の各地からその名を聞き及んだ学徒が弟子入りを求めて備中松山にやってきたがその大半を方谷は断っていた。藩政改革の実学を学ばせようと各藩が競って藩費で学生を送り込んだ、それらも断っていた方谷のところに河井は入門を認められて弟子入りしたのである。

確かにあれほど大河ドラマや小説やあらゆる形で取り上げられる幕末維新の時代で、山田方谷先生ほどの実力を持ちながらいまだに無名な人物も珍しい。岡山県人さえその実像を知らない人が多い。
 最近NHKも表舞台の人物よりも裏で活躍した人物を取り上げることが多くなったので、案外行けるかな!とも思えてくる。
 
いずれにせよ山田方谷先生のこともっと多くの人たちに知ってほしい。
我が山田家も同じルーツですので、一族として応援して行きたい。

2013年11月11日月曜日

山田方谷先生も経済的に困窮していた

自分のFB(フェイスブック)に掲載した記事ですがこちらにも載せます
かの山田方谷先生の山田家も経済的に困窮していた時期があったという話です。

今日は久方ぶりに矢吹邦彦先生の書かれた山田方谷伝「炎の陽明学」を開いてみて、意外な発見をした。山田家の家計が窮地に瀕していたと言う話である。それも松山藩の藩政改革が実施され、藩財政は豊かになり領民は産業の振興と減税の実施で豊かになり、方谷先生を神様のように仰いでいたのにである。
 当時、方谷先生は藩政改革に成功した松山藩の最高責任者であった。にもかかわらず毎日の生活にも事欠くような貧苦の経済状態で家族8人が生きていくために端の髪飾りを処分したり、慣れない農作業に従事したりして苦境をしのぐ状態だった。
 それは方谷先生が藩の重要な役職にありながら俸禄は藩校の学頭時代とほとんど変わらないのに出費が増えたことである。その中でも最大の出費がかさむようになったのは、全国の他藩からその名声を慕ってくる門人たちを受け入れられるようにと長瀬に新居を普請したことが大きかった。これで家計が完全に回らなくなった。
 著者の矢吹先生は「理財の天才方谷が犯したあまりにうかつな大幅な計算誤りだった」と書いている。
 さすがの方谷先生も追い詰められたのか、この当時の心境をつづった漢詩が残されているそうである。
 我が山田家も、経済的困窮は計り知れず、方谷先生の山田家とは次元が違うが、よく似た心境を味わっている。
 方谷先生も誇り高きお方、どんなに困窮しても藩主や周りの人々に苦境を話すことも出来ない。じっと自らの心の中で耐えるしかない期間だったようである。
 まあ、私には方谷先生も仲間のような親近感を覚えるが、失礼かもしれない。方谷先生も釈迦の生活にあこがれたようだが、たしかにそうかもしれないと思う。