児島高徳出陣の地ということもあり、以前から一度行きたいと思っていたが、ようやく時間が取れ、香登の鼻塚に行ったあと、熊山に登った。
最初、香登の福生寺側からの登り口がよく解からなかったので、旧熊山町に回った。熊山駅から旧熊山町の「和気清麻呂墓」に行き、その後熊山公民館と図書館に寄り、少々情報を仕入れて、熊山山上に向かった。途中わき水のあるところでのどを潤し、山上には15分くらいで到着した。
駐車場から10分くらいと聞いていたので、熊山神社経由で山上に向かった。
熊山神社には[児島高徳挙兵の跡]という、岩がある。
児島高徳出兵の跡
かって熊山山上は「霊山寺」の山上伽藍が広がっていたと言われる。中世の時代は最も栄えた時代であったので、この地で戦勝祈願をして出発したのであろう。
熊山神社から熊山遺跡に通ずる道沿いに天然記念物の巨木がある。1000年の樹齢だそうで、児島高徳の活躍した時代からずっと立っていたと思うと、歴史をこの木も知っているのかと思う。
山上辺り熊山遺跡の反対側に猿田彦神社がある。猿田彦と言えば比叡山の地主神と言われている。ここ熊山は、明治の神仏分離に遭うまでは[霊山寺]とわれ、神仏習合の権現信仰の地であったと言われる。その名残のように思う。
猿田彦神社
いよいよ熊山遺跡、三段の石積みの遺跡が忽然と現れる。誰が何のために作ったのか?
遺跡脇の看板には奈良時代初期の築造であろうと書かれている。一説によると鑑真和上が、熊山の開基でここにきて戒壇を設けたのではという説もあるようであるが、[戒壇]の意味からして違うのではないか。
墳墓でもないようであるし、どうも同じような石積みの遺跡が32も山中にあるそうである。
それらから考えて、熊山の麓の香登に住んだと言われる「秦氏」が、信仰を捧げるのに築造したのではないかというのが有力である。
本ブログでも紹介してきた。「秦氏」、そして秦氏と密接な関係を持って、平安京を造営した[和気清麻呂]はこの熊山の北の麓に生まれた。今回旧熊山町を訪れ、和気清麻呂の墓も訪れた。熊山は秦氏が開いた信仰の山だったのではとの、推測をする。
南側麓の香登には、秦氏の「秦大兄」についての記録が残っている。また今回香登を訪れ、大内神社の摂社に[大避神社]があることを知った。香登から長船にかけての、陶器や刀鍛冶など、殖産業を秦氏など渡来人が興し、その信仰の山が熊山であったと言えるのではないか。古来熊山は[隈山]と書いたらしい。吉備の国の「隅」の山という意味だろう。
熊山遺跡 三段の石積みの塔
熊山遺跡のすぐそばは展望台になっていて、眼下に吉井川が流れ、香登庄とその先にはかって児島高徳を生んだ和田一族が治めた「豊原郷」が見渡せる。
帰路、香登に降りる山道沿いには、大瀧山福生寺がある。ここも備前では第1の古寺だと言われる。
この地域の宗教性、秦氏との関わり、興味が尽きない。中世以降は[福岡]の市が栄え、そこから黒田家や、宇喜多の一族も出てくる。宇喜多家のお家騒動の元となった、キリシタンの長船紀伊や明石掃部などとの関わりも何かあるのではと、推測している。
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