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2012年4月28日土曜日

歴史の表で変革する人、裏で変革する人

歴史の表舞台で華々しく活躍する人があれば、人知れず、しかしその人がいなければ、歴史は変わらなかっただろうという人もいる。人にはそれぞれ使命がある。その使命をいかに自覚して生きるか。人の人生にとってそれが一番大切なことではないだろうか。歴史を研究してみるとそのことをとても強く感じる。

石上布都魂神社に行って来ました。

吉備歴史探訪会4月例会は、赤磐市布津美の石上布都魂神社に行きました。神社参拝後、宮司の物部忠三郎先生から神社の由緒についてお話しを伺いました。ここは、日本書記にあるように、ヤマタノオロチを退治したスサノウノミコトが大蛇を切った剣が奉納された記録にある由緒ある神社です。スサノウノミコトの息子であるニヒハヤヒノミコトが大和に登る途中立ち寄ったと言われていました。 山上のイワクラが元々本殿で、池田公が備前に来た時に本殿が寄進されたそうです。明治の時に本殿が火災にあい、その後現在地に本殿が移されたそうです。 お話しを伺ったあと、皆で山上の本宮、イワクラまで登りました。

2012年4月26日木曜日

岡山人物銘々伝を語る会、5月例会

岡山人物銘々伝を語る会 5月は、[歌舞伎に見る岡山]です。岡山は結構歌舞伎に縁がある。 5月18日金曜日午後6時から県立図書館の2階です。

岡山歴史研究会 30日午後

岡山歴史研究会の今年度の総会 30日の午後の予定 さん太ホールで、一般の人も参加出来るそうです。 午後5時まで 最後のプログラムは、山田方谷についてのパネルディスカッション、わが家も遠い一族なので、是非参加したいとと思う。

歴史の創造

過去の歴史を引き継ぎ、未来の歴史を創造する。今をどう生きるかということになる。世界は常に変化して来た。 唯物史観では、量から質への変化と言って、暴力革命を正当化したが、確かに、時代から時代への大きな変革というのはある。時としてそれは暴力的になるが、それは間違いである。 変化に対応することさえ出来れば、それは平和裏に移行される。そこに人間の叡智と努力があるかにかかっている。

2012年4月25日水曜日

文化は簡単には変わらない、しかし確実に変わっていく

文化と言うものは長い蓄積の歴史の上に成り立っている。人類歴史は文化の蓄積の歴史だった。
その蓄積なくして今の文化、我々の生活は無い。
そしてその文化と言うものは確実に変化していっている。時が過ぎていくように。
ほうっておいて出来るものではない。そこに人間主体の投入があるから、変化し、発展し、進化して行っている。
そこには異なる文化の和合や融合、また影響が大きく作用する。

技術文化、精神文化、芸術文化・・・いずれもそうであろう。
先日「人類の文化は未熟だ!」と言う話をお聞きした。
人類が奪い合ってきた歴史を終結させ、分かち合いの文化を創造していかなければならない。
これは全人類の共通のテーマである。数多くの宗教家、哲学者、政治指導者が真剣に考えてきた。
いまだ実現し切れていないテーマである。

戦後日本、高度経済成長で豊かさを享受してきた日本が、行き詰っている。
格差社会が拡大している。これをどう乗り切り、新しい文明、文化を創造していくか。
明確な回答が今求められている。

問題は何か?どうすれば良いのか?
間断なき努力がその道を開いていく。我もまた行く。

2012年4月22日日曜日

大和岩雄氏の本

大和岩雄(おおわいわお)氏の本を、岡山県立図書館から8冊ほど借りてきた。
新版古事記成立考、新版日本書紀成立考、十字架と渦巻き、邪馬台国は二ヵ所あった、他です。

大和氏の「秦氏の研究」は私も所蔵しているが、そのほかはなかなか手が出ない。結構高価な本が多いので・・・

さて、詳しくはなかなか読みきれいないので、大和氏のだけでも知っておきたいと思って読んでいる。
一つは「古事記偽書説」・・・・新版の「古事記成立考」には初版の「古事記成立考」への反論を一つ一つ取り上げて反論している。「古事記」特にその序文は平安初期に書かれたもの、との説はかなり説得力がある。
「天照大神と前方後円墳の謎」も面白い、そして「十字架と渦巻き」
地元岡山の、薬師寺真一氏の「楯築遺跡と卑弥呼の鬼道」と通じる内容がある。

「邪馬台国は二ヵ所あった」では、邪馬台国は機内と九州と二ヵ所あった。古代「倭」は連合国家体制でその中心に立ったのが巫女である、卑弥呼だった。と言う見解か?
注目するのは、大和氏の見解に、「吉備」の位置づけが明快であると言うことである。
考古学者の研究成果を高く評価しているのが注目される。近藤義郎教授の研究成果も評価。

古代祭祀の内容はまだ十分消化しきれないが、前方後円墳の成立とその意味するところ、世界の祭祀の形態との比較から、世界史的な立場からの日本国家の成立のルーツが明らかになるヒントがあると感じている。

世界人類の文明史的観点から、日本列島における国家成立と、その中でも「吉備」の占める役割がキーポイントである。

大和氏の見解からまた一つ、「吉備」の果たした役割が見えてきたし、今後の人類史における「日本」の役割がはっきりしてくるのではないか。

2012年4月17日火曜日

蘇我と物部は友好的だった?

関裕二氏の「蘇我氏の正体」と「物部氏の正体」並べてみると、関氏の見解は「蘇我と物部は友好的だった」というか同盟関係にあった。と言うことであろうか。

4月28日には久方ぶりに石上布都魂神社に探訪会のメンバーで行く予定だが、ここの神社に行って宮司の物部さんにお会いして初めてお話を伺った時に「どうして物部か?」という疑問であった。
宮司さんのお名前は、物部忠三郎さん。池田藩が備前に来た時に、由緒ある神社として、崇敬し、旧姓の物部を名乗るように言われたそうである。ということは古来この地が物部の地と言うことが伝承されてきたからであろう。
関裕二氏の説では、吉備=物部である。ところが、蘇我氏によって全国に屯倉が設置された時にいち早く設置されたのが吉備であり、吉備の児島であった。
それと、吉備と言うと「鉄産」の地のイメージだが、鉄産の神様である「姫社(ひめこそ)-天日矛の妻」(探訪会で行きました)は蘇我氏の先祖とも聞いている。
関氏の説では、出雲=蘇我であろうか?出雲と吉備が連合して大和(飛鳥)の王朝を作っていった。その後九州の「ヤマト」が征服主導権を握った。それがその後の藤原しであった。大まかに言えば、こんな図式か?
同盟関係にあった蘇我と物部を争わせ、その隙に政権を奪取したのが大化の改新であり、藤原氏の陰謀であり、「古事記」、「日本書紀」はそのような観点で藤原氏に都合の良いように書かれた。と言うことであろうか?
「吉備」を軸に古代史を考える、「吉備楽土」の考えと、おおよそ一致する。
池田光政は石上の物部の神社が備前第一の神社として一宮として崇敬したが、その理由は何だったのだろうか。戦国から江戸時代初期に至る、吉備~備前の歴史観の通説は何だったのだろうか?
備前の一宮はその後吉備津彦神社になって行った。岡山でも大半の人は備前の一宮とは吉備津彦神社と思い参拝している。

大化の改新以降、歴史的に葬り去られたかのごとき蘇我と物部・・・・・、「古事記」「日本書紀」を否定することは日本史全体を否定することにもなるので、それはしないが、少なくとも藤原氏が実権を握って・・・・平安末期、平家~源氏が実権を握っていく・・・・
それ以前の日本の国家形成における出雲と吉備・・・・・・「吉備」の古代の実像が「古事記」「日本書紀」にはほとんど伺われない。この事実と、蘇我と物部の歴史は深い関係があるのでは・・・・。


2012年4月11日水曜日

岡山人物銘々伝を語る会4月は[鶴見良憲]

岡山人物銘々伝を語る会
4月例会は 絹糸紡績の発展に貢献した[鶴見良憲]がテーマです。
日時は:4月20日(金)午後6時~8時
会場は:ゆうあいセンター(きらめきぷらざ2F)
講師は田中浩明さんです。
会費は500円です。
ご参加ください!

今後あるべき、経済社会政治体制は?

今ある、民主主義体制、市場経済社会、そして社会性のど数々・・・すべてが限界に来ている。今のままでいいものは何も無い。
今後21世紀以降の、経済社会政治体制はどうあるべきであって、またどのように変わっていくのか?
今時代の大変革期である。
万民が幸福な社会と言うのは一致している。しかしそれをどう実現していくのか、なぜそれがこれまで実現してこなかったのかを検証していかねばならない。
ある人は、「政府も要らない。金融機関、お金も要らない。」と言う。果たしてそうなのか?そうなのかもしれない?そうではないのかもしれない?

多数決原理による議会制民主主義がその限界にきていることは明らかである。
市場原理を中心とした自由主義経済も、格差社会や環境破壊など負の面がクローズアップされてきている。

この地球上に生きるすべての人びとが平等かつ幸福に豊かに暮らすすべはないのか?!
そのことがより前進化。発展化する方策はないのか?
そのことを過去から現在に至るまで、極めて多くの思想家や、宗教家やそしてあらゆる人びとが考え続けて本を書き、文章に表し、あるいはそれをそのごとくに実行しようとして、一部成功したものもあれば、まったく空想的だったものもある。

とにかく何かを決め付けて考えると言うのは良くない。間違いを犯しやすい。
諸悪の根源は資本主義体制だとして、資本化打倒といって、社会主義革命を行った共産主義・マルクス主義などはその失敗の典型であろう。
最近日本でも、なんでも規制緩和、自由化、民営化すれば良いといって政策が実行されたがその弊害が大きい。

事の問題は何か?
(つづく)

2012年4月7日土曜日

物部は吉備である。そして吉備歴史探訪会4月例会

吉備歴史探訪会4月は[石上布都魂神社]訪問予定
4月28日(土)現地10:00 宮司さんにお願いしてお話を伺います。
ここの宮司さんが物部忠三郎さん
ここの神社はスサノオの命がヤマタノオロチを退治した時使われた剣が納められたところと伝えられる神社である。

さて、「物部=吉備」説は最近歴史作家の関裕二氏の著作に詳しい。
私もかねてから大和の王朝は[吉備]がその成立に深く係わっている。それは物部の一族ではなかったか。との推論をしていたが、関裕二氏の論はそれとほぼ一致する。
出雲と吉備との関係。そして大和王朝の成立過程。
蘇我氏と物部氏の係わり。
このあたりを整理すると、[吉備]の姿がわかり。逆に日本の歴史、特に日本文化成立の過程が見えてくる。