このブログを検索

2010年8月30日月曜日

承久の変その後 頼仁親王の流された児島

承久の変の後、幕府方は戦後処理として、後鳥羽院を隠岐に配流するとともに、ほかの皇子たちも各地に配流された。その中で後鳥羽院の第4皇子、冷泉宮頼仁親王は吉備の児島に流された。ここは変(承久の変)の1年前に、都の騒乱を避けて、桜井宮覚仁法親王が、五流院の検校とやってきていた。
児島と言うのは、吉備の児島で、記紀の国生み神話にも登場する。子島である。
いまは児島半島と言われ陸続きになっているが、この時代までは、完全な島だった。源平合戦で有名な藤戸の闘いは、この児島に陣取った平家と源氏の闘いであった。
文武天皇元年、修験道の開祖役小角が伊豆に配流された時、5人の高弟が、難を避けるため、神輿を船に乗せ瀬戸内海に脱出、3年後の大宝元年に、児島に上陸、福岡村にご神体を安置し、十二所権現を祀って始まったのがはじまりである。
その後天平12年、聖武天皇の時に、児島全島が熊野社に寄進され、児島は社領となり、新熊野山と称された。五人の高弟がそれぞれに、5つの修法を相続し伝授し五院が設けられたので、五流院と称した。
さて、承久の変を前後して桜井宮が検校として、その後頼仁親王が児島に配流、26年をすごしたのち、薨られた。桜井宮には子がなかったので、頼仁親王の子たちが桜井宮の法統を継ぎ、今日まで五流の法統を守ってきた。
さて、後鳥羽院は延応元年隠岐で崩御、その翌年、一周忌に際し、御影塔が建立された。
写真は、児島の熊野社にある後鳥羽上皇の供養塔である。高さが5メートルほどもある立派なもので、国の重文に指定されている、後鳥羽院の供養塔である。
応仁の兵火で廟堂などが焼かれ塔のみが残った。その後の調査で骨が出てきた。塔に向かって右側には分骨を携えてきたであろう従者のものと思われる塚がある。

さて、児島五流尊流院の四世頼宴大僧正を父とし、邑久にあった、和田備後守藤原三宅範長の女を母とし3男として生まれたのが、太平記に記された、後醍醐天皇に忠誠を尽くした忠臣として誉れ高い[児島高徳]である。
児島の五流尊流院には[児島高徳誕生の碑]がある。
尊流院から1kmほどのところには頼仁親王の稜があり、宮内庁の所管になっている。

山田家の先祖、山田次郎重忠は承久の変で官軍方で戦い、最後は自害して果てたが、承久の乱で難を受けた皇子たちが、児島の地に眠り、児島の地から、忠孝の士が出ていることに不思議な縁を感じる。

ところで、当ページの筆者は母方が、佐々木氏である。佐々木氏の一党佐々木盛綱は源平の合戦、藤戸の闘いで功あり、児島の迫川庄をいただき、二男の佐々木信実がそれを継いだその女が頼仁親王の子道乗僧正の室となり6人の子を産んで五流を継いだとある。
わが佐々木氏は阿波の三好、晝間の城主であったとのことで、それ以前の家系の歴史は定かではないが同じ佐々木の一党として縁を感じる。

0 件のコメント: