このブログを検索

2012年11月21日水曜日

心優しき社会の実現を!

今の世の中で一番欠けているのは、「心優しさ」である。

伊原木新岡山県知事は、「教育に力を入れる」と、昨日も教育現場を訪問したとのニュースが伝えられていた。
かつての「教育県岡山」がいまは、見る影もなくなっていることはすでに久しいが・・・。
もちろん学力の向上や非行の防止は問題だが、一番の問題は何か?
問題は、「心の教育」が欠けていることである。

最も古き寺j小屋があったことで、妹尾の町は有名であり。また日本で始めての庶民のための学校、「閑谷学校」はあまりにも有名だが、いずれも「心のあり方」が教えられていたことである。

最近「論語」が注目され、地元のRSKでも「論語」の時間が出来て注目されている。
かつての岡山・・・・・。「教育県」と言われた所以は何処から来ていたのだろうか?

古くは奈良平安の時代、いやもっと古くから、教育に熱心だったのであろう。

それは吉備の国の始めから・・・

岡山県を代表する偉人の元祖と言えば、方や東、上道(備前)の「和気清麻呂」であり。西、下道(備中)の吉備真備であろう。
いずれも学問に秀で、日本の中央政界で活躍した人物である。
もちろん彼らは学問的にも優れていた。特に吉備真備などは遣唐使として訪唐し、極めて優秀であり。多彩な才能に長けていた。
しかし吉備真備にしても和気清麻呂にしても。その優秀さは学問の分野だけでなく人格のすばらしさである。特に和気清麻呂はその人格性において優れている。
清麻呂はその姉の広虫姫が孤児を養ったとの記録にもあるように、人一倍「心優しさ」が秀でていた。

今、政治にも経済にも、社会全体に必要なのは・・・、この「心優しさ」である。

今はことさらに「強さ」が強調され、競争に勝ち抜くことが強調されている。
勝った者だけの世の中になってしまっているようである。
だから学校でも「勝ち抜く」ことを教える。「何でも良い、世界一になれ」とかと言いながら戦いを鼓舞する。
これでいいのだろうか?

かつての寺子屋、もちろん閑谷学校でもそうだが、教育の主眼は「読み書き算盤」と言われたように実用的な教育であった。しかし、例えば「書」の教育の教材は「論語」であったり、教育の合間に必ず「人づくり」・・・心の教育がなされていた。
人や世の中を思いやる「心」を育てることこそが教育の柱である。骨であり、芯である。
すべての教育の基礎には「情操」や「感性」の教育がなければならない。

勝者がもてはやされる時代、敗者は消えてしまえと言うような世の中には発展はない!

はっきりいえば、弱者切捨ての新自由主義への舵取りが日本の社会と経済を危うくしている。
共存、共和、共生の世の中にこそ発展がある。
選挙制度にも欠陥がある。多数決原理は民主主義の実は最大の欠陥である。数が頼りの選挙制度は、多数を獲得したものの政治となる。選挙に勝ちたい政治家は多数者に媚を売る。かくて少数者は切り捨てられる。地域的にも人口の少ない農村は切り捨てられる。
メディアも多数者に媚を売る。視聴率第一で、少数者のことはいつも後回しである。

今の世の中は敗者には敗者復活の希望も与えられない過酷な世の中である。マイノリティーはいつも差別され、蔑視され、否定される。生き残る道さえ閉ざされる。

今世の中には、失業者や、仕事はあっても非定期雇用の貧者が増え続けている。

真の国力とは何か?・・・・
国際社会の中で日本企業も敗北を続けている。それは何が原因か?
はっきりしている。それは弱者、貧者を忘れているからである。
かつて日本を代表した企業の苦戦は、弱者に目を向けた創業者の経営精神を忘れたことにある。貧困層の喜ぶ商品より衰退する高所得層にターゲットを当てた商品開発に力を要れ、社内的にも創業者がしなっかったリストラを実施している。

すべてを解決する道筋は「心優しさ」である。
心優しさが報われる世の中を作ることである。
人として、企業も組織も「心優しさ」を誇る世の中に変えることである。帰ることである。

世の中に勝敗はつきものである。しかし勝者は驕り高ぶってはいけない。敗者には手を差し伸べ、勝者も敗者もともに固く手を取り合って、再び競い合い共生していく。
競い合うのは一番は「心優しさ」を競うべきである。

世の中に「心優しさ」を満たしていかなければならない。
世の中から「怒り」や「怨み」を解消していかなければならない。

過去の時代・・・
吉備の偉大な先祖たちの求めたもの・・・それは「楽土」
思いやりの心にあふれた故郷と世界を実現することである。

郷土をすばらしくし、日本をすばらしくしていくのは思いやる心の豊かさである。
地球星全体を楽土にしていく人物をたくさん排出していく教育を実現して行こう!


上記の記事を再度読みながら思ったこと

勝者と敗者ということ
私は戦いはあまり好まなかったが、戦いにも意義があることが解ってきた。
戦争もあれば、スポーツの戦いや選挙戦と言ったものもある。

上記に多数決原理の選挙制の欠陥を指摘したが、戦いを優劣を競うものとすれば、それは戦いの勝者が全権を掌握して横暴を振るうことではない。
権力闘争の場合。勝者が敗者を戦いの後まで徹底的に殲滅するようなこともあるし、差別抑圧するようなことも歴史上多かったがこれはもってのほかである。
一国を二分する戦いがあったとする、戦いの後に相手を抹殺すれば、全体国力は半分になる。これは戦いの本意ではない。
さて今、アベノミックスで、安部政権はとても順調のようだが、その秘訣の一つが、安部総理が総裁選の戦いの最も主力の相手だった石破現幹事長を、党内第二のもっとも重要役職につけ、また石破氏も最大限にその実力を幹事長職で発揮している、これが安部政権の強みになっている。
戦いはあったとしても、闘い終われば、過去は水に流し、ともに発展のために貢献する、これが全体発展の基本原則であろう。
成功するよきリーダーは、昨日の敵も今日の友として、ともに発展を目指す腹の太さのある人物だと思う。社員でも働きが悪いとすぐに首にする馬鹿な経営者があるが、こんな企業は絶対発展しない。

今日本には非正規雇用や、社会システムから疎外されて、行き場のなくなった人たちがたくさんいる。その人たちを最大限活用する道を作ることが今後の国際競争力をつけるにおいて最重要課題ではないだろうか。
アベノミクスにこの視点を付け加えれば、日本は本当に世界最強の国になる。そして、そして最強国家になった日本がリーダーシップをとって世界全体の繁栄に遅れを取っている国々を支援していくようになれば、世界全体を平和と幸福に満たすことができる。
それこそが「大和」である。

今日本が一部の国から嫌われているようだが、その原因の一つは、日本に負けた側に対する、配慮が不足していたことにある。もう少し、まけた側の歴史や文化や自律を尊重して、真に対等な立場で共同の協和を実現していたら、日本は完璧な勝利国になっていたのではないか。
日米戦争も戦わずして勝てた可能性もあったのではと思わされる。


0 件のコメント: