8月に「吉備の秦氏と岡山の人物」というテーマで話をすることになっている。
そのための材料をいろいろ集めている最中だが、これが膨大なテーマだということが分かってきた。
吉備の秦氏というが、その全貌はこれまで誰もまとめていない。そもそも日本の歴史の中で、吉備の歴史は古事記日本書紀を始めほとんど記述がない言っていくらいである。
多くの歴史の研究者が、吉備の国、しかも秦氏のことにはほとんど触れていない。
最近幾人かの方が「邪馬台国吉備説」であるとか、吉備に注目する学説を唱えていたりするが、膨大な古代日本史研究の中では「吉備」は無視されてきたといってもいい。
そのような中ではあるが、岡山大学考古学部の近藤義郎先生の研究や、近藤先生の楯築遺跡の研究を基にしながら書かれた薬師寺慎一先生の論文は注目に値すると思っている。
また、磐座や地名の研究をしながら秦氏について言及された佐藤光範さんの研究に注目してみたいと思っている。
岡山からは実に偉大な人がたくさん輩出している。その先駆けとも言うべきなのが「吉備真備」であり「和気清麻呂」であろう。
和気清麻呂が秦氏、特に山背の秦氏と密接な関係を持っていたことはよく知られている。和気氏と秦氏の関係は、和気氏の出身地である備前、美作でもその関係が密接であったことが明らかである。更には宇佐八幡との関係もあり、道鏡事件のとき流された大隅でも秦氏との関係があったのではないかと思われる。
さて、薬師寺慎一先生の書いた、備中中枢部の秦氏に関する論文を読ませていただくと、「吉備氏」=「秦氏」という構図が浮かび上がってくる。応神天皇の妃、兄媛が故郷に帰りたいということで、吉備に帰るが、その兄媛を追って天皇が来られて、兄媛の兄御友和別が歓迎した。その地が葉田(ハダ)である。そして御友別の子達に吉備の国を分けて与えた。それが上道氏や下道氏、三野、香屋、笠臣などであるという。
さらに戦前吉備を代表する歴史家永山卯三郎氏が著わした岡山県通史の中で、「葉田は東は上道郡の可知村、財田村土田(はだ)、幡多村から西は高梁川西岸の秦郷に至るいったいを言ったものか・・」とあることを紹介している。
そうだとすれば下道氏から出た吉備真備もその後賀陽氏から出たという栄西禅師も秦氏の流れをくむ人物と見ることができる。
そして更に、二流れの幡から生まれたという法然上人の誕生につながる。
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