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2010年10月24日日曜日

吉備歴史探訪会で熊山に行ってきました。

23日(土)吉備歴史探訪会で熊山に行ってきました。
今回新しい発見がいくつかありました。
朝9時30分上寺余慶寺に集合、まずは、和田一族と児島高徳の供養塔に参拝して、この地が和田一族ゆかりの地であることを確認しました。
その後豊原北島神社に参拝、特にこの地が霊地となる出発となった磐座に深い思いを持って参拝、
舒明天皇の6年(634)に宇佐八幡をこの地の磐座に勧請したのが始まりで、上八幡、あるいは正八幡と呼ばれたとの伝承に、この地の歴史を紐解く、重要なキーポンとかと思いました。
余慶寺が報恩大師開基、慈覚大師円仁中興と言うのが興味深い。慈覚大師は比叡山、天台密教を語る上で極めて重要な人物である。出身の出羽、今の山形山寺に不滅の灯明を残した人物として有名である。
さて、余慶寺を後にして、熊山に向かう途上、香登に立ち寄った。熊山を語る上で、この香登の地は極めて重要な土地である。
まず、香登の鎮守大内神社を訪ねた。実はこの大内神社の摂社に「大酒神社」があると聞いていたからである。神社を訪ねると、お祭りの後始末を町内の方がしておられたが、神社の境内を行くと、社殿に上る階段の右わきに「大酒神社」が祀られていた。大酒は大避と同じで、大僻とも書く。先日行った赤穂坂越の大避神社は祭神が秦河勝であるが、ここは香登の臣と言われた秦大兄が祀られている。

以前、この地域の研究家に聞いた話では、秦大兄は山背大兄の難の時、この地に逃れてきた、という。
續日本紀には文武天皇2年(699)に、侏儒備前国人秦大兄に香登臣の姓を賜ったとある。侏儒とは小柄な人と言う意味だという。この地には大酒殿跡というのもあるということで、この地が秦氏の居留地域で、鉄の加工技術や陶器の製造技術など、その時代の先端技術の地だったことがわかる。
この大内神社を少し行った、所に「鼻塚」がある。
朝鮮出兵で、首級の代わりに切り取った鼻を、[敵兵といえども国のために殉じたものなれば粗末には出来ない」と、宇喜多の家臣であった「六助」が塩漬けにされた鼻をもらいうけ、この地に祀り供養したのが始まりで、その後代々子孫が受け継いで供養を続けてきたという。
その後平成4年(1992)に韓国から、僧侶が来られ、この鼻塚の霊を供養したいということでこの地で、西大寺観音院を始め中国観音霊場会の皆さんも参加し法要が営まれ、韓国全羅北道扶安の地に慰霊碑が建てられ、慰霊の行事が日本からも参加して行われた。実は筆者もその行事に参加したので、この地はゆかりの深い地である。
最初に供養を始めた「六助」さんもすごいが、そのうようを今にまで伝えて、慰霊を続けている一族の方もすごいと言わざるを得ない。悲惨な日本と半島の怨恨の歴史の背後にある美談である。
ここ香登の人々が秦氏の流れをくむ人々だとすれば、秦氏の持つ宗教性から来ているものだと想像できる。この地域は隠れキリシタンの地でもあったと聞いた。その遺跡を見せてもらったこともある。

鼻塚を過ぎて大内地区から熊山に上る山道を登って行くと頭中に、大瀧山福生寺がある。ここも備前48ケ寺に数えられる、名刹である。

福生寺本堂前で
寺伝によると天平勝宝6年(754)鑑真和上によって開基されたとある。天長5年(828)史書に名前を残す備前最古の寺でもある。

ここから、山道を10分くらい登ると、熊山山上の駐車場に着く。さっそく降りて熊山神社に向かう。

神社は静かなたたずまいだが、時折登山客がやってくる。我々一行は児島高徳挙兵の跡、腰掛け岩と旗さし岩を見る。腰掛け岩に腰をおろしながら、往時、この岩に腰掛けながら尊氏軍との激戦を闘う決意をなした高徳と一族の決意を思う。
今回初参加の湯浅さん、先祖は南朝方で戦っ徒一族と聞く。南朝方に従った忠臣の家系とか火、さもありなん武勇伝をその後聞いた。
ここから、樹齢1000年の天然記念物の杉の巨木2本を過ぎると、左手に猿田彦神社右手に熊山遺跡が見えてくる。

改めて遺跡の姿に、思いをはせる。仙田実氏の著書「霊山熊山」によると、この塔は和気清麻呂が発起し、秦氏が施工したものであろうと言われ、大陸朝鮮半島から渡ってきた石造の塔と、東南アジアの仏塔の技術が融合して作られたものだという。
また熊山に寺院を作った目的は山林修行のためであろうという。この地はその後山伏の修行の場となり、児島の熊野社ともつながり、そのような中で児島高徳一族の挙兵もあったであろうと思うと、歴史の重みを感じるこの地である。
改めて展望台に立ち。かっての豊原庄を眺めると、時代を生きてきた人々の息遣いを強く感じるばであった。
熊山山上から吉井川とかっての豊原郷、現在の瀬戸内市と岡山市方面を望む。ずっと先にかすむのが吉備の児島。(撮影は10月2日)
熊山はかっては[隈山]と書いた。吉備の隅の山だったが、吉備の国の歴史に重要な意味を持つ山であった。そのことを象徴するのが熊山遺跡である。
熊山遺跡を建造したされる、和気清麻呂一族と秦氏は、平安京造営に深くかかわり、その後平安京の宗教的バックボーンとなった天台、真言ニ教との深いかかわりを作って行った。
平安の時代を過ぎ鎌倉~室町の時代になると、特に南朝方に組した児島高徳らを生み出した。
その後戦国時代になると、麓の福岡を中心に時代を担う宇喜多や、黒田の武将が登場する。
明治の神仏分離により、熊山は廃墟のようになってきたが、今再び時代の脚光を帯びようとしている。
この熊山は、新しい未来の時代を切り開く秘密が隠されている地のような感覚を思えて、今回の歴史探訪は終わった。
山を降り、最後に訪ねた福岡の「一文字」のうどんおいしかったですよ。



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