Ⅰ月6日
勝山に行ってきました。
今は真庭市、かっては勝山藩2万3千石の城下町
鳩山首相の先祖、鳩山家の出生の地ということで最近注目を集めている。
勝山に着くと、中国勝山駅の中に観光案内所があり、観光パンフレットでも貰おうと覗くと
早速職員の人が顔を出して、詳しく教えてくれた。
町並み保存地区が最近有名になっているらしい。駅の脇にも駐車場があるが、市内李随所に観光駐車場があるとのことで、車を走らせる。
町並み保存地区の真ん中あたりに歴史資料館があって、早速覗いてみた。
シーズンオフということで、ほとんど観光客はいなかったが、職員の方が丁寧に対応してくれて、
訪問の意図、鳩山和夫と寂室元光師のことを話すと、資料を貸してくれた。
郷土出身の偉人を見ると、鳩山和夫や寂室元光師(円興禅師)に加え、明治初期、シーボルトの弟子でシーボルトの娘お稲に産学を教えた、石井宗謙や、宇喜多秀家の母お福の方もこの地の生まれとか、その他にも多数著名人を輩出している。
勝山は昔美作高田といった。豊後高田と越後の高田(現上越市)と、石が割れて3つに分かれて町ができたといういわれも面白い。下の写真は高田城址、左下は現在の真庭市役所。
一足伸ばすと有名な神庭の滝があるということで、行ってみる。
入園料300円を払って滝に向かって歩くとスタッフの方が掃除をしていて、野生の猿が親子であろうかよりそって一生懸命何かを拾っている、何か食物になるものがあるのか、寒空の下猿も寒かろうと思う。
滝は流石に雄大で、紅葉の季節とか来るといいな
再び町内に帰り、三浦邸(藩主三浦家の屋敷跡―シーズンには無料開放しているとのこと)
圓応禅師(寂室元光師)の産湯の井戸(真庭市役所のそば)
寂室元光禅師は鎌倉末期臨済宗の高僧で、元の国にわたり修業、帰国後は各地を遍歴
備中松山(高梁市)の頼久寺の開祖として知られ、晩年は近江佐々木氏に招かれ近江の名刹、遠久寺の開祖となっている。
平成大合併で真庭市ができたが、ここもと勝山町役場が真庭市役所になっている。役場に入ると入口に真庭市の憲章が掲げてあって、その中に歴史を文化を重んじるという1節が気に入って写真を撮らせてもらう。この市役所の裏山がかっての勝山城址、勝山藩の中心地で
真庭市、以前真庭郡の名前は真島郡と大場郡を合わせた名前で、かっての勝山藩は両郡を治めていたいたので、現在の真庭市域がほぼかっての勝山藩の領域になっている。
現在真庭市は人口5万4千人、とても広い市域であるが、かって城があった裏山と市役所の姿を見ながらかっての勝山城の時代をしのぶ
少し下ってゆるい坂になった道を登ると寺社が並んでいる。
いちばん奥手が高田神社、手前に化生寺などの寺社群があり、その一番手前が安養寺
浄土宗の寺で、入口には鳩山首相が墓参にきたことが張り紙してあった。
ここは藩主三浦家の菩提寺でもあり、最も高い段には三浦家の代々の墓が祀られてある
鳩山家の墓はこの中にあると思う。場所はわからないが、代々の方のために手を合わせてきた。
圓応禅師近江の遠久寺ゆかりの寺があるということで、近くに武家屋敷館があるが、夕刻ですでに閉館時間、少々さびれた感じの寺を訪ねて今日の訪問は終わり
先日備中松山城跡と高梁の街は尋ねたが、ここ勝山の街もかっての城下町の風情をとてもよく残した街で、歴史と文化の香りを感じることができた。
美作津山から備中松山にかけての地域は実に多くの偉人、著名人を産み出している。
今回しみじみそのことを感じることができた。
いい季節に夫婦で、家族で、同好の士とともに来たい。
2010年1月13日水曜日
法然上人と椋の木、内村鑑三 津山ホルモンうどん 聖萬堂の栗餡團
Ⅰ月5日 お正月にどこにも行けなかったので家内がどこかに連れて行ってほしいと
最近評判の「津山ホルモンうどん」を食べに行こうかと誘って出発
行きがけに、備前一宮の「布津御霊神社」を訪問、あいにく宮司さんはいなかったが、参拝
法然上人の誕生の地「誕生寺」を訪れる。「椋の樹」をしげしげと眺める
最近読んだ本、「秦氏と法然」(山田繁夫氏著)にあるが、国宝法然上人行状絵図にある、二流れの幡がかかって誕生したと言われる椋の木、何代目かだそうだが、法然上人誕生の時をしのぶ
その後、津山城、鶴山公園の登り口にある、かっての基督教図書館、いまは民俗資料館になっているが、去年訪問した時に、内村鑑三が法然上人にいたく感銘を受けて尊敬していたという話を思い出し、妻を誘ってみてみようとしたが、あいにく休館日、せっかく来たのに残念だと思っていたら、館長さんがいて特別に開けて見せてくださった。ありがとうございます。
近くの観光センターで「津山ホルモンうどん」のパンフレットをもらって、近くにある「吉平」という店に入った。マンガ本が並んでいて、高校生など多いんですかと、おかみさんに聞いたが、学生はそう多くないそうだ。ホルモンうどんが話題になって一時ぐっとお客さんが増えたが、今は少し落ち着いてきたそうである。
出来てきた「ホルモンうどん」味噌だれが美味しい。ホルモンのうまみが溶け込んでうまい。
妻は「私は歯が悪いのでちょっと」と言っていたが味には満足していたようだ。
2月に「法然上人」の人物伝を話すようになっているので、津山市内の知人に法然上人と内村鑑三に関する資料はないかと頼んでいたので、「できている」ということだったので、訪ねる。しばし、歴史談義。
帰り道、鏡野町に「聖萬堂」というお店があって「栗餡團」というのが美味しいという話だったので訪ねてみた。一度OHKのニョッキン7にも登場して、地元でも評判らしい。
大きな栗がたっぷり入って餡も程よい甘さでとても美味しい。
店主がおられて明日から「岡山の天満屋」で実演販売だとか、全国各地のデパートの売場で実演販売していてとても評判らしい。全国からも注文があって、インターネットでも注文を受け付ける準備をしているとか。家族にお土産を買って帰る。家族みんな美味しいととても喜んでくれた。
最近評判の「津山ホルモンうどん」を食べに行こうかと誘って出発
行きがけに、備前一宮の「布津御霊神社」を訪問、あいにく宮司さんはいなかったが、参拝
法然上人の誕生の地「誕生寺」を訪れる。「椋の樹」をしげしげと眺める
最近読んだ本、「秦氏と法然」(山田繁夫氏著)にあるが、国宝法然上人行状絵図にある、二流れの幡がかかって誕生したと言われる椋の木、何代目かだそうだが、法然上人誕生の時をしのぶ
その後、津山城、鶴山公園の登り口にある、かっての基督教図書館、いまは民俗資料館になっているが、去年訪問した時に、内村鑑三が法然上人にいたく感銘を受けて尊敬していたという話を思い出し、妻を誘ってみてみようとしたが、あいにく休館日、せっかく来たのに残念だと思っていたら、館長さんがいて特別に開けて見せてくださった。ありがとうございます。
近くの観光センターで「津山ホルモンうどん」のパンフレットをもらって、近くにある「吉平」という店に入った。マンガ本が並んでいて、高校生など多いんですかと、おかみさんに聞いたが、学生はそう多くないそうだ。ホルモンうどんが話題になって一時ぐっとお客さんが増えたが、今は少し落ち着いてきたそうである。
出来てきた「ホルモンうどん」味噌だれが美味しい。ホルモンのうまみが溶け込んでうまい。
妻は「私は歯が悪いのでちょっと」と言っていたが味には満足していたようだ。
2月に「法然上人」の人物伝を話すようになっているので、津山市内の知人に法然上人と内村鑑三に関する資料はないかと頼んでいたので、「できている」ということだったので、訪ねる。しばし、歴史談義。
帰り道、鏡野町に「聖萬堂」というお店があって「栗餡團」というのが美味しいという話だったので訪ねてみた。一度OHKのニョッキン7にも登場して、地元でも評判らしい。
大きな栗がたっぷり入って餡も程よい甘さでとても美味しい。
店主がおられて明日から「岡山の天満屋」で実演販売だとか、全国各地のデパートの売場で実演販売していてとても評判らしい。全国からも注文があって、インターネットでも注文を受け付ける準備をしているとか。家族にお土産を買って帰る。家族みんな美味しいととても喜んでくれた。
2009年12月4日金曜日
中江藤樹が熊沢蕃山に教えた”心法”と士(さむらい)道
藤樹が蕃山に教えた”心法”と
熊沢蕃山の士道
これはまさに禅の世界
幕末維新に多大な影響を与えた長州の吉田松陰、薩摩の西郷隆盛、そして幕末の経世学者山田方谷が学び教えた「陽明学」 陽明学の祖と言えば近江聖人と言われた中江藤樹
その藤樹の教えを(学問としてでなく精神として)もっとも忠実に受け継いだと言われるのが、備前岡山藩池田光政に仕えた熊沢蕃山、
熊沢蕃山はこの”心法”の故に、徳川の御用学者、朱子学者たちから嫌われ岡山藩の要職から追われ最後は武蔵の古河に幽閉されて終わる。しかし蕃山が残した文書はその後、水戸の藤田東湖や、山田方谷や佐久間象山の師、佐藤一斉などに多大な影響を与える。山田方谷は、蕃山に心酔していたと言う。
心法とは
藤樹の門を辞した後の蕃山に対する藤樹の教えは“心法”のみであって、孝経・四書などの経典についての解釈は、一言もなされていない。従って、番山は心法に専念して、自己のうちなる自己中心的、利己主義的な“わたくし心”、これによって起こる喜怒の感情、好悪による行動選択、先入見による是非の判断等の一切を払拭し、是を超越した新境になるように、自己の心的状態を内省し、その間に現われ出る心の”実体“(”本体“)を把握し、これに従って自己の行動を律し、聖典の意味を探らんとしている。
藤樹が教え、また蕃山が教えた士道
儒道すなわち士道
番山は、「士は何をもってか天職とせん」という問いに答えて「人を愛するなり、民は五穀を作りて人を養う。婦女は絹を織て人に着せしむ。士はすることなし。人を愛せずば済うところなし。」といった。
文武二道
番山は、武士の天職を“人を愛するなり”とし、その具体的実践を文武にわたって述べて、“これを文武二道の士という。人を愛するのことなり。”と結んでいた。
良き武士というは、あくまで勇ありて武道武芸の心がけ深く、何事ありても躓くこと無きように嗜み、さて主君を大切に思いたてまつり、自分の妻子より始めて天下の老若を不憫におもう仁愛の心より、世の中の無事を好み、その上に不慮ことできる時は、身を忘れ家を忘れて大なるはたらきをなし、軍功を立てる人あらば、一文不通の無学というとも、文武二道の士なるべし。
新渡戸稲造が海外に紹介した“武士道”
このあたりにルーツがあるようです。
2009年11月26日木曜日
山田方谷と禅 寂室元光師
山田方谷と禅とのかかわりについて
山田方谷は文政10年(1827)京都遊学中に蘭渓禅師をたずね坐禅に努めたと言われる
方谷にとって禅は朱子学から陽明学へと移行する橋渡しの役割を果たしている。これは山田琢氏が述べているのだが、もともと方谷の学問はわが心に自得すること、すなわち悟りを得ることを目指していた。だから、知識としての学問、朱子学を学びながら、座禅を組みながら悟りを求める中に、陽明学との出会いがあったのではないだろうか。
そして、忘れてはならないのは寂室元光師とのかかわり
山田方谷の晩年に最も大きな影響を与えたのは人としての寂室であり、その語録である「寂室語録」であった。
寂室元光師とは:美作高田(現:勝山 最近鳩山由紀夫首相の曽祖父鳩山和夫の出身地として注目を集める)に誕生(正応3年 1290年)13歳で上京東福寺に入る。鎌倉禅興寺の約翁徳倹に弟子入り、「元光」の名を与えられる。31歳のとき「元」の国にわたり修行7年、当時禅の第1人者と言われた高僧中峰明本から学び「寂室」の名を授けられる。備後・備前・備中・美作をはじめ全国の寺々を回る、自然の中に身を置き質素な生活に徹し、自己に厳しく人に仏の道を説くという中峰明本の教えを実践した。諸国遍歴30年、晩年は近江の佐々木氏に請われ、永源寺の地で修行と共に弟子を育てた。
時の天皇からは天竜寺の、足利将軍からは鎌倉建長寺の住職に招かれたが、いずれも断り、地方ににあって隠遁孤高の生活を送った。
方谷が寂室についてうたった漢詩があるが、それには
室光照徹超禅僧 寂光は照徹せる超禅僧
万種人情入寸灯 万種の人情寸灯に入る
・・・・・・
とある。
「この二人は500年の時空を超えて深い友情に結ばれていたのではないか、という思いに駆られることがある。」と山田方谷を学ぶ会の会員の渡辺道夫氏が高梁川流域連盟機関紙「高梁川」の62号の中で述べている。
2009年11月24日火曜日
鳩山春子の結婚観
鳩山首相の曾祖母鳩山春子女史の「自叙伝」を読んでいる。
長年女子教育に携わってきた人物らしく、教育問題にはとても蘊蓄に富んだ持論を持っておられる。
その中に「結婚観」の項があった。
自身の結婚(鳩山首相の曽祖父鳩山和夫氏との結婚)の項の中に自身の結婚観が描かれている。
自身は和夫氏とお見合いして1年ほど、会うこともなく結婚式を迎えたようであるが、もう少し交流の時間があったらよかったとしながらも、西洋流の自由結婚の長所、短所を述べながら、古来の日本的な結婚の良いところと、西洋の良いところを取り入れながらの、結婚のあるべき姿を述べている。
いま日本は、自由結婚オンリーのような風潮で、結婚できない男女があまりにも多くなっている。あまりにもの自由の故の弊害を、この時代にすでに見抜いているのはさすがと思う。
自由の故に男女の関係が乱雑になり、夫婦の間の亀裂や、問題の起こるゆえんを明確に言い当ててるのはさすがである。
この論を読みながら、お見合い結婚の良いところを取り入れながら、本人たちの意志や意向も尊重していく、新しい結婚観が必要に思う。鳩山春子女史の結婚観、今に生かせば、今日の少子化や、家庭倫理の崩壊など解決に向かうのではと思う。
2009年11月23日月曜日
熊沢蕃山から山田方谷まで
「熊沢蕃山から山田方谷まで」という特別展が岡山城で開かれていたので歴史好きの仲間と行ってきた。
江戸期の藩政改革が各地で行われたが、そのはしりとも言うべきなのが熊沢蕃山であり。その最後を飾ったのが山田方谷であろう。いずれも陽明学者である。
陽明学では「知行合一」という。
山田方谷は「至誠惻怛」と言ったが、いわば憐みの情、慈しみの心が重要ということである。
良く改革改革と言うが、改革は万民のためのものでなければならない。貧しいもの、困っているもの、弱者への思いやり、それがなければ何の「改革」か?
江戸期の改革者にはその「情」にあふれている。
藩主光政と最後は仲違いのようになったが、熊沢蕃山の改革には、思いやりの情にあふれていたように思う。政治を納めるものには父母のような、親の情が大切である。父母が子をいつくしむような心があってこそ、子もまた父母を尊敬し慕う。
領民を丹に搾取の対象と考えるようでは、改革もあり得ない。
熊沢蕃山は近江聖人と言われた、中江藤樹の弟子、
江戸期は陽明学は危険思想視されて、番山も追放の憂き目にあったが、陽明学の芽は受け継がれて幕末に爆発する。
備中松山藩の山田方谷も陽明学に傾くが、維新の原動力になった、長州や薩摩の志士たち、
吉田松陰も西郷隆盛も陽明学を学んだと言われる。
江戸期、幕府は朱子学を尊重した。もともと、陽明学を起こした王陽明も朱子学へのアンチテーゼとして説かれ始めた。
陽明学が、江戸期の改革や。明治の維新に大きな影響を与えたのは間違いないであろう。
2009年10月2日金曜日
鞆浦の判決
今日の山陽新聞の一面トップは鞆の浦の景観判決
画期的判決としながら、賛成、反対両者のコメントを載せていた。
判決を評価する側として、宮崎駿関東のコメントも掲載されていた。
景観を、権利あるいは価値として認めたということは、確かに画期的だと思う。
これは、
世界全体が、日本は特にそうであるが、
開発とは何かということを問い直す時に来ているということであろう。
発展とは、良き暮らしとは何か?
重厚長大な施設を創り、物のあふれる生活、
確かに、事業推進派の人たちにしてみれば、より良き生活のために橋や埋め立てが必要ということであろうが、それが一般的価値観としては、当たり前だったのがこれまでの価値観、
ここらで、世の中全体の価値観を転換するべき時ではないのか?
これまで、開発という名のもとで、あまりにも環境を破壊し続けてきた。
そして、自然や環境を破壊し続けてきた。景観も。
日本を取り巻く海岸線から、自然な海岸線が失われてしまった。
物の豊かさや、便利さに偏った生活スタイルを改めて、真に人間らしい、心豊かな生活とは何か
?
豊かな自然の中で、平和で真に豊かな生活を目指そう!
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