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2010年6月23日水曜日

大避神社


大避神社
今回の探訪のメインが大避神社、まち並館や旧坂越浦会所でいろいろ教わってきたので、予備知識のできたところで、神社の参道を歩いて行った。

進んでいくと、正面に隋神門が見えてくる。神仏習合時代の名残で左大臣、右大臣の隋神と仁王像が背中合わせで安置されている。

明治の神仏分離までは、すぐ神社の裏手に続く、妙見宮と一体であったという。

神社の由緒を見ると、大避神社は、秦河勝公が皇極3年(644)蘇我氏の迫害を避けて海路を伝って、この地坂越に着き、千種川流域の開拓を進め、大化3年(647)に亡くなられて、祀ったのが始まりとある。



本殿わきの絵馬堂には多数の絵馬が奉納されている。
毎年10月の第2日曜日に(もとは旧暦12日に行っていた。)に瀬戸内三大船祭りに数えられる「坂越の船祭り」が行われる。
大避神社は地元赤穂藩主のみならず、熊本の細川家の殿様も坂越浦に船を泊めて参拝して行かれたなど、坂越が海上交通の要として栄え、航海安全の祈願がなされたことを物語っている。
船祭りには12隻の和船が出るそうだが、この大避神社は本殿の前の階段が12段になっているなど、12数にちなむ数が多くもちいられていることなど、イスラエルの12部族、あるいはイエスの12弟子など、秦氏が、ユダヤ教あるいは原始キリスト教と言われる痕跡が残ってるように思う。


摂社の中の稲荷宮に関心を持った。神社の由緒を見るともとは生島に鎮座していたそうである。
神社のちょうど正面が生島で、生島のちょうど馬の背のようなところに河勝公の古墳があるという。河勝公を慕う人々は、この神社のあるところから河勝公の遺徳をしのび参拝していたのではと思った。神社に手を合わせるというよりは、むしろこの地は生島の河勝公に向かって参拝していたのではないだろうか。
正面が生島、丁度くぼんだ馬の背のようなところに秦河勝公の古墳があるという。


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