岡山人物銘々伝を語る会 8月例会は 湯浅一郎氏による「加賀尾秀忍教誨師」の話であった。
湯浅さんの準備してくれた資料を参考に話の内容を紹介してみようと思う。
加賀尾秀忍師は、明治34年真庭郡落合町の寺に生まれ、京都にでて真言宗京都大学(現 種智院大学)で仏教を学ぶ。
昭和24年高野山京都別院副主管に就任中、連合軍総司令官の命により、半年間の任務でフィリピンに教誨師として派遣される。モンテンルパのニュービリビット刑務所に収容されていた日本戦犯救出に尽力した。
半年の任務が過ぎても[誰一人として頼るもののない哀れな環境にある人々を見捨てて、どうして日本に帰れよう。私はこのままモンテンルパに留まって、日本人受刑者と生死をともにする」との決意からフィリピンに留まり、戦犯兵とともに寝食をともにするなどしながら戦犯の救出活動を続けた。
滞在中14人の処刑者を出すことになったが、14人の処刑後に、渡辺はま子がその人たちのために千校とお香を送ってきたことが縁で、死刑囚の人たちの作による[ああモンテンルパの夜は更けて]の歌を作り、この歌が世間に広まりさらに戦犯の早期釈放を実現する大きな要因となった。
14人の処刑後は一人の処刑者も出さず、56人の死刑囚、52人の無期・有期刑囚を減刑、無罪に導き、昭和28年、108人全員の帰国を実現した。(死刑囚は無期に減刑、帰国が巣鴨に収容 その後全員減刑)
帰国後、米国関係の戦犯者の釈放運動に携わり、戦犯者全員の釈放を実現する。
今回講師を務めた湯浅一郎氏は、とあることからこの加賀尾秀忍師のことを知り、現地訪問団に加わり、モンテンルパに行ってきた。その経験と、加賀尾師の著書[モンテンルパに祈る]を参考に語ってくれた。
モンテンルパで囚人とともにした加賀尾師のことや、14人の処刑の時のショッキングな様子、その後、渡辺はま子さんとの縁、[ああモンテンルパの夜は更けて]作曲の経緯、その曲が当時のフィリピン大統領キリノ大統領の心を動かし、死刑囚の減刑、釈放が実現した経緯などを話された。
山陽新聞に紹介されたことで多くの人が知ることとなったが、加賀尾師の自らを省みない、救出への取り組みは多くの人を感動させ、フィリピン大統領や、米国も動かして行ったことは本当に驚くべきことである。改めて尊敬の念を深く持つことが出来た。
より多くの人に加賀尾秀忍師の事を伝えて行かなければと思わされた。
2010年8月22日日曜日
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