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2012年4月17日火曜日

蘇我と物部は友好的だった?

関裕二氏の「蘇我氏の正体」と「物部氏の正体」並べてみると、関氏の見解は「蘇我と物部は友好的だった」というか同盟関係にあった。と言うことであろうか。

4月28日には久方ぶりに石上布都魂神社に探訪会のメンバーで行く予定だが、ここの神社に行って宮司の物部さんにお会いして初めてお話を伺った時に「どうして物部か?」という疑問であった。
宮司さんのお名前は、物部忠三郎さん。池田藩が備前に来た時に、由緒ある神社として、崇敬し、旧姓の物部を名乗るように言われたそうである。ということは古来この地が物部の地と言うことが伝承されてきたからであろう。
関裕二氏の説では、吉備=物部である。ところが、蘇我氏によって全国に屯倉が設置された時にいち早く設置されたのが吉備であり、吉備の児島であった。
それと、吉備と言うと「鉄産」の地のイメージだが、鉄産の神様である「姫社(ひめこそ)-天日矛の妻」(探訪会で行きました)は蘇我氏の先祖とも聞いている。
関氏の説では、出雲=蘇我であろうか?出雲と吉備が連合して大和(飛鳥)の王朝を作っていった。その後九州の「ヤマト」が征服主導権を握った。それがその後の藤原しであった。大まかに言えば、こんな図式か?
同盟関係にあった蘇我と物部を争わせ、その隙に政権を奪取したのが大化の改新であり、藤原氏の陰謀であり、「古事記」、「日本書紀」はそのような観点で藤原氏に都合の良いように書かれた。と言うことであろうか?
「吉備」を軸に古代史を考える、「吉備楽土」の考えと、おおよそ一致する。
池田光政は石上の物部の神社が備前第一の神社として一宮として崇敬したが、その理由は何だったのだろうか。戦国から江戸時代初期に至る、吉備~備前の歴史観の通説は何だったのだろうか?
備前の一宮はその後吉備津彦神社になって行った。岡山でも大半の人は備前の一宮とは吉備津彦神社と思い参拝している。

大化の改新以降、歴史的に葬り去られたかのごとき蘇我と物部・・・・・、「古事記」「日本書紀」を否定することは日本史全体を否定することにもなるので、それはしないが、少なくとも藤原氏が実権を握って・・・・平安末期、平家~源氏が実権を握っていく・・・・
それ以前の日本の国家形成における出雲と吉備・・・・・・「吉備」の古代の実像が「古事記」「日本書紀」にはほとんど伺われない。この事実と、蘇我と物部の歴史は深い関係があるのでは・・・・。


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