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2022年9月16日金曜日

栄西 二度目の入宋と帰国

栄西 二度目の入宋と帰国  万年寺に   文治三年、栄西は二度目の入宋を果たします。この度の入宋では、釈迦の生誕地の天竺にまで行くのがそもそもの希望でした。ところが当時の宋と西方の諸国との状況は厳しく、天竺への道は閉ざされてしまっていました。4月25日、臨安に到着した栄西は越境して天竺に向かう許可を申請しましたが、申請は結局受理されませんでした。  「天竺には行けない!」こととなり失意の栄西は船主に促され、帰国の船路に立ちました。ところが日本に向かって出港して三日目、暴風に遭遇、流されて到着したのが、浙江省東南の漁港瑞安でした。ここで、栄西は、嵐で船が引き戻されたことには深い意味があると思い、宋に留まり、かつて訪れた天台山の万年寺に向かうこととしたのです。瑞安から天台山までは200キロの距離。ひたすら歩いて万年寺に到着しました。かつて最初の入宋の時に知り合った僧と旧交を温め、今の住職虚庵懐敞(きあんえしょう)に会見しました。虚庵懐敞ははるばる日本から訪ねてきた栄西を歓迎、意気投合する中で栄西は虚庵懐敞から黄龍派の禅を学び、逆に虚庵懐敞に密教の教えを教えたのです。栄西は万年寺に留まることになりました。  しばらく万年寺に滞留中に南宋では伝染病が猛威を振るう事態が起こります。栄西の密教阿闍梨としての験を伝え聞いたことから宋王からの勅命により栄西が祈祷をすると病気が収まったのです。この時の功から時の皇帝孝宗から下賜されたのが「千光」の号です。また、栄西は万年寺滞在中、いろいろな建物の建造や修復にも貢献しています。栄西は天竺に行くために準備していた銭三百万を喜捨してこれらの建造物の修復に宛てました。また、栄西は近くにある、天台大師・智顗の墓所、智者塔院や、天台大師・智顗が創立した天台宗の祖源、伝教大師最澄が入唐求法の際に法門を授けられたという大慈寺の修復にも尽くしています。
虚庵懐敞から菩薩戒と禅の法脈を受けるそして天童寺に    紹煕二年(1191)陰暦の九月15日、虚庵懐敞は大乗の菩薩戒と禅の法脈を栄西に授けました。栄西に菩薩戒を授けた後、虚庵懐敞は勅命を受けて、浙東の太白山天童景徳寺(天童寺)に移ることになりました。この時栄西は、あることを思いつきます。それは、天台山に育つ霊木、菩提樹を日本に送って、育つかどうか試してみるということでした。天台山の菩提樹は最澄の師の道𨗉(どうずい)が、南宋のはじめころインドから求那跋陀羅が広州に運んできて植えたものを分かち天台山に植えたものでした。栄西はこの菩提樹の苗を商船に託し、縁のある香椎宮に送り届けたのです。  虚庵懐敞は、ここ天童寺で黄龍派の師匠・雪庵従瑾の後を継いで天童寺第23世となりました。天童寺は日本とのつながりが深く、その後、栄西の弟子の明全や永平寺のを開山した道元もこの寺で掛錫しています。また、後には雪舟も首座となっている寺です。この天童寺でも栄西は虚庵懐敞に協力し、中興開山宏智正覚が建立した千仏閣の再興に協力します。当時の僧には千仏閣再建に必要な大きな材木を確保することが出来ませんでした。そこで帰国後再建に必要な用材を送ることを約束して帰朝したのです。 栄西の帰朝と各地にある開山ゆかりの寺  栄西が天童寺に移ってから丸二年経った建久二年、いよいよ栄西帰国の時がやって来ました。帰朝に際して師の虚庵懐敞は栄西を方丈に召して、黄龍派の印可状とともに袈裟を授与しました。 茶種の招来と宋人の従者たち  建久二年の秋七月、栄西51歳の年、明州の港から帰国の途に就きます。在宋中に手に入れた様々な什物に、天童山下山前に収穫した茶種、更に在宋中の栄西に心酔した宋人の従者たちも従って来ました。栄西の人徳に惹かれた大工や左官、その他の人々です。これらの人々はその後聖福寺の建立など、日本で重要な仕事をするようになります。 平戸千光寺と唐泊東林寺     途中、濃霧の中、平戸島北部の古江湾葦の浦に停泊しました。ここで栄西のことを知る人物と出会い、そこで急つくりの庵を建てることになりました。宋人の工人たちも協力して庵は作られ冨春庵と名付けられました。この庵はその後千光寺と寺名を変え、古江湾を見下ろす位置に場所を移し、妙心寺派の一寺院となっています。  再び博多を目指した船は風待ちの港、唐泊に到着しました。筑前国続風土記には「東林寺、唐泊山と号す。栄西帰朝の時此の浦に着きて宿施氏が、ここに寺を建てたり。」との記事があります。 今津誓願寺に帰着    そして、楊三綱の船は目的地の今津に到着しました。今津は栄西が住職を務めた誓願寺のある港です。四年ぶりに栄西が戻ってきたと、誓願寺では、僧寛智や仲原氏太娘はじめ多数の信者に出迎えられました。二度の入宋を果たし、台密の阿闍梨の格式の上に臨済宗の印可状を携えて帰朝した栄西は、以前にもまして人々から尊崇の対象となりました。 今津と糸島にある縁の寺   誓願寺にほど近い所にある寿福寺は仲原朝臣寛行の菩提寺で、真言宗の寺でしたが、栄西の威光にふれた寛行は「私の菩提寺の中興の祖となってください」と請うて宗旨を禅にあらためました。今は、栄西を中興開山とする禅宗寺院となっています。   今津には、栄西が開基とされる千光寺という寺があったそうです。その後この寺は志摩桜井に移り専光寺という浄土真宗の寺になっています。専光寺に大切に保管されている延命地蔵の金銅仏は「千光国師栄西、宋国より帰朝の際携え帰りし地蔵の金仏あり」と古記録にある仏像だと思われます。  糸島にはほかに栄西が開山とされる寺院が二つあります。一つは糸島市宮之浦にある徳門寺で、もう一つは青木の常楽寺です。いずれも臨済宗妙心寺派に属する禅寺ですが、栄西を尊崇する地元の人々が栄西の名を頂いて建てた寺ではなかろうかと思われます。このように糸島には栄西を開山とする寺院が少なくとも六寺はあります。誓願寺以外は二回目の渡宋の後からできた(禅宗に変わった)寺で、日本における禅宗の寺院は、ここ今津と糸島の地から始まったと言ってもいいでしょう。 博多箱崎妙徳寺     その後、栄西とその伴としてやってきた宋人たちを乗せた船は、博多湾の奥の箱崎の浜へと向かいました。箱崎には多くの宋人が住み宋人街が形成されていた所です。栄西とともに多くの宋人がやってくることはすでに箱崎の宋人たちに伝わっていて、宋人街の人々から大歓迎を受けます。この時、箱崎の宋人たちが発議し、協力して建てた寺が妙徳寺です。(現福岡市東区馬出)この時妙徳寺の建立に携わった博多の宋人たちが聖福寺の建立にも大きく寄与することとなります。栄西はこの妙徳寺を拠点に活動を始めました。 香椎宮の菩提樹と法恩寺 平頼盛との縁  虚庵懐敞に随侍して万年寺を去るときに、商船に託して日本に送った菩提樹は、その宛先が香椎宮でした。建久三年の四月に栄西は香椎宮を訪れます。ここ香椎宮で菩提樹は立派に根付いて成長していました。栄西が香椎宮に訪れたのは、ここ香椎宮が栄西に帰依していた平清盛の異母弟平頼盛との縁の知だからでした。
縁の知だからでした。  平頼盛の母の池禅尼は頼朝が平治の乱で危うく命を奪われるところを助けていたのです。そこで頼朝は池禅尼への恩義から、頼盛を鎌倉に招き歓待、平家追討の際にも「池殿(頼盛)には弓を引くな!」と、恩義を果たそうとしていました。頼盛は平家の都落ちの時、一度は館に火を放ち、都を離れましたが、思い直し、一門と袂を分かって引き返し頼朝に頼ったのです。そうして平家の一門でありながらも、頼盛は命を長らえます。この頼盛の所領だったのが香椎宮のある香椎荘でした。この香椎宮脇に栄西が勅許を得て建てた天台の寺院が文治寺でした。  頼盛は、その後自分だけが一族を裏切って生きながらえてきたことを悔いて出家を決意、東大寺大仏の開眼供養の三か月前に栄西を戒師に頼み出家しました。その一年三か月後に頼盛は亡くなります。頼盛は当時比叡山から疎外されていた栄西を守ってくれた人物です。栄西が仏法興隆の担い手に、禅法伝来の担い手になれたのも平頼盛公の外護のおかげでした。  鎌倉幕府に願って、朝廷から建久の歴号を賜って建てられたのが「建久報恩孝光禅寺」法恩寺です。法恩寺は香椎宮大宮司たちの菩提寺として建てられました。香椎宮には四党の大宮司のほか多数の宮司たちがおり、文治寺や後の聖福寺五世退耕行勇の建てた宝積寺なども宮司・神官たちの菩提寺となっていました。帰朝後勅許をえて建立された禅寺で帰朝後最も根本的な禅の法儀の行われたのがこの法恩寺です。 千仏閣再興のための用材   そしてもう一つ栄西が取り組んだのが、帰朝に際し、虚庵懐敞と約束した千仏閣再興のための用材の確保でした。この時栄西に協力したのが重源です。重源は東大寺勧進として東大寺再建の用材の確保のために周防の国司に任命されていましたが、千年を超える柱材の切り出しには、周防の山人たちが抵抗、大内氏も反対で事が進まないでいました。重源はそのことを幕府にまで訴えてようやく用材を切り出すことが出来るようになっていたのです。 そういう重源の協力を得て巨大な材木が確保され、早速宋国の天童寺に送られました。  天童寺の千仏閣建立は紹煕四年(1193)完成まで3年を要したのですが、見事に完成しました。楼閣横の石碑には「千仏閣建立の材は日本国僧千光法師の尽力による」と記されています。また、栄西の遺徳を称える祠堂も建立され納められた「日本国千光法師祠堂記」にその功績が記されています。この功績には重源も関与していたことを忘れてはいけないでしょう。 背振山と茶 肥前、筑前、長門の縁の寺    栄西は茶祖として、日本に茶を招来したことでも知られていますが、二回目の入宋から帰ってきて、携え帰った茶種を蒔いたのが背振山です。宋から持ち帰った茶種はもとの環境に近い所に蒔かなければならないと考え、思い至ったのが背振山でした。栄西は背振山主峰東南の山腹にある霊仙寺を訪れています。(現佐賀県神崎郡吉野ケ里町松隈九瀬谷)この霊仙寺の本尊は乙天護法善神で、日向の霧島山から背振山に来住した性空上人の随侍した乙護法という神童で弁財天の子の乙子の化身であると同時に背振山の神でもありました。性空上人の甥は天台密教谷ノ流の開祖皇慶阿闍梨で、谷ノ流は栄西が興した葉上流の源流です。  栄西には不思議な縁のある霊仙寺ですが、霊仙寺からわずかに離れた西ノ谷・石上(いわかみ)を適地として茶種を蒔きました。それは大成功で、たちまち繁茂した茶ノ木は伐っても伐ってもまた生えてきて、地元では茶ノ木が天から降ると言って茶降山と名付け、茶降山がなまって背振山となったのであろうという伝説になっています。今でも背振山のあちこちに自生する茶ノ木はその子孫でしょう。こうして育った茶ノ木は宇治に伝わり、明恵上人に贈られ栂尾にも植えられました。その後全国に広まった茶の木の栽培はここ、背振山の石上に端を発しているのです。  筑後国千光寺他伝栄西開基の寺    背振山から筑後川をはさんで連なる耳納連山の北麓に筑後国の在国司で、押領使でもあった草野永平が寄進して建てられたのが千光寺です。栄西は建久四年の4月に耳納連山の端の高良山に登り、高良玉垂命すなわち高良大菩薩の託宣を受け多と言います。その玉垂命の本地が毘沙門天ですので、毘沙門天が栄西を開山として導いたという言い伝えです。  長門の狗留孫山・修禅寺(現下関市豊田町)、肥前の岩蔵寺(佐賀県小城郡小城町)、薩摩の感応寺(鹿児島県出水郡野田町)などもこの頃、栄西の開基と伝えられている寺院です。

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