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2010年10月30日土曜日

報恩大師と秦氏

吉備の国の歴史、その中でも特に宗教史にスポットを当ててみると、忘れてはならないのが「報恩大師」であろう。
以前3月12日の投稿にもあるが
今の岡山市芳賀の生まれで、吉野で修行、称徳天皇の病気平癒に験があったということで取り立てられ、大師号を賜るほどになった。備前四八か寺の開祖と知られ、備中高松最上稲荷の開祖としても知られる。
さて、今回熊山に行って来て、鮮明になったのはやはり[秦氏]との関わりである。熊山遺跡も秦氏が建設した石塔、しかも発起したのは平安京造営に秦氏と深くかかわった和気清麻呂という図式である。
秦氏と言えば、当ブログでも「法然と秦氏」について書いた。今は旧熊山町は赤磐市に合併されたが、そのま反対にあたる、旧吉井町には、物部の宮司さんが祀る「石上神社」がある。その布津美の地をさらに進んだところが、法然上人の両親が祈願したという「本山寺」であり、かの地は「秦氏」が勢力の地域となっていた。
さて、備中はと考えると、現在の総社市秦原に秦廃寺があることは知られていて、何度も行ったことがあるが、その当時かの地が秦氏の勢力地であったことは間違いないであろう。その一世を風靡したと思われる人たちがどこに行ったのだろうかというのが第1の疑問である。
ところで備中と言えば、現在宗教的に栄えているのは「高松稲荷」である。
京都伏見の稲荷は。秦氏の鎮守であったと言われる。山城の秦氏は和気清麻呂とともに平安京造営の有力な豪族となって行くが、空海が東寺を賜り、その鎮守を稲荷社としたことは重要なポイントである。(八幡社も鎮守となっている)
さて、高松稲荷、かって龍王山神宮寺と言われたと、寺伝にある。「稲荷といえば巨岩があるよ。」とある宗教家の方から聞いて確かめに行ったことがある。高松稲荷も確かに巨岩があり、児島の由加山の神社本殿の背後にも巨岩があり、ここも稲荷が祀られていた。
稲荷と言うと「秦氏の氏神様]である。ここ高松稲荷もそうだとすると、高松稲荷を開いたという報恩大師も秦氏ではないのか?という疑問が生じてくる。
報恩大師の生れたのは、現在の岡山市「芳賀」、ハガはハダあるいはハダと通じる。秦氏のハタは[幡多]あるいは「波多」とも書く。「ハガ]というのが「ハダ」から来ているのではないかと、私の今の類推である。
今まで報恩大師が秦氏だった。ということは聞いたことがなかったように思うが、関連性から考えると、当然前秦氏だったのでは無いか?と思われてくる。
報恩大師が秦氏か、あるいは秦氏との密接な関係を持った人物であったことがはっきりしてくれば、備前備中美作の、重要な宗教史に関わった秦氏の果たした役割がさらに鮮明になってくる。

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