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2010年3月20日土曜日

池田光政の東部籠城作戦

・「池田光政の東部籠城作戦」という講演を聞かせてもらった。
元陸上自衛隊一等陸佐の杉嘉夫氏の講演は、様々な資料をもとに、それを実証するものだった。
池田光政公というと、備前岡山藩の初代藩主、徳川300年隋一の「名君」とうたわれ、特に教育や住民の福祉に力を入れたといわれているが、慈悲深い施策の一面、軍事にも力を入れていたことが判る。
突如。3000石にとりたてられた「熊沢蕃山」は儒学者として、教育思想面だけでなく、軍事にも力を入れた。
このブログでも紹介した、「熊沢蕃山の説く士道の中でも
「士(さむらい)」とは「愛」なり・・の中で

「文武二道」
番山は、武士の天職を“人を愛するなり”とし、その具体的実践を文武にわたって述べて、“これを文武二道の士という。人を愛するのことなり。”と結んでいた。
良き武士というは、あくまで勇ありて武道武芸の心がけ深く、何事ありても躓くこと無きように嗜み、さて主君を大切に思いたてまつり、自分の妻子より始めて天下の老若を不憫におもう仁愛の心より、世の中の無事を好み、その上に不慮ことできる時は、身を忘れ家を忘れて大なるはたらきをなし、軍功を立てる人あらば、一文不通の無学というとも、文武二道の士なるべし。

まさに文武二道が熊沢蕃山が藩主池田光政に教えたことであり、「文」のみならず「武」もしっかり怠らなかったことがわかる。

杉氏によると
・歴史的事実としては光政が行った、大規模な「タカ狩り」
・香登の「大池」の築造  西側からの侵入の隘路を作るため掘削
・虫明の「井田」片上湾からの補給路確保
・「倉安川」の築造  緊急時のための物資輸送路
・「閑谷学校」単なる学校ではない。いざという時、軍事施設となる証拠が
・「和意谷墓地」なぜあのような辺鄙な地に墓地を、その答えは・・
等々の詳しい証拠をあげられ、「池田光政の東部籠城作戦」を証明された。
とても納得する内容であった。
常識では考えられなかったが、逐一証拠を見せられ納得!
これまでなぜ?と思われた秘密が解明された。

名君とうたわれた池田光政が単なる「善政」を敷いた藩主ではなく、しっかり防衛も考えていた、またそれを、立案したのが熊沢蕃山というのは、おもえば当然然りでもある。

これで池田光政公の実像が見えてきた。
また背後に熊沢蕃山があり、その人物と思想も明確になってきた。

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