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2022年9月18日日曜日

禅宗停止の宣旨と博多聖福寺の建立

平安~鎌倉 日本の宗教史を変えた備作の人物 栄西(3) 禅宗停止の宣旨と聖福寺の建立 禅宗停止の宣旨   栄西が帰朝する少し前に大日房能忍という僧が、都で達磨宗として禅宗を唱えていました。彼は南宋の阿育王寺に使者を使わして法印を手に入れ禅を鼓吹していましたが、比叡山の僧徒の反感を買っていました。そのころ帰朝した栄西が九州方面で禅を広めているという情報が都にも伝わり、その普及を危惧した筥崎宮の社僧の良弁が、比叡山に登り禅宗反対を比叡山の僧徒にけしかけました。  建久五年の7月、朝廷から達磨宗停止の宣旨が下されました。翌建久六年栄西は呼び出され、九条兼実の指示のもと役所で彼の考えが問いただされました。この時栄西は、「禅の訪問は今に始まったものではなく、伝教大師の内証仏法相承血脈譜は、達磨大師の禅宗から説き起こされている。と明快な論述を述べました。聞き入る一同すっかり感服してし、天台僧の中には栄西の正当性を買うものもいました。しかし、その後も禅宗という新しい宗派の興隆を快く思わない勢力からの陰湿な抵抗や妨害に苦しめられていったのです。  建久六年奈良の東大寺では大仏殿落慶供養会が催されました。この場には東大寺復興の大檀越将軍源頼朝が夫人政子とともに参加して挙行されました。文武百官が一堂に会する東大寺大仏殿落慶供養会に間に合うように。栄西は法恩寺の菩提寺の株を分け、それを東大寺に送りました。菩提樹は東大寺の鯖木(さはの)の跡に植えられ、今に伝えられています。
聖福寺の建立   栄西は国家鎮護の本格的禅寺院として朝廷の勅許のもとに七堂伽藍の建立を急ごうとしていました。この時、東大寺勧進として、朝廷や公家たちにも、そして何よりも当寺の政権の実権を握る源頼朝から深い信頼を得ていた重源が重要な働きをしたことは間違いないでしょう。鎌倉の頼朝のもとにこの東大寺供養会の三か月後、栄西から聖福寺建立に係る申状(言上書)が届けられました。言上書が届くと頼朝は許可の花押をしたため、朝廷からは特別に非常守護として靫負尉(ゆげいのじょう)をくださる旨の綸旨がおりたのです。  こうして頼朝からは博多百堂の広大な土地が下賜され、本格的な建設計画が進められて行きました。棟梁には後に孫太郎と名乗る宋からついてきた工匠が任命されました。聖福寺はその後十年の歳月を費やし、元久元年(1204)に完成しています。 俊芿の来訪   この建立工事が始まって間もなくの頃、粗布の衣をまとった一人の僧が訪ねて来ました。それが後に泉湧寺を創始した俊芿(しゅんじょう)律師です。俊芿は「戒・定・慧の三学の中で最も基礎となるのは戒であるとして、純粋に修道に取り組んでいました。栄西はこの俊芿との会合にいたく感動、将来を託そうとしたのです。俊芿はその後渡宋、十五年余の後、建歴元年(1211)に帰朝します。洛東の仙遊寺の住持になりますが、衰退甚だしい寺の再興を願い出たところ後鳥羽上皇が意を嘉し純絹一万疋を賜り、名を泉涌寺と改めました。その後この寺は台・密・禅・律の四宗兼学の道場となり、皇室の菩提所として崇敬される名刹となったのです。   「出家大綱」と「興禅護国論」   聖福寺の建立に取り組んでいたころ栄西は重要な著作も行っています。正治二年(1200)に発表された「出家大綱」は建久六年(1195)に書き上げられています。聖福寺建立の勅許がおりた時期です。そして、「大いなる哉 心や」の出だしで始まる、栄西の代表作「興禅護国論」です。本書の成立は建久9年とされていますが、草稿は建久六年に九条兼実の指示で役所に呼び出され詰問された前後だろうと言われています。全十章の興禅護国論は第1章の令法久住門と、第二章の鎮護国家門が重要で、第一章は仏法を永遠ならしめるものが禅であるという内容であり、第二章は仏法は国家を鎮護するものであり、国王は仏法を保持すべきものとの考えをしたためています。

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