山陽新聞によると
昨年末に発見された総社市秦、一丁※(いっちょうぐろ)1号墳が、墳長76メートルに及ぶ吉備南部最大の前方後方墳であることが、同市教委の発掘調査で29日までに分かった。(※土偏に丸)・・・
総社市秦の標高180メートルの山上に発見されたこの古墳は全長100メートル、4世紀前半の築造で吉備南部最大の古墳であることが分かったと言う。
4世紀前半と言うと「謎の4世紀」と言うことで、中国の史書に、3世紀末に書かれた「魏志」以降、「倭」に関する記述が途絶えた時代である。
諸説あるが、神功皇后~応神天皇の時代が4世紀末から5世紀はじめと言うのが、ほぼ定説になりつつあるが、ちょうどこの時期、「吉備」の国が最大の勢力を誇ったであろう時代の古墳と言うことで、とても関心を持たざるを得ない。
魏志倭人伝にある「卑弥呼」の時代が2世紀末から3世紀はじめ、楯築遺跡が作られたのも同じころ、この時代から約100年を経た時代に作られたのがこの一丁ぐろ古墳だとすると、この時代の吉備の国の姿が見えてくるような気がする。日本列島全体の王権が確立されていく時代である。その時代、「吉備」はどういう位置づけだったのか?
これも諸説あるが・・・・この時代日本の皇統から言えば崇神天皇~応神天皇の時代とも言われる。
この一丁ぐろ古墳から一度眺めてみながら考えてみたい。
この一丁ぐろ古墳・・・総社市秦(ハダ)の標高180メートルの山上にあるとの事である。
眼下に、大きな川(高梁川)と平野(総社~吉備の平野)を見下ろすことができるに違いない。
魏志倭人伝にある「卑弥呼」の時代が2世紀末から3世紀はじめ、楯築遺跡が作られたのも同じころ、この時代から約100年を経た時代に作られたのがこの一丁ぐろ古墳だとすると、この時代の吉備の国の姿が見えてくるような気がする。日本列島全体の王権が確立されていく時代である。その時代、「吉備」はどういう位置づけだったのか?
これも諸説あるが・・・・この時代日本の皇統から言えば崇神天皇~応神天皇の時代とも言われる。
この一丁ぐろ古墳から一度眺めてみながら考えてみたい。
この一丁ぐろ古墳・・・総社市秦(ハダ)の標高180メートルの山上にあるとの事である。
眼下に、大きな川(高梁川)と平野(総社~吉備の平野)を見下ろすことができるに違いない。