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2010年9月18日土曜日

河本立軒と江戸期の町人文化

昨日は県立図書館で、「岡山人物銘々伝を語る会」の例会で、岡山県立記録資料館の副館長定兼学しによる、江戸時代、備前岡山の豪商であり、歴代の蔵書家で有名な「河本立軒」と、彼をめぐる町人文化についての話であった。
河本家は船着町で「灰屋」という肥料商を営んでいたが、立軒家督相続のころには、藩に献米や献金を多くし、30人扶持、惣年寄格、屋号書き下しなどの権利を与えられ、博多や函館にも支店を持ち、豪商としてならしていた。
浦上玉堂、斉藤一興、木村蒹葭堂、中山竹山などとの交遊が深く、浦上玉堂からは「玉堂琴」を送られている。
経誼堂書院という図書館を作り、集めた蔵書が文化8年の段階で4573部31672冊と言う、膨大な書物を集めていた。書物のほかにも多数の文物を収集していて、京で遊興の折、瀕して、岡山から船一艘、財物を積み込んで売ったが、土佐の山内家が買い取った。その中には殿様も驚くような宝があったとういう。河本家のこの数多くの財物は、大半が大戦末期の岡山空襲で焼失し、また、山内家が買い取った財物も失われてしまっていて、とても残念だと、定兼氏は語っていた。

岡山はきわめて多くの文化人を輩出しているが、岡山城下の町人文化の隆盛が大きく寄与していることを見ることができる。
江戸期は学問と言えば「朱子学」であったが、河本立軒は陽明学を立ったとも講師の話で、当時は徳川幕府に習い岡山藩でも異学禁止令が出されていた時代でもあり、その当たり興味深く聞かせていただいた。
いずれにせよ、岡山の膨大な文化的資料は、岡山空襲でその大半が焼失し、資料集めもきわめて困難であると聞く。そのような中でも岡山記録資料館では、歴史を解明する資料の収集と整理を行っているとのことで、そのような資料に基づきながら話して下さった話には興味が尽きない、時間であった。
岡山藩の歴代藩主も文化人が多かったが、郷土文化の興隆、歴史を通してどう生かすのか?全国、世界に発信する文化を創造していく岡山にしたい。それが結論のようでした。

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