江見水蔭
これまであまり知らなかったが、今回、岡山人物銘々伝を語る会で田中浩明さんが発表した、内容によると、ずいぶん活躍していたんだなあと、はじめて知った驚きでいっぱいです。
水蔭は岡山藩士、江見鋭馬の長男として明治2年、1番町1丁目に生まれた。父親は勤皇の士で、岡山藩の維新三尊と言われた人物で、母親は父が播州赤穂藩士村上真輔で、藩内の軋轢で暗殺され、その子、四郎らが高野山で仇討をした。(これは日本最後の仇討と言われれる)
幼くして父を亡くし、祖父に育てられるが、伯父の勧めで上京、16歳の時、教育者・思想家であった杉浦重剛の称好塾に入塾、そこから東京英語学校に通う。
18歳の時、尾崎紅葉らの文学結社 硯友会のメンバーになり、数多くの作品を書いた。
最初は純文学を書いたが、その後は通俗的な時代小説や、探偵小説などを盛んに書いた。
資料によると、明治期の作家の中でも、水蔭の作品数は、第一位となっており、自称2000作ともいわれるほど多数の作品を書いている。
明治36年、シェークスピアの「オセロ」を翻案して戯曲を書き、これは、川上音二郎と貞奴が主演して前項を公演して回り、有名になった。
水蔭は、相撲に熱を入れ、「文士相撲」を始めた、これはその後学生相撲と変わっていった。
また、明治42年には両国に相撲の常設館が建設されるが、その名前の「国技館」は、水蔭があいさつ文を頼まれ、その中に「そもそも、相撲は日本の国技、朝廷これを奨励せられ・・・」の言葉から名づけられ、「国技館」の名付け親とされている。
また、考古学にも興味を持ち、自宅に太古遺物陳列所を作り、その収蔵品は2万7千9百点余りもあったといわれる。
晩年は講演活動などをして回っていたが、昭和9年9月、岡山講演を予定していたが、室戸台風の影響で、それができず、四国を講演中、松山で肺炎にかかり、闘病、亡くなった。66歳であった。
水蔭は明治期の作家として、きわめて多くの作品を残し、脚光を浴びたが、地元岡山ではあまり知られていない。これは岡山では、あまり文士を歓迎しなかったのと、父親が勤皇の士で、有名人で会った人物で、かえって小説家となった水蔭を蔑視する風潮があったといわれる。
文壇では田山花袋を育てたりしているが、「自分は学問がない、それで二流三流扱いをされた。」とも述べており、尾崎紅葉などとの軋轢が、その一因だったとも見られる。
今回講演してくれた田中浩明さんは、東京品川を訪ねたり、水蔭の生家跡(番町1丁目、新鶴見橋のたもと辺りにあった)を訪ねたり、国技館の資料や、川上音二郎が演じた「オセロ」のポスターや、その他多数の資料を準備いて語ってくれた。
郷土岡山では、あまり尊重されなかったようだが、国技館の名付け親になったり、その事績は極めて大きなものがある。改めて光を当ててみるべき人物だと思った。
2010年4月17日土曜日
2010年4月16日金曜日
高速道路上限制に思う
高速道路上限制について
6月から、高速道路の上限制が始まる。
民主党は、高速道路無料化をマニフェストに掲げて、政権交代し
国民の間に、高速道路無料化の論議が広がった。
自民党政権は、その末期に、土日祝日の千円高速を実現し、功罪様々結果となった。
本ブログでも取り上げた、フェリーの廃航問題も起こってきた。
今回の上限制、ちょっと思いつきの観を否めない。
フェリー航路廃止に考慮したというが、四国各県からは反発が強い。
橋を渡るのに、一般高速道路より上乗せされたのは、はっきり言って不公平。
フェリーへの影響を考慮したというが、我々はこんな形を願ったのではない。
確かに長距離利用者にはメリットがあるが、その恩恵はごく一部。
本当に必要なのは、全体的な値下げ。
近距離なんかは、むしろタダにした方が、地方交通には役に立つ。
これこそ有効活用だと思うがどうだろう。
高速道路の利用促進策をして、そのための値下げをすればいい。
ある一定のルールを決めて、料金設定を自由にしたらいいと思う。
6月から、高速道路の上限制が始まる。
民主党は、高速道路無料化をマニフェストに掲げて、政権交代し
国民の間に、高速道路無料化の論議が広がった。
自民党政権は、その末期に、土日祝日の千円高速を実現し、功罪様々結果となった。
本ブログでも取り上げた、フェリーの廃航問題も起こってきた。
今回の上限制、ちょっと思いつきの観を否めない。
フェリー航路廃止に考慮したというが、四国各県からは反発が強い。
橋を渡るのに、一般高速道路より上乗せされたのは、はっきり言って不公平。
フェリーへの影響を考慮したというが、我々はこんな形を願ったのではない。
確かに長距離利用者にはメリットがあるが、その恩恵はごく一部。
本当に必要なのは、全体的な値下げ。
近距離なんかは、むしろタダにした方が、地方交通には役に立つ。
これこそ有効活用だと思うがどうだろう。
高速道路の利用促進策をして、そのための値下げをすればいい。
ある一定のルールを決めて、料金設定を自由にしたらいいと思う。
2010年4月14日水曜日
「江見水蔭」について語る 岡山人物銘々伝を語る会例会
16日金曜日 午後6時から岡山県立図書館で 岡山人物銘々伝を語る会 第44回例会が開かれます 皆さん是非ご参加ください。
4月の例会は明治から大正にかけ一世を風靡した岡山出身の異色の作家「江見水蔭」について田中浩明氏が語ってくれます。
詳しく知りたい方は 吉備楽土にメールください
岡山人物銘々伝を語る会第44回例会
日時:平成22年4月16日(金)※ 午後6~8時 (※通例は第3金曜日です)
場所:岡山県立図書館の2階
取り上げるテーマ:「江見水蔭」
講師:田中浩明氏 参加費:500円
<江見水蔭>えみ すいいん、明治2年8月12日(1869年9月17日) - 昭和9年(1934年)11月3日)は、小説家、翻案作家、雑誌発行者、紀行家、冒険家。本名:忠功(ただかつ)。岡山市生れ。 文学作品を皮切りに、通俗小説、推理小説、冒険小説、探検記など多岐に渡る分野に作品を残し、硯友社、江水社、博文館など数々の出版社で雑誌の編集発行に関わった。代表作に小説『女房殺し』、『地底探検記』、随筆『自己中心明治文壇史』、翻案戯曲『正劇 室鷲郎』などを残す。
事務局 山田
携帯 090-1033-3327
2010年4月7日水曜日
日本の感性21in岡山 邦楽演奏会の案内
昨年王子ケ岳でサンセットイベントに参加した
日本筝曲学会 日本の感性21in岡山の案内をいただきました。
昨年の演奏はとても素晴らしかった。
全国コンクールで毎年優勝しているという子の演奏も素晴らしかったし
何より夕暮れの瀬戸内海をバックに「春の海」 最高でした。
今年はその王子が岳のイメージの新曲始め
また 素晴らしい演奏が聴けそうです。
日時 平成22年5月9日(日) 12:30 開演 12:00 開場
場所 岡山市民会館
司会 大月宗明
心が明るくなる集い No.5
主催 NPO全国法人 日本の感性21in岡山
日本音楽大道派 ・仁康音楽会
出演者 日本音楽大道派宗家 大月宗明
斎藤道英 大月一正 大月邦弘 永廣孝山 熊代七恵 中村真理 近藤裕子 有山京子 ほか
演奏曲目 荒城の月抄:さくら舞曲・・・・日本のうた
サンシャイン瀬戸・・・王子が岳ファンタジー/新作発表 ほか
出演者・プログラムなど詳しくはパンフレット
クリックしてください
「吉備楽土」に連絡をいただければ割引入場券(半額)を差し上げます
kibirakudo@gmail.com
にメールください。
日本筝曲学会 日本の感性21in岡山の案内をいただきました。
昨年の演奏はとても素晴らしかった。
全国コンクールで毎年優勝しているという子の演奏も素晴らしかったし
何より夕暮れの瀬戸内海をバックに「春の海」 最高でした。
今年はその王子が岳のイメージの新曲始め
また 素晴らしい演奏が聴けそうです。
日時 平成22年5月9日(日) 12:30 開演 12:00 開場
場所 岡山市民会館
司会 大月宗明
心が明るくなる集い No.5
主催 NPO全国法人 日本の感性21in岡山
日本音楽大道派 ・仁康音楽会
出演者 日本音楽大道派宗家 大月宗明
斎藤道英 大月一正 大月邦弘 永廣孝山 熊代七恵 中村真理 近藤裕子 有山京子 ほか
演奏曲目 荒城の月抄:さくら舞曲・・・・日本のうた
サンシャイン瀬戸・・・王子が岳ファンタジー/新作発表 ほか
出演者・プログラムなど詳しくはパンフレット
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| 日本の感性21in岡山 邦楽演奏会 |
「吉備楽土」に連絡をいただければ割引入場券(半額)を差し上げます
kibirakudo@gmail.com
にメールください。
2010年4月4日日曜日
闇夜の日本
闇夜の日本
歴史というのはいい歴史ばかりじゃない
世の中暗い話も多い
悲惨な歴史をくぐりぬけてきたのが歴史かもしれない。
不当な弾圧や迫害を受けてきた人も多い。
差別や抑圧、侵略や、醜い戦争。
悪が大手を振って歩いてきた歴史も多い。
そちらからの歴史も見てみないといけないのかも。
現実も悲惨な、そして馬鹿げたことが多い。
はらわたが煮えくりかえるような、理不尽なことも多い。
今日も殺人や、死体遺棄の報道がされていた。
人間はなぜ、このような悪事を行うのか。
今年は就職難、まだ就職の決まっていない、新卒者も多い。
もちろん、リストラで職を失って、再就職の道のない失業者があふれている。
一方ではまだまだ贅沢三昧している者も多くいる。
格差の時代でもある。
光が当てられなければならないことが多くある。
歴史というのはいい歴史ばかりじゃない
世の中暗い話も多い
悲惨な歴史をくぐりぬけてきたのが歴史かもしれない。
不当な弾圧や迫害を受けてきた人も多い。
差別や抑圧、侵略や、醜い戦争。
悪が大手を振って歩いてきた歴史も多い。
そちらからの歴史も見てみないといけないのかも。
現実も悲惨な、そして馬鹿げたことが多い。
はらわたが煮えくりかえるような、理不尽なことも多い。
今日も殺人や、死体遺棄の報道がされていた。
人間はなぜ、このような悪事を行うのか。
今年は就職難、まだ就職の決まっていない、新卒者も多い。
もちろん、リストラで職を失って、再就職の道のない失業者があふれている。
一方ではまだまだ贅沢三昧している者も多くいる。
格差の時代でもある。
光が当てられなければならないことが多くある。
2010年4月1日木曜日
秦氏と藤原氏
藤原家と秦氏は極めて近い関係
久慈力氏の「シルクロード渡来人が建国した日本」を読んでいると
「藤原氏はシルクロード有力渡来豪族の集合体」との一説が目に入った。
藤原氏はスキタイ・サカ族が中心氏族であり、彼らと秦氏、月氏系などの集合体」とあり、
藤原氏と秦氏はそのルーツが非常に近い、しばしば婚姻関係を結んでおり、ほとんど融合している。
秦氏が藤原氏を経済的に支援している。あるいは秦氏が藤原氏にもぐりこんでいる。
とある。
西大寺観音院の縁起に出てくる[皆足姫]縁起には「藤原皆足」とあるが、別の記述には「秦皆足」とある。玖珂の皆足とは秦氏だった。藤原氏と秦氏が密接ん関係にあったとしたら、この辺りも理解できる。
改めて日本国のルーツは何か?秦氏と藤原氏など、関係を知りたくなった。
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久慈力氏の「シルクロード渡来人が建国した日本」を読んでいると
「藤原氏はシルクロード有力渡来豪族の集合体」との一説が目に入った。
藤原氏はスキタイ・サカ族が中心氏族であり、彼らと秦氏、月氏系などの集合体」とあり、
藤原氏と秦氏はそのルーツが非常に近い、しばしば婚姻関係を結んでおり、ほとんど融合している。
秦氏が藤原氏を経済的に支援している。あるいは秦氏が藤原氏にもぐりこんでいる。
とある。
西大寺観音院の縁起に出てくる[皆足姫]縁起には「藤原皆足」とあるが、別の記述には「秦皆足」とある。玖珂の皆足とは秦氏だった。藤原氏と秦氏が密接ん関係にあったとしたら、この辺りも理解できる。
改めて日本国のルーツは何か?秦氏と藤原氏など、関係を知りたくなった。
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2010年3月30日火曜日
いま求められるものは「親(父母)愛」そして(純潔な)「夫婦愛」
今の時代、求められるものは何か?
鳩山首相の祖父の鳩山一郎氏は「友愛政治」を掲げた
これはオーストリアの政治学者、グーテンホフ・カレルギー伯爵の政治理念の「友愛」をとりいれたものだった。
カレルギー伯は、かってドイツのヒトラーに併合された小国オーストリアの悲哀を体験する中で、真の平和は東西の融和からななされなければならないと、汎ヨーロッパ主義を唱え、その理念は現在のヨーロッパ連合(EC)を作る元となったため、かれは「ECの父]と呼ばれている。ECは欧州を一つにし、ヨーロッパの東西も一つにしていった。
さて、鳩山首相は祖父が掲げた「友愛」を政権の旗印い掲げたが、なかなその実現は見えて来ていない。
そこで私は
「友愛」をもっと進めて、今必要なのは「親愛」これは親しみ愛するということではなく、親の愛、父母愛ということである。
そして、さらに父母愛の、もととなるのが純潔な「夫婦愛」
いま世の中に一番欠けているのはこの[親愛](父母愛)であり、(純潔な)「夫婦愛」であると思う。
かつてこのブログで「中江藤樹と熊沢蕃山の士道」ということで
「士(さむらい)とは愛すること」と、熊沢蕃山が教えた と書いたが
いま世の中には「愛」がかけている。
昔は士(さむらい)今は行政
熊沢蕃山先生は役人世辞を忌み嫌った。それが池田光政公との行き違いの原因だったともいわれるが、
役人政治を嫌った理由は「政治(まつりごと)に優しさがなくなる」ということであった。
実は私は別のブログでわが先祖(山田家)のことを書き始めている。
その名は山田次郎重忠という。承久の乱の時、官軍方で獅子奮迅の戦いをした悠も果敢な武将であったが、一方、「心優しい侍であった」と、「沙石集」という鎌倉時代の無住禅師が書いた書に残っている。
信仰心篤く、母親のために寄進した寺が「長母寺」として、今も名古屋市の北区に残っている。
熊沢蕃山先生は「文武二道」を唱え、それを実行したのが池田光政公の政治であった。
それが徳川300年。300藩中第1位の名君として番付1位にあげられる所以となっている。
煎じつめれば、政治に必要なもの、いま世の中に最も必要なものは「愛」だと結論付けられる。
一方の名君の一人米沢藩の上杉庸山公の政治理念も、「藩主の務めは民の父母」ということだった。それは米沢藩主として婿入りする時、その師からきつく教えられていたことだった。
わが郷土の偉人山田方谷先生の精神も「至誠惻脱」、哀れみのこころ、民への「愛」であった。
親の愛は、その子供たちにひとしくそそがれ、わけ隔てのないものである。むしろ弱きものに注がれる。
聖書には、イエスキリストの教えとして「羊飼いは99匹の羊をおいても、失われた1匹を探す」とある。
かっての聖人の教えた教えは、ひとしく「愛」である。
偉人といわれる人たちの心も「愛」である。
世の中で一番必要なものは「愛情」
その「愛」を育むところが家庭である。
そしてそれは、純潔な夫婦の深い愛情の中から生まれてくる。
多くの偉人の伝記を読めば、その背後に偉大な母がいる。その母は、貞節な妻でもある。
夫をこよなく愛し、そして子どもをこよなく愛する。
そして、親や先祖、さらに神仏への深い愛情、敬愛の心である。
この普遍的な事実を我々ははっきり知らなければならないだろう。
もとより、母よりもっと重要なのは父であろう。
妻を大切にできない、親や先祖に孝を尽くせないようでは失格である。
偉人といっても、ここで失敗する人がまま多かった。
これは本物ではない。
いま世の中には「さまよえる子羊」が、あまりも多くいる。
仕事を失いさまよう人、親を失いさみしさのどん底にいる人、政治からも世の中からも見捨てられている人たちが、どれほど多いだろうか。
親の立場になってみれば、心はち切れるほどである。
地域社会全体が、強固な家族的連帯を取り戻すべきである。行政も、さまざまな社会機構も、企業や団体も親の心[親愛](父母愛)を取り戻していかなければならない。
その原動力は純潔な「夫婦愛」男女それぞれが、その相手を心から慈しみ大切に思う愛する心。そのような情操を、社会全体の中で育てる運動をしていくことではないのか。
鳩山首相の祖父の鳩山一郎氏は「友愛政治」を掲げた
これはオーストリアの政治学者、グーテンホフ・カレルギー伯爵の政治理念の「友愛」をとりいれたものだった。
カレルギー伯は、かってドイツのヒトラーに併合された小国オーストリアの悲哀を体験する中で、真の平和は東西の融和からななされなければならないと、汎ヨーロッパ主義を唱え、その理念は現在のヨーロッパ連合(EC)を作る元となったため、かれは「ECの父]と呼ばれている。ECは欧州を一つにし、ヨーロッパの東西も一つにしていった。
さて、鳩山首相は祖父が掲げた「友愛」を政権の旗印い掲げたが、なかなその実現は見えて来ていない。
そこで私は
「友愛」をもっと進めて、今必要なのは「親愛」これは親しみ愛するということではなく、親の愛、父母愛ということである。
そして、さらに父母愛の、もととなるのが純潔な「夫婦愛」
いま世の中に一番欠けているのはこの[親愛](父母愛)であり、(純潔な)「夫婦愛」であると思う。
かつてこのブログで「中江藤樹と熊沢蕃山の士道」ということで
「士(さむらい)とは愛すること」と、熊沢蕃山が教えた と書いたが
いま世の中には「愛」がかけている。
昔は士(さむらい)今は行政
熊沢蕃山先生は役人世辞を忌み嫌った。それが池田光政公との行き違いの原因だったともいわれるが、
役人政治を嫌った理由は「政治(まつりごと)に優しさがなくなる」ということであった。
実は私は別のブログでわが先祖(山田家)のことを書き始めている。
その名は山田次郎重忠という。承久の乱の時、官軍方で獅子奮迅の戦いをした悠も果敢な武将であったが、一方、「心優しい侍であった」と、「沙石集」という鎌倉時代の無住禅師が書いた書に残っている。
信仰心篤く、母親のために寄進した寺が「長母寺」として、今も名古屋市の北区に残っている。
熊沢蕃山先生は「文武二道」を唱え、それを実行したのが池田光政公の政治であった。
それが徳川300年。300藩中第1位の名君として番付1位にあげられる所以となっている。
煎じつめれば、政治に必要なもの、いま世の中に最も必要なものは「愛」だと結論付けられる。
一方の名君の一人米沢藩の上杉庸山公の政治理念も、「藩主の務めは民の父母」ということだった。それは米沢藩主として婿入りする時、その師からきつく教えられていたことだった。
わが郷土の偉人山田方谷先生の精神も「至誠惻脱」、哀れみのこころ、民への「愛」であった。
親の愛は、その子供たちにひとしくそそがれ、わけ隔てのないものである。むしろ弱きものに注がれる。
聖書には、イエスキリストの教えとして「羊飼いは99匹の羊をおいても、失われた1匹を探す」とある。
かっての聖人の教えた教えは、ひとしく「愛」である。
偉人といわれる人たちの心も「愛」である。
世の中で一番必要なものは「愛情」
その「愛」を育むところが家庭である。
そしてそれは、純潔な夫婦の深い愛情の中から生まれてくる。
多くの偉人の伝記を読めば、その背後に偉大な母がいる。その母は、貞節な妻でもある。
夫をこよなく愛し、そして子どもをこよなく愛する。
そして、親や先祖、さらに神仏への深い愛情、敬愛の心である。
この普遍的な事実を我々ははっきり知らなければならないだろう。
もとより、母よりもっと重要なのは父であろう。
妻を大切にできない、親や先祖に孝を尽くせないようでは失格である。
偉人といっても、ここで失敗する人がまま多かった。
これは本物ではない。
いま世の中には「さまよえる子羊」が、あまりも多くいる。
仕事を失いさまよう人、親を失いさみしさのどん底にいる人、政治からも世の中からも見捨てられている人たちが、どれほど多いだろうか。
親の立場になってみれば、心はち切れるほどである。
地域社会全体が、強固な家族的連帯を取り戻すべきである。行政も、さまざまな社会機構も、企業や団体も親の心[親愛](父母愛)を取り戻していかなければならない。
その原動力は純潔な「夫婦愛」男女それぞれが、その相手を心から慈しみ大切に思う愛する心。そのような情操を、社会全体の中で育てる運動をしていくことではないのか。
2010年3月29日月曜日
子どもたちに家庭の大切さ、性の大切さを教える
子どもたちに家庭の大切さを教えたい
特に結婚前の青少年には性の大切さを
明るくて、豊かな社会を作りたい
皆が平和で豊かに暮らせる郷土が理想です。
そんな中で家庭問題で苦しむ子供たちが多い。
何とかできないものか
未来をになう子どもたちに家庭の大切さ
結婚する前の純潔の大切さを教えてやりたい。
そしていい家庭をたくさん増やしていってほしい。
そうすれば我々の郷土の未来は、ほんとに明るいもになるだろう。
皆さん考えてみませんか。
特に結婚前の青少年には性の大切さを
明るくて、豊かな社会を作りたい
皆が平和で豊かに暮らせる郷土が理想です。
そんな中で家庭問題で苦しむ子供たちが多い。
何とかできないものか
未来をになう子どもたちに家庭の大切さ
結婚する前の純潔の大切さを教えてやりたい。
そしていい家庭をたくさん増やしていってほしい。
そうすれば我々の郷土の未来は、ほんとに明るいもになるだろう。
皆さん考えてみませんか。
吉備の音楽
それから「ぷりまべら」というコンサートに行ってきました
玉島の郷土出身者の方々の演奏会で
くらしき作陽大学の聖徳殿でありました。
今回が42回目ということで、ずいぶん長く続けている。
玉島の町に根付いた活動をしているんだなと思いました。
とてもいい演奏が聴けて幸せでした。
若手から、長く演奏活動を続けておられる方まで幅広い演奏曲目で、堪能させていただきました。
結構いいレベルの演奏が聴けて、県外や外国からも駆けつけて、音楽文化が根付いている町の印象を受けました。
私の出身地の児島にはどうかな?
それからプログラに[吉備の国混声合唱団]のコンサートの案内がありました。
実は私も誘われて何回か練習に行ったことがあります。
仕事の関係で、時間も取れなくて、その後行けてないのですが
4月にはコンサートということで、ぜひ行ってみたいと思っています。
さて岡山特に備前池田藩は池田光政公が歌舞音曲を禁止したので、江戸時代は音楽は下火でしたが
却って明治になって盛んになったといわれます。
備中方面は「とくに盛んだったのかな
今はとても優秀な演奏家が岡山からも出てきて、とてもうれしいです。
楽土には音楽は不可欠で
[吉備楽土]は音楽、芸術の振興を勧めます。
私自身も下手の横好きの「合唱」続けたいと思っています。
玉島の郷土出身者の方々の演奏会で
くらしき作陽大学の聖徳殿でありました。
今回が42回目ということで、ずいぶん長く続けている。
玉島の町に根付いた活動をしているんだなと思いました。
とてもいい演奏が聴けて幸せでした。
若手から、長く演奏活動を続けておられる方まで幅広い演奏曲目で、堪能させていただきました。
結構いいレベルの演奏が聴けて、県外や外国からも駆けつけて、音楽文化が根付いている町の印象を受けました。
私の出身地の児島にはどうかな?
それからプログラに[吉備の国混声合唱団]のコンサートの案内がありました。
実は私も誘われて何回か練習に行ったことがあります。
仕事の関係で、時間も取れなくて、その後行けてないのですが
4月にはコンサートということで、ぜひ行ってみたいと思っています。
さて岡山特に備前池田藩は池田光政公が歌舞音曲を禁止したので、江戸時代は音楽は下火でしたが
却って明治になって盛んになったといわれます。
備中方面は「とくに盛んだったのかな
今はとても優秀な演奏家が岡山からも出てきて、とてもうれしいです。
楽土には音楽は不可欠で
[吉備楽土]は音楽、芸術の振興を勧めます。
私自身も下手の横好きの「合唱」続けたいと思っています。
2010年3月27日土曜日
限界状況の日本 再生の道は?
限界状況の日本
今の日本は明らかに限界状況である。
過去の遺産によって生きているが、かっての経済大国の力は完全に失われていると言っていいだろう。
特に大きな問題は、経済もそうであるが、社会的崩壊現象である。
家庭が力を失っている。
人間性を育てる愛の懐が家庭である。ところがその家庭が崩壊している。
離婚率の増大、少子化、そのような中で子どもたちが漂流している。
明日を担う若者が、数においても、室においても低下してしまっている。
政治の限界が言われる。
自民党政治が、その限界に達して、「政権交代」民主党に代わったが、その「民主党」も限界だった。
戦後政治の基本的スタンス自体が問われている。
結論的に言えば、経済重視、教育軽視
精神的豊かさを育てることを忘れてきた、その結果に他ならない。
少なくとも日本はこれまで、その精神性の豊かさで世界を凌駕してきた。
犯罪の少なさなど、道徳性の高さは誇るべきものであった。
ところが最近世界にも例のないような凶悪犯罪が増えてきている。
様々な要因はあるが、今は国民全体が一つになって、国のかじ取りを基本的に変えていかなければならない時である。
日本が今後ともに持つべき基本精神は何か?
高い道徳性、精神性、宗教性を復活する道はあるのか?
過去の歴史に学ぶことはないのか?
このことを追求していきたい。
今の日本は明らかに限界状況である。
過去の遺産によって生きているが、かっての経済大国の力は完全に失われていると言っていいだろう。
特に大きな問題は、経済もそうであるが、社会的崩壊現象である。
家庭が力を失っている。
人間性を育てる愛の懐が家庭である。ところがその家庭が崩壊している。
離婚率の増大、少子化、そのような中で子どもたちが漂流している。
明日を担う若者が、数においても、室においても低下してしまっている。
政治の限界が言われる。
自民党政治が、その限界に達して、「政権交代」民主党に代わったが、その「民主党」も限界だった。
戦後政治の基本的スタンス自体が問われている。
結論的に言えば、経済重視、教育軽視
精神的豊かさを育てることを忘れてきた、その結果に他ならない。
少なくとも日本はこれまで、その精神性の豊かさで世界を凌駕してきた。
犯罪の少なさなど、道徳性の高さは誇るべきものであった。
ところが最近世界にも例のないような凶悪犯罪が増えてきている。
様々な要因はあるが、今は国民全体が一つになって、国のかじ取りを基本的に変えていかなければならない時である。
日本が今後ともに持つべき基本精神は何か?
高い道徳性、精神性、宗教性を復活する道はあるのか?
過去の歴史に学ぶことはないのか?
このことを追求していきたい。
2010年3月20日土曜日
坂本龍馬ら明治維新の原動力の背後に「秦氏」「景教」が?
「龍馬伝」が好評である。
さて、明治維新といえば「薩長土肥」
龍馬をはじめとした土佐の郷士下士)、
かっての長宗我部につかえていたのが、郷氏となったと考えると
長宗我部のルーツは秦川勝といわれる
秦氏の子孫が土佐にやってきた、その子孫が「長宗我部」
高知駅の北側のあたりに「秦」という地名が残っている。これはまさにそのことを証明するものではないか?
薩摩の島津も秦氏の後孫だと言われている。
長州の大内氏は百済の聖明王の子孫だといわれていた。山口も秦氏の勢力の強かったところである。
どうも明治維新の原動力の背後には「秦氏」があったような気がする。
自身を省みない精神
西郷隆盛の「敬天愛人」はまさに聖書の「まず第1に神を愛しなさい。次に隣人を愛しなさい。」 とのマタイ伝言われる聖書の言葉そのものである。
秦氏=景教徒説はかなりの精度で真実のようである。
そして、空海の教え
四国が「弘法大師」尊崇の地と考えると
明治維新、坂本龍馬らを動かした精神の源流に「秦氏」や景教(キリスト教)の教えが流れていたというのは、あながちおかしな推論ではないのではと思うが・・
さて、明治維新といえば「薩長土肥」
龍馬をはじめとした土佐の郷士下士)、
かっての長宗我部につかえていたのが、郷氏となったと考えると
長宗我部のルーツは秦川勝といわれる
秦氏の子孫が土佐にやってきた、その子孫が「長宗我部」
高知駅の北側のあたりに「秦」という地名が残っている。これはまさにそのことを証明するものではないか?
薩摩の島津も秦氏の後孫だと言われている。
長州の大内氏は百済の聖明王の子孫だといわれていた。山口も秦氏の勢力の強かったところである。
どうも明治維新の原動力の背後には「秦氏」があったような気がする。
自身を省みない精神
西郷隆盛の「敬天愛人」はまさに聖書の「まず第1に神を愛しなさい。次に隣人を愛しなさい。」 とのマタイ伝言われる聖書の言葉そのものである。
秦氏=景教徒説はかなりの精度で真実のようである。
そして、空海の教え
四国が「弘法大師」尊崇の地と考えると
明治維新、坂本龍馬らを動かした精神の源流に「秦氏」や景教(キリスト教)の教えが流れていたというのは、あながちおかしな推論ではないのではと思うが・・
池田光政の東部籠城作戦
・「池田光政の東部籠城作戦」という講演を聞かせてもらった。
元陸上自衛隊一等陸佐の杉嘉夫氏の講演は、様々な資料をもとに、それを実証するものだった。
池田光政公というと、備前岡山藩の初代藩主、徳川300年隋一の「名君」とうたわれ、特に教育や住民の福祉に力を入れたといわれているが、慈悲深い施策の一面、軍事にも力を入れていたことが判る。
突如。3000石にとりたてられた「熊沢蕃山」は儒学者として、教育思想面だけでなく、軍事にも力を入れた。
このブログでも紹介した、「熊沢蕃山の説く士道」の中でも
「士(さむらい)」とは「愛」なり・・の中で
元陸上自衛隊一等陸佐の杉嘉夫氏の講演は、様々な資料をもとに、それを実証するものだった。
池田光政公というと、備前岡山藩の初代藩主、徳川300年隋一の「名君」とうたわれ、特に教育や住民の福祉に力を入れたといわれているが、慈悲深い施策の一面、軍事にも力を入れていたことが判る。
突如。3000石にとりたてられた「熊沢蕃山」は儒学者として、教育思想面だけでなく、軍事にも力を入れた。
このブログでも紹介した、「熊沢蕃山の説く士道」の中でも
「士(さむらい)」とは「愛」なり・・の中で
「文武二道」
番山は、武士の天職を“人を愛するなり”とし、その具体的実践を文武にわたって述べて、“これを文武二道の士という。人を愛するのことなり。”と結んでいた。
良き武士というは、あくまで勇ありて武道武芸の心がけ深く、何事ありても躓くこと無きように嗜み、さて主君を大切に思いたてまつり、自分の妻子より始めて天下の老若を不憫におもう仁愛の心より、世の中の無事を好み、その上に不慮ことできる時は、身を忘れ家を忘れて大なるはたらきをなし、軍功を立てる人あらば、一文不通の無学というとも、文武二道の士なるべし。
まさに文武二道が熊沢蕃山が藩主池田光政に教えたことであり、「文」のみならず「武」もしっかり怠らなかったことがわかる。
杉氏によると
・歴史的事実としては光政が行った、大規模な「タカ狩り」
・香登の「大池」の築造 西側からの侵入の隘路を作るため掘削
・虫明の「井田」片上湾からの補給路確保
・「倉安川」の築造 緊急時のための物資輸送路
・「閑谷学校」単なる学校ではない。いざという時、軍事施設となる証拠が
・「和意谷墓地」なぜあのような辺鄙な地に墓地を、その答えは・・
等々の詳しい証拠をあげられ、「池田光政の東部籠城作戦」を証明された。
とても納得する内容であった。
常識では考えられなかったが、逐一証拠を見せられ納得!
これまでなぜ?と思われた秘密が解明された。
常識では考えられなかったが、逐一証拠を見せられ納得!
これまでなぜ?と思われた秘密が解明された。
名君とうたわれた池田光政が単なる「善政」を敷いた藩主ではなく、しっかり防衛も考えていた、またそれを、立案したのが熊沢蕃山というのは、おもえば当然然りでもある。
これで池田光政公の実像が見えてきた。
また背後に熊沢蕃山があり、その人物と思想も明確になってきた。
2010年3月19日金曜日
「造山古墳で周濠と周堤跡初確認」 のニュース
山陽新聞3月18日のトップ記事
「造山古墳で周濠と周堤跡初確認 大王墓級に匹敵、岡山大チーム発表」
「造山古墳で周濠と周堤跡初確認 大王墓級に匹敵、岡山大チーム発表」
との見出しで、「岡山大考古学研究室の新納泉教授らのチームが、墳丘を巡る周濠、周堤跡を初確認したと発表した。」とある。
すごいことです!吉備の国の実像が見えてきた。
造山古墳は5世紀前半の築造といわれるが、周濠が発見されたことにより、畿内の古墳と比べてもこの時代としては最大級の古墳になり、吉備の勢力が畿内と匹敵する、あるいは同等の力を持った勢力だったことが証明されたことになる。この時代の吉備と畿内の関係が解明されれば、古代吉備王国の実像が見えてくる。
造山古墳は5世紀前半の築造といわれるが、周濠が発見されたことにより、畿内の古墳と比べてもこの時代としては最大級の古墳になり、吉備の勢力が畿内と匹敵する、あるいは同等の力を持った勢力だったことが証明されたことになる。この時代の吉備と畿内の関係が解明されれば、古代吉備王国の実像が見えてくる。
日本の歴史において「吉備」がいかに大きな役割を果たしたか。明らかになってきた。
日本の古代が見えてきた気がするではないか。
2010年3月16日火曜日
吉備真備(きびのまきび)
郷土出身の偉人で忘れてはならない一人
和気清麻呂とは少し先輩に当たるが同時代に生きた「備中」下道の出身
吉備真備(きびのまきび)
Wikipedaiによると
http://ja.wikipedia.org/wiki/吉備真備
現在は倉敷市に合併したが、旧真備町に[吉備寺]がある。
http://www2a.biglobe.ne.jp/~marusan/phkibiji1.html
吉備真備の故郷である。
下道氏の出身
遣唐使として唐にわたりさまざまな学問を学んできた。
儒学のほか、天文学、音楽、兵法、その他様々な技術・学問んできた
学者から始めて、称徳女帝の時右大臣にまで昇進した。
兵法にも優れ恵美押勝の乱のときにはその才を発揮した。
地方出身者としては異例の出世をした人物として歴史に名を残す
陰陽道の書を持ち帰り、陰陽道の祖としても知られている。
日中国交に貢献した岡崎嘉平太しが幼いころ母親に連れられて[吉備寺]を参拝
郷土出身の偉人の話に感動し自分も大きくなったら、そのようになろうと、日中の懸け橋として活躍するようになったとのことである。
旧真備町はその町名を吉備真備の「真備」からとったそうである。
今でも、郷土出身の偉人として尊敬され、吉備寺を訪れる人も絶えない。
なぜか、吉備の国は同時代に備前、備中、そして美作 偉人が出る。
和気清麻呂と吉備真備
法然と栄西
幕末から明治の新宗教として 金光教と黒住教
現代でも岡崎嘉平太氏と、行政改革に力を発揮した土光敏夫氏 このお二人は結構親交を厚くしていたそうである。
和気清麻呂と吉備真備は出会いがあったのか?
法然と栄西の出会いは?
お互いその存在を意識せざるを得ない関係だったが・・?
和気清麻呂とは少し先輩に当たるが同時代に生きた「備中」下道の出身
吉備真備(きびのまきび)
Wikipedaiによると
http://ja.wikipedia.org/wiki/吉備真備
現在は倉敷市に合併したが、旧真備町に[吉備寺]がある。
http://www2a.biglobe.ne.jp/~marusan/phkibiji1.html
吉備真備の故郷である。
下道氏の出身
遣唐使として唐にわたりさまざまな学問を学んできた。
儒学のほか、天文学、音楽、兵法、その他様々な技術・学問んできた
学者から始めて、称徳女帝の時右大臣にまで昇進した。
兵法にも優れ恵美押勝の乱のときにはその才を発揮した。
地方出身者としては異例の出世をした人物として歴史に名を残す
陰陽道の書を持ち帰り、陰陽道の祖としても知られている。
日中国交に貢献した岡崎嘉平太しが幼いころ母親に連れられて[吉備寺]を参拝
郷土出身の偉人の話に感動し自分も大きくなったら、そのようになろうと、日中の懸け橋として活躍するようになったとのことである。
旧真備町はその町名を吉備真備の「真備」からとったそうである。
今でも、郷土出身の偉人として尊敬され、吉備寺を訪れる人も絶えない。
なぜか、吉備の国は同時代に備前、備中、そして美作 偉人が出る。
和気清麻呂と吉備真備
法然と栄西
幕末から明治の新宗教として 金光教と黒住教
現代でも岡崎嘉平太氏と、行政改革に力を発揮した土光敏夫氏 このお二人は結構親交を厚くしていたそうである。
和気清麻呂と吉備真備は出会いがあったのか?
法然と栄西の出会いは?
お互いその存在を意識せざるを得ない関係だったが・・?
2010年3月15日月曜日
人物伝のご案内
岡人物銘々伝を語る会の例会があります。毎月岡山にゆかりの人物について研究発表をしています。どなたでも参加できますので、お気軽においでください。
日時:平成22年3月19日(金)※ 午後6~8時
場所:岡山県立図書館の2階
取り上げるテーマ:「池田光政の備前東部籠城作戦」
講師:杉嘉夫氏 参加費:500円
徳川300年、300藩中第1の名君とうたわれた池田光政公、特に教育に熱心だったことが知られていますが、一方「治に居て乱を忘れず」有事対処の策を常に練り、平素から着々と準備してきた方でした。光政公が秘密裏に準備していたと思われれる「備前東部籠城作戦」について、軍事専門家である、杉嘉夫氏に話をしていただきます。和意谷のような遠隔地になぜ墓所を設けたのか?その秘密が明らかにされます。
講師プロフィール: 岡山生まれ 防衛大学校から陸上自衛隊に進み 平成2年一等陸佐で退官 故郷岡山に帰る。現在は後楽園のボランティアガイドをしながら歴史を研究。
(参加希望の方は下記までご連絡ください。資料を準備します。)
「岡山人物銘々伝を語る会」(山田)
FAX:086-245-3648
TEL:080-3399-3005
2010年3月13日土曜日
制限速度70kmに緩和
山陽新聞に速度制限緩和のニュースが
http://www.sanyo.oni.co.jp/news_k/news/d/2010031201000448/
ようやくという感じ
かねてから日本の速度制限は、実態に即していない。低すぎると思っていたが・・
韓国など諸外国に行くと、一般道でも 70km 80kmの制限なのになぜ日本はと・・・・
自動車専用道路の整備に偏っていた道路整備も、
一般道で 70km 80kmで走れる道路を作るほうが実用的なのではないか
いつできるかわからない、できても限られた人しか使えない専用道路を作るより
今の道路を改良して70~80KMで走れる一般道の整備を促進することのほうが地域に役に立つ
それにしても
日本で最初に緩和というのは うれしい 岡山県警 評価する
http://www.sanyo.oni.co.jp/news_k/news/d/2010031201000448/
ようやくという感じ
かねてから日本の速度制限は、実態に即していない。低すぎると思っていたが・・
韓国など諸外国に行くと、一般道でも 70km 80kmの制限なのになぜ日本はと・・・・
自動車専用道路の整備に偏っていた道路整備も、
一般道で 70km 80kmで走れる道路を作るほうが実用的なのではないか
いつできるかわからない、できても限られた人しか使えない専用道路を作るより
今の道路を改良して70~80KMで走れる一般道の整備を促進することのほうが地域に役に立つ
それにしても
日本で最初に緩和というのは うれしい 岡山県警 評価する
鷲羽山から瀬戸大橋
鷲羽山から瀬戸大橋
瀬戸内海国立公園の中でも一番の絶景の地は鷲羽山からの景色であろう。季節により、また朝晩の時間により姿を変えて見せてくれる。
潮の流れの変わる様や、行きかう船の姿を見ていると時間を忘れてしまう。
瀬戸大橋と、島々もよく調和して、自然と人工の美の調和を見せてくれる。
美しい自然に囲まれて生きる幸いを感じる時間である。
瀬戸内海国立公園の中でも一番の絶景の地は鷲羽山からの景色であろう。季節により、また朝晩の時間により姿を変えて見せてくれる。
潮の流れの変わる様や、行きかう船の姿を見ていると時間を忘れてしまう。
瀬戸大橋と、島々もよく調和して、自然と人工の美の調和を見せてくれる。
美しい自然に囲まれて生きる幸いを感じる時間である。
2010年3月12日金曜日
日本神話と聖書の類似性 秦氏より先に来た古代イスラエルの末裔
「日本の中のユダヤ文化」久保有政 著 学研 によると
秦氏はキリスト教に改宗した古代イスラエルの末裔であろうという
ところが、秦氏より先に来た古代イスラエルの末裔があるという
それは「エフライム」ではないかという
「エフライム」は北イスラエル10部族の中でも「王家」の家系であった。
その理由の第1として
日本の神話の「ニニギ」から、「ウガヤフキアエズ」、「神武天皇」に至る家系と
聖書の「ヤコブ」から「エフライム」「ヨシュア」に至る家系が、瓜二つであるという。
2番目にキルギス人の「マナス叙事詩」の中にある物語に「山幸彦・海幸彦」の話にそっくりな話があるという。
3番目に神武天皇の正式名「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」は
ヘブル・アラム語で「カム・ヤマトゥ・イヴリ・ベコ・シュメロンマクト」
「サマリヤの王・ヤハウェのヘブル民族の高尚な創設者」という意味で
「サマリヤの王家」とは「北イスラエル王国の王家」のことでそれは「エフライム家」であるからだという。
確かに、日本の古神道には「ユダヤ教」的な祭祀があることが言われており、そのほかの文化にも、ユダヤ的な文化を見ることができる。
日本神話を作ったのが先に来た「ユダヤ」で
秦氏が「古代キリスト教化したユダヤ」で、あとからやってきた。
というのは当たってるかもしれない。
渡来人と、日本文化
日本人の源流がわかってくるような気がする。
秦氏はキリスト教に改宗した古代イスラエルの末裔であろうという
ところが、秦氏より先に来た古代イスラエルの末裔があるという
それは「エフライム」ではないかという
「エフライム」は北イスラエル10部族の中でも「王家」の家系であった。
その理由の第1として
日本の神話の「ニニギ」から、「ウガヤフキアエズ」、「神武天皇」に至る家系と
聖書の「ヤコブ」から「エフライム」「ヨシュア」に至る家系が、瓜二つであるという。
2番目にキルギス人の「マナス叙事詩」の中にある物語に「山幸彦・海幸彦」の話にそっくりな話があるという。
3番目に神武天皇の正式名「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」は
ヘブル・アラム語で「カム・ヤマトゥ・イヴリ・ベコ・シュメロンマクト」
「サマリヤの王・ヤハウェのヘブル民族の高尚な創設者」という意味で
「サマリヤの王家」とは「北イスラエル王国の王家」のことでそれは「エフライム家」であるからだという。
確かに、日本の古神道には「ユダヤ教」的な祭祀があることが言われており、そのほかの文化にも、ユダヤ的な文化を見ることができる。
日本神話を作ったのが先に来た「ユダヤ」で
秦氏が「古代キリスト教化したユダヤ」で、あとからやってきた。
というのは当たってるかもしれない。
渡来人と、日本文化
日本人の源流がわかってくるような気がする。
報恩大師
現在の岡山出身で忘れてはならない宗教家の最初の人物ともいえるのが報恩大師である
断片的だが紹介してみる
現在の岡山市芳賀に産まれる
産湯の井戸 顯本寺
http://ichinomiya.town-web.net/picture/6course_datalis/6coures_details10.html
断片的だが紹介してみる
現在の岡山市芳賀に産まれる
産湯の井戸 顯本寺
http://ichinomiya.town-web.net/picture/6course_datalis/6coures_details10.html
吉野で修行 http://blog.goo.ne.jp/otchan1/e/bfc823f77e816f3f8f92eaa9c252ae1f |
この付近にあったと思われる、安禅寺宝塔は、報恩大師の建立で、千手観音ならびに二十八部衆を安置していたと伝えられ、吉野金峯山が寺院化したのはこのころと考えられています。『金峯山創草記』 |
報恩大師は、三十才にして吉野山に入り観世音呪を持した。天平勝宝四年(七五二)、孝謙天皇のご病気を加持した功により、報恩の名を賜ったという。また桓武天皇が長岡宮で沈痾に伏せられた時、観自在根本呪を誦して治されたと伝えられる『元亨釈書』 |
天平勝宝元年(749年) 孝謙天皇の勅命により開創48寺開基 金山寺 西大寺 岡山寺 などhttp://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/bizen48.htm 千手山弘法寺も報恩大師が中興と伝えられえる http://www.asahi-net.or.jp/~wj8t-okmt/400-02-setouti-usimado-kouhouzi.htm 天平勝宝4年(752年) 「龍王山神宮寺」(現在の最上稲荷)開基 http://www.inari.ne.jp/inr.01.02.html 伏見、豊川と並ぶ日本三大稲荷の一つ最上稲荷も報恩大師の開基 |
フェリー運航継続になるも
宇高フェリー
国道フェリーに続いて、四国フェリーも、航路の継続を発表
ひとまず、安心だが 今後が問題
どのように継続していくかを、真剣に考えてもらいたい。
全国の高速料金無料化は、長期的にはメリットがあり、進めていくべきだし、
瀬戸大橋も当然、通行料の引き下げが進められていくべきだが、そのような状況でも、航路を維持し、利用を継続できる方策を考えて行かなければならないだろう。
両社とも企業努力で、当面運航を継続するとのことだが、いずれそれも難しくなってくるだろう。
多少なりとも、公費を投入して航路を継続して、メリットがあるのならばそれも必要であろう。
たとえ将来的には、航路の必要性が薄れるとしても、急に航路がなくなることだけは避けなければならないから、そこにこそ、公的な支援が必要だと思う。
変化には、あるい一定の時間をかけることが必要
変化の大きいところにこそ、行政の思いやりが必要!
国道フェリーに続いて、四国フェリーも、航路の継続を発表
ひとまず、安心だが 今後が問題
どのように継続していくかを、真剣に考えてもらいたい。
全国の高速料金無料化は、長期的にはメリットがあり、進めていくべきだし、
瀬戸大橋も当然、通行料の引き下げが進められていくべきだが、そのような状況でも、航路を維持し、利用を継続できる方策を考えて行かなければならないだろう。
両社とも企業努力で、当面運航を継続するとのことだが、いずれそれも難しくなってくるだろう。
多少なりとも、公費を投入して航路を継続して、メリットがあるのならばそれも必要であろう。
たとえ将来的には、航路の必要性が薄れるとしても、急に航路がなくなることだけは避けなければならないから、そこにこそ、公的な支援が必要だと思う。
変化には、あるい一定の時間をかけることが必要
変化の大きいところにこそ、行政の思いやりが必要!
2010年3月5日金曜日
吉備楽土: 法然と秦氏 誕生寺に秦氏の君の像が
これまでの法然上人と秦氏 誕生寺に関する記事です。
誕生寺・波多神社・本山寺
法然と秦氏
法然上人と誕生寺
日本の生んだもっとも有名な宗教人とは?と聞いたらだれを答えるであろうか?
あるいは日本の宗教史上もっとも大きな変革を遂げた宗教家はと聞いたほうがいいかもしれない。
法然上人はその筆頭にあげてもいいのではないかと思う
もちろん 伝教大師最澄 弘法大師空海 ほかにも偉大な宗教家は数多くあるが
もっとも大衆に影響を与えたとなるとやはり「法然上人」であろう。
特に、仏教では救われがたい、と思われてきた女性に救いの道を説いたというのは「法然上人」が一番であろうと思おう。
女性は子供を産んで育てて、どんなに苦労しても、男性のように簡単に出家することもできない。
法然上人の母親「秦氏の君」の心が胸にしみる。
夫を殺され 一粒種の息子は出家し 母親のせつなさはいかほどだったであろうか?
息子のために一心に祈り続けた母の心が法然上人の人格と教えに結実しているように思う。
誕生寺の漆間住職の話によるとこの11月に「秦氏の君(法然上人の母)」の像が誕生寺境内に建てられるとのこと
偉大な宗教家の背後に祈り祈った一人の女性の姿があったことを思い浮かべてみよう。
誕生寺・波多神社・本山寺
法然と秦氏
法然上人と誕生寺
日本の生んだもっとも有名な宗教人とは?と聞いたらだれを答えるであろうか?
あるいは日本の宗教史上もっとも大きな変革を遂げた宗教家はと聞いたほうがいいかもしれない。
法然上人はその筆頭にあげてもいいのではないかと思う
もちろん 伝教大師最澄 弘法大師空海 ほかにも偉大な宗教家は数多くあるが
もっとも大衆に影響を与えたとなるとやはり「法然上人」であろう。
特に、仏教では救われがたい、と思われてきた女性に救いの道を説いたというのは「法然上人」が一番であろうと思おう。
女性は子供を産んで育てて、どんなに苦労しても、男性のように簡単に出家することもできない。
法然上人の母親「秦氏の君」の心が胸にしみる。
夫を殺され 一粒種の息子は出家し 母親のせつなさはいかほどだったであろうか?
息子のために一心に祈り続けた母の心が法然上人の人格と教えに結実しているように思う。
誕生寺の漆間住職の話によるとこの11月に「秦氏の君(法然上人の母)」の像が誕生寺境内に建てられるとのこと
偉大な宗教家の背後に祈り祈った一人の女性の姿があったことを思い浮かべてみよう。
2010年3月3日水曜日
郷土の先人、偉人の名に恥じないように
郷土の先人、偉人に恥じないように
思えば、現在の岡山県 かっての吉備の国 備前、備中、美作、それに備後も含めて
偉大な人物が数多く輩出している。
この[吉備楽土]でも順次紹介しているが、
かっての時代も、大きく時代を左右するところで、活躍した、宗教家、政治家、経済人、科学者、芸術家、文筆家、医師、スポーツ選手、武将、・・・・・
今の時代も、国政にかかわり、大きな影響を及ぼす立場にある政治家やその他有能な人物が数多くある。
このブログでも、紹介したが、現政権を預かる民主党の党首、時の総理大臣鳩山由紀夫氏の家系も美作勝山藩の家系、副党首、財務大臣の菅直人氏も先祖は御津町と聞く。
与野党を問わず、国政に重大な影響を及ぼすとみられる政治家が、今もたくさんいる。
ここで偉大な先人を輩出した郷土の名に恥じない活躍と実績を残してもらいたいというのが、我々の大きな希望であろう!
はっきり言って、これから日本まますます困難な時代を生きていかなければならないというのが、実感である。
少子化で、どんどん若者が減少し、かっての技術大国、経済大国の夢はどこかについえてしまっている。国家財政は破綻の様相を呈し、解決の道が全く見えてこない。
社会道徳も低下し、犯罪がますます増加の傾向を見せている。
国家再生のビジョンが見えてこない。
かって幕末のとき、備中松山藩の藩政改革を行った、山田方谷先生の理財論が今注目されている。
この理財論をどう具体的な政策として現代に生かすのか?
テーマである。
[吉備楽土]ではそのあたりを考えていきたいと思う。
宗教、思想的には 法然上人の大衆救済の思想、栄西禅師の禅にもとずく指導者が持つべき精神理念、熊沢蕃山先生が教えた「士道」
日本の国全体が模範とし、学ぶべき、思想、理念がこの地にゆかりある、人物から編み出されるのではないか?
期待せざるを得ない。
思えば、現在の岡山県 かっての吉備の国 備前、備中、美作、それに備後も含めて
偉大な人物が数多く輩出している。
この[吉備楽土]でも順次紹介しているが、
かっての時代も、大きく時代を左右するところで、活躍した、宗教家、政治家、経済人、科学者、芸術家、文筆家、医師、スポーツ選手、武将、・・・・・
今の時代も、国政にかかわり、大きな影響を及ぼす立場にある政治家やその他有能な人物が数多くある。
このブログでも、紹介したが、現政権を預かる民主党の党首、時の総理大臣鳩山由紀夫氏の家系も美作勝山藩の家系、副党首、財務大臣の菅直人氏も先祖は御津町と聞く。
与野党を問わず、国政に重大な影響を及ぼすとみられる政治家が、今もたくさんいる。
ここで偉大な先人を輩出した郷土の名に恥じない活躍と実績を残してもらいたいというのが、我々の大きな希望であろう!
はっきり言って、これから日本まますます困難な時代を生きていかなければならないというのが、実感である。
少子化で、どんどん若者が減少し、かっての技術大国、経済大国の夢はどこかについえてしまっている。国家財政は破綻の様相を呈し、解決の道が全く見えてこない。
社会道徳も低下し、犯罪がますます増加の傾向を見せている。
国家再生のビジョンが見えてこない。
かって幕末のとき、備中松山藩の藩政改革を行った、山田方谷先生の理財論が今注目されている。
この理財論をどう具体的な政策として現代に生かすのか?
テーマである。
[吉備楽土]ではそのあたりを考えていきたいと思う。
宗教、思想的には 法然上人の大衆救済の思想、栄西禅師の禅にもとずく指導者が持つべき精神理念、熊沢蕃山先生が教えた「士道」
日本の国全体が模範とし、学ぶべき、思想、理念がこの地にゆかりある、人物から編み出されるのではないか?
期待せざるを得ない。
2010年3月2日火曜日
由加山
由加山
由加本宮と蓮台寺がある。
もともと大権現で神仏混淆
明治の廃仏毀釈で無理やり神仏分離させられたが
それまでは「大権現」神仏習合の信仰の地だった。
金毘羅さんも「大権現」だった。
弥生時代からの磐座(いわくら)信仰の地
磐座とは巨岩信仰
ここに天平年間、行基菩薩が勅願を持ってこの地に十一面観音菩薩を祀り開基したと伝えられる。
平安初期には桓武天皇の勅願により坂上田村麻呂がこの地に至り堂宇が整備された。
一時荒廃の時代があったが、江戸期増吽僧正のとき再興し、また備前池田家の尊崇を受け、由加大権現は全国に名だたる名刹となる。
江戸期には讃岐の金毘羅さんと両参りが盛んになる。
左の写真は
由加神社本宮
本殿左手に稲荷社が祀られている。
本殿の裏側には巨岩があって、この地が磐座信仰の地であったことが判る。
由加山蓮台寺客殿
由加本宮と蓮台寺がある。
もともと大権現で神仏混淆
明治の廃仏毀釈で無理やり神仏分離させられたが
それまでは「大権現」神仏習合の信仰の地だった。
金毘羅さんも「大権現」だった。
弥生時代からの磐座(いわくら)信仰の地
磐座とは巨岩信仰
ここに天平年間、行基菩薩が勅願を持ってこの地に十一面観音菩薩を祀り開基したと伝えられる。
平安初期には桓武天皇の勅願により坂上田村麻呂がこの地に至り堂宇が整備された。
一時荒廃の時代があったが、江戸期増吽僧正のとき再興し、また備前池田家の尊崇を受け、由加大権現は全国に名だたる名刹となる。
江戸期には讃岐の金毘羅さんと両参りが盛んになる。
左の写真は由加神社本宮
本殿左手に稲荷社が祀られている。
本殿の裏側には巨岩があって、この地が磐座信仰の地であったことが判る。
由加山蓮台寺客殿
上は参拝客でにぎわう由加神社
下は多宝塔
由加山について詳しく知りたい人は
宇高フェリー廃止問題に触れて
←宇野港に停泊する四国フェリー
最近、玉野に行く機会が多いので宇野港のフェリー乗り場に行ってみた。
確かに、乗船する車は少なくなっているように感じられる。
それでも出向を待つ大型トラックなどの列を見ると、このまま廃止してしまうのかと、さびしい思いがわいてくる。
地元玉野市や対岸の高松市、岡山香川の両県でもフェリー廃航を何とか食い止めようと国に訴えたり運動を起こしている。
宇高航路は特に玉野市にとっては町の看板のようなもので、かっては国鉄の連絡船が街をにぎわしていた時代が長く続き、そして、瀬戸大橋開通後は、連絡船は廃止になったが、フェリーは健在で今まで維持してきた。
長距離を走るドライバーにとっては、フェリーの1時間は適当な休息の時間にもなり、結構利用する車も多かったと思う。そして、瀬戸大橋に対抗する安い料金は、地元を初め多くのフェリーファンがあって、航路を維持してきた。高松市に通ったり、市民の足にもなってきた。
それが、100円高速の直撃を受けた。結構利用者のあった、週末の一般利用が完全に打撃を受けて皆無に等しい状況になった。これでは航路を維持することは見えない。民主党政権になり、政策の変化を期待したが、1000円高速はそのまま持続されており、高速料金無料化を政策に掲げた民主党政権は高速料金の上限制を検討している。
↓玉野沖を航行する国道フェリー
私は高速料金の無料化には基本的には賛成である。膨大な資金を投入されて作られた高速道路が高い国惻料金のゆえに敬遠され、長距離トラックなどが、あえて一般道を長時間かけて走っている、それによる渋滞や大気汚染はどれくらいか?さらに料金の高さと利用率の低さからくる、物流コストの増大が、地方の産業の発展を阻害している。
また有料高速道路のゆえに、並行して無料で走れる、一般道やバイパスが建設されるという無駄も多く生じている。
だからと言って、一挙に無料化はどうか?
特に、前政権が末期にやった「千円高速」 これは良くない。
土日に集中する、一般道の渋滞、一度降りると再び料金を払わなければならないので、延々と高速道路を一般車が占領する。
確かに、これまで何千円、何万円とかかった長距離をたった「千円」で走れるのだか使わない手はない。遠出のできなかった一般ドライバーには朗報であった。
しかし、国の根幹である、物流においては、発生する渋滞によって却って多くの損害を生じた。
急激な、人気取りの、目玉政策は困ったものだ!
良い政策も、その結果生じるマイナス面にも十分配慮をして、よく検討し、時間をかけて実施すべきである。
その目玉政策の犠牲になっているのが、真面目に航路を維持してきたフェリー業者や。高速バスの業者である。
これは問題である。
岡山香川県民にとって、瀬戸大橋が無料になればどれほど便利であろうか。
そうすれば、岡山と香川の間で通勤もできれば、自由に観光にも行ける。物流も大幅に増える。
私など、好きな寺社参りもできるし、ついでにおいしい讃岐のうどんめぐりもできる。
いいことずくめで以前から瀬戸大橋の無料化、あるいは、一般高速並みの低料金を主張してきた。
だからと言って今回のように、急激な政策の変化によって、フェリーの足が一挙になくなり、これまで航路に従事してきた百何十人かの船舶従事の皆さんが職を失うようなことを看過することはできない。
航路維持や万一廃止する場合も、しかるべき代替策を、しっかりととらなければならない。
だいたい、これまでの国の政策には地方や弱者への配慮があまりにも欠けて来ている。
民主党政権になってそのあたりが少しは変わるのかと期待したが、どうも期待外れのようである。
国全体、あるいは世界全体がより豊かになるために、産業への投資や、産業を支えるインフラの整備などに国が力を入れていくのは当然である。
しかし、その一方で、決して忘れてはならないのは、地方や、弱者が切り捨てられるようなことが絶対あってはならないということである。
ところがどうも、最近の「規制緩和」や国の政策の方向は、大都市や、富裕層、あるいは既得権層に傾いて、地方の振興や、弱者を作りださない政策は見たことがないようである。
どんなに地方の、どんなに小さな一人にも、国全体の豊かさをともに享受できるようにするのが本物の国ではなかろうかと、しみじみ思う。
宇高航路の廃止という、国全体から見れば取るに足らない、小さな問題のようでも、それに国がどのような判断をし、方向付けをするのか、しっかり見ていきたいと思う。
宇高国道フェリー
2010年2月26日金曜日
赤穂と秦氏 児島の野崎家 と小西増太郎
「シルクロード渡来人が建国した日本」(久慈力氏著 現代書館)という本を読んでいる
秦氏を乗せた船が最初に到着したのが赤穂
だから播磨には秦氏の遺跡が多い
一説によると播州赤穂 [忠臣蔵]の物語は、赤穂が秦氏の地を引いた地だからと
これはどうか 少々疑問が残る
さて、児島の野崎武左衛門
塩田王として有名
ルーツは播州 昆陽野の名は行基菩薩ゆかりの昆陽池とつながる
武左衛門の最初の妻野実家は播州屋を名乗った昆陽野家
野崎家(当主は2代目の野崎武吉郎ー武左衛門の孫で岡山県最初の貴族院議員となる)は基督教(ロシア正教)の宣教師を受け入れ
その宣教師の教えに感銘を受けた
一少年が 「神学校に行く!」と 野崎の家を飛び出したのを見つけ
そのれを許したのみならず 支援したという。
それがのちのロシア文学者 小西増太郎
小西増太郎は野崎家の支援を受けて お茶の水のロシア正教の神学校を出て
その後ロシアにわたり 当時一世を風靡した トルストイに出会い
その当時、東洋思想 特に「老子」に傾注していたトルストイの
「老子」のロシア語訳に協力したという。
その時トルストイからもらったロシア語の聖書が
小西益太郎の死後出てきて話題になったことがある
小西益太郎には二人の息子がいたが
長男は元野球解説者として有名な小西徳郎さん
野崎家がロシア正教の宣教師を受け入れ
小西増太郎を支援した言うのは
野崎家は、渡来系氏族「秦氏」の末裔か?
私の推測であるが
案外 赤穂に上陸 播州に定着した 秦氏の末裔というのは あながち間違っていないのではないか、秦氏でなくとも、行基菩薩とゆかりの昆陽野から来ていることは何らかのつながりを推測する。
事業への熱心さや ロシア正教を受け入れ 信仰に走る青年を支援したり、難民救援に尽くしたという、その精神など
「秦氏」の歴史に共通するものを見る
野崎家のことはさらに追って紹介したい。
野崎の旧姓は昆陽野 塩田を開いた味野と赤崎(現倉敷市児島)の地名から野崎と名乗ったという
こや【昆陽】(コトバンクより)
兵庫県伊丹市内の古い地名。行基が築造したと伝える昆陽池、また、その創建と伝える昆陽寺がある
秦氏を乗せた船が最初に到着したのが赤穂
だから播磨には秦氏の遺跡が多い
一説によると播州赤穂 [忠臣蔵]の物語は、赤穂が秦氏の地を引いた地だからと
これはどうか 少々疑問が残る
さて、児島の野崎武左衛門
塩田王として有名
ルーツは播州 昆陽野の名は行基菩薩ゆかりの昆陽池とつながる
武左衛門の最初の妻野実家は播州屋を名乗った昆陽野家
野崎家(当主は2代目の野崎武吉郎ー武左衛門の孫で岡山県最初の貴族院議員となる)は基督教(ロシア正教)の宣教師を受け入れ
その宣教師の教えに感銘を受けた
一少年が 「神学校に行く!」と 野崎の家を飛び出したのを見つけ
そのれを許したのみならず 支援したという。
それがのちのロシア文学者 小西増太郎
小西増太郎は野崎家の支援を受けて お茶の水のロシア正教の神学校を出て
その後ロシアにわたり 当時一世を風靡した トルストイに出会い
その当時、東洋思想 特に「老子」に傾注していたトルストイの
「老子」のロシア語訳に協力したという。
その時トルストイからもらったロシア語の聖書が
小西益太郎の死後出てきて話題になったことがある
小西益太郎には二人の息子がいたが
長男は元野球解説者として有名な小西徳郎さん
野崎家がロシア正教の宣教師を受け入れ
小西増太郎を支援した言うのは
野崎家は、渡来系氏族「秦氏」の末裔か?
私の推測であるが
案外 赤穂に上陸 播州に定着した 秦氏の末裔というのは あながち間違っていないのではないか、秦氏でなくとも、行基菩薩とゆかりの昆陽野から来ていることは何らかのつながりを推測する。
事業への熱心さや ロシア正教を受け入れ 信仰に走る青年を支援したり、難民救援に尽くしたという、その精神など
「秦氏」の歴史に共通するものを見る
野崎家のことはさらに追って紹介したい。
野崎の旧姓は昆陽野 塩田を開いた味野と赤崎(現倉敷市児島)の地名から野崎と名乗ったという
こや【昆陽】(コトバンクより)
兵庫県伊丹市内の古い地名。行基が築造したと伝える昆陽池、また、その創建と伝える昆陽寺がある
2010年2月25日木曜日
西大寺観音院と会陽 秦氏 皆足媛
西大寺観音院の謎?
西大寺縁起にある皆足媛とは
以前から疑問だった
皆足媛と秦氏、藤原氏の謎について
mr yanagi氏の[宝木伝説]に詳しく述べてある。
秦皆足というのは媛ではなかった。夫が秦皆足ということらしい。
つまり媛というのは、秦皆足夫人ということか。
なぜ、藤原皆足か?秦氏では通りが悪いので藤氏を名乗ったとのこと
私としては謎が解けた
ここに来ると 周防、玖珂の秦氏のルーツが知りたくなった。
それと観音院の歴史についてはもう少し知りたい。
吉備の国で秦氏といえば
備中 今は総社市秦原の廃寺
備前 幡多の遺跡など そして美作法然上人の父母のルーツとしての秦氏
備前 備中 美作 そして備後も含めて 吉備の国における秦氏の歴史の流れが見えてこないかと
どなたかこの辺り詳しい方があれば教えていただきたいのだが
先ほど紹介した、mr yanagi氏の[宝木伝説]
学術的にも詳しくて 参考にさせてもらいます。
西大寺縁起にある皆足媛とは
以前から疑問だった
皆足媛と秦氏、藤原氏の謎について
mr yanagi氏の[宝木伝説]に詳しく述べてある。
秦皆足というのは媛ではなかった。夫が秦皆足ということらしい。
つまり媛というのは、秦皆足夫人ということか。
なぜ、藤原皆足か?秦氏では通りが悪いので藤氏を名乗ったとのこと
私としては謎が解けた
ここに来ると 周防、玖珂の秦氏のルーツが知りたくなった。
それと観音院の歴史についてはもう少し知りたい。
吉備の国で秦氏といえば
備中 今は総社市秦原の廃寺
備前 幡多の遺跡など そして美作法然上人の父母のルーツとしての秦氏
備前 備中 美作 そして備後も含めて 吉備の国における秦氏の歴史の流れが見えてこないかと
どなたかこの辺り詳しい方があれば教えていただきたいのだが
先ほど紹介した、mr yanagi氏の[宝木伝説]
学術的にも詳しくて 参考にさせてもらいます。
2010年2月23日火曜日
西大寺会陽
2月20日は西大寺の会陽
500周年
知人のジャーナリストと西大寺に行きました。
昨年も行ったが、今年は、2時間早くなって、少し戸惑った。
午後4時ころ、「少年はだか祭」が
小学、1~2年は「たから餅」、 3~4年は8本の「五福筒」、5~6年生は[宝筒」を争奪戦
水垢離場で体を清めた少年たちが
元気よく掛け声をかけて行進し、一斉に[宝]を求めて争うさまは、庄ら大きくなったら本物の裸で会陽に参加するようになるんだなと期待する。
午後10時の[宝木](しんぎ)投下の前になると、激しいもみ合いと裸衆の雄たけびが「ウォー」と激しさを増し、強烈な印象、まさに[天下の奇祭]である。
そもそも会陽は西大寺開基の安隆上人(あんりゅうしょうにん)が東大寺で行われていた、修正会(しゅじょうえ)、正月元旦から14日間、祈祷をささげ、これが厳修されていた。
今から500年前、永正7年(1510)忠阿(ちゅうあ)上人の時、修正会の結願の日参詣の信者に守護札を出したところ、これを戴く者は福が得られると希望者が続出し、やむなく参詣者の頭上に投与したので奪い合いとなり、身体の自由を得るために裸となり、無垢の信仰心は水垢離となり、遂に修正会と不離一体の今日の会陽の形が成り立ったと伝えられている。
今でも修正会は厳格に行われ、それが観音院の伝統であり、特に[宝木](しんぎ)の作成には精誠と祈りがささげられている。
単なる民間信仰でなく、民の平安を願う祈祷の精誠が厚く捧げられているのが、500年間、会陽が続けられて来た伝統であると思う。
備前岡山の地がこれまでよき伝統に守られ、政治も文化も経済も発展してきた所以は、この西大寺観音院の伝統であるかなと思う。
500周年
知人のジャーナリストと西大寺に行きました。
昨年も行ったが、今年は、2時間早くなって、少し戸惑った。
午後4時ころ、「少年はだか祭」が
小学、1~2年は「たから餅」、 3~4年は8本の「五福筒」、5~6年生は[宝筒」を争奪戦
水垢離場で体を清めた少年たちが
元気よく掛け声をかけて行進し、一斉に[宝]を求めて争うさまは、庄ら大きくなったら本物の裸で会陽に参加するようになるんだなと期待する。
本番まで時間があったので、近隣を散策、
映画[三丁目の夕日]の撮影があった町並みや、昔高瀬舟が接岸したという、岸などを見て回った。
西大寺は、今から1300年ほど前、天平勝宝3年(751)、周防の国玖珂の媛、藤原(秦)の皆足媛が観音様(千手観音)を都の長谷寺に納めようと旅の途中、備前の金岡(現在の観音院の地)港に到着、再び出港しようとすると船が動かない、これは何かのお告げと、庵をむすんで観音像を安置したのが始まり。
宝亀8年(777)、安隆上人(あんりゅうしょうにん)が大和の長谷寺で修行三昧されていたとき”備前金岡庄の観音堂を修築せよ”と夢にお告げがあり、金岡に来る途中、児島の沖で龍神に会い、犀の角を授けられて、金岡に到着、堂宇を整備[犀戴寺」と名付けたのが始まりとか。
その後、後鳥羽上皇が承久の変のとき西国の社寺に戦勝祈願の祈願文に西大寺と書かれたので、その後[西大寺]と書くようになったそうである。
西大寺縁起に出てくる[皆足姫]が秦氏?というのは、昨年500回目の会陽を記念して、岡山市のデジタルミュージアムで寺宝展が開かれたおり、秦皆足姫と表記されているのを見て、教えられた。
「秦氏」については、法然上人とのかかわりでも「秦氏」が出てきているので、興味が尽きない。
午後7時花火大会が始まると一気に盛り上がる。
本堂前には続々と裸が結集!威勢のいい掛け声が響く。会社などのグループが、それぞれ横幕をもったりして行進してくる。
そもそも会陽は西大寺開基の安隆上人(あんりゅうしょうにん)が東大寺で行われていた、修正会(しゅじょうえ)、正月元旦から14日間、祈祷をささげ、これが厳修されていた。
今から500年前、永正7年(1510)忠阿(ちゅうあ)上人の時、修正会の結願の日参詣の信者に守護札を出したところ、これを戴く者は福が得られると希望者が続出し、やむなく参詣者の頭上に投与したので奪い合いとなり、身体の自由を得るために裸となり、無垢の信仰心は水垢離となり、遂に修正会と不離一体の今日の会陽の形が成り立ったと伝えられている。
今でも修正会は厳格に行われ、それが観音院の伝統であり、特に[宝木](しんぎ)の作成には精誠と祈りがささげられている。
単なる民間信仰でなく、民の平安を願う祈祷の精誠が厚く捧げられているのが、500年間、会陽が続けられて来た伝統であると思う。
備前岡山の地がこれまでよき伝統に守られ、政治も文化も経済も発展してきた所以は、この西大寺観音院の伝統であるかなと思う。
2010年2月14日日曜日
誕生寺・波多神社・本山寺
19日(金)人物伝を語る会で「法然上人}の話をする予定で、今日は誕生寺に行ってきた。
幸いご住職がおられてお話を伺うことができた。
誕生寺の住職は代々う漆間姓を継いでおられるとのことで、今のご住職も法統を継いでおられる。
これまでたびたび誕生寺は訪問させているが、ご住職にお会いするのは初めて、多少緊張気味だったが、快く会っていただいた。
特に最近話題になっている「法然上人と秦氏」についてお聞きした。
秦氏の君といわれる母親はずいぶん、心優しい方だったようで、そして信仰深い方だった。
秦氏というのは本当に信仰に熱い渡来系氏族で、殖産にもたけていて、葉は秦氏の君の生家は「長者」であったそうである。
父を失った勢至丸(幼少時代の法然上人)は父の遺言に従い、母親の弟が住職をしていた菩提寺(現奈義町)で13歳まで修行するが、この秦氏の弟の住職もとても位の高い方だったということがその名前からわかるとのこと、[信仰に篤い+殖産事業の成功者]という秦氏の基本的イメージ通りだったのであろう。
ご住職に「波多神社」というのがあるよと聞いた。
秦氏の君は夫漆間時明との間に子供がなかなかできなかったので、当時栄えていた本山寺に夫とともに21日間参籠した(通ったという話も)
その本山寺を尋ねる途中に波多神社がある。縁起をみると斉明天皇御宇五年に勧請とある。658年である。波多は秦から来ているのであろう。下の写真は波多神社本殿延宝2年(1674年)の建造となっている。

本山寺を訪れると、ちょうどご住職の奥様がどなたかと話をしておられて、参拝の許可をもらおうと尋ねると、「歴史の話はこの方に聞いたほうが」と声をかけてくださった方が、檀家総代の方。もう86歳といわれるが、軽トラックに乗っておられてお元気な方で、いろいろと本山寺の縁起など話してくださった。
本山寺は大宝元年(701年)開基 天永元年(1110年)に、弓削師古(ゆげのもろふる)が現在地に移し百二十坊といわれるほど大いに栄えた、という。
漆間時国夫婦が参籠して産まれたのがのちの法然上人、勢至丸であった。これが長二年(1133年)である。
誕生寺のご住職の話では秦氏の君は「長者の娘」ということであるから、秦氏の家はずいぶん栄えていて、本山寺の造営にも深くかかわっていたのではないかと想像する。写真は本山寺本堂、1350年の建造で国指定の重要文化財に指定されている。法然上人誕生の時代からは少し下るが往時の繁栄を偲ばせる建物である。この本殿の奥は山王社が祀られている。
誕生寺については誕生寺HPを
幸いご住職がおられてお話を伺うことができた。
誕生寺の住職は代々う漆間姓を継いでおられるとのことで、今のご住職も法統を継いでおられる。
これまでたびたび誕生寺は訪問させているが、ご住職にお会いするのは初めて、多少緊張気味だったが、快く会っていただいた。
特に最近話題になっている「法然上人と秦氏」についてお聞きした。
秦氏の君といわれる母親はずいぶん、心優しい方だったようで、そして信仰深い方だった。
秦氏というのは本当に信仰に熱い渡来系氏族で、殖産にもたけていて、葉は秦氏の君の生家は「長者」であったそうである。
父を失った勢至丸(幼少時代の法然上人)は父の遺言に従い、母親の弟が住職をしていた菩提寺(現奈義町)で13歳まで修行するが、この秦氏の弟の住職もとても位の高い方だったということがその名前からわかるとのこと、[信仰に篤い+殖産事業の成功者]という秦氏の基本的イメージ通りだったのであろう。
ご住職に「波多神社」というのがあるよと聞いた。
秦氏の君は夫漆間時明との間に子供がなかなかできなかったので、当時栄えていた本山寺に夫とともに21日間参籠した(通ったという話も)
その本山寺を尋ねる途中に波多神社がある。縁起をみると斉明天皇御宇五年に勧請とある。658年である。波多は秦から来ているのであろう。下の写真は波多神社本殿延宝2年(1674年)の建造となっている。
本山寺を訪れると、ちょうどご住職の奥様がどなたかと話をしておられて、参拝の許可をもらおうと尋ねると、「歴史の話はこの方に聞いたほうが」と声をかけてくださった方が、檀家総代の方。もう86歳といわれるが、軽トラックに乗っておられてお元気な方で、いろいろと本山寺の縁起など話してくださった。
本山寺は大宝元年(701年)開基 天永元年(1110年)に、弓削師古(ゆげのもろふる)が現在地に移し百二十坊といわれるほど大いに栄えた、という。
漆間時国夫婦が参籠して産まれたのがのちの法然上人、勢至丸であった。これが長二年(1133年)である。
誕生寺のご住職の話では秦氏の君は「長者の娘」ということであるから、秦氏の家はずいぶん栄えていて、本山寺の造営にも深くかかわっていたのではないかと想像する。写真は本山寺本堂、1350年の建造で国指定の重要文化財に指定されている。法然上人誕生の時代からは少し下るが往時の繁栄を偲ばせる建物である。この本殿の奥は山王社が祀られている。
誕生寺については誕生寺HPを
2010年2月13日土曜日
法然と秦氏
「法然と秦氏」
元中外日報記者の山田繁夫氏の書いた、「法然と秦氏」が注目です。
これまで法然上人の母親は「秦氏の君」と言われてきましたが、父方の漆間氏も「秦氏」であると山田氏は書いています。
しかも、法然上人の生涯の歩みを見てみると「秦氏」とのかかわりを示す歩みが随所にうかがわれるというのです。
出家して比叡山に登るまで那岐の菩提寺で修業したのも母親の弟もと
比叡山から南都(奈良)に遊学した経緯も秦氏との関連を見ることができる。
この時代、すでに秦氏が日本に渡来してから数百年を経過しながら、秦氏が日本の社会の中で独自のアイデンティティーを保ち続けていたこと、法然はまさにその秦氏の代表のような立場で活躍した大僧侶であったということである。
晩年激しい反対を受け法難に会うが、法然の教えは大衆に根付きまた、時の権力者からも歓迎されていく。
天皇家も代々浄土門に帰依する者多く、江戸時代を築いた徳川家は浄土門であった。
写真は誕生寺境内の椋の樹 二流れの幡が流れて来てかかり、法然上人が誕生したという。今の木は3代目とのこと。
岡山に「岡山人物銘々伝を語る会」というのがある。
毎月第3金曜日の午後6時から8時まで主に県立図書館で「人物伝」の研究発表をしている。
2月は19日(金)午後6時から県立図書館で 「法然上人を語る」のテーマで発表の予定
関心のある方はぜひ行ってみてください。会費は500円
元中外日報記者の山田繁夫氏の書いた、「法然と秦氏」が注目です。
これまで法然上人の母親は「秦氏の君」と言われてきましたが、父方の漆間氏も「秦氏」であると山田氏は書いています。
しかも、法然上人の生涯の歩みを見てみると「秦氏」とのかかわりを示す歩みが随所にうかがわれるというのです。
出家して比叡山に登るまで那岐の菩提寺で修業したのも母親の弟もと
比叡山から南都(奈良)に遊学した経緯も秦氏との関連を見ることができる。
この時代、すでに秦氏が日本に渡来してから数百年を経過しながら、秦氏が日本の社会の中で独自のアイデンティティーを保ち続けていたこと、法然はまさにその秦氏の代表のような立場で活躍した大僧侶であったということである。
晩年激しい反対を受け法難に会うが、法然の教えは大衆に根付きまた、時の権力者からも歓迎されていく。
天皇家も代々浄土門に帰依する者多く、江戸時代を築いた徳川家は浄土門であった。
写真は誕生寺境内の椋の樹 二流れの幡が流れて来てかかり、法然上人が誕生したという。今の木は3代目とのこと。
岡山に「岡山人物銘々伝を語る会」というのがある。
毎月第3金曜日の午後6時から8時まで主に県立図書館で「人物伝」の研究発表をしている。
2月は19日(金)午後6時から県立図書館で 「法然上人を語る」のテーマで発表の予定
関心のある方はぜひ行ってみてください。会費は500円
2010年1月13日水曜日
真庭市 勝山 鳩山家の故郷 寂室元光師の故郷
Ⅰ月6日
勝山に行ってきました。
今は真庭市、かっては勝山藩2万3千石の城下町
鳩山首相の先祖、鳩山家の出生の地ということで最近注目を集めている。
勝山に着くと、中国勝山駅の中に観光案内所があり、観光パンフレットでも貰おうと覗くと
早速職員の人が顔を出して、詳しく教えてくれた。
町並み保存地区が最近有名になっているらしい。駅の脇にも駐車場があるが、市内李随所に観光駐車場があるとのことで、車を走らせる。
町並み保存地区の真ん中あたりに歴史資料館があって、早速覗いてみた。
シーズンオフということで、ほとんど観光客はいなかったが、職員の方が丁寧に対応してくれて、
訪問の意図、鳩山和夫と寂室元光師のことを話すと、資料を貸してくれた。
郷土出身の偉人を見ると、鳩山和夫や寂室元光師(円興禅師)に加え、明治初期、シーボルトの弟子でシーボルトの娘お稲に産学を教えた、石井宗謙や、宇喜多秀家の母お福の方もこの地の生まれとか、その他にも多数著名人を輩出している。
勝山は昔美作高田といった。豊後高田と越後の高田(現上越市)と、石が割れて3つに分かれて町ができたといういわれも面白い。下の写真は高田城址、左下は現在の真庭市役所。
一足伸ばすと有名な神庭の滝があるということで、行ってみる。
入園料300円を払って滝に向かって歩くとスタッフの方が掃除をしていて、野生の猿が親子であろうかよりそって一生懸命何かを拾っている、何か食物になるものがあるのか、寒空の下猿も寒かろうと思う。
滝は流石に雄大で、紅葉の季節とか来るといいな
再び町内に帰り、三浦邸(藩主三浦家の屋敷跡―シーズンには無料開放しているとのこと)
圓応禅師(寂室元光師)の産湯の井戸(真庭市役所のそば)
寂室元光禅師は鎌倉末期臨済宗の高僧で、元の国にわたり修業、帰国後は各地を遍歴
備中松山(高梁市)の頼久寺の開祖として知られ、晩年は近江佐々木氏に招かれ近江の名刹、遠久寺の開祖となっている。
平成大合併で真庭市ができたが、ここもと勝山町役場が真庭市役所になっている。役場に入ると入口に真庭市の憲章が掲げてあって、その中に歴史を文化を重んじるという1節が気に入って写真を撮らせてもらう。この市役所の裏山がかっての勝山城址、勝山藩の中心地で
真庭市、以前真庭郡の名前は真島郡と大場郡を合わせた名前で、かっての勝山藩は両郡を治めていたいたので、現在の真庭市域がほぼかっての勝山藩の領域になっている。
現在真庭市は人口5万4千人、とても広い市域であるが、かって城があった裏山と市役所の姿を見ながらかっての勝山城の時代をしのぶ
少し下ってゆるい坂になった道を登ると寺社が並んでいる。
いちばん奥手が高田神社、手前に化生寺などの寺社群があり、その一番手前が安養寺
浄土宗の寺で、入口には鳩山首相が墓参にきたことが張り紙してあった。
ここは藩主三浦家の菩提寺でもあり、最も高い段には三浦家の代々の墓が祀られてある
鳩山家の墓はこの中にあると思う。場所はわからないが、代々の方のために手を合わせてきた。
圓応禅師近江の遠久寺ゆかりの寺があるということで、近くに武家屋敷館があるが、夕刻ですでに閉館時間、少々さびれた感じの寺を訪ねて今日の訪問は終わり
先日備中松山城跡と高梁の街は尋ねたが、ここ勝山の街もかっての城下町の風情をとてもよく残した街で、歴史と文化の香りを感じることができた。
美作津山から備中松山にかけての地域は実に多くの偉人、著名人を産み出している。
今回しみじみそのことを感じることができた。
いい季節に夫婦で、家族で、同好の士とともに来たい。
勝山に行ってきました。
今は真庭市、かっては勝山藩2万3千石の城下町
鳩山首相の先祖、鳩山家の出生の地ということで最近注目を集めている。
勝山に着くと、中国勝山駅の中に観光案内所があり、観光パンフレットでも貰おうと覗くと
早速職員の人が顔を出して、詳しく教えてくれた。
町並み保存地区が最近有名になっているらしい。駅の脇にも駐車場があるが、市内李随所に観光駐車場があるとのことで、車を走らせる。
町並み保存地区の真ん中あたりに歴史資料館があって、早速覗いてみた。
シーズンオフということで、ほとんど観光客はいなかったが、職員の方が丁寧に対応してくれて、
訪問の意図、鳩山和夫と寂室元光師のことを話すと、資料を貸してくれた。
郷土出身の偉人を見ると、鳩山和夫や寂室元光師(円興禅師)に加え、明治初期、シーボルトの弟子でシーボルトの娘お稲に産学を教えた、石井宗謙や、宇喜多秀家の母お福の方もこの地の生まれとか、その他にも多数著名人を輩出している。
勝山は昔美作高田といった。豊後高田と越後の高田(現上越市)と、石が割れて3つに分かれて町ができたといういわれも面白い。下の写真は高田城址、左下は現在の真庭市役所。
一足伸ばすと有名な神庭の滝があるということで、行ってみる。
入園料300円を払って滝に向かって歩くとスタッフの方が掃除をしていて、野生の猿が親子であろうかよりそって一生懸命何かを拾っている、何か食物になるものがあるのか、寒空の下猿も寒かろうと思う。
滝は流石に雄大で、紅葉の季節とか来るといいな
再び町内に帰り、三浦邸(藩主三浦家の屋敷跡―シーズンには無料開放しているとのこと)
圓応禅師(寂室元光師)の産湯の井戸(真庭市役所のそば)
寂室元光禅師は鎌倉末期臨済宗の高僧で、元の国にわたり修業、帰国後は各地を遍歴
備中松山(高梁市)の頼久寺の開祖として知られ、晩年は近江佐々木氏に招かれ近江の名刹、遠久寺の開祖となっている。
平成大合併で真庭市ができたが、ここもと勝山町役場が真庭市役所になっている。役場に入ると入口に真庭市の憲章が掲げてあって、その中に歴史を文化を重んじるという1節が気に入って写真を撮らせてもらう。この市役所の裏山がかっての勝山城址、勝山藩の中心地で
真庭市、以前真庭郡の名前は真島郡と大場郡を合わせた名前で、かっての勝山藩は両郡を治めていたいたので、現在の真庭市域がほぼかっての勝山藩の領域になっている。
現在真庭市は人口5万4千人、とても広い市域であるが、かって城があった裏山と市役所の姿を見ながらかっての勝山城の時代をしのぶ
少し下ってゆるい坂になった道を登ると寺社が並んでいる。
いちばん奥手が高田神社、手前に化生寺などの寺社群があり、その一番手前が安養寺
浄土宗の寺で、入口には鳩山首相が墓参にきたことが張り紙してあった。
ここは藩主三浦家の菩提寺でもあり、最も高い段には三浦家の代々の墓が祀られてある
鳩山家の墓はこの中にあると思う。場所はわからないが、代々の方のために手を合わせてきた。
圓応禅師近江の遠久寺ゆかりの寺があるということで、近くに武家屋敷館があるが、夕刻ですでに閉館時間、少々さびれた感じの寺を訪ねて今日の訪問は終わり
先日備中松山城跡と高梁の街は尋ねたが、ここ勝山の街もかっての城下町の風情をとてもよく残した街で、歴史と文化の香りを感じることができた。
美作津山から備中松山にかけての地域は実に多くの偉人、著名人を産み出している。
今回しみじみそのことを感じることができた。
いい季節に夫婦で、家族で、同好の士とともに来たい。
法然上人と椋の木、内村鑑三 津山ホルモンうどん 聖萬堂の栗餡團
Ⅰ月5日 お正月にどこにも行けなかったので家内がどこかに連れて行ってほしいと
最近評判の「津山ホルモンうどん」を食べに行こうかと誘って出発
行きがけに、備前一宮の「布津御霊神社」を訪問、あいにく宮司さんはいなかったが、参拝
法然上人の誕生の地「誕生寺」を訪れる。「椋の樹」をしげしげと眺める
最近読んだ本、「秦氏と法然」(山田繁夫氏著)にあるが、国宝法然上人行状絵図にある、二流れの幡がかかって誕生したと言われる椋の木、何代目かだそうだが、法然上人誕生の時をしのぶ
その後、津山城、鶴山公園の登り口にある、かっての基督教図書館、いまは民俗資料館になっているが、去年訪問した時に、内村鑑三が法然上人にいたく感銘を受けて尊敬していたという話を思い出し、妻を誘ってみてみようとしたが、あいにく休館日、せっかく来たのに残念だと思っていたら、館長さんがいて特別に開けて見せてくださった。ありがとうございます。
近くの観光センターで「津山ホルモンうどん」のパンフレットをもらって、近くにある「吉平」という店に入った。マンガ本が並んでいて、高校生など多いんですかと、おかみさんに聞いたが、学生はそう多くないそうだ。ホルモンうどんが話題になって一時ぐっとお客さんが増えたが、今は少し落ち着いてきたそうである。
出来てきた「ホルモンうどん」味噌だれが美味しい。ホルモンのうまみが溶け込んでうまい。
妻は「私は歯が悪いのでちょっと」と言っていたが味には満足していたようだ。
2月に「法然上人」の人物伝を話すようになっているので、津山市内の知人に法然上人と内村鑑三に関する資料はないかと頼んでいたので、「できている」ということだったので、訪ねる。しばし、歴史談義。
帰り道、鏡野町に「聖萬堂」というお店があって「栗餡團」というのが美味しいという話だったので訪ねてみた。一度OHKのニョッキン7にも登場して、地元でも評判らしい。
大きな栗がたっぷり入って餡も程よい甘さでとても美味しい。
店主がおられて明日から「岡山の天満屋」で実演販売だとか、全国各地のデパートの売場で実演販売していてとても評判らしい。全国からも注文があって、インターネットでも注文を受け付ける準備をしているとか。家族にお土産を買って帰る。家族みんな美味しいととても喜んでくれた。
最近評判の「津山ホルモンうどん」を食べに行こうかと誘って出発
行きがけに、備前一宮の「布津御霊神社」を訪問、あいにく宮司さんはいなかったが、参拝
法然上人の誕生の地「誕生寺」を訪れる。「椋の樹」をしげしげと眺める
最近読んだ本、「秦氏と法然」(山田繁夫氏著)にあるが、国宝法然上人行状絵図にある、二流れの幡がかかって誕生したと言われる椋の木、何代目かだそうだが、法然上人誕生の時をしのぶ
その後、津山城、鶴山公園の登り口にある、かっての基督教図書館、いまは民俗資料館になっているが、去年訪問した時に、内村鑑三が法然上人にいたく感銘を受けて尊敬していたという話を思い出し、妻を誘ってみてみようとしたが、あいにく休館日、せっかく来たのに残念だと思っていたら、館長さんがいて特別に開けて見せてくださった。ありがとうございます。
近くの観光センターで「津山ホルモンうどん」のパンフレットをもらって、近くにある「吉平」という店に入った。マンガ本が並んでいて、高校生など多いんですかと、おかみさんに聞いたが、学生はそう多くないそうだ。ホルモンうどんが話題になって一時ぐっとお客さんが増えたが、今は少し落ち着いてきたそうである。
出来てきた「ホルモンうどん」味噌だれが美味しい。ホルモンのうまみが溶け込んでうまい。
妻は「私は歯が悪いのでちょっと」と言っていたが味には満足していたようだ。
2月に「法然上人」の人物伝を話すようになっているので、津山市内の知人に法然上人と内村鑑三に関する資料はないかと頼んでいたので、「できている」ということだったので、訪ねる。しばし、歴史談義。
帰り道、鏡野町に「聖萬堂」というお店があって「栗餡團」というのが美味しいという話だったので訪ねてみた。一度OHKのニョッキン7にも登場して、地元でも評判らしい。
大きな栗がたっぷり入って餡も程よい甘さでとても美味しい。
店主がおられて明日から「岡山の天満屋」で実演販売だとか、全国各地のデパートの売場で実演販売していてとても評判らしい。全国からも注文があって、インターネットでも注文を受け付ける準備をしているとか。家族にお土産を買って帰る。家族みんな美味しいととても喜んでくれた。
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