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2010年3月2日火曜日

由加山

由加山

由加本宮と蓮台寺がある。
ともと大権現で神仏混淆
明治の廃仏毀釈で無理やり神仏分離させられたが
それまでは「大権現」神仏習合の信仰の地だった。
金毘羅さんも「大権現」だった。

弥生時代からの磐座(いわくら)信仰の地
磐座とは巨岩信仰
ここに天平年間、行基菩薩が勅願を持ってこの地に十一面観音菩薩を祀り開基したと伝えられる。

平安初期には桓武天皇の勅願により坂上田村麻呂がこの地に至り堂宇が整備された。
一時荒廃の時代があったが、江戸期増吽僧正のとき再興し、また備前池田家の尊崇を受け、由加大権現は全国に名だたる名刹となる。
江戸期には讃岐の金毘羅さんと両参りが盛んになる。



左の写真は
由加神社本宮
本殿左手に稲荷社が祀られている。
本殿の裏側には巨岩があって、この地が磐座信仰の地であったことが判る。





上は参拝客でにぎわう由加神社

下は多宝塔




由加山について詳しく知りたい人は

宇高フェリー廃止問題に触れて


←宇野港に停泊する四国フェリ


宇高航路のフェリー廃止が問題になっている。
最近、玉野に行く機会が多いので宇野港のフェリー乗り場に行ってみた。
確かに、乗船する車は少なくなっているように感じられる。
それでも出向を待つ大型トラックなどの列を見ると、このまま廃止してしまうのかと、さびしい思いがわいてくる。
地元玉野市や対岸の高松市、岡山香川の両県でもフェリー廃航を何とか食い止めようと国に訴えたり運動を起こしている。
宇高航路は特に玉野市にとっては町の看板のようなもので、かっては国鉄の連絡船が街をにぎわしていた時代が長く続き、そして、瀬戸大橋開通後は、連絡船は廃止になったが、フェリーは健在で今まで維持してきた。
長距離を走るドライバーにとっては、フェリーの1時間は適当な休息の時間にもなり、結構利用する車も多かったと思う。そして、瀬戸大橋に対抗する安い料金は、地元を初め多くのフェリーファンがあって、航路を維持してきた。高松市に通ったり、市民の足にもなってきた。
それが、100円高速の直撃を受けた。結構利用者のあった、週末の一般利用が完全に打撃を受けて皆無に等しい状況になった。これでは航路を維持することは見えない。民主党政権になり、政策の変化を期待したが、1000円高速はそのまま持続されており、高速料金無料化を政策に掲げた民主党政権は高速料金の上限制を検討している。


↓玉野沖を航行する国道フェリー

私は高速料金の無料化には基本的には賛成である。膨大な資金を投入されて作られた高速道路が高い国惻料金のゆえに敬遠され、長距離トラックなどが、あえて一般道を長時間かけて走っている、それによる渋滞や大気汚染はどれくらいか?さらに料金の高さと利用率の低さからくる、物流コストの増大が、地方の産業の発展を阻害している。
また有料高速道路のゆえに、並行して無料で走れる、一般道やバイパスが建設されるという無駄も多く生じている。





だからと言って、一挙に無料化はどうか?
特に、前政権が末期にやった「千円高速」 これは良くない
土日に集中する、一般道の渋滞、一度降りると再び料金を払わなければならないので、延々と高速道路を一般車が占領する。
確かに、これまで何千円、何万円とかかった長距離をたった「千円」で走れるのだか使わない手はない。遠出のできなかった一般ドライバーには朗報であった。
しかし、国の根幹である、物流においては、発生する渋滞によって却って多くの損害を生じた。

急激な、人気取りの、目玉政策は困ったものだ!
良い政策も、その結果生じるマイナス面にも十分配慮をして、よく検討し、時間をかけて実施すべきである。

その目玉政策の犠牲になっているのが、真面目に航路を維持してきたフェリー業者や。高速バスの業者である。
これは問題である。

岡山香川県民にとって、瀬戸大橋が無料になればどれほど便利であろうか。
そうすれば、岡山と香川の間で通勤もできれば、自由に観光にも行ける。物流も大幅に増える。
私など、好きな寺社参りもできるし、ついでにおいしい讃岐のうどんめぐりもできる。
いいことずくめで以前から瀬戸大橋の無料化、あるいは、一般高速並みの低料金を主張してきた。

だからと言って今回のように、急激な政策の変化によって、フェリーの足が一挙になくなり、これまで航路に従事してきた百何十人かの船舶従事の皆さんが職を失うようなことを看過することはできない。
航路維持や万一廃止する場合も、しかるべき代替策を、しっかりととらなければならない。

だいたい、これまでの国の政策には地方や弱者への配慮があまりにも欠けて来ている。
民主党政権になってそのあたりが少しは変わるのかと期待したが、どうも期待外れのようである。

国全体、あるいは世界全体がより豊かになるために、産業への投資や、産業を支えるインフラの整備などに国が力を入れていくのは当然である。
しかし、その一方で、決して忘れてはならないのは、地方や、弱者が切り捨てられるようなことが絶対あってはならないということである。
ところがどうも、最近の「規制緩和」や国の政策の方向は、大都市や、富裕層、あるいは既得権層に傾いて、地方の振興や、弱者を作りださない政策は見たことがないようである。
どんなに地方の、どんなに小さな一人にも、国全体の豊かさをともに享受できるようにするのが本物の国ではなかろうかと、しみじみ思う。

宇高航路の廃止という、国全体から見れば取るに足らない、小さな問題のようでも、それに国がどのような判断をし、方向付けをするのか、しっかり見ていきたいと思う。 

宇高国道フェリー




2010年2月26日金曜日

赤穂と秦氏 児島の野崎家 と小西増太郎 

「シルクロード渡来人が建国した日本」(久慈力氏著 現代書館)という本を読んでいる


秦氏を乗せた船が最初に到着したのが赤穂
だから播磨には秦氏の遺跡が多い

一説によると播州赤穂 [忠臣蔵]の物語は、赤穂が秦氏の地を引いた地だからと
これはどうか 少々疑問が残る

さて、児島の野崎武左衛門
塩田王として有名
ルーツは播州 昆陽野の名は行基菩薩ゆかりの昆陽池とつながる
武左衛門の最初の妻野実家は播州屋を名乗った昆陽野家

野崎家(当主は2代目の野崎武吉郎ー武左衛門の孫で岡山県最初の貴族院議員となる)は基督教(ロシア正教)の宣教師を受け入れ
その宣教師の教えに感銘を受けた
一少年が 「神学校に行く!」と 野崎の家を飛び出したのを見つけ
そのれを許したのみならず 支援したという。
それがのちのロシア文学者 小西増太郎

小西増太郎は野崎家の支援を受けて お茶の水のロシア正教の神学校を出て
その後ロシアにわたり 当時一世を風靡した トルストイに出会い
その当時、東洋思想 特に「老子」に傾注していたトルストイの
「老子」のロシア語訳に協力したという。
その時トルストイからもらったロシア語の聖書が
小西益太郎の死後出てきて話題になったことがある

小西益太郎には二人の息子がいたが
長男は元野球解説者として有名な小西徳郎さん

野崎家がロシア正教の宣教師を受け入れ
小西増太郎を支援した言うのは

野崎家は、渡来系氏族「秦氏」の末裔か?
私の推測であるが
案外 赤穂に上陸 播州に定着した 秦氏の末裔というのは あながち間違っていないのではないか、秦氏でなくとも、行基菩薩とゆかりの昆陽野から来ていることは何らかのつながりを推測する。
事業への熱心さや ロシア正教を受け入れ 信仰に走る青年を支援したり、難民救援に尽くしたという、その精神など 
「秦氏」の歴史に共通するものを見る

野崎家のことはさらに追って紹介したい。



野崎の旧姓は昆陽野 塩田を開いた味野と赤崎(現倉敷市児島)の地名から野崎と名乗ったという




こや【昆陽】(コトバンクより)
兵庫県伊丹市内の古い地名行基築造したと伝える昆陽池、また、その創建と伝える昆陽寺がある

2010年2月25日木曜日

西大寺観音院と会陽 秦氏 皆足媛

西大寺観音院の謎?
西大寺縁起にある皆足媛とは

以前から疑問だった
皆足媛と秦氏、藤原氏の謎について
mr yanagi氏の[宝木伝説]に詳しく述べてある。
秦皆足というのは媛ではなかった。夫が秦皆足ということらしい。
つまり媛というのは、秦皆足夫人ということか。
なぜ、藤原皆足か?秦氏では通りが悪いので藤氏を名乗ったとのこと
私としては謎が解けた

ここに来ると 周防、玖珂の秦氏のルーツが知りたくなった。
それと観音院の歴史についてはもう少し知りたい。

吉備の国で秦氏といえば
備中 今は総社市秦原の廃寺
備前 幡多の遺跡など そして美作法然上人の父母のルーツとしての秦氏
備前 備中 美作 そして備後も含めて 吉備の国における秦氏の歴史の流れが見えてこないか
どなたかこの辺り詳しい方があれば教えていただきたいのだが


先ほど紹介した、mr yanagi氏の[宝木伝説]
学術的にも詳しくて 参考にさせてもらいます。

宝木伝説

2010年2月23日火曜日

西大寺会陽

2月20日は西大寺の会陽
500周年
知人のジャーナリストと西大寺に行きました。
昨年も行ったが、今年は、2時間早くなって、少し戸惑った。
午後4時ころ、「少年はだか祭」が
小学、1~2年は「たから餅」、 3~4年は8本の「五福筒」、5~6年生は[宝筒」を争奪戦
水垢離場で体を清めた少年たちが
元気よく掛け声をかけて行進し、一斉に[宝]を求めて争うさまは、庄ら大きくなったら本物の裸で会陽に参加するようになるんだなと期待する。
本番まで時間があったので、近隣を散策、
映画[三丁目の夕日]の撮影があった町並みや、昔高瀬舟が接岸したという、岸などを見て回った。



西大寺は、今から1300年ほど前、天平勝宝3年(751)、周防の国玖珂の媛、藤原(秦)の皆足媛が観音様(千手観音)を都の長谷寺に納めようと旅の途中、備前の金岡(現在の観音院の地)港に到着、再び出港しようとすると船が動かない、これは何かのお告げと、庵をむすんで観音像を安置したのが始まり。
宝亀8年(777)、安隆上人(あんりゅうしょうにん)が大和の長谷寺で修行三昧されていたとき”備前金岡庄の観音堂を修築せよ”と夢にお告げがあり、金岡に来る途中、児島の沖で龍神に会い、犀の角を授けられて、金岡に到着、堂宇を整備[犀戴寺」と名付けたのが始まりとか。

少年はだか祭りを待つ観音院本堂前

その後、後鳥羽上皇が承久の変のとき西国の社寺に戦勝祈願の祈願文に西大寺と書かれたので、その後[西大寺]と書くようになったそうである。

西大寺縁起に出てくる[皆足姫]が秦氏?というのは、昨年500回目の会陽を記念して、岡山市のデジタルミュージアムで寺宝展が開かれたおり、秦皆足姫と表記されているのを見て、教えられた。
「秦氏」については、法然上人とのかかわりでも「秦氏」が出てきているので、興味が尽きない。

午後7時花火大会が始まると一気に盛り上がる。
本堂前には続々と裸が結集!威勢のいい掛け声が響く。会社などのグループが、それぞれ横幕をもったりして行進してくる。


午後10時の[宝木](しんぎ)投下の前になると、激しいもみ合いと裸衆の雄たけびが「ウォー」と激しさを増し、強烈な印象、まさに[天下の奇祭]である。

そもそも会陽は西大寺開基の安隆上人(あんりゅうしょうにん)が東大寺で行われていた、修正会(しゅじょうえ)、正月元旦から14日間、祈祷をささげ、これが厳修されていた。
今から500年前、永正7年(1510)忠阿(ちゅうあ)上人の時、修正会の結願の日参詣の信者に守護札を出したところ、これを戴く者は福が得られると希望者が続出し、やむなく参詣者の頭上に投与したので奪い合いとなり、身体の自由を得るために裸となり、無垢の信仰心は水垢離となり、遂に修正会と不離一体の今日の会陽の形が成り立ったと伝えられている。


今でも修正会は厳格に行われ、それが観音院の伝統であり、特に[宝木](しんぎ)の作成には精誠と祈りがささげられている。
単なる民間信仰でなく、民の平安を願う祈祷の精誠が厚く捧げられているのが、500年間、会陽が続けられて来た伝統であると思う。


備前岡山の地がこれまでよき伝統に守られ、政治も文化も経済も発展してきた所以は、この西大寺観音院の伝統であるかなと思う。

2010年2月14日日曜日

誕生寺・波多神社・本山寺

19日(金)人物伝を語る会で「法然上人}の話をする予定で、今日は誕生寺に行ってきた。

幸いご住職がおられてお話を伺うことができた。
誕生寺の住職は代々う漆間姓を継いでおられるとのことで、今のご住職も法統を継いでおられる。

これまでたびたび誕生寺は訪問させているが、ご住職にお会いするのは初めて、多少緊張気味だったが、快く会っていただいた。

特に最近話題になっている「法然上人と秦氏」についてお聞きした。
秦氏の君といわれる母親はずいぶん、心優しい方だったようで、そして信仰深い方だった。
秦氏というのは本当に信仰に熱い渡来系氏族で、殖産にもたけていて、葉は秦氏の君の生家は「長者」であったそうである。
父を失った勢至丸(幼少時代の法然上人)は父の遺言に従い、母親の弟が住職をしていた菩提寺(現奈義町)で13歳まで修行するが、この秦氏の弟の住職もとても位の高い方だったということがその名前からわかるとのこと、[信仰に篤い+殖産事業の成功者]という秦氏の基本的イメージ通りだったのであろう。

ご住職に「波多神社」というのがあるよと聞いた。

秦氏の君は夫漆間時明との間に子供がなかなかできなかったので、当時栄えていた本山寺に夫とともに21日間参籠した(通ったという話も)

その本山寺を尋ねる途中に波多神社がある。縁起をみると斉明天皇御宇五年に勧請とある。658年である。波多は秦から来ているのであろう。下の写真は波多神社本殿延宝2年(1674年)の建造となっている。


本山寺を訪れると、ちょうどご住職の奥様がどなたかと話をしておられて、参拝の許可をもらおうと尋ねると、「歴史の話はこの方に聞いたほうが」と声をかけてくださった方が、檀家総代の方。もう86歳といわれるが、軽トラックに乗っておられてお元気な方で、いろいろと本山寺の縁起など話してくださった。

本山寺は大宝元年(701年)開基 天永元年(1110年)に、弓削師古(ゆげのもろふる)が現在地に移し百二十坊といわれるほど大いに栄えた、という。

漆間時国夫婦が参籠して産まれたのがのちの法然上人、勢至丸であった。これが長二年(1133年)である。

誕生寺のご住職の話では秦氏の君は「長者の娘」ということであるから、秦氏の家はずいぶん栄えていて、本山寺の造営にも深くかかわっていたのではないかと想像する。写真は本山寺本堂、1350年の建造で国指定の重要文化財に指定されている。法然上人誕生の時代からは少し下るが往時の繁栄を偲ばせる建物である。この本殿の奥は山王社が祀られている。

誕生寺については誕生寺HPを