岡山文庫に「霊山熊山」という本がある。和気郡史、吉永町史、熊山町史などの編著に当たられた仙田実氏の著である。
書によると、熊山遺跡は和気清麻呂が施主で、秦氏が施工して出来あがったものであろうという。また、この塔の築造には東大寺や堺の土塔、奈良の頭塔などの築造に参加した東南アジア系の技術集団も加わったのではないかと言う。
道鏡事件が769年、その3年前の766年に藤野郡は3郷から9郷1村に拡大され、香登や伊部郷も含まれた。このころ清麻呂と姉の広虫他一族は異例の出世を遂げているのである。
遺跡の中央竪穴から出土した陶製塔形容器とその中に納めてあった奈良三彩賽釉小壺は唐伝来の高貴な宝物で、このようなものを納めることが出来たものと言えば和気清麻呂とその一族以外には考えられないという。
当時多くの寺院が和気や磐梨に作られているが、これらは和気氏の力によるところが大きく、その中でも熊山は山林修行の場として、開かれて行ったのであろう。
仙田実氏は岡山文庫に「和気清麻呂」の本も書いているが、熊山をめぐって香登を中心とした秦氏との関わりと、さらに平安京造営に向けての秦氏との関わりの原点があることを示唆してくれている。
吉備楽土のテーマの一つである、「和気清麻呂と秦氏」のつながりがその後の中世から近世への歴史につながって行く、重要な場所が[熊山]であることがわかってくる。
吉備歴史探訪会の10月例会楽しみにして行きたい。
2010年10月21日木曜日
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