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2013年11月12日火曜日

河井継之助との絡みが面白い

 山田方谷先生を大河ドラマに!との運動が盛んに行われていて、私も幾ばくがであるが署名運動など協力している。
 ただ、一般の声としては、[あまりにも知名度が低い」「ドラマにするには面白みがかける」との批判の声も・・・
 今日は[炎の陽明学」昨日の長瀬の普請の話の続きで、河井継之助の入門の経緯を読んでいる。

 司馬遼太郎が「峠」という、河井継之助をテーマにした小説を書いているので、一般世間では山田方谷先生より河井継之助のほうが良く知られている。
 確かに河井継之助は人物として面白味がある。山田方谷先生のどちらかと言えば真面目一方の性格とはかなり違って、豪胆で失敗を恐れぬ猪突猛進型のところもあり、最後は激しい戦いの末死んでいるのでヒーロー性がある。
 河井継之助を表に一方山田方谷先生の生涯をしっかり描くような組み立てにすると結構行けるのでは~~などと勝手に思ってしまった。
 長岡市や新潟県と提携して行けば結構行けるのでは・・・・・

ここで弟子は取らないつもりだった方谷先生がなぜ河井継之助は弟子入りを認めたのか?
 矢吹先生の著では継之助が「机上の講義を拝聴しようなどとは思いません。先生のおそばに置いていただけるだけで結構です。先生の日常に接し、生き様を学ぶ。藩政改革の実際を活学として学びたいのです。」と、言って入門を志願した。と書かれている。

ここで、熊沢蕃山が中江藤樹の樹下を訪ね弟子入りを志願した時のことを思い出す。

最高の教育とはその生き様を身をもって教えることである。

机上の学問、しかもそれは立身出世のため、これが中国や韓国で実施されてきた科挙を目指すための学問であった。その意に沿うような学問が朱子学であった。

藤樹先生や熊沢蕃山そして山田方谷先生に受け継がれた、教育や学問のありかた、これが儒学の中では陽明学の趣旨だったのかもしれない。

それにしても、当時山田方谷先生の名声が如何なるものだったのか?河井継之助は方谷先生のことを絶賛している。入門前は方谷先生のことを[山田]と呼び捨てにしていたそうであるのに、弟子入りしてみてさらに心酔している。

山田方谷先生は江戸の佐藤一齋師のもとで塾頭をしていたが、同じ門下で奇才と謳われたのが佐久間象山である。佐久間象山は一時期河井の師でもあった。
 佐久間象山の人物評を方谷先生に問うた時、方谷先生は「佐久間に、温良恭謙譲のいずれある?」と返事したという。この言葉に継之助は共感したと言う。

この当時、藩政がうまく行っていたのは備中松山藩と、奥州中村藩だけだと当時言われていたそうである。
 山田方谷の名声は諸藩に鳴り響いていた。日本の各地からその名を聞き及んだ学徒が弟子入りを求めて備中松山にやってきたがその大半を方谷は断っていた。藩政改革の実学を学ばせようと各藩が競って藩費で学生を送り込んだ、それらも断っていた方谷のところに河井は入門を認められて弟子入りしたのである。

確かにあれほど大河ドラマや小説やあらゆる形で取り上げられる幕末維新の時代で、山田方谷先生ほどの実力を持ちながらいまだに無名な人物も珍しい。岡山県人さえその実像を知らない人が多い。
 最近NHKも表舞台の人物よりも裏で活躍した人物を取り上げることが多くなったので、案外行けるかな!とも思えてくる。
 
いずれにせよ山田方谷先生のこともっと多くの人たちに知ってほしい。
我が山田家も同じルーツですので、一族として応援して行きたい。

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