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2022年9月13日火曜日

「平安~鎌倉 日本の宗教史を変えた備作の人物」1 「平安仏教は秦氏と和気氏とのかかわりあいから始まった」

 平安~鎌倉 日本の宗教史を変えた備作の人物

令和4年9月3日

岡山市北区 蔭涼寺

「定説への叛乱」Ⅲ 2022年東京・岡山歴史交流シンポジウム

山田良三


今回のシンポジウムのテーマ

日本の宗教・思想を変革してきた吉備の人物と歴史にまつわる諸説

秦氏が関わり和気清麻呂が造営太夫となった平安京の宗教的背景は何か?秦氏の父母から生まれた法然の生涯、その父の死期の二説?栄西の渡宋と招来された禅が鎌倉に受け入れられた経緯、栄西を生んだ賀陽氏のルーツとは?法然、栄西と親交の篤かった東大寺勧進重源、その入宋は?備前法華の基、大覚大僧正来備の経緯とその出自?児島高徳と大覚の同一人物説?後醍醐天皇皇子説?など日本の宗教思想史を常に変革してきた備州(三備一作)の人物や歴史にまつわる定説への叛乱?(検証)を試みます。

これまで私が記述した資料などを集めて再編集してみました。


平安仏教は秦氏と和気氏とのかかわりあいから始まった

秦氏が関わり和気清麻呂が造営太夫となった平安京の宗教的背景は何か?

 和気氏と秦氏   地元で和気氏の研究者と知られる仙田実氏は、熊山遺跡は両者によって造られたであろうと述べています。岡山歴史研究会顧問で熊山遺跡保存研究会会長の岡野進氏によると、両者をさらに結びつけ、遺跡の築造にもかかわったのが鑑真と弟子たちとのことです。

 日本に正式な授戒を伝え、唐招提寺を建てた鑑真を、和気清麻呂の父の藤野別乎麻呂(おまろ平麻呂)が熊山に招請したのです。伝承では樒(シキミ)の木の香に導かれて、大滝山(福生寺)から熊山に登り霊仙寺を建立したとあります。

 岡山歴史研究会会員で歴史研究家の丸谷憲二氏は、鑑真の弟子で唐招提寺の第4代住職となった安如法が、石積遺跡がある現在のタジキスタン共和国のヴァンから来ていることから、彼の指導で石積の遺跡が造られたと推論しています。石積遺跡は中央アジアや東南アジアに広く分布しており、ヴァンの遺跡が熊山遺跡に酷似しているのです。

 唐招提寺第5代住職は豊安で、熊山の麓に豊安の地名があることもヴァンとの関係をうかがわせます。また秦氏の出身国とされる国弓月国もヴァンに近く、熊山遺跡は和気氏が施主で、鑑真の弟子でヴァン出身の安如法の指導で秦氏が施工したと推論す。

 熊山は備前国東部の山岳道場の中心地となり、児島高徳はここで後醍醐天皇支援のために挙兵し、金光教の開祖金光大神も熊山で修行しています。さらには大本教の出口王仁三郎は昭和5年に熊山に登り、熊山戒壇は素戔嗚大神様の御陵であると語っています。

 桓武帝のもとで   清麻呂が流罪になり大隅国に流されて2年後に称徳天皇が崩御し、道鏡は失脚、清麻呂は都に呼び戻されました。その後、摂津大夫・民部卿として長岡京の造営事業や、摂津・河内両国の治水事業などに当たり土木官僚としての実力を発揮します。桓武天皇の信任を得た清麻呂は、美作・備前の国造も兼務しました。

 桓武天皇は延暦13年(794)、清麻呂の建議により建設途上の長岡京をあきらめ、山背に平安京を造営、遷都します。清麻呂は造営大夫として指揮し、現在の京都の区割りや水利の原型を造ります。清麻呂が「平安京を造った人」と呼ばれる所以です。

 清麻呂は延暦 18 年(799) に薨去し、家督は長男の広世が継ぎます。広虫も同年に亡くなり、広世は父の事業を弟の真綱、仲世などと継承します。平安京の造営に加え最澄や空海を支援して平安仏教の興隆に貢献し、天皇の即位や国の重大事には宇佐八幡宮への勅使、宇佐使(うさづかい)を継承しています。

 石清水八幡宮は貞観2年(860)、和気氏氏寺の神願寺が高雄の神護寺に習合されたあとの男山に、宇佐八幡宮から八幡神を勧請して建立されました。中世には、伊勢神宮とともに二所宗廟となり、国を守る重要な霊廟の役割を果たします。主に学問で身を立てた和気氏は、後に医家となり、姓も半井姓と変え、政治から離れていきます。

 最澄・空海と秦氏

高雄の神護寺は最澄空海を保護して平安仏教の基礎を築きます。愛宕神社(白雲寺)愛宕権現は天平年間に役行者と秦氏出身の泰澄によって開かれ、天応元年(781)に桑田(元亀岡市)の阿多古神を勧請して王城鎮護の社となります。桑田は、鉄分を多く含む赤田に桑を植え、錦や綾を織っていた地です。亀岡は現在(宗)大本本部がある明智光秀の築城した亀山城があり、(宗)大本発祥の地綾部も秦氏との深い関係があります。綾部はグンゼの発祥地で、美作の秦氏の末裔である立石岐が津山にグンゼを誘致したのも何かの縁かもしれません。

吉備真備と陰陽道

 下道氏の出身、遣唐留学生として入唐、後に右大臣にまで登る吉備真備が陰陽道を招来したことはよく知られています。陰陽道は後に安倍晴明などの安倍一族に継承され、備中国の下道及び浅口などにおいても長く継承されてきました。幕末三宗教の一つとなる金光教教祖が庄屋の小野光右衛門から学んだのも陰陽道でした。


続く 定説への叛乱Ⅲ 東京岡山歴史交流シンポジウムで発表した資料を一部加筆訂正して掲載します。


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