江戸期の藩政改革が各地で行われたが、そのはしりとも言うべきなのが熊沢蕃山であり。その最後を飾ったのが山田方谷であろう。いずれも陽明学者である。
陽明学では「知行合一」という。
山田方谷は「至誠惻怛」と言ったが、いわば憐みの情、慈しみの心が重要ということである。
良く改革改革と言うが、改革は万民のためのものでなければならない。貧しいもの、困っているもの、弱者への思いやり、それがなければ何の「改革」か?
江戸期の改革者にはその「情」にあふれている。
藩主光政と最後は仲違いのようになったが、熊沢蕃山の改革には、思いやりの情にあふれていたように思う。政治を納めるものには父母のような、親の情が大切である。父母が子をいつくしむような心があってこそ、子もまた父母を尊敬し慕う。
領民を丹に搾取の対象と考えるようでは、改革もあり得ない。
熊沢蕃山は近江聖人と言われた、中江藤樹の弟子、
江戸期は陽明学は危険思想視されて、番山も追放の憂き目にあったが、陽明学の芽は受け継がれて幕末に爆発する。
備中松山藩の山田方谷も陽明学に傾くが、維新の原動力になった、長州や薩摩の志士たち、
吉田松陰も西郷隆盛も陽明学を学んだと言われる。
江戸期、幕府は朱子学を尊重した。もともと、陽明学を起こした王陽明も朱子学へのアンチテーゼとして説かれ始めた。
陽明学が、江戸期の改革や。明治の維新に大きな影響を与えたのは間違いないであろう。
2 件のコメント:
山田方谷は熊沢蕃山に心酔していたと言われる。
方谷や佐久間象山の師である佐藤一斉も「陽朱陰王」と言われた。
水戸の藤田東湖も熊沢蕃山の影響を受けており、吉田松陰もしかり。中江藤樹の思想をもっとも忠実に相続したのが熊沢蕃山と言われ、幕末の経世思想の成立は熊沢蕃山あってのものだった。
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