最近、ともに思うのは、日本は仏教国か?ということ
聖徳太子が、日本仏教の祖、和国の教主と言われてきて、それを信じてきたが、最近、いくつかの文献を読んでいくうちに、疑問が生じてきた。
中には「聖徳太子はいなかった」などと言うのもあるが、それはどうか?
聖徳太子と言うのは謚であるので、そういう意味では、いなかったともいえるが、
三経義疏もなかったという向きもある。
一番の問題は、秦河勝との関係、
これまで言われてきたのは、百済から頂いた仏像を、誰か奉るものはいないかと言ったときに、秦河勝がもらいうけて奉ったのが広隆寺の弥勒であると
しかし、よく言われるように、秦氏が「景教徒」だとすると、この辺りつじつまが合わなくなる。
聖徳太子自身が景教徒であったという説もある。
聖徳太子が仏教の祖と言うのは、後の時代、仏教が実権を握った時代に、その正当性を主張するために、聖徳太子を仏教の祖として祭り上げたのだとういうのが、真相に近いような気がする。
様々な文献を通して、秦氏の実相を見てみると、秦氏景教徒説は、かなりの確率で真相だと思う。
弥勒=キリストと言うことである。
広隆寺も最初は太秦ではなく葛野にあった。しかもその建物はまさに、景教の教会であったともいわれる。
だとすると、吉備の国の最も古い廃寺と言われる、現総社市の秦にある、秦原廃寺なども景教の教会だったのではないかとの疑問が生じる。
我々はこれまでの知識で、これらは仏教の歴史としてしか見てこなかったが、
秦氏が景教徒であり、その宗教が、時代の最先端として、一世を風靡していたという事実から、日本精神と、宗教のルーツが、景教あるいは原始キリスト教だったのではないか。
神社の形態などを見ると、ユダヤ教の影響を見るとすれば、ユダヤ教、キリスト教の根幹が、日本精神の根幹となってきたと考えられ、
そう考えれば、日本人の精神性の高さが理解できるように思う。
ただし、これらが順調に、単純に受け入れら他のではなく、キリスト教的な思想や、宗教が弾圧されたり、否定されたりして、歴史をたどってきたともいえる。ある時代は仏教が国家や権力者の庇護を受け、ある時はそれが儒教になり、ある時は神道になり、権力者の宗教政策により、翻弄されてきたようにも思う。
2010年5月25日火曜日
2010年5月20日木曜日
九州王朝と大和王朝
最近、古代史関係の本を乱読している。
ざっと挙げると
長年疑問に思ってきたことがだんだん解けて来ているような気がする。
特に私のテーマは日本の精神史、宗教・思想史だが、そのテーマに沿ってみても、日本国家成立にかかわる、さまざまな政権や、支配構造の歴史は興味のあるところ。特に5.ケン・ジョセフ氏の本は同様の内容を「失われアイデンティティー」で読んだが、改めて、日本の精神、思想史に、ユダヤキリスト教の影響というか、それは、シュメールや、イスラエルの12部族、景教徒の渡来などとかかわって、日本精神の源流を形成していることを知ることができる。
また、青木一参氏の「日本誕生史」も面白い。既成概念を外して、古代史を見て行くと見えてくるものがある。壬申の乱までのの日本、日本書紀成立の経緯、その内容から、九州王朝と大和王朝が鼎立していた言うのは、ある面説得できる内容があり、これまで言われて来た、「記紀」の秘密を明快に解明する内容であり、当時の国際関係からみても興味深い。
この辺りが見えてくると、ここ[吉備楽土]の課題である。吉備の古代史、吉備王国とは?その盛衰の秘密、今話題の「鬼の城」の秘密もわかってくる。そして、宗教人、偉人を輩出し続けた吉備の国の風土のルーツ、背景も見えてくる。
吉備の国に関しては、
ざっと挙げると
- Dan Aokiの日本誕生史 日本人と日本国家の成立 青木一参著 近代文芸社
- 隠された物部王国「日本」 谷川健一著 情報センター出版局
- 古代史と日本書紀 津田史学を越えて 山田宗睦著 ニュートンプレス
- 聖書は日本神話の続きだった! 佐野雄二著 ハギジン出版
- 隠された 十字架の国・日本 ケン・ジョセフ シニア&ジュニア著 徳間書店
- 応神=ヤマトタケルは朝鮮人だった 異説日本国家の起源 林順治著 河出書房新社
長年疑問に思ってきたことがだんだん解けて来ているような気がする。
特に私のテーマは日本の精神史、宗教・思想史だが、そのテーマに沿ってみても、日本国家成立にかかわる、さまざまな政権や、支配構造の歴史は興味のあるところ。特に5.ケン・ジョセフ氏の本は同様の内容を「失われアイデンティティー」で読んだが、改めて、日本の精神、思想史に、ユダヤキリスト教の影響というか、それは、シュメールや、イスラエルの12部族、景教徒の渡来などとかかわって、日本精神の源流を形成していることを知ることができる。
また、青木一参氏の「日本誕生史」も面白い。既成概念を外して、古代史を見て行くと見えてくるものがある。壬申の乱までのの日本、日本書紀成立の経緯、その内容から、九州王朝と大和王朝が鼎立していた言うのは、ある面説得できる内容があり、これまで言われて来た、「記紀」の秘密を明快に解明する内容であり、当時の国際関係からみても興味深い。
この辺りが見えてくると、ここ[吉備楽土]の課題である。吉備の古代史、吉備王国とは?その盛衰の秘密、今話題の「鬼の城」の秘密もわかってくる。そして、宗教人、偉人を輩出し続けた吉備の国の風土のルーツ、背景も見えてくる。
吉備の国に関しては、
- 吉備の古代寺院 湊哲夫・亀田修一著 吉備人出版
- 吉備の古代史 王国の盛衰 門脇禎二著 日本放送協会出版
を読んでいる。門脇教授は、ずいぶん吉備王国や出雲に関する本を出しておられる。もう一度これらを検証していきたい。
2010年5月18日火曜日
朝鮮も日本も共に天孫降臨
古代朝鮮、高句麗、百済(百済は高句麗の分國のようなもの)、新羅、そして伽耶、いずれも天孫降臨神話から成り立っている。伽耶の祖、首露王は亀峰山(クジフル)に降臨したという。日本の神話は「クシフルダケ」に降臨したというので、極めて似通っている。
古代においては、朝鮮と日本は、玄界灘はあったが、天孫族がはるか西方からやってきたとするならば、今のように国境線があったわけではないので、半島にすむか、日本列島に住むかはさほど重要なことではなかったはずである。ということは、朝鮮半島の国々と、日本、倭国を起こした天孫族はほとんど同族であったと言えるのではないか。
韓日は明らかに同祖である。このような観点で、韓日両国の歴史と現実を見なければ、見えてこないことがある。最も親密な兄弟であるが、もっとも醜い兄弟争いをしてきたのかもしれない。
古代においては、朝鮮と日本は、玄界灘はあったが、天孫族がはるか西方からやってきたとするならば、今のように国境線があったわけではないので、半島にすむか、日本列島に住むかはさほど重要なことではなかったはずである。ということは、朝鮮半島の国々と、日本、倭国を起こした天孫族はほとんど同族であったと言えるのではないか。
韓日は明らかに同祖である。このような観点で、韓日両国の歴史と現実を見なければ、見えてこないことがある。最も親密な兄弟であるが、もっとも醜い兄弟争いをしてきたのかもしれない。
日本人の源流はシュメール?
原日本人はシュメール人か?
「聖書は日本神話の続きだった!」という佐野雄二氏の書いた本を読んでいる。ちょっと衝撃的なタイトルで・・
しかし、まんざら空想的なばかりでない。
シュメール人と言えば、メソポタミア文明を作った人々、
楔形文字が有名で、このシュメール語でなんと「古事記」が読めるとのこと
日本人の体形の特徴や、文化の形態がよく似ているということで、古代シュメール文化を作ったシュメール人が、彼らは航海も得意だったというので、はるばる日本列島まで来て、日本人の源流、縄文人になり、日本の古代文化を作ったというのは、考えられることである。
だとすれば、佐野氏が言う、日本神話の始めは、シュメールの神話から来ているので
旧約聖書を書いた、ヘブライ人(ユダヤ人)はシュメールから出ているともいえるので、日本神話そのものではないが、聖書の源流になる神話が、日本神話に隠されているとしても不思議ではないと言えるのでは
「日本人のもっとも古い源流にはシュメール人があった」というのは、日本の古代史を知る上で、重要なヒントになるように思う。
これから少し研究してみたいと思う。
以下のページを参照しました。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA3F_hb/a3fhb301.html
「聖書は日本神話の続きだった!」という佐野雄二氏の書いた本を読んでいる。ちょっと衝撃的なタイトルで・・
しかし、まんざら空想的なばかりでない。
シュメール人と言えば、メソポタミア文明を作った人々、
楔形文字が有名で、このシュメール語でなんと「古事記」が読めるとのこと
日本人の体形の特徴や、文化の形態がよく似ているということで、古代シュメール文化を作ったシュメール人が、彼らは航海も得意だったというので、はるばる日本列島まで来て、日本人の源流、縄文人になり、日本の古代文化を作ったというのは、考えられることである。
だとすれば、佐野氏が言う、日本神話の始めは、シュメールの神話から来ているので
旧約聖書を書いた、ヘブライ人(ユダヤ人)はシュメールから出ているともいえるので、日本神話そのものではないが、聖書の源流になる神話が、日本神話に隠されているとしても不思議ではないと言えるのでは
「日本人のもっとも古い源流にはシュメール人があった」というのは、日本の古代史を知る上で、重要なヒントになるように思う。
これから少し研究してみたいと思う。
以下のページを参照しました。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA3F_hb/a3fhb301.html
2010年5月13日木曜日
吉備寺と吉備真備像
和気から午後は吉備寺に行きました。吉備真備縁の寺です。下は吉備寺の山門
今は倉敷市んになった旧真備町から、隣の矢掛町に入ったすぐのところに、吉備のま吉備の生誕地があり、公園が整備されています。ここに吉備真備の銅像が建てられています。
公園からしばらく行ったところに塚があり、吉備真備の生家、下道(しもつみち)氏の塚です。
今年の和気 藤公園と和気神社
2010年5月9日日曜日
ワラビ取り
ワラビ取りに行ってきました。
例年行くところがあって、今年も知人と行きましたが、1~2時間くらいで、まあまあの収穫
左は私が採ったもの、右は妻が
今年は寒い日が続いたので、例年だとちょっと盛りを過ぎたころになるのがちょうどいい時期に当たりました。
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