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2010年6月26日土曜日

熊野神社と児島高徳公誕生の碑

児島の熊野神社を訪ねました。
児島高徳誕生の地の記念碑です。五流尊龍院の境内にあります。
訪問記の詳しい内容は[吉備の児島」に書いていきます。

頼仁親王は後鳥羽上皇の皇子で承久の乱後北条泰時によって後鳥羽上皇は隠岐に、頼仁親王は児島に配流されました。同じく後鳥羽上皇の皇子桜井宮覚仁法親王が児島に来られ、頼仁親王の御子道乗大僧正を覚仁親王の附弟として五流尊龍院を継がれたという。
頼仁親王稜(大正7年より宮内省の所管)

2010年6月25日金曜日

宝珠山に登る


大避神社の裏山が宝珠山で散策ルートになっていて、景色が良いと聞いていたので登ってみた。
もとは大避神社と一つだった妙見寺があり、奥の院がある。妙見寺まではいい道が続いていたが、その先山上まではかなりの悪路で、舗装はしているが、路面が破損して、かなり注意深い運転が必要である。奥の院を過ぎて山上に児島高徳の義父和田範長一族の墓があった。
中世の時代後醍醐天皇に忠誠をつくした一族である。

山上からの景色は確かに素晴らしい、生島が眼下に見える。ただ樹木が生い茂って、写真を撮るのには苦労した。
宝珠山中腹から見た坂越浦と生島

2010年6月24日木曜日

生島(いきしま)

「河勝公が生きてお着きになられたので、生島(いきしま)と名づけられたとつたえられている。」と大避神社の由緒にある。
島内は神地であり、樹木を切ることはもちろん島内に入ることも恐れられてきたといわれている。そのため樹木が原始林のままに育ち国の特別天然記念物に、さらに国立公園特別保護区に指定されている。
島内西側には河勝公の墓所、神水井戸、東側には浜辺に石鳥居、御旅所と祭礼船を格納している船倉が建っている。

2010年6月23日水曜日

児島高徳の墓

児島高徳の墓を目指す。
鳥居の脇の道を登っていくと、急な坂道が続いて、児島高徳の墓に至る。まず忠魂碑が迎えてくれる。さらに進むと、高徳の墓があった。
妙見寺は、熊山の戦いで重傷を負った高徳が療養した寺と伝えられる。明治の神仏分離で別れてしまったが、当時は妙見寺が大避神社の別当であり、16坊5庵の大伽藍、2~300人の僧侶に、寺男、数百の僧兵を抱えたていたという。高徳の義父和田範長は妙見寺の良覚上人と旧知の間柄であったので、高徳をかくまったのであろう。山上には和田範長一族の墓がある。
備前児島の熊野社、五流尊龍院には児島高徳の誕生碑が立っている。児島と赤穂をむすぶつながりを思い、しばし思いを巡らす。
児島高徳については[吉備の児島」に記事を書くつもりであるので、見てほしい。

大避神社


大避神社
今回の探訪のメインが大避神社、まち並館や旧坂越浦会所でいろいろ教わってきたので、予備知識のできたところで、神社の参道を歩いて行った。

進んでいくと、正面に隋神門が見えてくる。神仏習合時代の名残で左大臣、右大臣の隋神と仁王像が背中合わせで安置されている。

明治の神仏分離までは、すぐ神社の裏手に続く、妙見宮と一体であったという。

神社の由緒を見ると、大避神社は、秦河勝公が皇極3年(644)蘇我氏の迫害を避けて海路を伝って、この地坂越に着き、千種川流域の開拓を進め、大化3年(647)に亡くなられて、祀ったのが始まりとある。



本殿わきの絵馬堂には多数の絵馬が奉納されている。
毎年10月の第2日曜日に(もとは旧暦12日に行っていた。)に瀬戸内三大船祭りに数えられる「坂越の船祭り」が行われる。
大避神社は地元赤穂藩主のみならず、熊本の細川家の殿様も坂越浦に船を泊めて参拝して行かれたなど、坂越が海上交通の要として栄え、航海安全の祈願がなされたことを物語っている。
船祭りには12隻の和船が出るそうだが、この大避神社は本殿の前の階段が12段になっているなど、12数にちなむ数が多くもちいられていることなど、イスラエルの12部族、あるいはイエスの12弟子など、秦氏が、ユダヤ教あるいは原始キリスト教と言われる痕跡が残ってるように思う。


摂社の中の稲荷宮に関心を持った。神社の由緒を見るともとは生島に鎮座していたそうである。
神社のちょうど正面が生島で、生島のちょうど馬の背のようなところに河勝公の古墳があるという。河勝公を慕う人々は、この神社のあるところから河勝公の遺徳をしのび参拝していたのではと思った。神社に手を合わせるというよりは、むしろこの地は生島の河勝公に向かって参拝していたのではないだろうか。
正面が生島、丁度くぼんだ馬の背のようなところに秦河勝公の古墳があるという。


2010年6月22日火曜日

旧坂越浦会所

次に行ったのが「旧坂越浦会所」である。
奥藤酒造から出て、ちょっと下ると交差点がある。信号がある三叉路だが、この日はほとんど車の往来もなかった。昔は子のすぐ前が海岸だったのであろう。
[旧坂越浦会所]は、赤穂藩の出先機関のようなもので、各地に出荷する塩の確認をする役人が常駐していたらしい。二階は階段を上がって、ふすまで仕切られた部屋がいくつもあって、全部広げればとても広い部屋になるようになっていた。その奥には藩主が来られたら使うという部屋があった。お殿様も時々静養に来ていいて、保養所のような役割もしていたらしい。
小倉さんという方が詳しく説明をしてくださった。記帳をしてくださいということで、私が名前を書くと、旧姓が同じなのだという。何か縁を感じて話が弾んだ、先ほどの街並保存館でも話がはずんだが、多少歴史のことも知って、訪ねて行くと、とても話があって面白い。
この旧坂越会所の隣に小倉御前の墓と言うのがある。聞くと南北朝時代の南朝の皇族後亀山天皇の皇子小倉宮が坂越に隠み、その方の墓という。筆者の故郷の児島にも後鳥羽上皇の皇子が住んだと言われる。その後その子孫が南朝の忠臣児島高徳で、この坂越はほかならぬ縁があるという。児島高徳の供養塔はこの後訪れた。
いろいろ赤穂と坂越の話を聞かせてもらってよかったです。



小倉御前について
南北朝時代後亀山天皇の皇子小倉宮が坂越に隠れ住んだといわれています。坂越浦会所の横の路地を入ったところにひっそりと五輪塔があって歴史を伝えています。
ここ坂越が南朝方と深いつながりの地であることをあらためて知らされました。

2010年6月21日月曜日

奥藤酒蔵郷土館

坂越まち並み館の隣が奥藤酒蔵で、その前を通りかかると、「奥が郷土館になっていますよ」と言われたので、のぞいてみた。古い酒蔵の二階が資料館になっていて、古くからの資料がぎっしり詰まっていた。
一番の注目は、入口にあった塩の運搬船の模型、そこに書きつけがあって、当時運んでいた、塩の量や価格が書いてあった。それを見ると、塩の俵が五千七百俵、千七百両余りの値段が書かれていた。
坂越の町は赤穂の塩の積み出し港として栄えた歴史がある。
徳川幕藩体制が始まって、最初は姫路藩に所属していたが、塩の生産があるということで、赤穂藩として独立したそうであり、例の「忠臣蔵」の浅野家と吉良家の争いも塩の利権をめぐってのことだといわれている。
ここ奥藤酒蔵は、もとは塩の取引を一手に、請負った、豪商だったとのことである。






その他にも貴重な写真など、ぎっしり詰まっていて、面白い。


2010年6月20日日曜日

秦氏の故郷坂越を訪ねて

かねてから行きたかった、坂越に吉備歴史探訪会のメンバーと行ってきました。
秦氏の故郷を求めて、秦川勝が今も生き続けているという坂越の生島(いくしま)生島を臨む、大避神社、そして児島高徳の墓にも行ってきました。
最初に、坂越の町並み保存館を訪ねました。聞くとここは、もとは銀行だったとか、中に入ると坂越の歴史や文化が判るように展示してありました。濱田三と言う女性の方が、いろいろと説明をしてくださって、我々が「秦氏」の故郷を訪ねてきたというと、よくそういう方が来られますと言われながら、最近梅原武先生が新能の発表をされたんです。といって、パンフレットをくれました。
坂越と言うと、秦の川勝がこの地に上陸して、最後生島に葬られてたということで、秦氏ととてもゆかりの地であり、ひとしきり秦氏の話題で、話が盛り上がりました。梅原猛氏が来て、余計注目されるようになったようです。
ここ坂越は、江戸時代は、赤穂の塩の積み出し港として栄え、この資料館の隣の奥藤酒造はかって、潮の取引を任された回船問屋として栄えた豪商だったそうで、この資料館も、奥藤家が経営する銀行だったそうです。前の道路も今はきれいに整備されて、石畳の美しいがいろになっています。
岡山県北、勝山の町並みともよく似ているなあと感じました。

2010年6月13日日曜日

金毘羅さんも秦氏?日本の精神、宗教史を形成した秦氏、吉備の国にも

金毘羅さんも秦氏?
連休中に讃岐に行ったが、気になっていたのが、金毘羅さん
今しきりに気になる「秦氏」、今日手にした飛鳥昭雄、三神たける氏の書いた本には、金毘羅さんも秦氏と書いてあった。
後は由加山は、となる。
秦氏にかかわる神社や寺院はあまりに多い。稲荷がそうであり、八幡様がそうであり、松尾大社や白山信仰もそうである。熊野社も秦氏と言われている。
吉備の近辺でも、稲荷は秦氏の鎮守なので秦氏、西大寺観音院は秦皆足(姫)から始まった。
法然上人は秦氏の出自、
お向かい讃岐の金毘羅さんが秦氏なら、その両参りで栄えた由加山は、どうなのか?
今日に至るまで栄えた神社仏閣、宗教はすべからく秦氏が興したものだという結論になるのでは。
そうするの日本の宗教史は結局のところ秦氏の歴史と言ってもいいのではとなる。
秦氏は原始キリスト教徒だったの説もある。失われたイスラエルの10部族の末裔で、そのイスラエル民族にイエスの弟子たちが、イエスがメシアだったと教えて、その再臨思想とともに仏教に融合して出来上がった弥勒信仰と、もともと持っていたユダヤ教的信仰と様々殖産技術を持って、シルクロードから、中国、半島(南部)そして、大挙して日本列島にやってきた日本歴史上最大の渡来集団でああった。そして彼らは信仰と、殖産の両分野で日本古代国家対背の成立に関与し、またその後の日本史、特に宗教、精神史に足跡を残してきた。
そのように考えるべきではないだろうか。

山田方谷先生の家系とのつながり 尾張山田氏

山田方谷先生の家系とのつながり
我が家と山田方谷先生の家系とのつながりを「山田家のページ」に載せました。
http://owariyamada.blogspot.com/2010/06/blog-post_13.html
山田方谷先生の家系を見ると、同じ尾張山田氏の流れのようです。
全国山田姓の型多いと思いますが、尾張山田氏の流れをくむ方も多いと思われます。
尾張山田氏からは承久の変で官軍方で戦った山田次郎重忠がいますが、わが家系はその流れを汲んでいます。
山田方谷先生は、次郎重忠からは三代前、山田重遠の三男、重弘の家系で、その嫡男重英が武功があって備中にやってきたとあります。そのことを山田方谷先生の家系図から発見しました。
また足助氏は重忠の父重満の兄弟の家系で、縁があるんですね。
ほかにも尾張山田氏の家系は多くあるようです。ご存知の方があればぜひ教えてください。

2010年6月11日金曜日

強い経済 強い社会 問題は結局教育!

問題は教育だと思う
菅直人首相は、[最小不幸社会」と言うことと併せて[強い経済」と言うことを所信表明で述べている。その趣旨には賛意を表するが、ここで「経済の強さ」をどう実現するかについて一言申し上げたい。
問題は教育だと思う。
菅首相の言う[最小不幸社会]と言うことも、煎じつめれば人間必要な生活物資、衣食住に必要なものをどのように、公平に、分かち合うかというのが経済の出発点である。衣食足りてこそ、その基盤の上で、人間として生きる喜びを創出する文化やスポーツ、レジャーといったものがうまれてくる。そしてさらに人間生活は充実したものになる。
この人間として基本的に必要な物資をどのように効率的に豊かに作り出していくかというのが、科学技術である。
教育の基本は「心情教育」すなわち心の豊かさを育てる教育。
次に[規範教育]これは人間社会で生きる上での、ルールや秩序を守ることのできる人間を育てること。倫理、道徳のたぐいであるが、家庭倫理や性道徳もこの範疇に入る。
3番目が「技術教育」人間生活の上では物質が必要であり、物質的豊かさはより人間生活を豊かなものにしてくれる。科学技術がそのことに貢献してくれる。
さて、現状の日本を見ると、このいずれもが欠落している。人間の心の豊かさは特に家庭でその基礎が作られるが、その家庭が崩壊している。家庭秩序の崩壊が著しく、心に傷を負って生きている特に若者が増えている。そのような中で人間として最低限の倫理道徳も守られない社会がうまれてしまった。
科学技術の教育も停滞してしまっている。

「ゆとり教育」は最近批判されて久しいが、若者たちに先端的な技術や科学を切り開いていこうという、この質も量も減ってしまって。中国などに完全に圧倒されてしまっている。
明治期の日本は先進国に追いつけ追い越せと「富国強兵政策」
戦後の日本は敗戦の廃墟の中から立ち上がるためにがむしゃらで働き、勉強もし、技術の開発にもいそしんできた。
それが無くなった。
目的が失われたからか。
これからの日本は世界平和と人類全体の豊かさの創出のために、先端的技術と科学の開発のために働く若者を増やしていかなければならない。
そういう方向性で子供たちをしっかり教育することができるようになれば、そして訓練していけば、日本は再び世界的な経済大国として再生するに違いない。
今後地球星が一つになって、ともに幸福を共有できる世界の実現に日本の若者がたくさん貢献できるようにしっかり教育していくこと、学校も、社会も、そして何より家庭力が強くなるように、
政治リーダーはその点をしっかり踏まえて
場当たり的な、景気浮揚策などは、目先のことで終わって、清涼飲料みたいなもので、過ぎたらすぐに余計暑さが身にしみるようになるものである。
しっかりした基本、セカ人として恥ずかしくない、人格も、知識も、技術も身に付けた有用な力のある若者を排出する努力を惜しむべきではない。

2010年6月9日水曜日

岡山人物銘々伝を語る会 6月は[国吉康雄]

岡山人物銘々伝を語る会のご案内です
まず、5月例会の様子を代表代行久井勲氏のコメントより


45回(521日)の例会は、近藤泰宏氏に「片山潜」についてお話をいただきました。片山潜の詳細な年譜のほか、彼の思想の依って来たる所 (内村鑑三との異同は顕著ですし、社会主義に触れたことで労働運動へ傾斜していったことは、日本の近代政治思想史上の特筆点といえるでしょう)、また、現代における意義について触れていただきました。  
詳細な資料は、かねてからの研究に負うものですが、氏自身、片山潜から何代か後の姻族上の係累につながるようで、そういうことが研究動機の背景の一部にあったようです。
 ともあれ、片山潜は、渡米、渡露、渡欧と、20世紀初頭の日本にあって、斯くまで精力的に社会主義思想の流入と実践に尽瘁した人物は少ないでしょう。岡山県人の、とことんまで追究する心意気を感じました。

    
6月の例会は下記のとおりです

  日時:平成22618()※ 午後6~8時  (※通例は第3金曜日です)
  場所:岡山県立図書館の2階
  取り上げるテーマ:「国吉康雄」
  講師:久井 勲   参加費:500
 <国吉康雄>明治21年、岡山市出石町で生まれる。17歳で県立工業学校を退学し,冒険と幸運を求めて単身渡米。バンクーバー、シアトルで苦労しながら、絵の才能を見出され、美術学校に通い、最初は印象派的流儀を学ぶも、やがて気だるさと哀歓を絶妙に描く独自の画風を確立。ニューヨークを拠点として活躍する中で次第に名声を得る。日米間で戦雲が垂れ込める時代にあって、なお画風は日本人としてのアイデンティティーを語るものへ傾斜する。戦後、米国市民権を求めたが、手続き完了直前、ニューヨークにて他界。(昭和28年、享年64)。作品の多くは、ベネッセコーポレーションにて収集されていたが、いまは県立美術館に寄贈されている。
    (大正・昭和の社会史が半分と芸術鑑賞論が半分の語りとなります)

参加は自由です。 吉備楽土にメールくだされば案内差し上げます。


岡山人物銘々伝を語る会 6月は[国吉康雄]

岡山人物銘々伝を語る会のご案内です
まず、5月例会の様子を代表代行久井勲氏のコメントより


45回(521日)の例会は、近藤泰宏氏に「片山潜」についてお話をいただきました。片山潜の詳細な年譜のほか、彼の思想の依って来たる所 (内村鑑三との異同は顕著ですし、社会主義に触れたことで労働運動へ傾斜していったことは、日本の近代政治思想史上の特筆点といえるでしょう)、また、現代における意義について触れていただきました。  
詳細な資料は、かねてからの研究に負うものですが、氏自身、片山潜から何代か後の姻族上の係累につながるようで、そういうことが研究動機の背景の一部にあったようです。
 ともあれ、片山潜は、渡米、渡露、渡欧と、20世紀初頭の日本にあって、斯くまで精力的に社会主義思想の流入と実践に尽瘁した人物は少ないでしょう。岡山県人の、とことんまで追究する心意気を感じました。

    
6月の例会は下記のとおりです

  日時:平成22618()※ 午後6~8時  (※通例は第3金曜日です)
  場所:岡山県立図書館の2階
  取り上げるテーマ:「国吉康雄」
  講師:久井 勲   参加費:500
 <国吉康雄>明治21年、岡山市出石町で生まれる。17歳で県立工業学校を退学し,冒険と幸運を求めて単身渡米。バンクーバー、シアトルで苦労しながら、絵の才能を見出され、美術学校に通い、最初は印象派的流儀を学ぶも、やがて気だるさと哀歓を絶妙に描く独自の画風を確立。ニューヨークを拠点として活躍する中で次第に名声を得る。日米間で戦雲が垂れ込める時代にあって、なお画風は日本人としてのアイデンティティーを語るものへ傾斜する。戦後、米国市民権を求めたが、手続き完了直前、ニューヨークにて他界。(昭和28年、享年64)。作品の多くは、ベネッセコーポレーションにて収集されていたが、いまは県立美術館に寄贈されている。
    (大正・昭和の社会史が半分と芸術鑑賞論が半分の語りとなります)

参加は自由です。 吉備楽土にメールくだされば案内差し上げます。


2010年6月8日火曜日

菅直人政権

菅直人政権が発足した。
色々と論議を呼んでいるようだが、吉備楽土としては、鳩山政権に続く吉備の国政権として期待してみたい。
菅直人氏については、いまひとつよく解からないことが多い。これまであまり菅氏については関心をもたないできたのが正直なところ、ただ、結構正直な人間かと思う。そして弱者への思いやりを感じたので、期待してみたい気持ちになっている。
[吉備楽土]では、吉備の国の風土と、吉備の国出身者の、人を思いやる心、簡単にいえば「敬天愛人」の精神に、万民を幸福に、平和にする力を秘めていると感じている。
それはこの地に、敬虔な宗教的風土が養われてきたからだと思う。
菅氏がそのような吉備の風土を受け継いだ人間であることを期待したい。
かねてより、この日本列島には大陸の戦乱をさけ、平和の楽土を夢見た人々が渡来してきた。それらの人々は神への礼拝を欠かさず、篤い信仰心と、おもいやりの心を養ってきた。そして豊かな国も願い、様々な技術を磨き産業も発展させてきた。時折この国も権力欲や、物欲に支配された人々が醜い争いや、貪欲な支配を繰り返した時もあったが、この国の源流を流れる精神は、この国をよき方向へと導いてきた。
そのような精神を生かす政治がおこなわれることを期待したい。
これまで、目まぐるしく政権が交代してきたのは、そのような真実の時代が訪れることを、天も地も期待しているからではなかったのか・・・
真実しか残らない、今の時代だと思う。

2010年6月3日木曜日

鳩山首相の退陣

鳩山首相が退陣表明した。
ちょっと残念な気がする。確かに政局の混迷、特に普天間問題を中心に、リーダーシップを発揮できなかったから、やむを得ないと思うが。
鳩山家が勝山藩の出身ということで、鳩山家のルーツを訪ね、首相の曾祖父鳩山和夫や、曾祖母鳩山春子、祖父の鳩山一郎の伝記など、学んでみると、鳩山家にはある使命があると見込んでいたので、少々と言うか、はなはだと言うか、残念な思いが強い。
「友愛」という言葉はあまり受けが良かったとは言えないが、祖父の鳩山一郎が目指した、友愛政治は一定の理想であると言える。
ただ、問題はその友愛を実行する実力と言うか、実際の施策であろう。
かねてから、吉備楽土では、郷土の先人、熊沢蕃山や山田方谷の改革や思想を高く評価していたが、今の日本や、政治情勢、体制の中でこれを実現するには、単なる理想論ではなく、具体的政策と実行力が要求されるのだなと言うことを痛切に実感する。
本当は、大衆にこびることなく、本当の意味での、改革の実行を願っていたが、これはもう少し先になるのかもしれない。
実行可能な、政策と、基本理念を再度確立する試みを続けて行きたいと思う。