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2009年3月18日水曜日

栄西禅師

実に不思議なのだが
吉備の国 備前 備中 備後 美作に分けられた。
吉備の中山を境に分けられた備前と備中
上道(かみつみち)と下道(しもつみち)
いつも対比的に、偉人を輩出している。
その代表が、和気清麻呂と吉備真備であり
栄西禅師と法然上人ではないだろうか
法然上人は美作の出身だが、一方栄西禅師は備中、吉備津神社の神官をしていた賀陽氏の出
神官の家からなぜ仏教の禅師が出たのか不思議だが、この時代は神仏習合の時代
吉備津宮には神宮寺(神社に所属する寺院)というのがあって、神官も晩年になると神宮寺で念仏を唱えて過ごしたといわれる。
栄西禅師はこの吉備津宮の神官をしていた賀陽氏に生まれ、安養寺で出家得度
比叡山に上がって修行、二度にわたって宋の国に渡り、その当時盛んになっていた臨在禅を日本にもたらした。
また日本に帰るに際して、茶の種を持ち帰り、茶を普及した。「茶祖」といわれる所以である。
「興禅護国論」を著し、鎌倉武士に受け入れられ禅の普及を果たしていく。
備前備中においても金山寺の復興などに尽くしている。
詳しい生涯など、またいずれ紹介しよう。

3 件のコメント:

キビラクド Yamada Ryozo さんのコメント...

栄西禅師の不思議
①誕生の地はどこか?
一般に吉備津の地と言われているが定かではない。吉備津神社の神官をしていた賀陽氏の出身と言われるが母親の田氏のゆかりの正力というところともいわれる。
②得度の寺 栄西禅師が得度した安養寺は、どこか?岡山市日近にある安養寺かそれとも倉敷の浅原の安養寺か?
③入寂の地は鎌倉か京都の建仁寺か?

キビラクド Yamada Ryozo さんのコメント...

茶祖
栄西禅師は茶祖として有名です。
「喫茶養生記」という、晩年に書かれた書が知られています。
亡くなる前年に、当時の将軍源実朝に献ぜられたとあります。
茶の効用、栽培法。嗜み方が紹介していあります。
後篇には、桑の葉の効用も紹介してあります。

キビラクド Yamada Ryozo さんのコメント...

興禅護国論の冒頭の部分を紹介します。

興禅護国論
禅を興し国を護るの論の序
大宋国天台山留学、日本国阿闍梨伝燈大法師位 栄西、跋(ばつ)す。

大いなる哉心(しん)や、天の高きは極むべからず。而るに心は天の上に出づ。地の厚きは測るべからず。而るに心は地の下に出づ。日月の光は踰(こ)ゆべからず。而るに心は日月光明の表に出づ。
大千沙界は窮むべからず、而るに心は大千沙界の外に出づ。其れ太虚(たいこ)か。其れ元気か。心は則ち太虚を包んで元気を孕(はら)む者なり。
天地は我を待って覆戴(ふさい)し、日月は我を待って運行し、四時は我を待って変化し、万物は我を待って変化す。
大いなる哉心や、吾れ已(や)むを得ずして強ひて之に名づく。是を最上乗と名づけ、亦第一義と名づけ、亦一真法界と名づけ、亦無上菩提と名づけ、亦楞(りょう)厳(ごん)三昧と名づけ、亦正法眼蔵と名づけ、亦涅槃妙心と名づく。然れば則ち三輪八蔵の文、四樹五乗の旨、打併して箇の裏に在り。
大雄(だいおう)氏釈迦文(もん)、是の心法を以て、之を金色の頭陀に伝へて教外別伝と号す。鷲(じゅ)峰(ほう)の迴(え)面(めん)、鶏(けい)嶺(れい)の笑顔に泪(およ)んで、拈(ねん)華(げ)千枝を開き、玄源万派に注ぐ。竺天の継嗣、晋地の法徒、束(つか)ねて以て知る可し。寔(まこと)に先仏弘宣(ぐせん)の法、法衣自ら伝ふ。曩(のう)聖(しょう)修行の儀、儀即已(すで)に実なり。法の体相は師弟の編に全く、行の軌儀は邪正の雑無し。
爰(ここ)に西来大師(達磨大師)、棹(さお)を南海に鼓し、錫を東川(洛陽をさす)に抜き手以来より以来(このかた)、
法眼は高麗に逮(およ)び、牛頭は日城に迄(いた)る。之を学して諸乗通達し、之を修して一生発明す。外涅槃の扶律を打し、内般若の智慧を併するは、蓋し是れ禅宗なり。
我が朝は聖日昌明、賢風遐暢す。鶏貴象尊の国、丹(たん)墀(ち)に頓首し、金隣玉嶺の郷、信を碧(へき)砌(せい)に投ず。素臣治世の経を行い。緇侶は出世の道を弘む。四韋の法猶ほ以て之を用ふ。五家の禅、豈(あ)に敢(あえ)て諸を捨てんや。
而るに此を謗(そし)る者有って、謂ひて暗証の禅となす。此れを疑ふ者有って、謂ひて悪取空と為す。亦謂ひて末世の法に非ずとし、亦我が国の要に非ずとす。或いは我の斗莦(としょう)を賤んで以て未だ文を徴せずと為し、或いは我の機根を軽んじて、以て廃を興し難しと為す。
是れ則ち法を持する者の法宝を減し、我れに非る者の我心を知らんや、啻(ただ)に禅関の宗門を塞ぐのみに非ず、抑(そもそも)亦叡嶽の祖道を謗る。慨然、梢然たり、是なるや、非なるや。
仍(よ)つて三篋(さんきょう)の大綱を蘊(あつ)めて、之を時哲に示し、一宗の要目を記して之を後昆に貽(のこ)さん。跋して三巻となし、分つて十門を立つ。之を興禅護国論と名づく。法王仁王の元意に之れ称はんが為の故なり。唯狂語の実相に違はざることのみを恃んで、全く緇素(しそ)の弄説を忘る。臨済の末代に潤ひ有らんことを億ひ、翰(かん)墨(ぼく)の訛謬(けびゅう)をも恥ぢず。
冀(ねが)はくは伝燈の句の消ゆること無く、光りは三会の暁を照し、涌泉の義の窮(きわま)らずして、千聖の世に流注せんことを。凡そ厥の題門支目は後に列すと、爾(しか)云う。