出発前に、話が盛り上がり、近くに妹尾兼安と栄西禅師の遺跡があるということで、栄西禅師の誕生の地を訪ねる。その後楯築遺跡と造山古墳を訪れる。
楯築遺跡では、先回来たときにはよく見れなかった、小さな倉に納められた波状に模様の刻まれた御神体石を小さな窓から見させていただいた。この日は天候に恵まれ遺跡からは北にははるか稲荷山竜王山を望み東には吉備の中山を見ることができた。破壊されたといわれる遺跡の突出部にドンと構える水タンクと、遺跡への順路の途中にある石積みでできた外壁の立派な公衆トイレに異質感を覚える。
造山古墳では古墳の上部にも登ってみる。造山古墳は来たことがあるが上まで上るのは初めてという方がほとんどで、「方部」の山上には荒神社が祀られ、そこに阿蘇の石でできた石棺が置かれている。
この造山古墳の被葬者が誰か?薬師寺慎一先生は「応神天皇ではないか?」と推論しておられる。ここに無造作に置かれている九州の石の棺が何を意味するのか?いろいろと考えることができる。
せっかくここに登ってきたのだからと「前円部」にも登ってみる。登るとタイヤにチェーンを巻いたショベル車があって作業をしている。何かと思うと木の伐採をしている方たちであった。よく見ると現在古墳の駐車場のある東側からは生い茂っていた木がそのほとんどが伐採されて古墳の原型がよくわかるようになっている。また古墳上に登ると稲荷山や周辺の山々がよく見える。鬼の城も遠望できる。その鬼の城を見れる円形部から西側にかかる部分の伐採が進められていた。
機内にある巨大古墳はそのほとんどが宮内庁の所管で木の伐採など考えることもできない。それに引き換えここ、日本第4の大きさの造山古墳では木が伐採され自由に登ることもできている。その造山古墳が薬師寺先生が推論されるように応神天皇の陵だったとしたらどうなんだろうと考える。
薬師寺先生は「考えながら歩く吉備路」という本を書かれ、今回もその本を教科書のように使わせていただいたが、本当に「考えさせられる」。
さてここでお昼時が近づいたが、いったん秦廃寺に行ってからお昼にしようと行程を進める。
今回参加者のお一人Oさんがそのお母さんの実家が秦で、小さいころ豪渓駅で降りて渡し舟で来たことを覚えていると言われた。そして「秦」を「ハダ」と読むことも教えていただいた。
秦廃寺は吉備の最古の古代寺院だといわれる。これもやはり薬師寺先生の推論だが、今日山背が本拠地とされている秦氏が、実はその時代には吉備がその本拠ではなかったかという。考えるとうなづける。
聖徳太子のころ側近であった秦氏の頭領、秦川勝が百済の斉明王から贈られた仏像を引き受けて祀ったのが京都太秦の広隆寺弥勒菩薩像であるといわれる。その秦川勝が後見人となっていた山背大兄が蘇我氏に滅ぼされ、何から逃れて最後にたどり着いたのが赤穂の坂越であった。先日坂越にも行って来た。山背を逃れた川勝がなぜ赤穂に来たのか?それはその当時の秦氏の本拠地が吉備から播磨にかけての地域だったからではないのだろうか。
備前は幡多にも廃寺がある。備前、備中、美作、播磨と続く広大な範囲に絶大な力を持っていたのが秦氏だと言えるであろう。
さて、この後「姫社(ヒメコソ)」神社を最後に尋ねて今日の行程を終わろうと、出発した。
まず、豪渓駅方面に渡る橋の手前にある巨岩、盤座(イワクラ)を祀った岩畳神社を訪ねる。時間の関係もあり登ることはできなかったが高梁川にせり出した巨岩はすばらしい。古来この地域に住み着いた秦の民が信仰対象としたのであろう。
しばらく高梁川沿いに進むと福谷と言うところに姫社(ヒメコソ)神社はある。ヒメコソというのは鉄の祭神であり、新羅の王子天日矛の妻だったという姫のこと。新羅から渡来したという秦氏とのかかわりを連想させられる。
うっそうと茂った社杜に囲まれて参道がある。鳥居の脇には黒地に白で「古代吉備之國波多波更郷鉄造之神社」と書かれている。反対側には「秦郷鉄造之発祥之地」とある。参堂を登ると山門がある。先のOさんが祝詞をあげられたので一緒に祈る。
山門の脇には「古代吉備國発祥之地」との柱、「ここが吉備の国の発祥の地か?!」とまた考えさせられる。
ここ秦郷が吉備国の発祥の地とすれば、吉備国を起こしたのが秦氏ということになるのでは?その後の秦氏の果たした役割や位置づけを考えると、吉備最古の寺院跡があることとあわせ、とてつもなく大きな意味があることが考えさせられる。考察を続けたい。
その後はお昼、今回は「横田うどん店」を訪ねました。総社で名だたるうどん店とか、かなり遅い時間にもかかわらず混み合っていて、人気のほどがわかりました。とてもおいしかったです。
歴史探訪も最後のこの時間が楽しみ。参加者一同また一緒に行きましょうと別れました。
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