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2011年3月29日火曜日

黒日売の古墳

丸山古墳
日本書紀には応神天皇が兄媛に会いに葉田の葦守宮を訪ねたとあるが、古事記には、黒日売が皇后のねたみに耐えられず吉備へ逃げ帰った。その黒日売に会いたさから、淡路に行幸すると偽ってひそかに会いに行くとある。
応神天皇はその愛する妃のために、吉備国の一部を割いて織部県を所領として与えた。その織部県は吉井側の東側、旧邑久郡北部の平野部、服部集落を中心とした地域である。ここはすぐ南には土師の集落、さらに東南には須恵の集落があり渡来人の居住地であったといわれる。
この服部集落の北香登の集落の向かいに鶴山という小山がありその頂に丸山古墳というのがある。この古墳からはくりぬきの石棺があり、そこから巨大な管玉などとともに30面からの鏡が発見された。
立派な石棺といい、その場所から見てもこの古墳は黒日売のものと思われる。
黒日売は古事記には吉備海部直の娘であると記されている。
ここで問題は吉備海部直、すなわち大伯国造は吉備一族とは血縁関係がなかったということである。この地域は吉備本国の域外であったといわれるが、このあたりのことはまた検証しよう。
吉備の古代王国(鳥越憲三郎著)参照

2011年3月18日金曜日

被災地復興には物流の回復が第1 東北道を開通させよ!

東日本大震災
犠牲者の皆様には深く哀悼の意を表します。残されている人たちも大変な生活を強いられています。早く正常な生活に復帰できるよう全国民が支援していかなければなりません。

さて被災者被災地の救援について思わされることがあります。
今なお被災地の皆さんは本当に大変な生活を強いられています。
それらの方々のところに早急に物資を供給しなければなりません。
そのためにも、なぜいまだに東北道を緊急輸送に限定して閉鎖しているのか?これは完全にマイナスです!
東北全体に物資が不足しています。この状態を解消するには物流ルートを正常化しなければなりません。ようやく燃料の供給には対策が取られたが、その他の物資は全体に不足しています。
甚大な津波被害を受けた地域は別にして、物流さえ回復すれば正常な活動に戻れる地域は早急に正常な機能を回復していくべきです。
日本の流通体制は実に高度にできています。コンビニなどは少量多品種の物資を配送する体制が整っています。宅配業は大半、翌日には必要なものを宅配できる体制が整っています。
どうしても緊急なものは自衛隊に託して空輸すればいいが、そのほかの生活物資は一般流通ルートを早急に回復して必要なものを必要なだけ現地に届ける体制を作るべきです。幸い、被災地家の最低限のルートは確保されてきているので、民間流通業のルートを最大限活用すれば、すぐにでも末端にまで必要なものを届ける体制が出来ます。
甚大な被害を受けた地域にはコンビニかスーパーの臨時店舗でも作ってなんでも入手できるようにしたらどうだろう。いくらでも方法が出てくる。
支援物資も、日常生活用品は民間の通常ルートを強化するほうがはるかに早く必要な物資を届けることができる。個人個人てんで勝手にする支援は膨大な労力をかけるだけで却って復興の妨げになる。
東北道を早く開通させるのは、この間滞っている東北の産品を全国に送る体制の復活にもなる。そしてまずは東北の縦貫ルートを正常化するべきである。それが被災地特に三陸方面への最大の救援体制になる。
即刻東北道を全通させるべきです。燃料供給のめどが立ちつつある今それを急ぐべきです。痛切に思っています。

支援は物でなくお金にして、現地の人たちが必要なものを必要なだけ現地で調達できるようにしてあげることが一番です。

2011年3月13日日曜日

姫社(ヒメコソ)神社再訪

吉備歴史探訪会で先日訪れた総社市福谷の姫社(ヒメコソ)神社を再訪しました。
神社総代の板倉さんが快く歓迎してくれていろんな話をうかがうことができました。

京大名誉教授の上田正昭氏も来たそうで、「アイアンロード」ということで、「ヒメコソ」神社は「鉄産」の神様で九州の鳥栖と関西は攝津にあるそうである。
上田教授が来たときには出なったのだが、ここの土地は鉄分が多く、切られた杉の株を見ても黒くなっていて鉄分が多いという。確かにこの地域はかって「鉄産」の地だったことを実感。
「久米南町」とも縁があると聞いた。
久米南町といえば法然上人の誕生の地、誕生寺の「片目魚」は「たたら」があった証拠と「法然と秦氏」で山田繫夫氏は書いている。法然のふるさと美作久米南の秦氏とここ総社の「秦」(ハダ)とのつながりが密接であったことを感じる。

歴史的に見ると実に貴重なこの神社の存在だが、神社の維持は大変だという。それでも神社の境内は杉の林で囲まれさわやかな空気を感じる。
日本の歴史と文化を築くことに多大な貢献をしてきた秦氏の歴史がここから始まったのではとの思いを持ちながら総代さんに別れを告げて帰ってきた。

2011年3月12日土曜日

東北地方大地震の救援に全力を1

大地震の被害が甚大である。特に津波による被害があまりにもひどい。
胸が痛む。町ぐるみ壊滅したところもある。これからどうするのだろうか。犠牲にあった多くの人々、命は助かっても家も生活の基盤もすべてを失ってどう生きて行ったらいいのか途方にくれる。あまりのもの痛みが日本を覆っている。
今こそ全国民が総力を挙げて被災した地域や家庭を支援していかなければならない。
特にリーダーは国民の不幸を見てどう対処するのか、真価が問われる。
かって、わが備前の名君主池田光政公は熊沢蕃山の教えもあり、大洪水にあった領民のために藩の蔵を開いて食料を支援し、救援に当たった。領民もそのことにふかく感謝した。

地震前は政争に明け暮れた日本の政界であるが、一切の政争をやめて日本の復興に全力をあげる時である。
外国からも支援が寄せられている。
隣国韓国でも、他人の不幸を喜ぶ不謹慎なネットの書き込みに非難が集中していると聞く。国家間の争いもおいて、支援をしてくれる諸外国に感謝しよう。
わが郷土吉備の国は古来災害の少ないところ、このようなところにすめる幸いを感謝し、東北関東の被災者救援に最大限の支援をして行こうではないか。

2011年3月5日土曜日

岡山人物銘々伝を語る会3月例会案内 3月は横溝正史を

岡山人物銘々伝を語る会2月例会まとめと3月例会案内です


まず代表代行久井さんの2月まとめです

55回(218日)の例会は 近藤泰宏さんに、箕作阮甫について語っていただきまし
た。いつものことですが、近藤さんの資料作りにかける情熱はすごいです。内容の深みも、また その人物が生きた時代を捉えるときの地理的・時代的な広汎さも、ともどもに圧巻です。保存版 に相応しい資料です。ありがたいです。
 さて、箕作阮甫の人となりは、謹厳実直という性格に加え、いわゆる天才型の人間にあるよう に、広く且つ深く技能や知識を干上がった地に雨がしみ込むように吸収し、「個別」を「普遍」 にまで置き換えて考えることのできる人だったようです。しかも、ただの天才ではなく、知識 を学ぶにあたって、決して断片的なもので満足することなく、“彼らの発想の根源は何に由来す るのか※ にまで降りていって、その科学知識や技術の意義を確かめようとした点は、すでにして、西洋の思考法を大分取り込んでいたようにさえ感じます。
  ※「聖書にあり」と見抜いた点は慧眼といえましょうし、近藤さんが、聖書の句と辞書の   句の類似性の中で例証しているのは、とても面白い着眼でした。

 蕃所調所の書庫を通じて、彼や彼の同時代の人たちが西洋科学の方法論に馴れていたがゆえに、明治の近代科学への接近がスムーズにいったのではないでしょうか、そう感じました。

3月の例会は下記のとおりです。             
                記
 日時:平成23318()※ 午後6~8時  (※通例は第3金曜日です)
 場所:岡山県立図書館の2階
 内容:横溝正史
 講師:青山 融(あおやまとおる) (『タウン情報おかやま』の編集長を5年つとめたあと、現在、㈱アス出版企画部長)
  参加費:1,000
    横溝正史は戦時中疎開していた岡山を舞台にした作品を多く残しています。その疎開
     していた旧真備町岡田時代の横溝正史を、語っていただきます。


その後横溝正史の疎開宅に行ってきました。
旧真備町岡田で筆者の本家のすぐそばです。墓参に行った時撮りました。
横溝正史が疎開していた家 時間を決めて入館できます。この日はあいにく閉館後でした。

ちょっとしゃれた案内看板が立っていました

2011年3月4日金曜日

吉備の鯉喰神社に卑弥呼は眠る

「吉備の邪馬台国と大和の狗奴国」若井正和著 (歴研)
邪馬台国吉備説を大胆に述べている。著者は掛川市在住で掛川市立総合病院副医務局長・神経内科診療部長『歴史研究』に「邪馬台国吉備説の提唱」ほかを書かれている。

楯築遺跡は弥生式墳丘墓後期のもので、発掘した近藤義郎教授は出土した特殊器台と特殊壺を重要視していた。古代祭祀研究家の薬師寺慎一先生も楯築遺跡で行われたであろう祭祀を重要視して、魏志倭人伝に出てくる「卑弥呼」が行ったとみられる祭祀がここ吉備の地、楯築を中心とする地域で行われただろうと推論している。

著者の若井氏は魏志倭人伝における「邪馬台国と卑弥呼」の記述をさまざまに検証しながら、大和説、九州説共に不備な内容が多く、邪馬台国を吉備と比定してこそ、すべてがつじつまが合ってくると、詳しく論述している。
「やまと」とは何か?単なる地名ではない。若井氏の論によると魏志倭人伝に出てくる「狗奴国」を当時、大和(奈良盆地を中心とした地)の王国とし、邪馬台国は吉備にあって倭国をまとめた王権、女王国とすることで、古事記、日本書紀の記述と合わせ、すべての論理がつながるという。

結論、卑弥呼の墓は楯築遺跡に近い、「桃太郎伝説」にも登場する「鯉喰神社」であるとする。
「鯉喰神社」は楯築遺跡にほど近く、明治に楯築遺跡にあった楯築神社を合祀している。神社は楯築遺跡に匹敵する弥生式墳丘墓に建てられている。

造山古墳応神天皇陵説と合わせ、邪馬台国吉備説は、古代における吉備の位置づけが、単にこれまで言われてきたような大和に対抗する王国にとどまらず、「倭国」の中心地であった可能性を示唆している。
これらが秦氏や賀陽族など渡来の集団と、その技術や文化とのかかわりを見ていけば、古代吉備の真実の姿が浮かび上がってくるようである。
新羅の王子と言われた天日矛とのかかわりも注目に値する。
大和王権で祭祀をつかさどる同時に鉄の鋳造技術を持っていた物部一族との関係も見逃せない。
このあたりさらに整理してみることが必要。

それにしてもこの若井正一氏の「邪馬台国吉備説」はかなり説得力のあるもの。古代吉備王国の真相に迫る。

3月13日鯉喰神社を訪れました。