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2010年6月22日火曜日

旧坂越浦会所

次に行ったのが「旧坂越浦会所」である。
奥藤酒造から出て、ちょっと下ると交差点がある。信号がある三叉路だが、この日はほとんど車の往来もなかった。昔は子のすぐ前が海岸だったのであろう。
[旧坂越浦会所]は、赤穂藩の出先機関のようなもので、各地に出荷する塩の確認をする役人が常駐していたらしい。二階は階段を上がって、ふすまで仕切られた部屋がいくつもあって、全部広げればとても広い部屋になるようになっていた。その奥には藩主が来られたら使うという部屋があった。お殿様も時々静養に来ていいて、保養所のような役割もしていたらしい。
小倉さんという方が詳しく説明をしてくださった。記帳をしてくださいということで、私が名前を書くと、旧姓が同じなのだという。何か縁を感じて話が弾んだ、先ほどの街並保存館でも話がはずんだが、多少歴史のことも知って、訪ねて行くと、とても話があって面白い。
この旧坂越会所の隣に小倉御前の墓と言うのがある。聞くと南北朝時代の南朝の皇族後亀山天皇の皇子小倉宮が坂越に隠み、その方の墓という。筆者の故郷の児島にも後鳥羽上皇の皇子が住んだと言われる。その後その子孫が南朝の忠臣児島高徳で、この坂越はほかならぬ縁があるという。児島高徳の供養塔はこの後訪れた。
いろいろ赤穂と坂越の話を聞かせてもらってよかったです。



小倉御前について
南北朝時代後亀山天皇の皇子小倉宮が坂越に隠れ住んだといわれています。坂越浦会所の横の路地を入ったところにひっそりと五輪塔があって歴史を伝えています。
ここ坂越が南朝方と深いつながりの地であることをあらためて知らされました。

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