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2010年2月26日金曜日

赤穂と秦氏 児島の野崎家 と小西増太郎 

「シルクロード渡来人が建国した日本」(久慈力氏著 現代書館)という本を読んでいる


秦氏を乗せた船が最初に到着したのが赤穂
だから播磨には秦氏の遺跡が多い

一説によると播州赤穂 [忠臣蔵]の物語は、赤穂が秦氏の地を引いた地だからと
これはどうか 少々疑問が残る

さて、児島の野崎武左衛門
塩田王として有名
ルーツは播州 昆陽野の名は行基菩薩ゆかりの昆陽池とつながる
武左衛門の最初の妻野実家は播州屋を名乗った昆陽野家

野崎家(当主は2代目の野崎武吉郎ー武左衛門の孫で岡山県最初の貴族院議員となる)は基督教(ロシア正教)の宣教師を受け入れ
その宣教師の教えに感銘を受けた
一少年が 「神学校に行く!」と 野崎の家を飛び出したのを見つけ
そのれを許したのみならず 支援したという。
それがのちのロシア文学者 小西増太郎

小西増太郎は野崎家の支援を受けて お茶の水のロシア正教の神学校を出て
その後ロシアにわたり 当時一世を風靡した トルストイに出会い
その当時、東洋思想 特に「老子」に傾注していたトルストイの
「老子」のロシア語訳に協力したという。
その時トルストイからもらったロシア語の聖書が
小西益太郎の死後出てきて話題になったことがある

小西益太郎には二人の息子がいたが
長男は元野球解説者として有名な小西徳郎さん

野崎家がロシア正教の宣教師を受け入れ
小西増太郎を支援した言うのは

野崎家は、渡来系氏族「秦氏」の末裔か?
私の推測であるが
案外 赤穂に上陸 播州に定着した 秦氏の末裔というのは あながち間違っていないのではないか、秦氏でなくとも、行基菩薩とゆかりの昆陽野から来ていることは何らかのつながりを推測する。
事業への熱心さや ロシア正教を受け入れ 信仰に走る青年を支援したり、難民救援に尽くしたという、その精神など 
「秦氏」の歴史に共通するものを見る

野崎家のことはさらに追って紹介したい。



野崎の旧姓は昆陽野 塩田を開いた味野と赤崎(現倉敷市児島)の地名から野崎と名乗ったという




こや【昆陽】(コトバンクより)
兵庫県伊丹市内の古い地名行基築造したと伝える昆陽池、また、その創建と伝える昆陽寺がある

1 件のコメント:

キビラクド Yamada Ryozo さんのコメント...

行基といえば百済系の渡来人の末裔といわれる。
行基(ぎょうき/ぎょうぎ、天智天皇7年(668年) - 天平21年2月2日(749年2月23日))は日本の奈良時代の僧である。677年4月に生まれたという説もある。父は百済系渡来氏族の末裔西文氏(かわちのあやし)一族の高志才智とされる。母は河内国(のち和泉国)大鳥郡の蜂田首(現在の華林寺)の出。(Wikipediaより)