19日 岡山人物銘々伝を語る会で
吉備の秦氏と岡山の人物 和気清麻呂~法然 のテーマで話す
あらためて 日本の歴史、文化、宗教、産業 日本のもっとも大切なもののすべてを作り上げてきた
秦氏の偉大さを 実感
にもかかわらず 秦氏の歴史の 最も輝いた平安京の時代を境に 秦氏は 日本の歴史の主要舞台から消えてしまったかのごとくである
平安の時代の最終ランナーとして 日本宗教界の最大のスターであり、最大の革命者として登場した法然の活躍を境に
そして見えてきた
「秦氏」の名前は消えていったかのごとくであるが・・・
実は 法然の宗教として 大衆救済の宗教として そしてその鎌倉仏教に帰依した鎌倉・関東武士団の歴史として (栄西禅師も広くは秦氏である そしてその他の祖師たちも)
そして明治維新も秦氏が先導したかのごとくである
にもかかわらず 現代の日本は かって失速した秦氏の中から 新しい改革者が法然が登場したように 改革者の登場を渇望しているかのごとくである
秦氏と日本と吉備の国
日本列島の中で最も輝いた吉備の国の時代
その吉備の歴史と文化を造りだし、輝かせてきたのが「秦氏」である。
その吉備の秦氏の中から、和気清麻呂や吉備真備、法然や栄西が登場した。
そして更に続く多くの歴史を輝かしてきた人物たち
岡山の歴史と文化、そして人物を見ながらそのことが見えてきた。
その秦氏が作ってきた、日本を輝かせてきた吉備の国の文化が、今の、そして未来の日本と世界を輝かせるのではないか!
大和の古代国家成立に貢献した吉備と秦氏
大和の王朝成立に深くかかわった「吉備」と「秦氏」、 「吉備の秦氏」と言ったほうがいいのかもしれない。
2011年8月21日日曜日
2011年8月14日日曜日
錦織神社
8月8日美咲町の錦織神社を訪問した。
秦氏ゆかりの神社である。
久米郡誌を見ると
・錦織部 久米郷の南に旧錦織村がある。ここは一面の大水田地区の背後にゆるやかな丘陵を持ち、人家は山麓に集中している。ここは一村で一郷となった珍しい土地である。ここの氏神錦織神社の祭神は秦氏の祖といわれる。秦氏繁栄の地で高級織物を代表する錦を製作する錦織部がおかれた吉備でただ一つの場所である。隣接する桑村が養蚕製糸の基地であったと考えられる。
とある。
神社を訪れると宮司さんが迎えてくれて、神社の由緒など教えていただいた。
今の宮司さんの祖父がまとめたと言う錦織神社の由緒の書を見せていただいたが、そこには作陽誌などにある神社の由緒にかかわる諸文献がまとめられ、そこには秦氏に重要なかかわりのある神社であることが綴られていた。
またそのころここ錦織の郷で孝行ものとして記録に残る秦豊永を顕彰する集まりが全国から秦氏の関係者や地元の住民が集まり、さらに唱歌も作られて郡内で歌われたそうである。
秦氏は渡来の殖産の民で、その民をあらわす太秦(うずまさ)と言う名が,絹の織物をうずたかくとあるように絹織物が主要な殖産の産物であった。
当時今の岡山県で唯一の絹の産地となったのがここ錦織の地だったそうである。
秦氏は鉄産にかかわったことも有名で現在の久米町や久米南町でもたたらの後が確認されている。
法然上人の母君は「秦氏の君」と言われたが、この地域が殖産の地として栄えた秦氏が住まった地域であったことがわかる。
今は寂れた一農村のようになっているがかっての栄華の時代を思い起こされた。
8月19日午後6時から県立図書館で「吉備の秦氏と岡山の人物~法然と秦氏」の題目で話す予定です。主催は岡山人物銘々伝を語る会です。
秦氏ゆかりの神社である。
久米郡誌を見ると
・錦織部 久米郷の南に旧錦織村がある。ここは一面の大水田地区の背後にゆるやかな丘陵を持ち、人家は山麓に集中している。ここは一村で一郷となった珍しい土地である。ここの氏神錦織神社の祭神は秦氏の祖といわれる。秦氏繁栄の地で高級織物を代表する錦を製作する錦織部がおかれた吉備でただ一つの場所である。隣接する桑村が養蚕製糸の基地であったと考えられる。
とある。
神社を訪れると宮司さんが迎えてくれて、神社の由緒など教えていただいた。
今の宮司さんの祖父がまとめたと言う錦織神社の由緒の書を見せていただいたが、そこには作陽誌などにある神社の由緒にかかわる諸文献がまとめられ、そこには秦氏に重要なかかわりのある神社であることが綴られていた。
またそのころここ錦織の郷で孝行ものとして記録に残る秦豊永を顕彰する集まりが全国から秦氏の関係者や地元の住民が集まり、さらに唱歌も作られて郡内で歌われたそうである。
秦氏は渡来の殖産の民で、その民をあらわす太秦(うずまさ)と言う名が,絹の織物をうずたかくとあるように絹織物が主要な殖産の産物であった。
当時今の岡山県で唯一の絹の産地となったのがここ錦織の地だったそうである。
秦氏は鉄産にかかわったことも有名で現在の久米町や久米南町でもたたらの後が確認されている。
法然上人の母君は「秦氏の君」と言われたが、この地域が殖産の地として栄えた秦氏が住まった地域であったことがわかる。
今は寂れた一農村のようになっているがかっての栄華の時代を思い起こされた。
8月19日午後6時から県立図書館で「吉備の秦氏と岡山の人物~法然と秦氏」の題目で話す予定です。主催は岡山人物銘々伝を語る会です。
2011年8月3日水曜日
岡山人物銘々伝を語る会7月まとめと8月案内
「岡山人物銘々伝を語る会」第61回例会のご案内
7月例会のまとめ 代表代行 久井勲氏
第60回(7月15日)の例会は 百鬼園倶楽部会長の岡将男氏に「内田百閒の素顔」について語っていただきました。内田百閒については、文章に凝りに凝る、洒脱と皮肉と頑固一徹の人という印象が強いですが、彼の作品を愛する人々の集まり、百鬼園では、そのキャラクターのよってきたるところや、そのエピソード等が、今もなお語り草となっているようです。席上いただきました資料では、昔の岡山市内の地図が描かれてあり、特に六高周辺では店屋の名前までもが記されており、ご覧になった方は懐かしく、今において縁を感じた方もいらっしゃったのではないかと、推察いたします。
私の文学的感覚ですが、百閒文学は、好きな人はとことん惚れ込む一方で、作品にテーマ性や目的論的意味合いを期待する人(夏目漱石の弟子という系譜から、そう期待する人いらっしゃるようです)には、必ずしもそうでないのかもしれません。それはともあれ、百閒の諧謔や反語に満ちた意見や感想の表明、ないし行動は、かなり“岡山的なるもの”と比較の上で出てきているなあ、と感じました。今の日本は昔と違い、郷里と東京との間の垣根は段々と低くなっています。百閒の時代には持ちえた頑固さは、今では目立たなくなっています。そういう意味で百閒文学は、”岡山的なるものの安堵”を、再び感じることができるものと言えるかもしれません。
8月の例会は下記のとおりです。
記
日時:平成23年8月19日(金)※ 午後6~8時 (※通例は第3金曜日です)
場所:岡山県立図書館の2階
内容:「吉備の秦氏と岡山の人物―法然上人と秦氏とのかかわりから」
講師: 吉備の国岡山の歴史と未来を語る会 山田良三 氏
参加費: 500円
[法然上人と秦氏について]
実に数多くの偉人を輩出してきた岡山ですが、とりわけ宗教的人物に有名な人物が多い。その背景を見てみると、古代日本最大の渡来豪族と言われた「秦氏」とのかかわりが見えてくる。平安京の造営にかかわった和気清麻呂が秦氏との密接な関係を持っていたことは有名だが、その平安時代末期に、日本の宗教史に革命的変化をもたらした浄土宗の開祖法然上人とのかかわりは、これまであまり知られていなかったように思う。今回は法然上人と秦氏とのかかわりを軸に吉備の秦氏と岡山の人物について語りたい。(山田)
2011年7月21日木曜日
内田百閒の話を聞いて
7月15日 内田百閒の話を聞いた
講師は岡山ではその名の知られた岡将男氏
鉄道ファンでもある筆者は路面電車の環状化などに取り組む岡氏のことは良く聞いていたが、トラムの前に内田百閒ありと聞いて納得した。
最近、文学作品とはトンと縁のない当ブログの筆者にとっては、鉄道好きの作家の印象は持ちながらもその作品や人柄に触れる機会はほとんどなかったが、岡氏の話を聞きとても興味を持った。
有能な文章能力を持ちながらも、金には恵まれず、借金名人だったとの話には驚いた。
岡氏自信も会社倒産と言う悲惨な経験をして内田百閒と会い通じる世界を体験
経済的困窮の中で味わう人間らしさを内田百閒はその文章の中に秘めていると聞き、多くの共感を人々に与えたと聞く。
共感する世界を感じた!内田作品も読んでみよう!
講師は岡山ではその名の知られた岡将男氏
鉄道ファンでもある筆者は路面電車の環状化などに取り組む岡氏のことは良く聞いていたが、トラムの前に内田百閒ありと聞いて納得した。
最近、文学作品とはトンと縁のない当ブログの筆者にとっては、鉄道好きの作家の印象は持ちながらもその作品や人柄に触れる機会はほとんどなかったが、岡氏の話を聞きとても興味を持った。
有能な文章能力を持ちながらも、金には恵まれず、借金名人だったとの話には驚いた。
岡氏自信も会社倒産と言う悲惨な経験をして内田百閒と会い通じる世界を体験
経済的困窮の中で味わう人間らしさを内田百閒はその文章の中に秘めていると聞き、多くの共感を人々に与えたと聞く。
共感する世界を感じた!内田作品も読んでみよう!
2011年7月6日水曜日
岡山人物銘々伝を語る会6月まとめと7月案内
「岡山人物銘々伝を語る会」
第60回例会のご案内
代表世話人代行 久井 勲
第59回(6月17日)の例会は 、高橋義雄氏に「興譲館館祖阪谷朗盧と三島中洲、渋沢栄一との親交」について語っていただきました。
ペリー来航と正しく同時期の嘉永6年6月に創立成った興譲館の館祖、阪谷朗盧(ろうろ)を中心に、また鴻学、産業いまだ黎明なる中、後世、斯界のリーダーとなる三島中洲、渋沢栄一と、阪谷との親交について触れていただきましたが、いずれの人物も、新生日本を何とかしようとの熱い志を抱いていたことが、いまさらに知りえて、なかなか岡山の人国記も豊富なることを感じました。
彼らの事績はつとに有名ですが、人と人との出会いという面では、渋沢が幕末に井原に農兵の募集に来て阪谷朗盧と知り合い親交を結んだこと、阪谷の長男芳郎がのちに大蔵省に入省して渋沢の二女と結婚していること、は、初めて知りえたことでした。なるほどに歴史の影には“縁”が生きていることを思います。
また、同日は興譲館出身の方や学校関係の方も参加しておられ、精神性に重きをおく伝統を懐かしむ声の聞かれました。
7月の例会は下記のとおりです。
記
日時:平成23年7月15日(金)※ 午後6~8時 (※通例は第3金曜日です)
場所:岡山県立図書館の2階 (元へ戻りました)
内容:「内田百間の素顔」
講師:百鬼園倶楽部会長 岡 将男 氏
参加費: 1,000円
内田 百間(うちだ ひゃっけん) 1889年(明治22年)5月29日 古京町の造り酒屋「志保屋」の跡取り息子として生まれる。岡山中学在学中に生家が廃業、六高卒業後東京帝国大学に進み在学中に夏目漱石の門下となる。小説家、随筆家。本名は内田 榮造。
戦後は筆名を内田 百閒と改めた。別号は百鬼園(ひゃっきえん)という。「百鬼園」を「借金」の語呂合わせとする説もあるが、本人は一応のところ否定している。迫り来る得体の知れない恐怖感を表現した小説や、独特なユーモアに富んだ随筆などを得意とした。後輩の芥川龍之介に慕われたほか、師である夏目漱石の縁故から夏目伸六と親交が深かったことでも有名。
参加希望及び問い合わせは吉備楽土まで
参加希望及び問い合わせは吉備楽土まで
2011年6月29日水曜日
吉備の秦氏と岡山の人物
8月に「吉備の秦氏と岡山の人物」というテーマで話をすることになっている。
そのための材料をいろいろ集めている最中だが、これが膨大なテーマだということが分かってきた。
吉備の秦氏というが、その全貌はこれまで誰もまとめていない。そもそも日本の歴史の中で、吉備の歴史は古事記日本書紀を始めほとんど記述がない言っていくらいである。
多くの歴史の研究者が、吉備の国、しかも秦氏のことにはほとんど触れていない。
最近幾人かの方が「邪馬台国吉備説」であるとか、吉備に注目する学説を唱えていたりするが、膨大な古代日本史研究の中では「吉備」は無視されてきたといってもいい。
そのような中ではあるが、岡山大学考古学部の近藤義郎先生の研究や、近藤先生の楯築遺跡の研究を基にしながら書かれた薬師寺慎一先生の論文は注目に値すると思っている。
また、磐座や地名の研究をしながら秦氏について言及された佐藤光範さんの研究に注目してみたいと思っている。
岡山からは実に偉大な人がたくさん輩出している。その先駆けとも言うべきなのが「吉備真備」であり「和気清麻呂」であろう。
和気清麻呂が秦氏、特に山背の秦氏と密接な関係を持っていたことはよく知られている。和気氏と秦氏の関係は、和気氏の出身地である備前、美作でもその関係が密接であったことが明らかである。更には宇佐八幡との関係もあり、道鏡事件のとき流された大隅でも秦氏との関係があったのではないかと思われる。
さて、薬師寺慎一先生の書いた、備中中枢部の秦氏に関する論文を読ませていただくと、「吉備氏」=「秦氏」という構図が浮かび上がってくる。応神天皇の妃、兄媛が故郷に帰りたいということで、吉備に帰るが、その兄媛を追って天皇が来られて、兄媛の兄御友和別が歓迎した。その地が葉田(ハダ)である。そして御友別の子達に吉備の国を分けて与えた。それが上道氏や下道氏、三野、香屋、笠臣などであるという。
さらに戦前吉備を代表する歴史家永山卯三郎氏が著わした岡山県通史の中で、「葉田は東は上道郡の可知村、財田村土田(はだ)、幡多村から西は高梁川西岸の秦郷に至るいったいを言ったものか・・」とあることを紹介している。
そうだとすれば下道氏から出た吉備真備もその後賀陽氏から出たという栄西禅師も秦氏の流れをくむ人物と見ることができる。
そして更に、二流れの幡から生まれたという法然上人の誕生につながる。
そのための材料をいろいろ集めている最中だが、これが膨大なテーマだということが分かってきた。
吉備の秦氏というが、その全貌はこれまで誰もまとめていない。そもそも日本の歴史の中で、吉備の歴史は古事記日本書紀を始めほとんど記述がない言っていくらいである。
多くの歴史の研究者が、吉備の国、しかも秦氏のことにはほとんど触れていない。
最近幾人かの方が「邪馬台国吉備説」であるとか、吉備に注目する学説を唱えていたりするが、膨大な古代日本史研究の中では「吉備」は無視されてきたといってもいい。
そのような中ではあるが、岡山大学考古学部の近藤義郎先生の研究や、近藤先生の楯築遺跡の研究を基にしながら書かれた薬師寺慎一先生の論文は注目に値すると思っている。
また、磐座や地名の研究をしながら秦氏について言及された佐藤光範さんの研究に注目してみたいと思っている。
岡山からは実に偉大な人がたくさん輩出している。その先駆けとも言うべきなのが「吉備真備」であり「和気清麻呂」であろう。
和気清麻呂が秦氏、特に山背の秦氏と密接な関係を持っていたことはよく知られている。和気氏と秦氏の関係は、和気氏の出身地である備前、美作でもその関係が密接であったことが明らかである。更には宇佐八幡との関係もあり、道鏡事件のとき流された大隅でも秦氏との関係があったのではないかと思われる。
さて、薬師寺慎一先生の書いた、備中中枢部の秦氏に関する論文を読ませていただくと、「吉備氏」=「秦氏」という構図が浮かび上がってくる。応神天皇の妃、兄媛が故郷に帰りたいということで、吉備に帰るが、その兄媛を追って天皇が来られて、兄媛の兄御友和別が歓迎した。その地が葉田(ハダ)である。そして御友別の子達に吉備の国を分けて与えた。それが上道氏や下道氏、三野、香屋、笠臣などであるという。
さらに戦前吉備を代表する歴史家永山卯三郎氏が著わした岡山県通史の中で、「葉田は東は上道郡の可知村、財田村土田(はだ)、幡多村から西は高梁川西岸の秦郷に至るいったいを言ったものか・・」とあることを紹介している。
そうだとすれば下道氏から出た吉備真備もその後賀陽氏から出たという栄西禅師も秦氏の流れをくむ人物と見ることができる。
そして更に、二流れの幡から生まれたという法然上人の誕生につながる。
2011年6月23日木曜日
吉備歴史探訪会6月例会 誕生寺 本山寺
アイアンロード
京大名誉教授で、日本の古代史研究で有名な上田正昭教授が総社市の姫社神社に来たとの話を、姫社神社総代の板倉さんから聞いたが、そのとき上田教授が「鉄産の民が中原から久米南に行った」と講演会で話をしていたとのこと。
法然上人の家系が秦氏とかかわることは明らかになっているが、このあたりのことを今回探ってみる。
久米南町誌を見ると久米南町の北、現在の美咲町に旧錦織村があり、ここには秦氏が祀った「錦織神社」があるとある。欽明天皇の時、秦氏の納める織物の量が山をなすほど多かったとあり、当時の秦氏の繁栄を伝えている。鉄産とともに久米郡の一帯が秦氏の栄えた地域であったのであろう。
今回、誕生寺と、法然上人の両親が、その子を授かるために祈願したと言う本山寺を訪ねる。本山寺に行く途中には「波多神社」がある。もとは畑三社権現と言ったそうだが、ここにも秦氏の名残がある。
探訪会今回は25日土曜日、10時に誕生寺集合です。
京大名誉教授で、日本の古代史研究で有名な上田正昭教授が総社市の姫社神社に来たとの話を、姫社神社総代の板倉さんから聞いたが、そのとき上田教授が「鉄産の民が中原から久米南に行った」と講演会で話をしていたとのこと。
法然上人の家系が秦氏とかかわることは明らかになっているが、このあたりのことを今回探ってみる。
久米南町誌を見ると久米南町の北、現在の美咲町に旧錦織村があり、ここには秦氏が祀った「錦織神社」があるとある。欽明天皇の時、秦氏の納める織物の量が山をなすほど多かったとあり、当時の秦氏の繁栄を伝えている。鉄産とともに久米郡の一帯が秦氏の栄えた地域であったのであろう。
今回、誕生寺と、法然上人の両親が、その子を授かるために祈願したと言う本山寺を訪ねる。本山寺に行く途中には「波多神社」がある。もとは畑三社権現と言ったそうだが、ここにも秦氏の名残がある。
探訪会今回は25日土曜日、10時に誕生寺集合です。
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