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2022年9月23日金曜日

宗教家・偉人を育てた岡山の教育(1)

 

  歴史人物シリーズ                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 宗教家・偉人を育てた岡山の教育

(令和二年11月5日  岡山歴史研究会歴研サロン  講座資料)


山田良三


 日本は識字率の高さや、犯罪の少なさ、礼節の優れていることなど、国民のレベルの高さが今でも高く評価されています。それは、日本の教育制度にありました。日本で、一般庶民に至るまでの教育制度が出来上がったのは、近世からのことでした。

 幕末から明治にかけて西欧諸国から日本にやって来た人々が一様に驚いたのは、日本では上流階級とおぼしき人々のみならず、市井の町民や農民に至るまで、大人も子供も、男子も女子も、等しく読み書きができること、さらに優れた礼節を身に着けていることでした。これは、その当時の世界の諸国の教育の実情からは驚異的なことでした。欧米諸国から見ても日本の当時の教育レベルは驚くほどの内容だったのです。



閑谷学校


外国人から見た近世日本の姿   (「日本遺産」ストーリーの詳細 HPより)

近世日本を訪れた外国人は、紀行文に日本人の様子を書き記しています。

イギリス領時代のカナダ出身の冒険家、ラナルド・マクドナルドは「日本回想記」の中で、「日本人のすべての人-最上層から最下層まであらゆる階級の男、女、子供-は、紙と筆と墨を携帯しているか、肌身離さずもっている。すべての人が読み書きの教育をうけている。また、下級階級の人びとさえも書く習慣があり、手紙による意思伝達は、わが国におけるよりも広く行われている。」と述べています。

また、イタリア人宣教師、アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノは、「日本巡察記」で「人々はいずれも色白く、きわめて礼儀正しい。一般庶民や労働者でもその社会では驚歎すべき礼節をもって上品に育てられ、あたかも宮廷の使用人のように見受けられる。この点においては、東洋の他の諸民族のみならず、我等ヨーロッパ人よりも優れている。」と記録しています。

これらの記述からは、当時の日本人が、他の諸外国と比較して、身分や性別を越えて高い読み書き能力を持ち、礼儀正しさを身につけていた様子が分かります。

こうした教育の伝統が継承され、明治維新後の日本の近代化が進められたことをロナルド・ドーアなどの欧米の研究者は、「近世日本の教育こそが日本近代化の知的準備をした。」として高く評価しています。

このようなエピソードからも分かるように、近世の日本では高い教育を受けた層が社会全体に広がっていました。外国人にとっては、一見しただけで相手の身分を判断することは困難なほどでした。


 近世日本の国民教育に貢献したのが学校です。日本最古の学校とされる足利学校は、現存し記録に残る最も古い学校として残されています。また、この時代から一般庶民向けの寺子屋も始まっています。信州や山形に日本最古の寺子屋があったことが知られていますが、同じころ日本で最も長く続いた寺子屋がありました。妹尾の街は「妹尾千軒皆法華」と法華の町として有名ですが、この街には矢吹学舎という、岡山県内最古の寺子屋があったことでも知られています。矢吹学舎は元亀元年(1570)に開設され、明治5年(1872)に、新学制の施行に伴い小学校になるまでの303年間、地域の子供たちの教育の場として続いてきました。最も長く続いた寺子屋です。運営していたのは矢吹家の一族で、明治になって学舎は妹尾小学校として引き継がれます。妹尾小学校の学章は、そのことから矢吹家の家紋をかたどったものとなっています。


 本格的に藩士の教育や、庶民の教育が進むようになるのは、江戸時代になってからです。その先駆けとなったのが、備前岡山藩主池田光政の推奨によって始まった岡山藩藩学校と、庶民教育の場としての閑谷学校です。岡山藩藩学校は寛文9年(1669)に、岡山藩主池田光政によって創立されました。この前身となったのが、寛永18年(1641)に設けられた「花畠教場」(花園会)です。(以前はこの「花畠教場」(花園会)が藩校の始まりとされてきましたが、最近の研究では、花畠教場は、儒学を学ぶ学生などの学習結社のようなものだったとされています。)この花畠教場で、後に備前藩の教育事業を本格的に推進するもととなった熊沢蕃山などが活躍していました。熊沢蕃山は、後に近江聖人と言われ、日本陽明学の祖とも言われる中江藤樹から学んできた心学(王学、王陽明)を教えていました。熊沢蕃山が著した「花園会約」には、蕃山の教える学問が、単なる武士の修養としての学問ではなく、いかに治世を行うかの実践論が述べられていますが、その中に王陽明の教えを垣間見ることが出来ます。


 寛文6年(1966)に、池田光政は当時の幕府の宗教政策に呼応して、寺社の淘汰を進めます。キリシタン摘発のために幕府が定めた寺請け制度を、備前は、キリシタンとともに邪宗門とされた不受不施派などの法華宗が多かったため、寺請けに代わって神職請けにして対応します。それとともに寺院と僧侶が村人たちの教育の担い手だったものを、神職や村役人ができるようにするため、担当する家臣や村役人を養成するために、津田永忠と熊沢蕃山の弟の泉仲愛に命じて石山に仮学校を設置しました。寛文9年(1669)になると、中山下・三之外曲輪の元不受不施派の寺院円乗院跡に新学校を建設、開校しました。これが全国最初の藩校と言えるものでした。この学校には「至聖文宣王」の中江藤樹の真筆の書軸が掲げられ、熊沢蕃山が開所の式の主催を任されました。式後は朱子学者の三宅可三が孝経を講義しました。この藩校では幕府の正学である朱子学が学ばれましたが、基本となる精神は、中江藤樹の私塾で行われていた心学の教育であったことがわかります。


 寛文7年(1667)に、岡山藩では家臣子弟の教育とともに村役人の教育のために各郡に「講釈師」が置かれ、郡ごとに手習所が置かれました。寛文11年(1671) には、藩内の手習所の数は123か所でした。手習所を提案したのは、津田重二郎(永忠)でしたが、池田光政は、津田に手習所の一つであった、「木谷村手習所」を「閑谷学問所」として、整備するように命じます。津田は閑谷に住まいして、学校建設に当たり、延宝元年(1673)に講堂が完成、翌年には聖堂が完成しました。このころ藩内は洪水や飢饉で、財政困難も重なったこともあり、領内全ての手習所は閉じられ、閑谷学問所を藩内全ての庶民教育の学校として統合したのです。これが、日本で最初の本格的庶民教育の学校となった閑谷学校です。

 藩内外から学生が集いましたが、おもに閑谷学校で学んだのは村役人や庄屋の子弟などでした。また志のある家庭では積極的に子供たちを学校に送ったのです。彼らは閑谷で学んだ治世の在り方で村を治めるとともに村人に、読み書きや徳目を教える役目を果たしました。


<閑谷学校>庶民の子弟教育を目的とし建てられた岡山藩の郷校で、国指定の特別史跡となっている。講堂は国宝、その他の建物も重要文化財となっている。入学者は庶民の子弟が主で、家中の武士の子弟や、他の領の子弟も含まれていた。卒業生の中には様々な形で活躍した人物も多い。教えられていたのは主に朱子学の内容で、多数の漢籍が閑谷文庫として保存されていた。建設は池田光政の信任の篤かった津田永忠が担った。明治の廃藩置県でいったん閉鎖されるが、備中の山田方谷を学長に招いて閑谷黌として受け継がれさらに閑谷中学(私立後に県立)となって行った。現在は岡山県青少年研修センターが置かれている。

閑谷学校は幾たびも存亡の危機に瀕している。特に二代藩主綱政の代には、藩主綱政の儒教嫌いもあり、何度も廃校の危機が訪れた。藩財政の悪化を理由に綱政は廃校を命ずるが、最初は光政公の反対によって、廃校を免れ、二度目は津田永忠の死後、廃校、棄却の危機があったが何とか危機を免れることが出来た。


全国各地に藩校が

 宝暦期(17511764)以降になると、全国の諸藩が岡山藩に倣って藩校を設立するようになります。同時に庶民教育も各藩が競って取り組むようになって行きました。一番多かった時で、全国で255か所の藩校がありました。良く知られているのが会津の日新館や米沢の興譲館、長州の明倫館、などですが、諸藩は競って有力な人材を輩出に力を入れていたことがわかります。こうやって日本の近世は世界に類例のない高レベルの政治システムと、庶民の教育のレベルの向上が図られたのです。そしてその教育モデルの原型が、熊沢蕃山が中江藤樹の私塾から学んだ教えとそれを教える学校だったのです。因みに大河ドラマで有名になった会津の日新館は藤樹の弟子の一人淵岡山(ふちこうざん)の指導で始まっています。藤樹学は当初、朱子学を正学とする幕府から疑問視されますが、その内容を幕府に詳細に伝えることで理解され認められることとなっています。

 藩校の中には国学や漢学にとどまらず、医学、化学、物理学、西洋兵学など、先端技術や学問を教えるところも増えてきました。明治4年の廃藩置県で藩校は一旦すべて廃止されますが、それぞれ新学制のもとで、中・高等学校の母体となって行きました。


 このように当時世界でも、最高レベルの識字率を誇り、学力だけでなく、倫理道徳面でも極めて優れた教育国日本が出来上がったのです。近世の日本は世界で最も進んだ文化国家となって行きました。一般庶民も文字を書いたり読んだりし、産業も振興、生活や文化も豊かになりました。当時の日本の様子を伝える海外の文書にはその記録が数多く残っています。また統治者()は、道義をわきまえ、領民のための統治を行い、治安も優れていました。この教育体制があったので明治の新時代に、日本は西欧の新技術やシステムを極めて短期に導入し、急速に国力を持つようになって行ったのです。


<近世日本の教育遺産群> 足利学校(足利市)、閑谷学校(備前市)、咸宜園(日田市)、弘道館(水戸市)は、近世の日本の教育が世界でも類例のない教育水準の向上と日本人のマナーの向上などを実現したとして、「近世日本教育遺産群」として、世界遺産登録を目指して活動中です。 


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