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2022年9月14日水曜日

日本仏教の改革者 法然

 

日本仏教の改革者 法然

  ~秦氏の父母から生まれた法然の生涯、その父の死期の二説?


「厭離穢土欣求浄土」 徳川家と浄土宗   戦国時代を終わらせた武将が徳川家康でした。徳川家はその後代々続き、日本の歴史でもっとも長い265年間、戦乱のない平和な時代を実現しました。その徳川家が、戦国の戦いの時代に旗印としたのが、「厭離穢土欣求浄土」です。大河ドラマなどでも目にした人は多いでしょう!ところでその旗印の意味や起源については、あまり知られていないようです。

 「厭離穢土欣求浄土」とは、どういう意味なのでしょうか?またどのような経緯から徳川家の旗印として使用されるようになったのでしょうか?愛知県岡崎市にある大樹寺のホームページの中に掲載されている、大樹寺責任役員 成田敏圀師の「厭離穢土 ~家康公の平和思想~」という論文にその経緯が書かれていました。大樹寺というのは代々徳川家とそのもととなった松平家の菩提寺だったお寺です。

徳川家のルーツ   徳川家のルーツは、八幡太郎義家の末裔とされる、上州得川出身の時宗遊行僧・徳阿弥が、還俗して三河の庄屋・松平太郎左衛門重信の婿養子になり松平親氏と名乗ったのが始まりです。松平家四代目の親忠が増上寺より勢誉愚底を招いて建てたのが、この岡崎市にある菩提寺の大樹寺でした。徳川家の姓の由来は家康が初代の得川の姓の得の字を徳の字に改めたのが始まりです。

後に徳川家康の名を名乗る松平元康は、岡崎城主でした。しかし幼いころから今川家に人質として預けられ、成人してからも今川の家臣団として扱われていました。ところが上洛を目指していた今川義元に従って桶狭間にあった時、織田信長の急襲により敗北し義元も討死にすると、今川勢は敗走して散り散りバラバラになり、元康は城主を勤める岡崎へと逃れ、松平家菩提寺の大樹寺に至ります。桶狭間での敗戦に悲観した元康は、松平家代々の先祖の墓前で切腹しようとします。ところがその元康を、当時の大樹寺住職登誉上人が「厭離穢土欣求浄土」の話をして思いとどまらせたのです。

「厭離穢土欣求浄土」(読みは えんりえど 又は おんりえど ごんぐじょうど)というのは、穢れた世を離れ万民が幸福に生きる世を実現するという意味です。上人は元康に「天下の父母となって万民の苦しみをなくしなさい」と教え諭すのです。南無阿弥陀仏の心でした。

 以来家康は旗指物には「厭離穢土 欣求浄土」と掲げ、口には念仏「南無阿弥陀仏」を唱えながら浄土の実現を期して戦国の世を戦い生き抜いてきました。徳川の時代が、265年という世界でも類例のない平和で豊かな時代を実現した背後にはこういう、徳川家の歴史と込められた浄土の教えがあったということです。その浄土の教え、専修念仏の教えの始まりが郷土の生んだ偉大な聖人 「法然」 でした。


 仏教の宗教改革者 美作が生んだ聖人  津山の町で後に「美作聖人」と称された人物がいます。それが元津山藩の御用商人錦屋の家に生まれた森本慶三です。森本慶三は津山の財界の中心的人物となった人ですが、東京遊学中に無教会派のキリスト教を広めた内村鑑三の弟子になり、津山に帰ってからは財界活動の傍らキリスト教精神に基づく教育や福祉事業に携わり地元に貢献しました。

 森本慶三が私財を投じて建てたのが津山基督教図書館(現森本慶三記念館)です。その基督教図書館の開館式に森本はその師の内村鑑三を招きました。この席で内村鑑三が集った地元の人たちに語った言葉が次のようなものでした。「君たちは、この図書館でイエス・キリストについて学ぶことは勿論だが、ルターの宗教改革に先立つこと二百年、仏教の宗教改革をなし遂げた美作を代表する聖人 法然について学ぶことが大切だ!」と。このことは津山歴史人物研究会の近藤泰宏氏から聞いたことです。

秦氏との深いかかわり   内村鑑三は法然のことを「仏教の宗教改革者」と高く評価しましたが、同じく宗教思想学者の山折哲雄氏『法然と親鸞』という著作の中同様の評価をしています。梅原猛氏も『法然の哀しみ』という著作の中で同様の表現をしています。私は法然が日本の宗教史に残る大変革者となった背景には、両親や一族の持つ信仰や生まれ育った故郷の風土が深くかかわっていたと見るべきだろうと考えましたそんな考えを持ちながら、法然上人の誕生地ある誕生寺を訪れ、住職の漆間徳然の話を聞きしたり、周辺にある縁の地の風土や歴史を学び思いを巡らしてみる中で法然という人物を生んだ美作の風土や人物の背景を少しずつ実感することができるようになってきました

誕生寺と大銀杏  誕生寺やその周辺には法然上人の人となりを育てた風土を物語る史跡が数多く残っています。誕生寺は、もともと法然の生家だったものを、法力房蓮上(熊谷直実)が寺院に改めたものです。熊谷直実は源平合戦のおり、須磨の海岸で平家の若武者平敦盛と出会います。未だ年若くわが子とたがわぬ若武者を討つことを躊躇いましたが、「後々供養を!」と心に誓って、敦盛の首をはねたのです。そのことを心に深く持ち続けた直実は、法然上人のことを知り、建久三年(1193)、法然のもとに押し掛け、出家して弟子となりました。

誕生寺と誕生寺の大銀杏








熊谷直実が美作に 直実は出家した翌年、師の命を受け、師自ら刻んだ自刻像を背負い美作の地を訪れます。すぐには生家が見つかりませんでしたが、あちらこちらと彷徨った末、ようやく稲岡の生家にたどり着くことができました。この時、師の生家を仰いで涙したという地が残っています。JR津山線誕生寺駅方面から誕生寺に向かい、丁度JR津山線の線路を潜ったところに看板が立てられています。法然は比叡山に登って以来、一度も故郷に帰ることはありませんでした。しかしながら故郷への思いは人一倍強かった法然でした。だからこそ自ら像を刻んで直実蓮生に託したのです。その師の思いを痛切に実感して、師の生家を目前にを流した直実でした直実は漆間家の旧宅を寺に改め、師から託された自刻像を奉じ本尊としました。これが現在の誕生寺です。今も誕生寺御影堂に奉られている本尊が直実が師から託されて背負ってきた法然の自刻像です。

 誕生寺の山門は現在国の重要文化財となっています。その山門をくぐると、同じく重要文化財の御影堂が正面に建ち、左手に銀杏の巨木が繁っています。この大銀杏は逆銀杏と呼ばれ、少年時代の法然上人が修業に通っていた菩提寺からの帰路、杖にしてきた銀杏を刺したものが生長し大きくなったものだと伝えられています。

幼少の法然 勢至丸   法然の幼名は勢至丸と言いました。勢至菩薩が由来のその名前は利発だった少年時代を物語る名前です。八歳から十三歳の間、母秦氏君の弟観覚が住職を務めていた菩提寺で修行したと言われます。この間、何度か生家と菩提寺を往復したことでしょう。誕生寺から菩提寺までは今の距離で40km余り、少年の足では、朝早く出れば夕方には到着する距離です

 修業地である菩提寺には勢至丸が植えたとされる大銀杏があります。樹齢900年、国の天然記念物に指定されている巨木、銘木百選にも選ばれていますその親木とされるの銀杏の木が、菩提寺の麓現在国道53号線奈義トンネルを抜けた先にある阿弥陀堂の大銀杏です。


「幼少の法然様」

 菩提寺の大銀杏の脇には、学問成就を祈願した勢至丸が、この銀杏の枝を挿したものだと書かれています。また誕生寺から菩提寺に向かう途上、現在の勝央町河原にも法然上人縁の大銀杏があります。出雲井の大銀杏とも呼ばれているこの銀杏の木は勢至丸法然が菩提寺への道中、弁当の箸を挿したものが大きくなったと伝えられています。この河原の大銀杏の近くにある諏訪神社にはやはり名木としていられるビャクシンの古木があります。法然誕生の時代と丁度同じころこの地に住む諏訪一族の末裔である出雲井氏の先祖が、信州の諏訪神社の神を勧請して建てた神社だそうです。       

法然と秦氏の縁を物語る錦織神社と本山寺   少年時代の法然は勢至丸という勢至菩薩にちな名前からも聡明で利発な少年だったことが、想像されますが、「法然上人絵伝」には、勢至丸が元気に遊びまわっている姿が描かれています。法然の父漆間時国は稲岡荘を司る押領使という役人でした。母は秦氏君と呼ばれているようにその出自は秦氏でした。美作には秦氏にまつわる史跡がたくさん残されています

 誕生寺の北方10kmほどのところ、美咲町錦織に、秦氏ゆかりを持つ錦織神社があります。錦織は秦氏が多く住んでいた地で、秦氏にまつわる伝承を多く残しています錦織神社は明治初めの神仏分離令まではニ上山両山寺と一体で、錦織神社は郷宮だったと錦織神社の宮司に教えていただきました。二上山両山寺(美咲町両山寺)は、白山権現の開祖として知られるやはり秦氏の僧侶、泰澄が、霊夢に導かれてこの地を訪れ開山したといいつたえられている修行場でした。今は真言宗ですが、古来は天台と真言を共に修する道場で、それが二上山両山寺という寺名の由来ですこの地域は美作の秦氏が入植し、桑の栽培と錦の織物の一大産地を築いた地域でした。法然の母は秦氏君と呼ばれ秦氏の長者の娘でした。

法然の両親が安産祈願のために参篭した本山寺   誕生寺から東南に10kmほどの山中に、本山寺という寺院があります。津山藩代々の藩主の廟がある美作の名刹で、今でも立派な伽藍が現存しています。この本山寺という寺号は鑑真和上に付けられたとの言い伝えあります。天台密教の山岳道場として永く地域の人々の信仰を集めてきました。寺伝によると、天永元年(1110)に現在地に移され、長承元年元年(1134)に法然の両親が安産祈願のために参籠したと伝えられています。両親の信仰深さがうかがえる逸話です。

 また本山寺の近くには斉明天皇により勧請されたとされる波多神社があります。この波多神社ですが、元は畑三社権現と言われたそうで、波多も畑も秦氏とかかわりのある地名あることから、秦氏との結びつきを知ることができます

法然の漆間家と一族の立石家   誕生寺の本堂の後、法然の父漆間時国と母秦氏君の廟である勢至堂と産湯の井戸に向かう無垢橋のたもとに椋木が立っています。ここに椋木に因む法然誕生の奇瑞が記されています。寺伝によれば、二流れの白幡が流れ来て椋の木の梢にかかり、天の奇瑞が現れたそうで、この木は「両幡の椋木」と名付けられています。元の木は朽ち、現在の木はその後植えられたものです。

 二流れの白幡の奇瑞は応神天皇誕生に際して八つの幡が下ったことと同じ深い意味があると、「法然上人行状絵図」などには記されています。元中外日報記者の山田繁夫氏著書『法然と秦氏』には、「二流れの幡の奇瑞は、二流れのハタを秦氏にさかのぼる父・漆間氏の家系と母・秦氏の家系つまり美作の秦氏系豪族であった両家を見立てた表現であろう」と書かれています。

 椋木の先にある片目川の名前の由来ですが、夜襲をかけた明石定明の片目を少年法然(勢至丸)が射貫き、定明が川で目を洗ってから片目の魚が出現するようになったからと伝えられています。この伝承について山田繁夫氏は、柳田国男が『論考 片目の魚』で、「片眼の魚にまつわる伝承とたたら鍛冶には深い繋がりがある」としたことから、漆間氏も秦氏など渡来系鍛冶集団との関りがあったのではないかと記しています。かつて中国山地一帯にはたたら鍛冶集団が数多くいて、誕生寺のある久米南町周辺にも多くの鉄滓が残っていることからもそのことを知ることができます。

 漆間家は美作国二宮の大庄屋を務めた立石家と同族でした美作国二宮は津山市二宮の高野神社のあるところです。立石家は豪族での高野神社の神職も務めた神官家でもありました。立石家の本姓はもとは漆島で、宇佐八幡宮の社家であった辛島一族の漆島元邦が先祖です。この漆島元邦が封戸郡の立石に居住したことから立石を名乗るようになりました。その一族が延喜年間に美作に来住したと伝えられていますが、この時に、立石元邦の長男盛国が二宮の立石家を相続し、次男の盛栄が漆間を名乗って稲岡に居住し、その代目時国の息子が法然上人だったのです

立石家と立石岐  津山に来た内村鑑三が「法然に学びなさい!」と語ったことは述しましたが、内村を津山に招いた森本慶三に協力した人物がいました。それが立石家の有力者立石岐(ちまた)でした。立石岐は備中船穂の豪農小野家生まれ立石家に養子として入った人物です小野家は小野妹子を祖として学問に優れ、元は備中国の国主として来た家柄です。金光教教祖の師となった小野光右衛門も一族でした。

 立石岐は32歳で二宮村長になると、殖産興業と民権拡張のため同志と共之社を設立、地域産業の振興や自由民権運動に活躍します。養蚕・製糸業振興のために郡是蚕糸・津山分工場を設立しました。「中国鉄道」の創立に加わり、現JR津山線建設に貢献しました。現JR姫新線建設に際しては自宅の土地を提供しています。明治中期になると絹糸事業が衰退し、一時郷里の岡山に帰り司法省判事補を勤めます。このころキリスト教に改宗したとつたえられています。その後再び美作に帰り自由民権運動に挺身するようになります。同志とともに「美作自由党」を結成し、板垣退助と連携して議会開設運動を行い、第1回衆議院選挙に立候補当選、三期衆議院議員を勤めました。

 立石岐は晩年はキリスト教の伝道に勤しんだと言われています。森本慶三などを支援し、津山基督教会や森本の教育・福祉事業に協力しました。津山基督教図書館の設立に際し津山を訪れた内村鑑三は立石家を訪れ岐と面会したと記録されています。立石家はもともと浄土宗で、一族にはキリスト教への改宗に反対する人もいましたが、「自分の改宗は、他力本願を説く法然の志を継ぐものである」と信念を貫き、キリスト教の布教にも努めたそうです。内村鑑三が法然をルターに比する宗教改革者として高く評価した背景には、立石岐の存在を否定できません

 浄土宗の宗紋の杏葉は、漆間家の家紋から来ており、立石家の家紋も、立石家が代々社職を務めてきた美作二宮高野神社の社紋も杏葉です。このことからも法然と秦氏の立石家との密接な関係を知ることができます


秦氏とは  秦氏とは、新選姓氏録などによれば、応神天皇の頃、半島から渡来した氏族であり、神祇と殖産に秀でた集団だったと、「大和岩雄著「秦氏の研究」には書かれています。魏志韓人伝には、日本が倭国と称された時代、半島南部馬韓の東に秦始皇帝の労役から逃れた秦人がおり辰韓人と名付けたとあり、この辰韓人が渡来して秦氏となったのではないかと言われています。渡来系氏族の中でも最大数の一族でした。

 美作をはじめ岡山県の各地には秦氏の渡来と定住を物語る地名や史跡が数多く存在しています。秦廃寺の残る総社市秦や幡多廃寺のある岡山市幡多地区などはその代表的な地域です。瀬戸内市の福岡や備前市の香登などにも秦氏の伝承が残っています。岡山県の各地に残る秦氏に係る伝承や遺跡は、我々の郷土の文化や宗教に秦氏が重要な役割を果たしてきたことは間違いありません。その代表的な事例の一つが法然と法然の出自にまつわる秦氏の存在だと思われます。


醍醐本から見た法然  父の死は出家の後?   今年(平成31年)1月、哲学者の梅原猛氏が93歳で亡くなられました。私が読んだ法然上人についての本の中で特に印象的だったのが梅原氏の『法然の哀しみ』でした。梅原氏はこの本の「伝記が語る法然像」の項の中で、代表的法然伝として知られる「四十八巻伝」(法然上人絵伝)とは全く異なる事実を語る「醍醐本」に着目して記事を書いています。

 醍醐本とは、大正6年に真言宗醍醐派総本山醍醐寺の塔頭・三宝院で発見された『法然上人伝記』で、著者は鎌倉時代前期の浄土宗の僧・源智です。法然が晩年最も信頼し、財産の管理も任せ、入滅時まで寄り添わせていた弟子で、平家の遺児ともいわれています。「一枚起請文」を法然に乞い、授かったのもこの源智です。梅原氏は「親鸞の『歎異抄』に比すべき『醍醐本』」とこの醍醐本を高く評価しています。

 梅原氏は、浄土宗の三田全信師の研究による著書『成立史的法然上人諸伝の研究』の中に、「(醍醐本は)潤色の少ない稀な好記録集である。」「法然諸伝の根幹をなしている」と記述して、 醍醐本の価値を高く評していることを引用して、「法然伝の比較研究はこの三田氏の研究でほぼ大成したと思う。」と評価し、「三田師の説にもとづいて、法然の人間像を考えてみよう。」と、醍醐本を参考にして法然の人間像に迫っていくと記しています。

 これまで法然出家の経緯は、「四十八巻伝」などによれば法然が9歳の時、預所明石定明の夜襲を受け、亡くなった押領使の父漆間時国の遺言「敵に仕返しをして罪業を繰り返さず、出家して菩提を弔ってほしい」に従い、叔父の観覚が住職の菩提寺で修行を始めたというものでした。(預所は荘園の管理人で、押領使は警察のようなもの)

醍醐本の記述は ところが醍醐本の記述は異なっています。菩提寺で修行していた法然は、その才を見込んだ観覚の勧めで叡山に登ることになり、その出立の際に父・時国が「私は殺されるかもしれないが、その時には菩提を弔ってくれ」と告げたと記述されています。そして叡山に登ったその年(久安三年)の暮れに、父の訃報が叡山の法然のもとに知らされたのです。この知らせを聞いた法然が、遁世しようと師の叡空に申し出たところ、「遁世するにしても無知ではよくない。天台三大部を学んでからにしなさい」と諭され、そこから本格的修道が始まったと醍醐本には記されています。つまり、父の死期が異なっているのです。

 梅原氏は法然が日本の宗教史に残る大改革を実現するまでの思考や心の軌跡を紐解いていますが、「私日記」以降「四十八巻伝」に至る法然上人伝は誕生の奇瑞などを様々に描いて法然を聖人化、「法然を遠ざける過度の聖人像」として描いていて、物語としては面白いが、事実かどうかはわからない。これらの法然伝は浄土宗が形成され、宗団の拡大が図られていた時代に書かれた伝記であって、自分たちの宗祖を聖人として崇めることは、教団の維持発展のために必要なことだったのであり、常識を越えた逸話で開祖を崇め奉るのはどの宗派でもありがちなこと、ただ宗教家とその教えを深く理解するためには、フィクションを取り除き、現実に生きる人間としての苦悩や哀しみをどう克服していったのかという事実を知ることが重要ではないかと述べています。

黒谷で修道の日々   醍醐本によれば、父の死を知らされた法然は、師の叡空に隠遁を願ったと書かれています。比叡山での法然の師は源光、後に皇円、叡空に師事したと多くの法然伝ではされているのですが、梅原猛氏は「醍醐本から見て法然の師は叡空一人だったのでは」と書いています。

 隠遁を願った法然に叡空は「隠遁するとしても無知はよくない」として天台三大部を学ぶことを勧めたとあります。(醍醐本別伝記による)以来、法然は黒谷の経蔵に籠り徹底的に読書に励みました。比叡山西塔北谷の黒谷青龍寺を訪れたことがありますがその静寂な谷合はまさに隠遁の地、別所の雰囲気を醸すところです。

 黒谷 青龍寺

 法然はここで一切経を五度読破しました。しかし法然は黒谷で経典を読むだけの日々を過ごしていたのではなく、疑問は何度も叡空に尋ね求め、たびたび論議もしたとあります。時には師を論議で打ち負かせたこともあったと他の多くの伝記に記されています。                                         



叡山を降りた法然   黒谷の青龍寺で師叡空と論争した法然は、その後叡山を下りて広谷に住まいしたと諸伝伝記は伝えています。しかし梅原猛氏は、百万遍知恩寺に伝わる伝承から、法然は最初、鴨川の河原に草庵を作り住んだと推察しています。「当時の賀茂の河原と言えば、今風に言えばホームレスのような者たちの住んだところです」そして後の伝記の著者たちが、「広谷」に居住したと書いたのは美化ではないかと梅原氏は述べています。

 後に、法然の弟子源智がこの賀茂の河原に後に源智が知恩寺を建てました。知恩寺はその後各地を転々としましたが、境内に加茂明神鎮守堂があり、賀茂氏あるいは秦氏との関りから法然がこの地に草庵を結んだのだろう梅原氏推察です。叡山を下りた法然は、やがてその学識で広く人々に知られるようになり、武家や公家にも法然に救いを求めてる人々が続出するようになってきました

「大原問答」 その名声を一層高めたのが、有名な「大原問答」です。博学な僧侶たちが大原に集まり論争を続けましたが、法然の学識に勝るものは誰もいませんでした。この時、大原にやってきた一人が重源で、弟子十数人を連れていましたが、法然の学識に屈服した重源は、法然の重要な理解者となりました。遊行僧であった重源は法然に相通じる世界を感じたのではないでしょうか。平家の南都焼き討ちで焼失した東大寺の勧進職に就くことを勧められた法然は、それを辞て、重源を推薦しました。東大寺の再建がほぼ完成したころ、重源は法然を招いて浄土三部経の講義を聞く会を開いています。

 武家出身で法然の弟子となった代表が熊谷直実で、直実は自ら法然のもとに押し掛けるようにして出家し、法力坊蓮上と名乗りました。法然の願いを受け、師の自刻像を背負って誕生地を訪れ、師の生家を寺にしたのが誕生寺であることは前述しました

 法然の庇護者の代表が摂政、関白、太政大臣まで勤めた九条兼実した。九条兼実は法然から何度も灌頂を受け、法然が戒師となりの戒師で出家もしています。法然の唯一ともいえる著書『選択本貫念仏集』も九条兼実の要望に応えて書いたものです。のちの法難で四国に流されたときには、九条兼実の働きで流刑地が土佐から讃岐に変更されています。法然の弟子になったのは源氏や平家の武士や公家たちで、いずれも騒乱の犠牲となった人々でした。

法難に遭遇 讃岐で弘法大師生誕の善通寺を訪問    法然の名声は高まるばかりで、それに反発する叡山や南都の僧たちは、「念仏停止」を求める動きを強めていきます。そんな、法然の弟子たちが、当時の最高権威者である後鳥羽天皇が熊野詣をしている間に、天皇寵愛の女御たちを出家させてしまう事件が起こります。熊野詣から帰り、そのことを知った後鳥羽天皇は激怒し、2人の弟子の処刑と法然ほか主要な弟子たちの流罪を決定しました。これが「建永の法難」です。

 香川県善通寺市の善通寺は弘法大師空海の生誕地として知られています。私は何度か訪れたことがあり、吉備歴史探訪会の人たちと行ってきました。この善通寺南門の右手に「法然上人逆修塔」があります。「逆修塔」とは、人が生前に建てる自らの供養塔のようなものです。

 法難で土佐に配流されることになった法然ですが、九条兼実の配慮もあり、配流先が讃岐に変わります。この配流を、法然は前向きに受け止めていました。15歳で比叡山に登った法然は、前半生を経堂に籠って修道に没頭し、京の都に下ってからは、貴賤を問わ人々に教えを広めました。その間、遊学や説法で東大寺を訪れた以外、一度も都を離れたことがありませんでした。法然は、初めて都を出て地方に行けることを喜び、しかもその行き先が尊敬してやまない弘法大師の故郷だと聞いてさらに喜んだのでした

 讃岐に着いた法然は、さっそく弘法大師の生誕地、屏風ヶ浦の善通寺を訪れました。そして、感謝の気持ちで「逆修塔」を寄進したのです。弘法大師への尊崇の思いとともに、この地で生涯を終えることも決意しての寄進だったのでしょう。

 善通寺の境内には「親鸞堂」もあります。師の法然が善通寺に塔を寄進したことを聞いた親鸞は、自らも讃岐に行きたい気持ちを弟子に託し、自刻像を善通寺に奉納したのです。その自刻像を奉っているのが「親鸞堂」で、親鸞も法然とともに弘法大師を尊崇していたことがわかります。

善通寺に残る「法然上人逆修塔」 東院の塔の南側に逆修塔はあります

都に戻った法然と没後の法難   承元元年(1208)勅免により摂津国勝尾寺にとどまっていた法然は建歴元年(1211)入洛を許され京に戻ります。しかし徐々に老衰が進んで、死期を悟った法然は、弟子の源智の求めに応じて「壱枚起請文」を書きます。そうして建歴二年125日に入滅、80年の生涯を閉じました。

 法然死後も「専修念仏」への迫害は打ち続きました。嘉禄3年には延暦寺衆が法然の墳墓を破却するという暴挙に至り、弟子たちは師の遺骸を二尊院に隠し、さらに太秦の広隆寺境内の三昧院に、さらに粟生の念仏三昧院に運びここで遺骸を荼毘に付しました。これが嘉禄の法難で、法然の遺骸を荼毘に付した場所は、粟生の光明寺(長岡京市)の境内に残されています。(粟生の光明寺は、法然を庇護した秦氏の長者高橋茂右衛門の館跡に建てられました。)


法然を助けた秦氏の人々 法然が南都遊学に際して助けたのが秦氏の人々でした。中でも代表的な人物が秦氏の長者粟生の高梁茂右衛門でした。現在の光明寺(長岡京市)のあるところです。

 法然上人は24歳の時、比叡山から南都遊学の旅に出られました。その途中、粟生の里の長者高橋茂右ヱ門宅に一泊され、その際「ご房が求められようとする、 『誰もが救われる法門』が見つかりましたなら、是非とも我らにその教えをお説き下さい。」と茂右ヱ門夫婦に懇請されました。20年を経て、専修念仏の確信をえた法然上人(43歳)は比叡山を下り、 約束通り粟生の里をお念仏の教えを広く説き始める地に選ばれました。
 このような因縁に依って、念仏発祥の地、「浄土門根元地」の御綸旨を正親町天皇より賜りました。また法然上人滅後、専修念仏の教えは増々の広がりを見せました。その現状に不満をもった延暦寺衆徒により、法然上人墳墓の破却が企てられました(1227年)。そこで門弟たちはご遺骸を京都太秦へ移しました。すると、法然上人の石棺から数条の光明が放たれ、粟生の里念仏三昧院(現光明寺)を照らしたのです。門弟たちは相談の上、法然上人の17回忌にあたる1228125日にこの地へと移してご火葬されました。ご遺骨の大部分は当山に納め遺廟を築くべきであるとなり、芳骨を納め上に石塔を安置し雨露をさえぎる為に廟堂を造立しました。(光明寺HPより

 参照:法然と秦氏のつながりについては、山田繁夫著「法然と秦氏」に詳しく述べられています。



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