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2009年11月26日木曜日

山田方谷と禅 寂室元光師





山田方谷と禅とのかかわりについて

山田方谷は文政10年(1827)京都遊学中に蘭渓禅師をたずね坐禅に努めたと言われる
方谷にとって禅は朱子学から陽明学へと移行する橋渡しの役割を果たしている。これは山田琢氏が述べているのだが、もともと方谷の学問はわが心に自得すること、すなわち悟りを得ることを目指していた。だから、知識としての学問、朱子学を学びながら、座禅を組みながら悟りを求める中に、陽明学との出会いがあったのではないだろうか。

そして、忘れてはならないのは寂室元光師とのかかわり
山田方谷の晩年に最も大きな影響を与えたのは人としての寂室であり、その語録である「寂室語録」であった。
寂室元光師とは:美作高田(現:勝山 最近鳩山由紀夫首相の曽祖父鳩山和夫の出身地として注目を集める)に誕生(正応3年 1290年)13歳で上京東福寺に入る。鎌倉禅興寺の約翁徳倹に弟子入り、「元光」の名を与えられる。31歳のとき「元」の国にわたり修行7年、当時禅の第1人者と言われた高僧中峰明本から学び「寂室」の名を授けられる。備後・備前・備中・美作をはじめ全国の寺々を回る、自然の中に身を置き質素な生活に徹し、自己に厳しく人に仏の道を説くという中峰明本の教えを実践した。諸国遍歴30年、晩年は近江の佐々木氏に請われ、永源寺の地で修行と共に弟子を育てた。
時の天皇からは天竜寺の、足利将軍からは鎌倉建長寺の住職に招かれたが、いずれも断り、地方ににあって隠遁孤高の生活を送った。
方谷が寂室についてうたった漢詩があるが、それには
室光照徹超禅僧 寂光は照徹せる超禅僧
万種人情入寸灯 万種の人情寸灯に入る
・・・・・・
とある。

「この二人は500年の時空を超えて深い友情に結ばれていたのではないか、という思いに駆られることがある。」と山田方谷を学ぶ会の会員の渡辺道夫氏が高梁川流域連盟機関紙「高梁川」の62号の中で述べている。

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