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2022年9月20日火曜日

栄西(4)鎌倉へ赴き将軍源頼家と尼御台所の政子から信任を得る

鎌倉へ赴き将軍源頼家と尼御台所の政子から信任を得る  そのころ都では土御門通親の策動で   九条兼実が失脚し、栄西は都における外護を失ってしまいました。そこで栄西は鎌倉に向かいました。正治元年(1199)栄西は鎌倉に入り、二代将軍頼家に拝謁。当時18歳だった頼家は栄西の風格に敬服し栄西を取り立てることとなりました。尼御台所の政子の許にも参じた栄西は政子からも篤い信頼を得たのです。早速そのころ南都から到着した不動尊の開眼供養の導師役を請われて勤めることとなりました。将軍頼朝公の一周忌法要は栄西の導師で滞りなく行われ、頼家と政子の信任はますます篤くなりました。二人は栄西の人徳と実力に敬服し傾倒していったのです。
寿福寺の建立   正治二年閏二月になり、政子は寿福寺の建立を決めました。政子は栄西に予定した土地を寄進しすぐさま建立されることとなり堂舎の造営が始まり、急ピッチで建設が進みました。7月6日になると京に手配していた十六羅漢像が到着し15日には栄西の導師で開眼供養が行われました。この頃上野に長楽寺を開山した栄朝や、寿福寺二世となった行勇が信入し、栄西に嗣法するようになりました。  鎌倉における栄西は寿福寺では禅を本願とし、寿福寺以外では密教僧として加持祈祷を主にしていたようです。今は跡地になっていますが、頼朝公が奥州征伐で死んだ怨霊を慰めるため建立した永福寺の多宝塔供養の導師を勤めた記録も残っています。
京に建仁寺の建立  建仁二年(1202)栄西に京都進出の機会が訪れます。栄西に深く帰依した将軍頼家から洛東の五条以北、鴨河原以東の地を寄進して禅苑を営み栄西を開山としました。頼家の申請により朝廷より宣旨が下り、真言・止観・禅門の三宗併置の道場として開山しました。  この頃になっても何かと栄西には、既存の仏教勢力からの圧力があり、あらぬ風評を流されたりした頃もあります。それでもひるまずに禅の普及に努めた栄西です。またこの頃の逸話として「エイサー ヨーサー」と言う掛け声にまつわる話や、訪ねてきた貧しい俗人に檀家が奉じた絹二三疋を与えた話、飢えた貧乏人に仏像の光背用の銅を授けたなどの逸話が伝承されています。この頃「斎戒勧進文」、「日本仏法中興願文」と言った論文も記しています。 栄西と重源の交友と東大寺   栄西が都や鎌倉から受け入れられて禅の普及をすることが出来るようになった背景には、東大寺勧進職を勤めた重源の協力がありました。栄西と重源は栄西の第一次の入宋の時に出会って以来、親交を温め、特に重源が東大寺の勧進職を引き受けて東大寺再建に本格的に取り組むようになった時期に、栄西は二度目の入宋を果たしますが、帰国後九州を拠点に禅の普及に努めたその頃から、密接な関係を持ち、連携をとっていたことが伺えます。重源は栄西より20歳年上ですが、栄西は重源を仏徒の先輩として尊敬し、重源は栄西の仏法への真摯な姿に共鳴し、そこから学ぶことも多かったと思われます。もう一人この時代の代表的仏徒であった法然とも重源は親しい関係にあり、東大寺勧進職は最初法然が候補になっていたものを法然が重源を推薦したものでした。  重源は大仏及び大仏殿の再建を成し遂げ、その他の堂宇の再建を進めていた建永元年(1204)86歳の寿命を全うして入寂します。遷化した重源の後を継ぎ勅命により東大寺勧進職に任命されたのが栄西でした。幕府の信任篤く、京にも進出してきた栄西の実力が認められたからでした。それからもう一つ、博多の聖福寺、鎌倉の寿福寺、京都の建仁寺と続く、宋朝様式の伽藍建築の実績が買われたとも言われています。  栄西が勧進職になって後に建立された代表的な建築が東大寺鐘楼で、26トンもの梵鐘を吊り下げ八百年の風雪をも凌いできました。東大寺鐘楼は栄西の残した建築物の中でも代表的なものです。すぐ隣にあるのが、国宝・重源上人座像を安置する俊乗堂です。東大寺の梵鐘と俊乗堂を見ると、栄西と重源の仏法興隆を願った二人の篤い思いが伝わって来ます。この二人の会合と協力があったればこそ、日本に禅が根付き、禅を根本とする仏法による精神文化がこの国を守って来たのではないかと深い感銘を覚えさせられます。 茶祖としての栄西   栄西は禅の開祖であると同時に茶祖としても知られています。「喫茶養生記」は将軍実朝のために書かれたと言われていますが、人間の精神と肉体の両面からの健康論となっています。茶の効用によって健康を維持した人も多いでしょう。また禅と結びついた茶道は、日本を代表する文化として世界に広まりました。 賀陽氏のルーツとは?  栄西禅師を生んだ賀陽氏のルーツについては、 賀陽氏がその名から半島南部にあったの伽耶(加羅)国とのかかわりは類推されますが、明確な資料などには出会えていません。半島南部の諸国(三韓三国)と吉備国とのつながりはいろいろと指摘されていますので、そういう経過の中での可能性は十分にあると思われます。  今回主催者の平山牧人氏より、「賀陽氏は熊襲ではなかったか?」との提言をいただきました。栄西禅師の特に第二回の入宋の前後、肥前、肥後の諸豪族とのかかわりの深さから、熊襲系の可能性を類推することができなくもありませんが、果たしてどうなのでしょうか?

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