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2022年9月15日木曜日

日本文化の基 臨済禅をもたらした栄西 その1 最初の渡宋から~

 栄西禅師と日本文化(1)  (栄西禅師伝再考) 山田良三 栄西禅師と日本の文化  岡山の代表的な宗教家と言えば浄土宗の開祖法然とならんで、臨済宗の開祖として知られる栄西が挙げられます。栄西がもたらした禅の教えは様々な分野で日本の文化の形成に重要な役割を果たしてきました。代表的な文化と言えば茶道を挙げることが出来ますが、他にも禅や禅寺を通して日本にもたらされたり、独自の発達を遂げたものが数多く存在します。日本精神の象徴としても知られる武士道などの形成にも大きな役割を果たしてきています。  栄西と言えば茶道を思い浮かべる人も多いでしょう。栄西は茶種を招来し喫茶の習慣を日本に根付かせた元祖でもあります。喫茶の習慣は古くからあることはありましたが、栄西が宋国からの茶種を持ち帰り九州の背振山に植えて栽培を始めてから日本全国に広がって行きました。宇治やその他著名な茶の産地はその流れを汲むものです。喫茶の薬用効果を説いた「喫茶養生記」は、当時の将軍源実朝にも献上され、武家社会に急速に普及していきました。禅の教えとともに喫茶の習慣は「茶道」として、日本の重要な精神文化ともなって行ったのです。  栄西は宋国から帰国する際に多くの工人(技術者)を伴って来ました。栄西と伴に日本にやって来た工人たちによって、日本の禅寺は建設されるようになり、当時再建中だった東大寺の再建にもかかわるようになって行きました。京都五山をはじめ日本の仏教建築に多大な影響を及ぼしたのも栄西がもたらした宋からの最新の技術でした。寺院の建築とともに庭園の整備もされていきました。茶道などの普及とともに一般の建築物にもその影響は及んでいきます。日本各地の禅寺には秀麗な庭園が付属しています。岡山では高梁の頼久寺の庭園が有名ですが、日本の造園文化も栄西と禅のもたらしたものの一つだと言えるでしょう。  鎌倉時代に栄西がもたらした臨済禅は幕府に受け入れられ、日本仏教の主流を占めるようになって行きます。南北朝時代から室町の時代に至っても禅は武家にとどまらず朝廷からも受け入れられて当時の日本の精神文化の主流の道場となって行きました。  室町以降は禅寺が様々な文化の発信地となっていました。代表的な例の一つが岡山の生んだ画僧の雪舟でしょう。雪舟が幼いころ修業した寺として有名なのは現総社市の宝福寺です。宝福寺はもともとは天台宗の寺院でしたが、真壁(現総社市真壁)出身の鈍庵慧總によって禅寺に改められました。雪舟の生家は赤浜(現総社市赤浜)の小田氏と伝えられています。その後雪舟は京都五山の一つ相国寺の春林周藤のもとで画の修業をし、当時相国寺の会計役であった周文からも画を学んだと言われています。 陽明学の普及にも禅寺がかかわる   私たち郷土岡山の偉人としてNHKの大河ドラマ化のために署名活動など行っている備中松山藩の山田方谷先生は陽明学者として知られています。方谷先生の生涯の生き方に大きな影響を及ぼしたのが王陽明(明治以降陽明学と呼ばれるようになる)でした。王陽明というのは中国明代の思想家であり政治家でもあり武将でもあった人物で、それまでの儒学の主流だった朱子学の矛盾や問題点を明らかにして実践的儒学を構築したものでした。日本では熊沢蕃山の師でもあった中江藤樹が陽明学の祖と呼ばれていますが、中江藤樹が手に入れた王陽明全集などは主に禅寺を対象にした中国書籍の流通ルートを通してでした。当時四書五経などの儒学も禅寺で学ばれていたのです。実は王陽明自身が禅寺での修養を通して自身の思想を形成したという経緯もありました。山田方谷先生は京での遊学中に京都の禅寺で伝習録など王陽明を学んだのです。日本では禅寺が中国の学問や日本の古典などを学ぶ学問の場となっていたのです。  食文化の世界では禅寺で提供された精進料理などが日本食の一つのルーツともなっています。栄西の著の喫茶養生記は単に喫茶を勧めるだけではなく総合的な健康法の指導書です。禅がかかわって形成されていった文化は香道など他多岐にわたっています。今日日本が誇る多くの特有な文化が禅と禅寺が深くかかわっていることに驚かされます。  先日2月に矢掛町の小田を訪問して、正徹を顕彰する会の前会長で、現在小田公民館長をつとめられる土井重光先生にお会いすることが出来ました。土井先生からは小田の町は旧山陽道の重要な宿場町として栄えたところで、この地の領主となった小田城主初代小松秀清の次男正徹が、若年より出家し東福寺で修業、室町時代を代表する歌僧となり、二万首もの歌を詠み、万葉集や源氏物語の研究家としても有名だったとお聞きして、本当に素晴らしい人物が出ているのだなあと思いました。実は私は私が事務局を担当する岡山人物銘々伝を語る会で、昨年の12月に郷土出身の宗教家「栄西禅師の伝記を再考する」というテーマで講演したばかりでしたので、正徹が禅の坊さんだったということがとても興味を引くことでした。栄西とそのもたらした禅の教えがどれほど日本の文化のために大きく貢献してきているかとの思いをより強く感じさせていただきました。小田公民館からの帰路、早速小田駅前に立ち寄って正徹の顕彰碑や歌碑を見させていただきました。 京都五山   京都には京都五山があります。これは当時中国で寺の格付けがなされていた五山の制度を日本の禅寺の格付けに導入たものです。栄西のもたらした臨済禅は鎌倉幕府の外護を得て普及して多くの寺院が建てられるようになりました。鎌倉幕府はそれらを管理するため、五代執権北条時頼の頃、中国の五山の制に倣って五山の制を始めたのです。五山の上として南禅寺が定められ、そのもとに第一位建長寺、以下、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺が定められたのです。それが室町時代になると、京都の寺院から新たに五山が制定され、京都五山と鎌倉五山が分割されるようになっていったのです。 京都五山は、南禅寺が別格、第一位が天龍寺、第二位が相国寺、以下、建仁寺、東福寺、万寿寺です。大徳寺は五山に含まれていましたが、足利将軍の不興を買って格を下げられてしまいました。また妙心寺も不興を買って寺領の没収まで行われています。このようにこの時代、禅寺は単に禅の修行の場としてだけではなく、幕府の政治的事情にもかかわるとともに学問や芸術全般の修業の場ともなるなど、重要な役割を担っていったのです。 様々な学問、文化の発展に貢献した禅と禅寺   栄西がもたらした臨済禅は鎌倉幕府から受け入れられその外護を受けました。その後南北朝時代から室町時代に至るまで、幕府の外護得てさらに発達していきました。もともと栄西は京都に建仁寺を創建するときも、「禅、真言、天台」の三宗兼学の道場として創建しているように、特定の宗派や学問に拘る人物ではありませんでした。そのような気風から鎌倉においても京においても、禅院が単に禅の修業の場としてのみならず、諸宗、更には諸学問の修学の場となって行ったのです。それは文学、美術、思想、さらには建築や造園に、茶道や香道などの文化として発達していって、当時の支配階級の武家や公家、また一般商人などにも影響を及ぼす、総合的な学問文化の道場となっていたのです。同じ禅宗でも道元のもたらした曹洞宗は主に地方の武将に受け入れられていきました。 <歴史探訪から>(吉備歴史探訪会という歴史探訪の会を十数年前から催行しています。その会や私が個人的に探訪した史跡などの資料や探訪記を纏めてみました) 正徹:室町時代の歌僧。備中国小田の生まれ。小田城主の次男として生まれる。小田家はもとは岩清水八幡宮に仕える祀官一族で備中国小田郡の小田荘を知行していた。正徹は生まれは永徳元年(1381)、東福寺の書記を務めていた。足利義教に忌避され謫居させられたこともあるが、義教没後は歌壇に復帰、2万首近くの詠が現存している。古典学者としても知られている。足利義政に源氏物語の講義を行っている。矢掛町小田には「正徹を顕彰する会」があり、井原線小田駅前には顕彰碑と歌碑が建てられている。 雪舟:(1420~1506) 備中国赤浜(現総社市)生まれ。生家は小田氏。 幼い頃、宝福寺に入る。京都相国寺で修業後周防国に入り大内氏の庇護に、その後応仁元年(1467)明に渡り李在から画法を学ぶ。 五山文学:鎌倉から室町の時代に禅宗寺院で行われた漢文学を五山文学と呼ぶ。 寂室源光:美作高田(現岡山県真庭市勝山)出身の寂室源元光(臨済宗永源寺派開祖)は詩・偈・墨蹟に優れ五山文学の担い手の一人だった。 日本文化を海外に紹介した三冊の本 明治の時代に日本の精神や文化のすばらしさを海外に英文で紹介した三冊の本があります。「代表的日本人」内村鑑三、「茶の本」岡倉天心、 「武士道」新渡戸稲造 の三冊です。  これらの本は海外で大変な評判を呼び、日本文化に欧米の人々が深い関心をもつことに大きく貢献しました。ケネディ大統領が就任の記者会見で、内村鑑三が書いた代表的日本人の中から上杉鷹山を尊敬する日本人として応えたことはとても有名な話です。また新渡戸稲造の「武士道」がSamurai Spiritとして広く世界に知らされたのも大きな意義があるでしょう。もとより「茶の本」で紹介された、茶道や禅も欧米人にとても関心を持たした日本の文化です。  そのような日本文化や日本精神の特色はどこで醸成されたのかと考えると、その多くが禅や禅寺で成されてきたということが出来るでしょう。鎌倉や室町の幕府の時代は武家が政治を司る時代になり、その武士たちが精神的な教養や知識を身につけるために禅や禅寺を活用するようになって行ったのです。 栄西禅師伝 (栄西禅師伝~再考 岡山人物銘々伝を語る会令和元年12月例会) 日本臨済宗の開祖   日本臨済宗の開祖栄西は、浄土宗の開祖法然とともに鎌倉仏教の創始者の一人で、現在の岡山県である備前・備中・美作のうち備中出身の偉大な宗教家です。栄西は茶祖としても知られ、岡山では毎年、後楽園での茶会など栄西を顕彰する茶会や行事が数多く開催されています。  栄西は保延7年(1141)吉備津宮の権禰宜賀陽貞遠の子として誕生したと伝えられています。賀陽家は代々吉備津宮の神官の家系で、備中国の賀陽郡一帯を支配した豪族でした。母親は田氏と元亨釈書などに記録されています。田氏とは田使(たつかい)、つまり中央から地方に派遣された田の管理者のことで、平安時代に賀陽郡から備前の御津郡一帯を支配した難波氏のことであろうと言われています。吉備津神社はもとは吉備国の総鎮守で、三国に分かれてからは備中国一宮とされた旧官幣中社、本殿は国宝に指定されています。 栄西は久安4年(1148年)、8歳の時には『倶舎論』、『婆沙論』を読んだと伝えられています。仁平元年(1151年)、備中の安養寺の静心(じょうしん)に師事したと元亨釈書などにはあります。 <歴史探訪> 栄西の誕生地
 吉備津神社の社のすぐ近くに「栄西禅師誕生地」と銘した小公園があります。もとは賀陽家の末裔が庵を設けていた土地を総社市の井山宝福寺が譲りうけ所管、栄西禅師750年忌の時に地元有志の手で茶碗型の顕彰碑が建立されました。その後、放置され荒廃していたのを、800年大遠忌に際して、建仁寺と栄西禅師賛仰会と地元有志により、禅庭園風に改修、整備されたところです。  去る7月5日、吉備津神社に参拝し、この地を訪ねると、公園の整備をしいる方がいました。近くに住む藤井直樹さんという方で、庭の草取りや水の管理をボランティアで行っているとのことでした。栄西禅師の略歴を書いたチラシを作成し来訪者に渡しているとのこと、早速一枚いただきました。  話しているうちに「今日が栄西禅師の命日ですから!」と言われ、驚きました。実は随分前になりますが私も何年間か、同好の仲間たちと自主的に栄西禅師の命日に併せて顕彰行事をし、その当時は荒廃していた庭の草取りのお手伝いなどをしていたのを思い出しました。栄西禅師の導きのようにも思われました。  妹尾兼安:禅庭風の公園に整備したのは、京都で禅庭を手掛けている高名な庭師の作庭によるものだとお聞きしました。今は藤井さんら地元有志の方たちが、草むしりや水やりをして管理してくれていて、とても奇麗に整備されています。今は京都の建仁寺が管理しているともお聞きしました。顕彰碑の石はもともと賀陽家の庵の庭にあったものだそうです。  この公園の近くの鯉山小学校の校庭脇に妹尾兼安の顕彰碑があります。妹尾兼安は平家方で活躍した武将で知られ、妹尾十二ケ郷用水の整備をするなど施政に優れた人物でした。井山宝福寺の近くには妹尾兼安を祀る井神社(兼安神社)もあります。妹尾十二ケ郷用水はこの井神社のあたり湛井の堰から用水を引き吉備の野を潤し、妹尾に到る用水路で、多くの水田を潤してきました。 誕生地は「竹の荘」?  栄西禅師の活躍した時代、西国は平家の武将が多く、吉備津宮の賀陽家や母方の難波家も平家方についていました。栄西禅師の修行や渡宋に当たっては平家系の外護があったものとも思われます。吉備津神社の近くには賀陽家館跡という土地も残っています。難波氏は吉備津宮に近い西辛川(にしからかわ)に頭領宅があったと伝えられています。田氏と言うのは、律令体制下で児島屯倉に田使(田令)として派遣され、その後、備前・備中各地の白猪屯倉に派遣された一族だと言われています。  吉備津神社近くの「栄西禅師誕生地」の碑のあるところは、栄西禅師が生まれた賀陽家の一族の末裔が最後に庵を結んだ館跡で、「実際に栄西禅師が生まれたところは定かではないが・・・」と顕彰碑の説明文には記録されています。どうやら実際の生誕地というわけではないようです。それでは実際に栄西禅師が生まれたのは何処でしょうか?私が事務局長を務める岡山歴史研究会顧問の芝村哲三氏はその著「栄西を訪ねて」の中でそれは「竹の荘」(現吉備中央町上竹)ではないか!と述べています。実は郡誌にそのような伝承が残されているというのです。 芝村哲三氏  賀陽町(現吉備中央町賀陽)在住の郷土史家の芝村哲三氏は『栄西を訪ねて-生誕地と生涯ー』(吉備人出版)で、郷土の史料などから旧賀陽町竹の荘正力で誕生したとの説を述べています。 芝村氏は賀陽町歴史顕彰保存会会長などを務め、栄西の足跡を訪ねて全国各地を回り、さらに中国にも修業地の天台山などに何度も訪れています。 栄西の出家・得度  元亨釈書などによると、栄西は11歳の時に安養寺の住職静心(じょうしん)によって出家得度したと伝えられています。栄西生誕地地元有志の藤井直樹さんから頂いた資料には「栄西は11歳の時に安養寺・静心和尚に師事す。」と書かれています。 *当時は本地垂迹、つまり神と仏は表裏一体であるという考えが支配していた時代で、彼の父親も天台宗寺門派の総本山・三井寺に学び、天台の僧侶静心と行を共にしたことがある。栄西が小僧として仕えた安養寺の和尚は、父親と三井寺で縁があった静心その人であった。栄西が比叡山に登り、天台宗の僧侶として仏道を歩み始めるまでの軌道は宿命的に敷かれていた。(「栄西(ようさい) 千光祖師の生涯」 宮脇隆平著 建仁寺発行) 安養寺(日近)  岡山の地元には栄西の得度した寺だと言われる安養寺が二か所あります。まず、岡山市北区日近にある安養寺ですが、現在は臨済宗建仁寺派に所属している寺院です。私が平成の初めころ同好の歴史探訪の仲間たちと訪問した時は、前住職夫人が案内してくださり、栄西が渡宋する前に自ら刻んだ自刻像を納めたお堂や自刻像を刻むため自らの姿を映したという姿見の井戸を見せていただきました。そのころ当時の住職は病に伏しておられたのですが、ご健康の頃には例年、栄西禅師を顕彰する茶会が盛大に行われていたとお聞きしました。地元の山陽新聞や財界の支援も受けて栄西禅師の顕彰活動が熱心になされていたそうです。今回吉備歴史探訪会の狩谷代表とともに再訪させていただくと、住職(中井豊林師)がおられてお話を伺うことが出来ました。 「栄西禅師得度の寺」との看板はありますが、今は積極的に茶会などは行っていないとのことでした。今はひっそりと、修道の道場として運営しておられるとお聞きしました。
安養寺(倉敷市浅原)  安養寺(倉敷市浅原)は、報恩大師によって延暦元年(782)に開基になる浅原千坊の中院として、恵心僧都源空によって創建されたと伝えられています。源空は平安中期に活躍した僧侶で、法然上人が専修念仏に至る施策の中で、とても大きな影響を受けたという「往生要集」の著者でもあります。安養寺の裏山には重文指定の「経塚」がありますが、末法の世の到来した時代に「埋経」とも言われる、経を刻んだ瓦や、甕の中に経を納めて埋経したりする習慣を勧めたのも源空であったと言われています。  室町時代中期の13世紀ころには浅原の谷一帯に「浅原寺」と称する寺院が立ち並んでいたと伝えられています。今は真言宗ですが、毘沙門天が守り神の神仏混交の寺院です。  この寺の寺宝として、国の重文の木造毘沙門天立像と木造吉祥天立像(いずれも平安時代の作)があります。また、裏山の福山から出土した経塚出土品(平安時代)の瓦経208枚や仏画を刻んだ瓦5枚なども重文の指定を受けており、宝物殿に納められています。  先回訪問した折、前住職夫人の小畑智順師からいろいろと安養寺の成立や歴史について詳しく教えていただくことが出来ました。ここ(浅原)は吉備の南端に位置し、すぐ近くまで吉備の穴海の海岸が迫っていた所です。裏山は、「福山合戦」で有名な福山ですが、その名は徐福に由来するとのこと。福山とは徐福が求めた福の山ということでしょうか?ここは古代の昔から吉備の中心道場として崇敬を集めていたそうです。山上には福山寺があったものがその後城として改修されたのが福山城であったとも教えていただきました。  毘沙門天がここ安養寺の守護神です。毘沙門天像は108体あり数の多さは西国で随一、もともとは十分の阿弥陀堂(毘沙門堂)に納められていたもののうち特に重要なもの数十体は成願堂(宝物殿)に納めています。成願堂は自由に拝観ができるようになっており、だれでも国重文の毘沙門天像や経塚から出土の仏像や瓦経を拝観することができます。入り口には栄西禅師の像があり、迎えてくれます。  成願堂の脇には創建の源信像や、おそらくこの地を訪れたであろう一遍上人の像も奉られています。その先には栄西禅師出家850年を記念して建てられた少年栄西像「出家得度の栄西像」が迎えてくれます。 叡山で授戒その後備前備中及び伯耆大山で修法  栄西が最初に宋に渡ったのが仁安三年(1168)28歳の時です。元亨釈書などの栄西伝によれば、13歳(あるいは14歳)の時に叡山に登り授戒(この時栄西と号す)、その後叡山と備中を往還、17歳の時に師の静心が没、遺言で法兄千命に師事、法兄千命より「虚空蔵菩薩求聞持法」を受けたといわれます。  21歳の頃入宋の志を抱き、23歳の頃は金山寺遍照院に住すとともに日応寺において三昧耶行を修法。これは27歳の頃伯耆の大山寺の基好師のもとで修業両部灌頂を受けるまで続けられました。  仁安二年(1167)の9月には叡山に登り、12月に帰郷、父母の許を辞して九州に赴き宇佐八幡と阿蘇山に登り入宋渡海を祈願、その四月に博多津より商船に乗り渡宋したと伝えられています。 <歴史探訪> 大山寺  大山の登山道の脇に「栄西禅師修業地」の立て札があります。この頃大山寺はこの地方の代表的な修行場として知られていて諸国から修行者が訪れていたことがわかります。 第一回 渡宋  明州(寧波)に  宋の明州に到着した栄西は廣慧寺で知客と問答、四明山に登り丹丘で重源と出会ったと言われ、重源とともに天台山に登り、その後万年寺、明州の阿育王山に登り、重源とともに帰国したと伝えられています。重源との出会いについては、一部に否定的な研究もありますが、その後の重源と栄西の親密な関係や時代的背景を考えると、文献的な記録は残っていないにしても、重源と栄西の出会いは間違いないのではと思わされます。岡山大学の久野修義先生も、著書の「日本史リブレット「重源と栄西」」において渡宋を「当時の状況からして間違いないだろう」支持しておられます。 重源との出会い  仁安二年(1167)の9月には叡山に登り、12月に帰郷、父母の許を辞して九州に赴き宇佐八幡と阿蘇山に登り入宋渡海を祈願、その四月三日に博多津より商船に乗り渡宋、甬東(浙江省東北部)に到着した船は甬江を遡り、4月23日に明州(現寧波)の港に到着しました。この明州で栄西は重源と遭遇します。後に東大寺勧進となる重源はこの頃48歳、栄西よりも二十歳も年上でした。(重源の入宋については確たる資料が見当たらないため疑問視する見解もあるが、諸般の状況を見れば入宋は間違いないと思われる。)重源と出会った栄西はともに天台山を目指します。元亨釈書には「四明を発して丹丘に赴く。適々本国の重源と遇ひ、相伴って台嶺に登る」と記述されています。「栄西は明州か明州から天台山に向かう途中で重源と出会ったということだろう。」(「栄西」宮脇隆平)  栄西は「入唐縁起」の中で、「廿日四日、就明州之津、東大寺前勧進大和尚重源、従他船入唐、於明州、相視互流涙」の書いている。「元亨釈書」には「(仁安三年)五月、四明を発して丹丘に赴く。適々本国の重源と遇い、相伴って台嶺に登る」とある。栄西は明州(寧波)か天台山に向かう途中で重源にあったということだろう。(「栄西」宮脇隆平) 万年寺  最初に尋ねたのが万年寺でした。万年寺は当時「伽藍宏大な万年寺」と言われていたように広大な禅寺であった。しかし万年寺には一日滞在しただけで翌日には「青竜を石橋(しゃっきょう)に見る」とあるように、石梁飛瀑に至っている。石梁飛瀑とは瀧のことで、瀧をまたがって天然の石の橋が架かっている。破戒罪業のものは渡れないとうこの橋を栄西は渡ったと、重源が九条兼実を訪ねて語ったと玉葉(兼実日記)に書かれています。 国清寺  国清寺はもともと天台の根本道場で、最澄はここ国清寺に来て天台学を学び、後に天台を日本で開きました。そののち、円珍をはじめ多くの天台僧がこの地を訪れ天台の教学を学んでいったのです。ところが、栄西が重源とともに国清寺を訪ねてみると、そこはすでに天台の道場ではなく禅寺に変貌していたのです。実は南宋建国(1127)の頃、兵火で破壊されたのを時の皇帝高宗が仏教興隆の詔を出して復興したのですが、同時に高宗は「易経為禅」の詔も発してそれまでの宗旨を禅に変えてしまわれたとのことでした。悉く宋国の宗風が禅に変わっていることに栄西は驚かされたのですが、ここ国清寺では、天台の経典も残されていて、新章疏を得ることが出来ました。栄西は国清寺での留錫を断念し国清寺に別れを告げて出立しました。 ところでこの時落胆する栄西を元気にしてくれたのが旅籠屋で出された煎じ薬でした。栄西はそのことを「喫茶養生記」に書いています。実は「喫茶」の習慣を日本にもたらしたきっかけがこういう所にあったのです。 阿育王寺  六月上旬、明州に帰って来た栄西は明州の港から東に20kmの阿育王寺の仏舎利塔の参拝に出かけています。ここで栄西は「舎利放光」の体験をします。彼は久遠の仏法の久住を決意したといわれます。実は阿育王寺は日本とも深いかかわりがある寺です。平重盛が寄進をしたことや、源実朝が参詣を企てたこと、重源が舎利殿建設の用材を提供したことなどの歴史が残されています。後には道元や雪舟も訪れているのがこの寺です。 廬山 本朝高僧伝に「廬山に上り、明州に返る」とあります。廬山の香炉峰の近くに東林寺という中国浄土宗発祥とされる阿弥陀信仰の寺院がありますが、栄西がこの寺を訪れたとすれば重源の勧めがあったからだろうと「栄西」の中で宮脇隆平氏は推察しています。もちろん当時はこの東林寺も禅宗の五山十刹に名を連ねるなど禅宗の盛んな時代だったころは確かです。 帰国  元亨釈書には「損友にまつわされてその秋早く帰りぬ」とあります。当初の渡宋の目的からすると意に反したこともありましたが、目の当たりにしたのは「禅」の興隆の姿でした。失望もあったが、各地の禅寺を訪ねる中に真摯に仏法の修業に励む禅僧の姿に新たな希望を見出したのも確かです。予期せぬ短期での帰国になったものの得られたものは極めて大きかったと言えるでしょう。これが第二次の渡宋と、我が国への禅の招来に繋がって行きました。 帰国後叡山に登る その後備前・備中を巡錫  帰国後栄西は叡山に登り、天台座主明雲に天台新章疏30余部60巻を呈しました。その後は備前・備中を巡錫しています。まず最初に金山寺(遍照院)における灌頂、その後備中清和寺(現井原市)の創建に携わり、最後に一番長く住したのが日応寺でした。日応寺には栄西が行った灌頂の記録が残っています。 <歴史探訪>栄西修行の日応寺と金山寺 栄西禅師が修業したという日応寺(岡山市北区日応寺)と金山寺(岡山市北区金山寺)を訪問しました。 日応寺は養老二年(718)の創建、栄西が修業とともに長く滞留した備前の名刹です。もとは三論宗から天台宗の勅命山日応寺と称していましたが、永禄二年(1559)金川城主松田氏により強制的に日蓮宗に改宗させられ寺名も換えられていました。明治31年に元の寺名に復したものの宗旨は今も日蓮宗の寺院として残っています。境内はきちんと整備され、この地方の代表的な名刹です。 金山寺は、天平勝宝元年(749)に報恩大師が孝謙天皇の勅命により開創。備前48カ寺の根本道場となっていました。もとは法相宗で、栄西禅師が修業した寺院の一つです。栄西禅師は護摩堂などを建て宗旨も天台に改められました。この金山寺は金川城主松田氏による日蓮宗への改宗には応じなかったため堂宇はすべて焼き払われ灰燼に帰したそうです。その後、宇喜多直家の援助で本堂・護摩堂が再建、江戸期には岡山藩主池田光政により備前国天台宗総管とされ、仁王門もこの時寄進されています。国の重文に指定されていた本堂は、残念ながら平成24年の失火で全焼し、本尊の木造阿弥陀如来像(県重文)も焼失してしまいました。 今回訪問してみると池田光政が寄進した仁王門も荒廃が進み、焼けた重文だった本堂も、仮本堂のままでした。本尊の再興から取り組んでいるようですが、まだまだ時間がかかりそうな様子でした。かつては備前国の中心道場だった金山寺ですが、今は檀家も少なく、復興には強力な支援が必要だと感じました。  筑前今津誓願寺
 その後栄西は35歳の時、筑前今津の誓願寺の創建に迎えられ、文治三年(1187)47歳の時に二度目の入宋の時まで、誓願寺を拠点に活動を続けました。この時代、都では平清盛が権勢を誇った時代を過ぎて、源氏が台頭、源平の争いが続いていた時代です。栄西の故郷の備中は妹尾兼安などに代表される平家の勢力圏でしたが、寿永三年(1184)栄西44歳の時に、藤戸の合戦で平家が破れ、その後は屋島~壇ノ浦と平家は敗走し滅亡していきました。栄西の居た今津の誓願寺はもともと平家が日宋貿易の権益を握っていた所でしたので、それまでは、栄西も平家の庇護のもとにあったわけでした。平家の滅亡によって誓願寺の存立も危うくなってきたのが二度目の入宋の理由の一つだったのかもしれません。 <歴史探訪>  誓願寺  栄西が二度目の渡宋の前にとどまっていたのが博多湾の入り口にある今津の誓願寺です。私が訪れたのは90年代の終わりころでしたが、小高い丘の上に建つ誓願寺は今は真言宗で、私が岡山から来たというと住職がいろいろなことを教えてくれました。(私の実家の菩提寺は児島の由加山蓮台寺で、そのことを話すと蓮台寺のことはよくご存じで親しく話を伺うことが出来ました。)住職の話では今津は当時日宋貿易の拠点として栄えていた港で、栄西が滞在した当時は平家の支配していた時代、その権益からかなりの資金を蓄えることが出来ていたのではなかろうかという話でした。寺の裏山からは博多湾を一望でき、日宋貿易の船が行き交いしていた時代を思い浮かべることが出来ました。 (令和元年2月4日 開催 吉備国出前講座 矢掛町小田公民館)

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