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2014年1月29日水曜日

関東大震災を描いた和気町出身の画家徳永柳洲~久井勲さんが講師

岡山人物銘々伝を語る会の例会が1月17日(金)午後6時から岡山県立図書館サークル活動室でありました。今月は会代表代行の久井勲さんが和気町出身の画家徳永柳洲の話をしました。
 昨年県立美術館で展示会がありましたのでご覧になった方もあると思いますが、徳永柳洲の代表的な作品は関東大震災の惨状を描いた絵です。これらの絵は全国を回って復興基金を募るなど当時大きな役割を果たしました。
 東京美術学校当時から抜きん出た才能をもっていて、期待されていましたが、当時の美術界の風潮に嫌気が差したのか、パリに遊学して研鑽を積んでいます。その中で歴史画に関心を持ち帰国後も歴史的瞬間を描くことを続けています。関東大震災の時上記にあるように震災の生々しい姿を絵で表し、この絵を持って全国を回ります。「震災画家」という名称を新聞で用いていますが、講師の久井さんはあまり賛同できないとのことでした。
地元の岡山県内、和気町内でも知らない人が多いのでぜひ多くの方にこういう素晴らしい絵を書いた画家のいた事を知ってもらいたいものです。
 講師の久井勲さんは「和気清麿呂」など歴史小説作家としても知られています。また論語に詳しく、ラジオでの論語の時間の担当や「論語かるた」使っての子供たちへの教育など積極的に取り組んでおられます。
 和気町は人口的にも全国の中小都市の代表のように、老齢化や人口の減少など様々課題や悩みを抱えています。そんな和気町を発展と希望ある町に躍進させるべく4月に行われる町長選に立候補する決意を固めておられます。
 和気清麻呂と論語をテーマにサテライト都市を目指し地方都市のあるべきモデルを実現していってほしいものです。

熊沢蕃山~2月岡山人物銘々伝を語る会テーマ

2月の岡山人物銘々伝を語る会は「熊沢蕃山」をテーマに山田が話します。
日本陽明学のそと言われる中江藤樹、その弟子が熊沢蕃山

内村鑑三の「代表的日本人」に中江藤樹に弟子入りした熊沢蕃山の逸話が載っています。
近江の小川村という一農村の先生だった中江藤樹、その下にあるきっかけで弟子入りをするべく訪ねた熊沢蕃山、この出会いがなければ中江藤樹が陽明学の祖として世に知られることもなく、陽明学が日本の開明思想として、幕末から明治にかけての開明思想の隆盛もなく、日本の近代化も無かったかも知れない。

そして備前岡山藩主池田光政との出会い。中江藤樹のもとで8ヶ月という短い期間であったが、その訓戒を受けた熊沢を藩主光政がその資質を汲んで登用することが無かったら、これまた陽明学の日本における展開も無かったであろう。

残念ながら、藩主池田光政と熊沢蕃山はある時を境に意見の不一致に及び、蕃山の蕃山村への蟄居、その後池田藩から離れるに及び最後古河で蕃山は最期を迎える。

儒教的秩序を藩政に取り入れようとしさらに津田永忠らを登用して新田開発などの施策を行おうとする藩主光政に蕃山は痛烈に批判を浴びせている。蕃山は新田開発や津田永忠の登用に強く反対しているが、それはなぜなのか?
津田永忠による新田開発や多くの施策はこれまで高く評価されてきているようだが、果たしてどうだったのか?熊沢番山の主張は間違っていたのか?

あの当時池田光政公が熊沢蕃山の意見を受け入れて、彼の主張通りに藩政を行っていたらどうなていただろうか?
様々可能性を考える。

皆様の見解や意見もぜひ伺いたいと思います。

岡山人物銘々伝を語る会は毎月第3金曜日の午後6時から8時まで、通常は岡山県立図書館で開催しています。(図書館休館日はゆうあいセンターにて)
どなたでも参加できますのでぜひおいでください。資料の準備の関係上できれば事前にお申し込みください。(090-1033-3327 山田 メールはこちら)

なお、会代表代行の久井勲さんがこのたび和気町長選挙に立候補することになりました。
選挙が終わるまでは毎月楽しみにしていた毎回の例会のまとめもお休みです。残念ですが「論語と清麻呂の町づくりを目指す久井さん応援して行きたいと思っています。



2014年1月8日水曜日

謹賀新年

あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願いいたします


吉備楽土       
代表 山田良三 


昨年は当ブログの拙文ながらお読みいただいた皆さんに心より感謝を申し上げます
今年は少しは上質な記事を書けるよう取り組む覚悟で新年を迎えました。
吉備発日本と世界を変えていく原動力の一つになりたいと願い決意ししております。


さて、11月最初の岡山人物銘々伝を語る会の案内ができました。
今月は案内が遅れましたが、御許し下さい。

1月は岡山人物銘々伝を語る会代表代行 作家の久井勲さんの担当です。
以下1月例会の案内です



「岡山人物銘々伝を語る会」第90回例会のご案内

                             代表世話人代行 久井 勲

     90回(平成251220日)の例会は。福田明正さんによる「雪舟」でした。さすが、
   ご出身地の、日本絵画史上の巨星を賛仰されるお気持ちが伝わってきました。枯淡にして哲学的、
   勇壮にしてまた繊細な画風は、日本人の芸術観、自然観に大きな影響をあたえ、むしろ作り上げて
   きたと言えるのではないでしょうか。現存する作品6点が現在国宝に指定されているのは驚きでした。
   中でも「山水長巻図」は、いつの時代も教科書に掲載されており、日本人にはおなじみです。あの
   茫漠とした自然の中で、縦の直線がキリッとした秩序や自然の規則性を感じずにはいられません。
   日本人は、自然を優雅なものとして認識する感覚が昔からあったと思いますが、室町時代以降は、
そのような感覚も混じりあってきたように、私は感じています。
さて1月例会は、次のとおり開催いたします。多数のみなさんのご参集をお待ちしています。              
                   記
     日時:  平成26117()※ 午後68時  (※通例は第3金曜日です)
     場所:  岡山県立図書館 2階 サークル活動室 
     内容: 「徳永柳洲とその時代」
講師: 久井 勲 氏
     参加費:500円 
    【徳永柳洲】
       徳永柳洲は、明治4(1871)、和気町藤野生まれの洋風画家。若くしてパリに学びますが、
     この折、与謝野鉄幹・晶子夫婦と同じ航路でした。それが後々まで、親交を結ぶきっかけと
     なっており、鉄幹の新聞記事に彼自身が挿絵を描いているほどでした。帰国後は自分の画風に
悩みますが、関東大震災の惨状を記録する動機で大作を二十数残しており、徳永はその後数年間
それら作品を全国巡回し復興救済資金に充てましたその後は画壇第一線から離れ、昭和11
(1936)、富山県にて傷害を閉じました。
 昨秋、岡山県立美術館にて「震災画家、徳永柳集展」が開かれました。


2013年12月12日木曜日

吉備発日本の歴史を変える

矢吹邦彦先生の「吉備発日本の古代史は変わる」の本を読みました。
矢吹先生の本は「炎の陽明学」や「ケインズに先駆けた日本人」が有名ですが、この「吉備発日本の古代史は変わる」も力作です!

矢吹先生のこの本を読んで、かなり私もこれまでの疑問点が解消されたり、あるいはこれまで考えてきたことが立証されたり、とても有益な本でした。

そこで「吉備発日本の歴史を変える!」と銘打ってみました。
そもそもこの「吉備楽土」のブログ執筆の動機が、吉備から日本や世界に向けて新しい時代を提言することは出来ないか?と言うところから出発していますので~~矢吹先生のこの本の内容が、まさに吉備の古代史が日本列島の歴史に大きく関わってきたということを裏付ける内容だということがあります。

間近で見る鬼の城や造山古墳の威容は、この吉備の国を支配した大王がいかに強大な力を持っていたかを象徴するものです。

矢吹先生のこの本の主題は、まずもって4~6世紀の時代、吉備の国がもっとも強大な力を誇り、日本列島の国家連合を統括した時代があるということです。そしてそれは白村江の戦いの後の日本国の推移につながって行きます。

先日、吉備歴史探訪会で鬼の城と宝福寺近辺を探訪してきました。
鬼の城に登ると広大な吉備の平野にはるか、造山古墳も見えます。この鬼の城山をめぐる城郭もその規模はものすごいものです。
宝福寺は紅葉の綺麗な時でしたが、雪舟縁の寺ですが、ここは臨済宗の禅寺です。臨済宗は栄西禅師がもたらした禅の教えですのでやはり吉備に縁があります。
探訪の最後は妹尾兼康を祀る井神社でした。目の前は湛井の堰でその向こうが秦です。秦には先般発見された一丁ぐろ古墳や秦廃寺、姫社神社もあります。

改めて吉備の歴史の偉大さをまざまざと実感するひと時でした。

矢吹先生の「吉備発日本の古代史は変わる」の本の最後は、吉備人吉備真備と最後は和気清麻呂の話で締めくくられています。
日本の最初の正史である「日本書紀」執筆の経過も説明しておられます。

人と人とのつながりが織り成す歴史、人と人とのつながりを通して、人は生き方や、国や社会のありあり方を学び継承して行く。

今日、日本のあり様は日本の歴史を織り成す要所要所に登場した人々の思想や理念、意思や力によって形成されて来ている。その人々の群れの中に吉備の人々がとても重要な役割を果たして来たことをあらためて実感する。

今日の日本は、敗戦の中から復興してきた先人の力で持ちこたえてきたが、様々な問題も内包している。いま大きく変わらなければならない時であり、変わろうともしている。こういう時こそ歴史を見つめ、先人の歩みに関心を持ち、我々がどのような道を選択していくべきか正しい判断をして行動していくべきときであろう。

日本の歴史が大きく変わるときに重要な役割を果たして来た吉備の人々であり、我々はその子孫である。吉備から日本と世界の未来を変えていくことは我々の使命ではないだろうか!

そんな思いでこれからもこのブログを執筆していくつもりです。

2013年11月13日水曜日

今日本の舵取りに理念が求められている

 ケネディー駐日大使赴任のニュースが伝えられている。暗殺されて亡くなったケネディー元米大統領の長女である。外交手腕を疑問視する向きもあるが、日本への高感度もあり、日米関係の信頼と友好を深めるには好人物である。対日重視のオバマの戦略の現われと見ることが出来る。日米関係は沖縄の基地問題など問題が無いわけではないが基本的に共同歩調を取る方向性に狂いは無い。

 現在とところ安部政権の対外外交戦略はきちんと的を得て進行している。毎月のように外遊を続けながら、東南アジア、西アジア、アフリカ、東ヨーロッパ、北欧、西ヨーロッパ、ロシア、中南米とオセアニアへと外交関係は極めて良い関係が醸成されていっている。首相自らでかけてのトップセールスも成功して言っている。
 問題は東アジアであるが、対中外交については内外で高い評価を生んでいる。反日に燃える韓中だが、中国は反日トーンが明らかに落ちてきている。さらに北朝鮮だが最近ピタッと対日非難の声が聞かれなくなった。
 今韓国だけが反日に狂っている。
台湾はずっと友好的だがここも嫌韓の動きが強まっている。フィリピンもかねてから親日的だが、今回安倍総理は台風被害に対して迅速に救援支援策を打ち出した。フィリピンの対日好感度はずっと増加している。

国内では小泉元総理が脱原発を主張!波風を起こそうとしているが、どの程度のものになるのか?きっちり国民世論の動向も押さえながら、きちんと国家戦略を明確にして方向性を出して行っている安倍総理なので、今は大きな不安は無い。

今後の安部政権の課題はアベノミクスと言う経済政策がどのように現実に国民生活の向上に繋がるのか?特に国民社会に出来上がった低所得者層、社会的弱者にどのように光を当て、国家経済の成長戦略と整合させながら格差の是正や、失われた社会の和、均質化にどうのように取り組むかが課題である。
  国民教育、家庭観の確立是正、倫理道徳観の確立など課題も多い。
7年間が鍵である。国家財政破綻の問題もこの7年間ではっきり道筋を立てないといけない。

今の日本の課題はそれらの難問を解決していく、知恵を持った人材をどのように確保していくかにかかっている。宗教家、思想家、知識人、正しい言論人が求められている。歴史へのきっちりした見直しも必要になってきている。グローバル化した世界の中で、日本文化の特性をきっちり説明できる理念の構築が急務となっている。

山田方谷先生の理財論が注目されている。現代的にこれをどう応用実現していくか、縁のある我々の中から、理念的提言が出てきてほしいものである。

2013年11月12日火曜日

河井継之助との絡みが面白い

 山田方谷先生を大河ドラマに!との運動が盛んに行われていて、私も幾ばくがであるが署名運動など協力している。
 ただ、一般の声としては、[あまりにも知名度が低い」「ドラマにするには面白みがかける」との批判の声も・・・
 今日は[炎の陽明学」昨日の長瀬の普請の話の続きで、河井継之助の入門の経緯を読んでいる。

 司馬遼太郎が「峠」という、河井継之助をテーマにした小説を書いているので、一般世間では山田方谷先生より河井継之助のほうが良く知られている。
 確かに河井継之助は人物として面白味がある。山田方谷先生のどちらかと言えば真面目一方の性格とはかなり違って、豪胆で失敗を恐れぬ猪突猛進型のところもあり、最後は激しい戦いの末死んでいるのでヒーロー性がある。
 河井継之助を表に一方山田方谷先生の生涯をしっかり描くような組み立てにすると結構行けるのでは~~などと勝手に思ってしまった。
 長岡市や新潟県と提携して行けば結構行けるのでは・・・・・

ここで弟子は取らないつもりだった方谷先生がなぜ河井継之助は弟子入りを認めたのか?
 矢吹先生の著では継之助が「机上の講義を拝聴しようなどとは思いません。先生のおそばに置いていただけるだけで結構です。先生の日常に接し、生き様を学ぶ。藩政改革の実際を活学として学びたいのです。」と、言って入門を志願した。と書かれている。

ここで、熊沢蕃山が中江藤樹の樹下を訪ね弟子入りを志願した時のことを思い出す。

最高の教育とはその生き様を身をもって教えることである。

机上の学問、しかもそれは立身出世のため、これが中国や韓国で実施されてきた科挙を目指すための学問であった。その意に沿うような学問が朱子学であった。

藤樹先生や熊沢蕃山そして山田方谷先生に受け継がれた、教育や学問のありかた、これが儒学の中では陽明学の趣旨だったのかもしれない。

それにしても、当時山田方谷先生の名声が如何なるものだったのか?河井継之助は方谷先生のことを絶賛している。入門前は方谷先生のことを[山田]と呼び捨てにしていたそうであるのに、弟子入りしてみてさらに心酔している。

山田方谷先生は江戸の佐藤一齋師のもとで塾頭をしていたが、同じ門下で奇才と謳われたのが佐久間象山である。佐久間象山は一時期河井の師でもあった。
 佐久間象山の人物評を方谷先生に問うた時、方谷先生は「佐久間に、温良恭謙譲のいずれある?」と返事したという。この言葉に継之助は共感したと言う。

この当時、藩政がうまく行っていたのは備中松山藩と、奥州中村藩だけだと当時言われていたそうである。
 山田方谷の名声は諸藩に鳴り響いていた。日本の各地からその名を聞き及んだ学徒が弟子入りを求めて備中松山にやってきたがその大半を方谷は断っていた。藩政改革の実学を学ばせようと各藩が競って藩費で学生を送り込んだ、それらも断っていた方谷のところに河井は入門を認められて弟子入りしたのである。

確かにあれほど大河ドラマや小説やあらゆる形で取り上げられる幕末維新の時代で、山田方谷先生ほどの実力を持ちながらいまだに無名な人物も珍しい。岡山県人さえその実像を知らない人が多い。
 最近NHKも表舞台の人物よりも裏で活躍した人物を取り上げることが多くなったので、案外行けるかな!とも思えてくる。
 
いずれにせよ山田方谷先生のこともっと多くの人たちに知ってほしい。
我が山田家も同じルーツですので、一族として応援して行きたい。

2013年11月11日月曜日

山田方谷先生も経済的に困窮していた

自分のFB(フェイスブック)に掲載した記事ですがこちらにも載せます
かの山田方谷先生の山田家も経済的に困窮していた時期があったという話です。

今日は久方ぶりに矢吹邦彦先生の書かれた山田方谷伝「炎の陽明学」を開いてみて、意外な発見をした。山田家の家計が窮地に瀕していたと言う話である。それも松山藩の藩政改革が実施され、藩財政は豊かになり領民は産業の振興と減税の実施で豊かになり、方谷先生を神様のように仰いでいたのにである。
 当時、方谷先生は藩政改革に成功した松山藩の最高責任者であった。にもかかわらず毎日の生活にも事欠くような貧苦の経済状態で家族8人が生きていくために端の髪飾りを処分したり、慣れない農作業に従事したりして苦境をしのぐ状態だった。
 それは方谷先生が藩の重要な役職にありながら俸禄は藩校の学頭時代とほとんど変わらないのに出費が増えたことである。その中でも最大の出費がかさむようになったのは、全国の他藩からその名声を慕ってくる門人たちを受け入れられるようにと長瀬に新居を普請したことが大きかった。これで家計が完全に回らなくなった。
 著者の矢吹先生は「理財の天才方谷が犯したあまりにうかつな大幅な計算誤りだった」と書いている。
 さすがの方谷先生も追い詰められたのか、この当時の心境をつづった漢詩が残されているそうである。
 我が山田家も、経済的困窮は計り知れず、方谷先生の山田家とは次元が違うが、よく似た心境を味わっている。
 方谷先生も誇り高きお方、どんなに困窮しても藩主や周りの人々に苦境を話すことも出来ない。じっと自らの心の中で耐えるしかない期間だったようである。
 まあ、私には方谷先生も仲間のような親近感を覚えるが、失礼かもしれない。方谷先生も釈迦の生活にあこがれたようだが、たしかにそうかもしれないと思う。